第37話 祭の記憶と絆
「悠斗はん、うちには定めがあんねん。お祭りの神さまは冷たいなあ。今日だけでも、夕焼けをもっと長してくれたらええのに……。夜なんていらんわ」
あかねの可愛らしい京言葉は、ふたりの別れが目の前に迫ることを予感させるものだった。それでも、僕は諦めていなかった。その刹那を永遠な時間にすることを願っていた。
「あかねを忘れない。どこにいても、いつも君のことを思ってるよ」
「うん、おおきに。うちもやわぁ。あんたのことは忘れへん」
何度も彼女と同じ会話を交わしていた。その後、言葉を失い、ただ互いを見つめ合うだけだった。彼女の瞳に映る自分の姿が、なんとも言えず切なかった。僕は何度も彼女の名前を呼び続けるしかなかった。
「あかね……あかね……」
僕の声だけが車内に響き渡った。山鉾の影が夜の闇に鮮やかに浮かび上がり、つづれ織りの懸装品には提灯のぼんやりとした光が当たって、まるで真っ赤に染め上げられていくようだ。
三条大路には屋台がびっしりと並び、粽を売る声が絶えず響き、浴衣姿の子どもたちが楽しそうに遊んでいる。祭りのために交通規制が敷かれており、車が通れないのも仕方がない。少々遅れてもやむを得ないだろう。
厄除け 安産 お守りは これより出ます
常は出ません! 今晩かぎり
「粽を買ってあげるよ。後で食べれば良い」
「ダメやん。あれ、食べられへん。そやけど、うち、豚まんがええな」
「もち米のちまきやろう。今晩かぎりと言っているし……」
「ちゃう。あれ、厄除けの飾りや」
祭りの喧騒の中で大事な部分が聞き取れなかった。東京生まれの僕のような普通の人には、京都の洗練された習慣を理解するのは難しい。
しかし、ここにも古都の長い歴史と伝統が息づいている。しみだれ豚饅を売る少女たちの声が、夜祭りの雰囲気を一層高めていた。
うまいしみだれ食べてみとぉくれやす
コンコンチキチン~♪ コンチキチン♪
「悠斗はん、うっとこは、もうちょいや。うちら食べな急ぐで。おかんが角出して痺れ切らして待っとるやろう」
「うっとこって、なんや?」
「知らへんのかいな。花街で言われる我が家のことや。可愛いやろう。最後にうちのえらい好きな風車の山鉾も見られるかいな」
あかねは若いながらも、魅力的な京言葉を話していた。彼女によると、花街や花柳界だけでなく、商家が集まる中京や北野でも、今なお京都弁が使われているそうだ。彼女はしみじみと、目の前に広がる祭りの光景を眺めていた。
烏丸通(からすまどおり)にある「京の赤羽堂」が目に入る。四階建ての高い軒を持つその呉服店は、老舗ならではの風格を一層際立たせている。
「あの店でうちの着物を仕立ててもろうてるんやで。えらいおっきな呉服屋はんや」
彼女は目を輝かせてそう呟いた。
近くには「風祭町」と濃い墨で書かれた提灯がたくさん吊るされていて、頂上には飾り車がくるくると回る山鉾が巡行の休息をとっていた。
「あれ、うちらの山鉾や。立派やろう」
あかねは丁寧に一つひとつ教えてくれた。
山鉾は、まるで街の代表選手のようだ。ノスタルジックな雰囲気と高揚感、そして哀愁が同時に訪れる宵山の祭りは、一度経験すると二度と忘れることのない景色を心に刻むだろう。僕は心から、来年も再来年も、そして永遠に、彼女と一緒に祇園祭を楽しめることを願っていた。
店の軒先には、将棋の駒を連想させる提燈が灯されていた。山鉾や提燈のゆらぐ光が情緒を誘い、心は郷愁で満たされる。藍色に染まる空と観光客でにぎわう街が、切ない別れの夜に色彩を加えていた。
「あかね、綺麗だなあ……」
思わず呟いていた。
「悠斗はん、ほんまやなあ……おおきに。今夜は京都のまつりの華やさかい」
彼女はデートの途中で、「さん」ではなく「はん」とずっと呼んでくれた。京都の人々は心を開くことが少ないと聞いていた。特に男女の間ではそうだった。しかし、そう呼ばれることで、彼女とは何か特別な絆で結ばれており、ふたりの距離が縮まった気がした。
車を走らせると、祇園祭のメインイベントである「山鉾巡行」の準備が始まっているのが見えた。巨大な山鉾が、人力で引かれているのだ。その姿は、まるで時代劇のワンシーンのようだった。
「あの山鉾は、明日の朝から巡行するんやで。えらい迫力やで。見たことある?」
「ないよ。初めてだ」
「そうやったら、見とかなあかんで。京都は文化、歴史、信仰の宝庫やさかい。うちもこっそりと毎年見に行くんや」
あかねは興奮気味に話していた。僕はその笑顔に心を奪われた。彼女は祭りを心から愛していたのだ。それにもかかわらず、なぜ彼女が以前に「祇園祭なんか好かん」と言ったのか、その謎は依然として解明されていない。
もう一度車を止めて、彼女に手を差し伸べた。彼女は僕の手を握って、車から降りた。ふたりで山鉾の近くまで歩いていった。その途中で、彼女は突然立ち止まった。
「悠斗はん、ここでちょい待っとって」
「どうしたの?」
「うち、ちょい用事があるんや。すぐ戻るさかい」
あかねはそう言い残し、僕の手を振りほどいて、人混みの中へと消えていった。僕は困惑しながらも、彼女の背中を見送るしかなかった。彼女はいったい何をしに行ったのだろうか? 不安が心を覆った。彼女は果たして戻ってくるのだろうか……。
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