第33話 暗闇を祓う花


 糺の森の案内札をもう一度見つめ、しばらく立ち止まった。下鴨神社には七つのお社が鎮座する。この森にある比良木神社を探していた。そこには相生社とは異なる不思議な御神木があると教えてくれた。


 神社でよく見かける白く稲妻型に折られた紙垂この森にある比良木神社を探していた。神社でよく見かける白く稲妻型に折られた紙垂しでが風になびいている。威厳のある木は、不思議な厄除けの神さまであり、女性の願いごとならなんでも叶えてくれるという。案内札を読んでいるうちに気になって仕方がなくなり、あかねの手を引いて、その神社に向かって急いだ。


 お宮に近づくと、真剣な眼差しをする若い女性たちの姿が目立ってきた。彼女たちは、不思議にもひとり残らず青葉も出ていない苗木を手にしていた。比良木神社にたどり着くと僕たちは案内板を覗いてみた。そこにはこう書かれていた。


 女性たちは厄年までに苗木を植え、柊(ひいらぎ)になれば願いが叶うとされていた。女性の厄年は19歳、33歳、37歳、61歳だ。柊は神さまの好まれる木であり、願いが叶うことは神の恩恵とされていた。


 しかし、柊が育つかどうかは、象神の奇跡的な力に大きく依存していた。柊の葉はノコギリの歯のようにギザギザしており、冬には白い花を咲かせるとされている。人智を超えた現象であるが、柊に育たなかった木は、お正月飾りに使われる南天やヒイラギモクセイになると言われている。


 僕はその摩訶不思議な伝説を信じて、あかねの心の闇を祓うために、手を携えてこの聖地に連れてきたのだ。僕は苗木がそばで提供されていることを知り、彼女と一緒に苗木を供えた。


「ねえ、あかね。いくつになるんだっけ?」


 女性の本厄は数え年で19歳である。あかねはもうすぐ前厄を迎えることになる。しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。彼女は嵐山で身投げしたかもしれない過去を持っているのだ。僕はいつまた悪魔が彼女に忍び寄ってくるのかと心配していた。だが、あかねからは何の返事もなかった。


「ここにいるとどんな気分になるの?」


 あえて、僕は話題を変えて、あかねに尋ねた。この楽しい場で身投げの話は避けたかったからだ。


 彼女は、お宮に入った途端から、不思議な感覚に襲われているようだった。僕の手を握りしめて、不安そうに周りを見回していた。僕はそれがあかねを苦しめる闇を祓うヒントになるのではないかと思って、彼女を見守り続けた。


「わからへん……そやけど、なんかが呼んでるみたい。うち、怖いねん」


 彼女は震える声で言った。僕は彼女を抱き寄せて、励ました。


「大丈夫。どんなことがあっても僕が守るから。一緒に探しに行こう。きっと、世にも珍しい素晴らしい奇跡が待っているよ」


 僕は笑顔でそう言った。彼女は少しホッとしたような笑顔を見せた。


「おおきに。ほな、もっと行ってみよか」


 あかねは勇気を振り絞ったように言った。彼女の手を引いて、お宮の裏手に一歩ずつ進んだ。静かで神聖な雰囲気だった。木々の間から差し込む光がキラキラと輝いていた。鳥やセミの声が聞こえてきた。しばらく歩いたけれど、特に変わったものは見つからなかった。


「なあ、ほんまになんかあんねんか?」


 あかねは不安げに言った。


「あるよ。信じようよ。もう少し歩こう」


 僕は励ましながら言った。すると、その時だった。いつの間にか、そこには僕らだけがたたずんでいた。


「あっ! あれ!」


 あかねが驚いて指さした先には、「何でも柊」の看板が掲げられた一本の木があった。葉はノコギリの歯のようにギザギザしていたが、それ以外は普通の木と変わらないように見えた。


「これが、七不思議の柊なのだろうか」


 僕は首を傾げてつぶやいた。けれど、言い伝えによると、この柊は魔除けや祈願成就、何でも願いを叶えてくれる木とされていた。この木が現れたということは……。あかねの心の闇を……。


