第35話 愛と涙の刹那
「目の病気のこと、おかんに聞いたんや?」
「ああ……そうだけど」
僕はすぐに頷いた。
「そやけど、うちはそないな地味なのは好かんて。さくらんぼのお守りがええわ」
あかねはそう言い、寂しそうな顔で僕を見た。さくらんぼのお守りはどこを探しても見つからなかった。けれども、ハート型の鈴が付いた招き猫が彼女の注意を引いたようだ。それを優しい微笑みととともに、大切そうに握りしめた。
「それなら、君にぴったりだね」
「悠斗はん、おおきに。もうひとつ、おねだりしてもええ?」
木陰を見つけると、彼女は目を閉じて唇を突き出してきた。ふたりの姿がひとつになり、蓮池に映るシルエットとなった。細く小さくて今にも折れそうなあかねの身体が、蓮池に打ち震えていた。その涙を誘うような仕草から、彼女が抱える悩みや不安が伝わってきた。
目の前に広がる池では、初夏になると白蓮の花が咲くと言われている。花は早朝から午前中にかけて開き、昼には花びらを閉じるという不思議な性質を持っている。蓮の花が開く時間は短い。見渡す限り、蕾はまだ小さく硬く、開花していなかった。ところが、どこからともなく湧き水の音が聞こえてきた。
僕らはしばらくその場で足を止めた。あかねは小さな蕾を名残惜しそうに眺めていた。言葉にできない何かが心にしみわたり、途切れることのない甘美な鈴の音が耳に届いた。それらはすべて、僕たちの切ない恋の音色だった。
「あかね、僕は君のことが好きだよ」
「うちも悠斗はんのこと好きやわぁ。そやけど……」
「でもって?」
「うち、伝えなあかんことあんねん。前にちょい話したやん」
あかねはそう言いながら、僕の顔をじっと見つめ返した。彼女の瞳は涙でいっぱいだった。不安に駆られた僕は、彼女の手をしっかりと握りしめた。
「何んでも、言ってごらん」
「うん……実はね、うち、元々から花街の娘やねん」
彼女がそう言って、小さく息をついた。あかねの声からは、その話をするのにどれだけの勇気が必要だったかが感じられた。
以前にも花街の話を聞いたことがあったが、彼女自身から直接聞くと、僕は驚きで目を見張り、言葉に耳を傾けた。それは彼女が隠していた過去の話だった。
「元々、花街の娘? どういうこと?」
「うちはずっと花街で育ったんや。そら芸妓さんが住むとこやねん。芸妓さんは京都の伝統芸能を継承する女性やさかい。お客はんにお茶やお酒を提供したり、歌や踊りを披露したりすんねん」
あかねはそう口にし、花街の世界について詳細な説明を始めた。彼女の言葉は、先ほどの明るい雰囲気とは対照的に、暗い影を落としていた。
「でも、それは尊敬される仕事だよね? どうしたの?」
「そうなんやけど……実はうち、まだ芸妓はんにはなってへんの。今は見習いの段階で、見習いを舞妓っちゅうねん」
「舞妓さんでも素敵だと思うよ」
「そうなんやけど……。家にはおとんもいないの。舞妓はんになるためには、稽古事をせなあかんし、お金もかかるし、厳しい規則もあんねん。それに、舞妓はんが貧しい時は、お茶屋の若旦那に身請けされることもあんねん」
「身請け? それは何だ?」
あかねから花街の伝統である身請け制度について学んだ。以前に聞いた記憶があるものの、今では他人事とは思えなくなっていた。現代においてもそのような悪しき習慣が存在するのだろうか……。
身請けとは、お茶屋が舞妓さんの教育費や生活費を負担し、見返りに若い女性を好色家の旦那衆に身請けさせる制度だった。このおぞましい制度の下では舞妓さんの自由が大きく制限され、恋愛や結婚が許されないこともあるという。
昔は身請けをする旦那が多かったようだが、現代ではそうではなく、花街で生きる女性として自分の借金を返済しなければならない。その結果、舞妓さんは辞めたくても辞めることができないと教えられた。
「えっ、本当にそんなことがあるの? それは時代遅れだ。ひどい話だね」
「ちゃうちゃう。身請けはほんのひと握りの人にしか起こらへん。そやけど、遊女とはちゃうねん。うちは貧しいさかいしゃあない。そやさかい、うちももうすぐ18歳になるし、身請けされる時近づいてるんや」
