第34話 風車草との絆


 僕らの初デートの終わりが近づいていた。腕時計を見ると、長針と短針が重なっているのが見えた。まるで僕らをあざけるかのように。午後五時二十七分。あと三十分もしないうちに、あかねと永遠に別れなければならないのだろうか……。


 時刻は容赦なく進んでいく。楽しい時間ほど過ぎ去るのが早いものだ。六時になれば、やるせない黄昏がやってきて、あかねとの最後のひとときまで奪ってしまうのかもしれない。


 心ならずも足取り重く下鴨神社の出口に向かった。もし母親との約束を破ったら、疑いなく二度と会えないことになるだろう。本当の気持ちを隠して、「あかね、そろそろ行こうか」と笑顔を取り繕ったが、胸の内は苦しくてたまらなかった。


「ああ、もう終わりなんやね……。ふたりだけの時間は、神さまが止めてくれる思うとったのに、ほんまに残念やわ。神さまなんか、えらい好かん!」


 あかねも同じことを考えていたらしい。その目には切なさがあふれていた。ふさわしい言葉が見つけられずに、彼女を強く抱きしめた。


「また、会えるよ」


 そうやっと言って慰めたが、涙がこぼれそうだった。


 僕たちは手を繋いで蓮池の畔を歩いていた。蓮の花は朝にしか咲かないため、もう閉じていた。しかし、目の前に広がる藤棚の中で、一際輝く真白な藤の花が目立っていた。あかねはその白い藤の花に手を伸ばし、惜しげもなく「同じ色でも、これちゃうんや」と呟いた。


 何かを探し求めているようだった。彼女の態度に、涙が込み上げた。僕も一緒に探そうとしたが、あかねは急に早口で話し始めた。


「もう少しだけ、ええやろう。神さま、いけずせんといて。悠斗はん、聞いとる?」


「聞いてるよ。あかね、どうしたの?」


「幼い頃、おかんとこの畔に来たことあんねん。日の差すとこに、淡い紫の小さな花咲いとったんや。名前は日々草にちにちそうやけど、京の風車とも言うんや。風がそよぐとくるくる回ってるみたいやから、ほんまに好きになってしもたんや」


 あかねは藤棚の下を歩きながら話した。彼女の目は輝いていて、昔のことを思い出しているみたいだった。僕は彼女に寄り添って聞いていた。話がどう移り変わっていくのか見当もつかず、ただじっと耳を傾けていた。


「おかん、指を口に当てて一輪だけ摘んでくれて、胸にそっと挿してくれたんや。今日探したけど、見つからへんかった。残念やわ。もう少しでええさかい、助けてくれへん?」


 あかねはそう言いながら肩を落とした。彼女は花をこよなく愛していた。そして、彼女は自分が愛する世界、太陽を好む花や強い日差しに弱い繊細な花が共存する美しい植物の世界について語ってくれた。


 彼女は藤棚を眺めながら、京の風車を探していた。それは繊細な花のひとつで、若葉の季節にその美しさを顕わにするという。花びらがそよ風に舞い上がるとき、太陽に向かって踊るかのように見えるそうだ。それは、自然の中で生きる全てのものが持つ、生きる力と美しさを秘めた瞬間なのだろう。


 僕はあかねの話に心を奪われた。京の風車という花を初めて知り、彼女が夢中になるその美しい姿を一目見てみたいと思った。彼女にとってその花は、大切な思い出が込められているらしい。もしかしたら、僕は京の風車に少し嫉妬しているのかもしれない。


「日々草ってどんな花なの? もっと、教えてれない?」


 そう僕が尋ねると、あかねは小さく頷き、スマホを取り出した。


「これ見て。おかんが撮ってくれた写真やわぁ」


 スマホの画面には、淡い紫色の小さな花々が集まって風車の形を作り、映し出されていた。薄く透き通る花びらは風になびき、くるくると回っているように見えた。かつてあかねを月下美人に例えたことがあるが、この花もそれに劣らず実に魅力的で愛らしいものだった。