「見て! 花が咲いているわ!」


 あかねが驚いて言った。確かにその木には白い花が咲いていた。それも一輪ではなく、たくさんだった。こんな暑い日に、花が満開になるなんて信じられないことだ。


「すごい……こんなこともあるんだね」


 僕も感動して、思わず声を上げた。


 柊は冬に咲く花で、今は夏。こんなに多くの花が咲くのは奇跡に近い。さらに、枝の一部には黒紫色の果実が実っていた。まるで、僕たちはいつの間にか魔界の伝説の地に迷い込んだかのようだ……。


「これって……奇跡なの?」


 あかねも信じられないという顔をして、小さく呟いた。彼女の手を握って、そっと木に近づいた。すると、金木犀のような花の香りが鼻をくすぐった。それはほのかに甘くて爽やかな香りだった。


「ああ……いい香りがするね」


 僕は胸が熱くなるのを感じながらそう言った。あかねもうっとりと花を見つめていた。


「ねえ、これって……うちの心の闇を祓ってくれるんか?」


 彼女はまるで独り言のように呟いた。


「そうだといいね。でも、心の闇って何なの?」


 僕は何気なく尋ねてしまった。あかねはしばらく黙っていたが、やがて言葉を選ぶように話し始めた。その顔には、涙が浮かんでいた。


「うちにはね……心に闇があるねん。誰にも言えへん悩みがいっぱいあるねん。せめてこの人生、楽しく幸せに生きたいねんけど……」


 彼女はうなだれるように言葉を続けた。


「そやけど、どないしても心晴れへんのや。何しても楽しめへんのや。そやからうちが嫌になってまう」


 彼女は声を詰まらせた。


「あかね……」


 僕は彼女を抱きしめて、優しくささやいた。


「大丈夫だよ。僕が一緒にいるんだから。あかねは素敵な人だよ。君の心の闇なんて、この柊の花ほどもないよ。あかねが笑えば、すべてが明るくなるよ」


 僕は心からそう思った。あかねは僕の胸に顔を埋めて、泣きじゃくった。


「おおきに……ほんまにおおきに……」


 彼女は感謝の言葉を繰り返した。僕は彼女を強く抱きしめた。


 その時だった。柊の花が一斉に散り始めた。白い花びらが舞い落ちて、僕たちを包んだ。それはまるで夏の終わりを告げる姫白蝶が舞っているようだった。


「わあ……きれいやわ」


 あかねが驚いて言った。僕も目を見張った。


「これって……もしかして……」


 僕は最後まで言おうとしたが、その前にあかねが唇を奪った。柔らかくて温かい唇だった。僕は驚いたが、すぐに応えた。柊の花びらが舞う中、僕たちは二度目のキスを交わした。振り返ると、その柊の木は消えていた。


 それはまさに奇跡でありながら、まぼろしだったのだろうか……。僕はあかねの心を覗けなかったが、彼女の切なくて美しい想いが僕の心に響いてきた。あかねは僕に感謝の気持ちを伝えようと、ひいらぎの花という詩を書いて読んでくれた。それはこういう詩で、僕の耳に切なくも美しく届いてきた。


 ひいらぎの花


 青い空を見上げて

 心は晴れやかになる

 夕焼けの赤い雲が

 背中を優しく押す


 窓の外に星が輝く

 いつか自分もそうなりたい

 でも心には闇があって

 誰にも言えない悩みがある


 せめてこの人生を

 楽しく生きたいと願って

 下鴨神社にやってきた

 糺の森で不思議な木に出会った


 小さくて細い苗木を植えても

 立派な柊に変わるという木

 厄除けや祈願成就の魔法

 心の闇を祓ってくれるのだろうか


 白い花が咲いていた

 冬に咲く花が夏に咲くなんて奇跡

 枝には黒紫色の果実が実っていた

 神様からの贈り物だったのだろうか


 悠斗はんが抱きしめてくれた

 大丈夫だよ 僕が一緒にいるんだから

 そう言ってくれた

 彼は私を笑わせてくれた


 全てが明るくなった気がした

 柊の花が一斉に散り始めた

 白い花びらが舞い落ちて

 私たちを包んだ


 まるで白い蝶が舞っているようだった

 彼と二度目のキスをした

 振り返るとその柊の木は消えていた

 それはまさに奇跡でありながら

 まぼろしだったのだろうか……



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