かつて先斗町であかねから聞いた悲しい話を思い出していた。彼女は、身請けされる前に一度だけ恋をしてみたかったと言っていた。
「じゃあ……あかねはもうすぐ僕に会えなくなるのか?」
やはり、以前感じていたように、僕の悪い予感が現実になるのだろうか。それでも信じられない。目の前にあかねは確かに生きている。僕たちはこんなに愛し合っているというのに……この怒りを誰にぶつけたらよいのだろうか。
「そうやで……そやさかい今日最後やねん。もう会えへんなるさかい……せめて最後にデートしたかってん」
彼女はそう言って涙をこぼした。僕は彼女の気持ちを理解し、驚きと共に胸が痛んだ。心臓の鼓動が速くなり、思わず彼女に問いかけた。
「本当にそうなの? 間違いだろう? 本当に僕と別れなくちゃいけないの?」
「うん……ほんまや。おかんにも釘を刺されたんや。『あんたは花街の娘やろう。恋なんてするな』って。そやけど、うち、悠斗はんが好きやねん。ずっと一緒におりたいねん」
あかねはそう言って、僕の胸に小さな顔をうずめた。僕は彼女を強く抱きしめ、何か言葉を探した。その時、僕の心の中には、あかねとの別れが迫っていることが重くのしかかっていた。しかし、僕はあかねを失いたくなかった。
彼女といつまでも一緒にいたいという気持ちが、僕の胸の中で強く膨らんでいた。あかねもきっと、そんな僕の気持ちを理解してくれると信じていた。そして、僕は彼女に囁いた。
「あかね、僕は君のことが好きだよ。でも、何とかならないかな? 時代遅れの身請けなんて止めてよ!」
彼女は微笑みながら僕に頷いた。その瞬間、お互いの気持ちが通じ合う感覚があった。しかし、彼女の返事は期待していたものとは違っていた。
「無理やで……。お茶屋の若旦那はもう決まってるし、おかんも納得してる。うちひとり、反抗できひんの。それに、若旦那は裕福らしいで。奥はんがおるけど、うちを大事にしてくれる言うてくれてるわ……」
「でも、あかねは僕を愛してるだろ? 僕も君を愛してるよ。それなのに、他の人と一緒になるなんて……」
「かんにんしとくれやす。うち、あんたを裏切ったかもしれん。そやけど、あんたのこと、ずっと忘れへん。悠斗はんもそうやろ?」
あかねは、「悠斗はんのことえらい好きや」と言って、僕の唇に熱いキスをした。僕も彼女の熱い思いに応えて、涙を流した。
時計の針が無情にも六時を指し、夜が訪れてふたりの最後の抱擁を奪った。それでも、僕たちはお互いにしっかりと抱き合い、この瞬間を永遠にすると心に誓った。哀しい声で何度も同じ話を繰り返し、残り少ない刹那の間を大切に噛み締めた。そろそろ、彼女を家まで送らなければならない時が来た。
僕があかねの手を取り、車の助手席へと誘うと、彼女は首を横に振ってそれを拒否した。彼女は後部座席に静かに座り、黙って下を向いたまま、ハンカチで顔を覆っていた。
「あかね、君がそばにいなくなると思うと、僕は……」
「うん、うちもやで。残念やけど、しゃあないねん。これがうちらの運命やさかい。許しとおくれやす」
彼女の言葉は涙声で、僕の心を強く打った。彼女との別れは、僕にとって世界が終わるかのようだった。それでも、彼女への愛情は決して薄れることはなかった。人々はしばしば「この人には使命がある」とか「あの人には使命がある」と言うが、使命がない人もいるのだろうか? 僕たちにはまだ果たすべきことがたくさんあるように感じられた。
「あかね、君のことを忘れないよ。君がどこにいても、僕はずっと君を想ってるよ」
「うん、おおきに。うちもやで。あんたのこと、ずっと忘れへんで」
その後、僕たちふたりは言葉を交わさずにただ見つめ合った。彼女の瞳に映る自分の姿が、なぜか切なく感じられた。どれほどあかねを愛しても、人の心の奥まで見通すことはできないのだ。
しかし、あかねの繊細な眼差しには、とどまることなく涙があふれていた。それは彼女の心の奥深くに隠された熱い感情が、次々と波紋を広げているかのようだった。
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