「本当に美しいね。こんな花が咲くなんて」


 僕は心揺さぶられながらそう口にした。あかねは喜びに満ちた笑顔を浮かべ、名残惜しそうにスマホの画面を閉じた。


「ええやろう? 日ぃ当たらな咲かへんさかい、少し手間のかかる花やけど。そやけど、それが魅力なんやわぁ。おおきに。こないな話を聞いてくれて」


 あかねは懐かしむように言葉をかけ、僕の手を握りしめた。彼女の目にはなぜか涙が浮かんでいた。僕は彼女を抱きしめ、優しく頭を撫でた。


「ううん、大切な思い出をありがとう」


 僕たちはしばらく抱き合い、周りに藤の花の香りが漂っていた。時計の針は進んでいたが、僕はそれを忘れていた。


「ううん、ええで。おかんがね、女にも同じ運命があるって教えてくれたんや。無理はあかんって。そやさかい、幼い頃は神さまのねきで働く巫女はんになりたかったんや。そやけど、そら庭に生える竹の子ぉのような夢やったさかい、無理かて諦めなあかんって」


 彼女は熱心に自分の思いを伝えたが、多くの謎に包まれていたため、質問せずにはいられなかった。


「巫女さんって魅力的だよね。どうして駄目なの? 竹の子って何?」


「あんたには三三九度の手伝いは似合わへんって。おかんは冷たいやろ。竹の子ぉは根元からすぐにはみ出るさかい。うちらの定めやさかいしゃあないの。今は四季を通じて風花を咲かす仕事がしたいねん」


「風花を咲かせるなんて、素晴らしいね。それはどんな仕事?  花屋さん?」


「ちゃうで。優雅な音色で踊りを舞う白い女狐のことやわぁ。わからへんの?  もっさいなあ。もっと、大人になったらわかんで……」


 彼女の言葉は照れくさいように途切れた。その瞬間、彼女の顔に微かな怒りが浮かび上がったが、それが彼女の魅力を一層際立たせていた。

 そして、あかねの黒髪に飾られた花かんざしは、風に揺れる灯りのように動き、その美しさと存在感を発散していた。それは、風に舞う花びらのように、儚くも力強い彼女の生き様を象徴しているようだった。


 車を停めた駐車場の大門が見える。あかねの手を握り、ゆっくり歩き始めた。一歩一歩が、まるで時間を刻むようだった。しかし、時計の針は容赦なく進む。僕たちはほとんど話さなかったが、その沈黙はふたりの間の深い絆を感じさせた。


 金堂の前で立ち止まる人々を横目に、僕たちはようやく言葉を交わした。それは別れを惜しむ心から溢れる言葉で、彼女との時間が止まってほしいという切ない願いが込み上げてきた。離れたくないという強い気持ちだった。


「あかね、そこに立って。最後に……君の姿を記録に残したい」


「最後」という言葉を発するのをためらいながら、カメラのレンズを彼女に向けた。彼女の笑顔を二十一枚目の写真に収め、心に刻み込んだ。その笑顔が最後でないことを願っていた。


「ほんまによう撮れてるなぁ。まるで別人みたいや、おおきに。うちらふたりで並んだ写真も欲しいなあ。誰か撮ってくれへんかな」


 あかねはくすくすと笑った。しかし、その笑顔は遠くを見つめており、心が別の場所にあるかのように落ち着かない様子だった。何かに心を完全に奪われているようにも見えた。彼女も、僕と同じで時間が気になっているのかもしれない。


 最後に大門脇の社務所に立ち寄り、お守りをひとつ購入した。あかねの健康と夢を祈りながら、空に向かってまっすぐに伸びる竹を描いたお守りを選んだ。


「あかね、これを今日のお土産に」


 その刹那、僕たちは静かに時を過ごしていた。それは別れを惜しむ言葉であり、あかねとの時間が一分でも長く続くことを願う切なさで心が締め付けられた。離れたくないという強い気持ちが込められていた。


 一方で、新しい旅立ちへの期待と不安が心に共存していた。あかねと過ごした時間は、僕にとってかけがえのない宝物だ。これらの思い出が、今後の僕の力になるに違いない。


 そして、この「別れ」が新たな「出会い」や「旅立ち」への第一歩であり、これまでとは違う新しい「始まり」のきっかけになることを、心から願っている。

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