第36話 運命に抗う愛


 僕たちの別れは突然に訪れ、避けられない運命として迫ってきた。夕闇が車内に忍び寄る中、僕は運転席のミラー越しにあかねを見つめていた。


 一方で、彼女は後部座席に黙って腰掛け、僕に心配をかけまいと涙をこらえ笑顔を取り繕っているかのようだった。その眼差しには限りなく透き通る輝きがキラキラと宿っていた。


 あかねの振る舞いは、ブラックホールに吸い込まれる直前の星が放つ最後の輝きのように見えた。鏡に映った彼女の顔は、言葉にできないほど切なく、愛おしいものだった。一時間もすれば日暮れとなり、母親との約束の時間も迫っていた。


 時間がたとえ一瞬だけでも止まることを願った。僕たちがいるこの場所には、ギリシャ神話のクロノスのように時間を操る力は存在せず、そんなわがままな願いが叶うことはなかった。


「あかね、あかね……」


 涙に濡れた目で何度も彼女の名を呼んだ。その声は独り言となり、静かな夜に響く警鐘のように反響し、ふたりの別れを象徴していた。その一言一句には、自分の無力さと彼女への深い後悔が込められていた。


 鏡に映り込む彼女の瞳は、僕のものと重なっていた。その瞳に宿る切なさと甘さの光は、僕への愛ともう会えない悲しみを映していたのかもしれない。彼女も、僕たちの最後の刹那を深く惜しんでいたに違いない。考えれば考えるほど、心が痛んだ。僕の心を理解してくれたのか、あかねが話しかけてきた。


「どないしたの、悠斗はん?」


 あかねのさりげないひと言が、僕の心をさらに深く動かした。それでも、彼女への思いを断ち切ることはできなかった。いや、断ち切るどころか、その思いはますます強くなっていくばかりだった。今となり、あかねの気持ちが初めて痛いほどよく分かる。どれだけ愛していることも。


「あかねが……」


 僕はただ呆然としていて、この場に相応しい言葉が見つからず、声が震えるのを抑えることができなかった。「どこにいても、あかねのことは絶対に忘れない!」と、ようやく次の言葉を絞り出した。


「そうやな、おおきに。うちもやで。悠斗はんのこと、ずっと忘れへんさかい」


 彼女は涙を堪えながらうなずき、答えた。あかねの言葉は切なく、僕の胸を一層締め付けるものだった。突然、以前に学んだ恋愛哲学者の言葉が心に蘇った。


「愛する人が運命の相手ならば、一時の別れは新しい出会いの始まりに過ぎない。それは、再び出会うことを願う心の高鳴りや、運命の人との出会いには試練が伴うという信念の現れなんです」


 その教えに従い、いつか必ずあかねとの再会を信じることができた。涙をぬぐい、熱い思いを胸に刻んだ。心を落ち着かせようとラジオをつけたところ、祇園祭のニュースが流れていた。


「祇園祭は一ヶ月にわたる長期間のイベントで、京都市内の中心地や八坂神社で多くの行事が開催されます。特に「宵山」と「山鉾巡行」は祭りのハイライトとして知られています。今夜の宵山には、市内の特定エリアで交通規制が施行され、車両通行が制限されるため、詳細な交通情報の確認が推奨されます」


 僕はあかねとのデートに夢中で、今夜が祇園祭の宵山だということをすっかり忘れていた。彼女を自宅まで送る際には、ニュースで報じられていたように、主要道路が歩行者天国になっているため、交通規制に巻き込まれる可能性が高いだろう。


 もうすぐ日輪が傾き、魔法のような薄明の時が訪れようとしている。京都の街中では、自然が創り出す特別なライトアップが始まる。空は淡いオレンジから紫へ、そして深い青色へとゆっくりと変わりゆく。三色の虹が織りなすグラデーションが目を引き、幻想的な景色が広がる。


 宵山の祭りだというのに、夜の帳が下りると突然の雨に見舞われるかもしれない。湿気と暗闇が増す中、遠くから聞こえる祇園囃子のコンチキチンというリズミカルな音色が心に深く響いてきた。その音色は、僕たちが一緒にいる時に初めて耳にしたものであり、祭りの賑わいの中で、僕の心をどこまでも揺さぶった。


 車窓から望む限り、僕の心配とは無関係に、街は祭りの一色に染まっていた。これは、祇園祭が京都の人々にとっていかに大切なものかを物語っていた。


 以前、あかねが『祇園祭は嫌いだ!』と言っていたのを思い出した。しかし、今夜は、彼女も目を輝かせ、懐かしそうに祭りを眺めていた。その心境の変化の理由は分からないが、ふたりで見た祭りの景色は、忘れがたい記憶となるだろう。


 時間が経つのを忘れ、車から降りてカメラを取り出した。祭りの華やかな明かりを背景に、あかねを主役にして山鉾を撮影した。そして、彼女の笑顔を捉えるためにシャッターを切った。一枚、二枚、と数枚にわたって……。


 彼女の笑顔は夏の夜空に輝く星々のように美しかった。道に並ぶ山鉾の鮮やかな布飾りが彼女の白い肌に赤みを映し出し、その様子は月下美人の花を囲む夜のホタルのように幻想的で、儚い魅力が溶け合っていた。


 あかねが柔らかな声で口ずさんでいたのは、京都の夏祭りを象徴するわらべ歌だった。目の前に見える山鉾に飾られた提灯が夜空をほんのりと照らし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。


 ロウソク売りの少女たちの呼び声とあかねの歌声が混ざり合い、耳に心地よく響き渡る。どこでその歌を覚えたのかはわからないけど、あかねの切なくも愛らしい声に心を奪われた。


「あんさんも一緒に歌うとぉくれやす」


 無理は承知でおねだりまでされてしまう。


 ロウソク一丁献じられましょう~

 疫病除けのお守りに~

 うけてお帰りなされましょう~

 常は出ません、今晩ばかり

 ご信心の~御方様は~

 うけてお帰りなされましょう~


 祭りの音色に包まれて、あかねの歌声が東京人の僕の心を深く揺さぶった。彼女自身もその響きに心を動かされていたに違いない。彼女の歌声は、ふたりの別れの時間を忘れさせ、祭りの喧騒を遠ざけ、僕たちの感情を一層強く結びつけてくれた。



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