第32話 心の光と暗闇


 団子を食べ終わると、僕たちは再び御手洗池の前に戻った。授与所で購入した白い紙を手にし、もう一度水占いをやりたいというあかねの提案に同意した。彼女は笑顔で口を開く。


「お寺はんのおみくじって漢文やろ?」とあかねが尋ねた。「そうだよ。仏教と一緒に中国から伝わったんだ」と祖父から教わったことをそのまま話した。「ほな、神社はんのおみくじって?」 「それは日本独自のものだろう。和歌が書かれていることもあるよ」と僕は彼女の問いかけに答えた。


 そう言いながらも、下鴨神社のおみくじは特別なものだった。占いの紙を湧き水に浸す形式で、小さな水鉢やつくばいではなく、御手洗池に直接浮かべるのだ。時間が経つと、神さまが導くように大吉から凶までの文字が鮮明に浮かび上がる。


 糺の森に潜むと言われる水の神さまに、僕たちの夢や希望を託すのだった。結果が出るまでの待ち時間はドキドキする。僕たちは授与所に行き、占いの紙を一枚ずつ受け取った。


「なんか不思議だね……まるで宝くじのスクラッチをするみたい」と、あかねを楽しませようと冗談を言ってみた。けれど、彼女は一瞬緊張したのか、目を潤ませ、真剣に占い紙を見つめ、手を合わせた。


「悠斗はん、あかんえ。もう……冗談はやめて。静かにして。神さまに失礼やわぁ。金儲けとちがうさかい」


 いつしか、彼女の無邪気な表情は消え、目の色を変える真剣な眼差しに僕は言葉を失った。その姿は、初めて会った時のあかねそのものだった。雪景色の中で京下駄を鳴らしていた、あの少女のように。


 水占いに向かって真剣に祈りを捧げる彼女の眼差しの奥には、何か暗い影が隠されているようにも見えた。幸いなことに、僕が浮かべた二度目の水みくじは「吉」で、「さらに精進し続けよ」と激励の言葉が書かれていた。


「あかね、おみくじはどうだった……?」


 僕は自分のことを忘れて、あかねのおみくじが気になり、問いかけた。


「それが……はぐれ鳥みたいに消えたの」と、彼女からは悲しい返事が戻ってきた。占い紙が笹舟に乗ってどこかに流されてしまったというのだ。その真相は謎と闇に覆われたまま、彼女の胸奥に収められていた。それを聞いて、僕は複雑な気持ちを覚えた。あかねの笑顔が消えていく様子が目に浮かび、胸が張り裂ける思いになった。


 本当のところはどうなのだろう。あかねは身体だけでなく、やはり精神的にも苦しんでいるのだろうか。


 占いの結果など忘れたかのように、目の前で無邪気に戯れる彼女を心配げに見つめた。笑顔の裏に見え隠れする闇が感じられた。彼女の眼差しは先ほどまでとはまるで別人のようで、落ち着きがなく虚ろなものだった。


 もしかすると、あかねは解離性同一性障害という精神的な病気を抱えているのかもしれない。自分自身であるという感覚や、自分の意志で行動する感覚が心の中で崩壊しているのかもしれない。そんな想像が頭をよぎった。


 いや、あかねは初めてのデートでただ喜怒哀楽が激しいだけかもしれない。でも、僕には確信が持てなかった。悲しい時に泣き、嬉しい時に喜ぶことができない彼女を見て、何か深い秘密があるのではないかと思わずにはいられなかった。


 ふたりのデートは時間との戦いだった。あかねがなぜそうなったのか、詳しく聞くこともできなかった。時計の針は午後四時を指していた。デートが終わるまで、残された時間はあと二時間だけだった。家々に明かりが灯る頃には、彼女を自宅まで送らなければならなかった。


 僕はあかねの手を握り、歩き始めた。彼女が笑ってくれるように、何かできないかと考えながら、時計を見て思案した。


「早う、早う行こう。悠斗はえらいのんびり屋はんやさかい、置いてけぼりにされてまうで」と、あかねは小走りで下駄の音を鳴らしていった。足はすっかり大丈夫のようだ。しかし、こんなおてんばな彼女だとは知らなかった。


 縁日の屋台が立ち並ぶ糺の森は、明るい灯りと人々の声で賑わっていた。若いカップルが仲良く食べ歩いている姿が目についた。あかねは若いカップルに負けじと僕の腕を引っ張り、「うちらもあれを食べたい」と言って屋台に向かった。


 暖簾から顔を覗かせる矢来餅や豆大福、わらび餅やどら焼き、海老煎餅など、京都ならではの和菓子がどれも美味しそうだった。他にも様々な屋台が境内の両脇に並んでいた。


 屋台には冷やしきつねうどんや抹茶グリーンティー、甘酒、京野菜などもあり、京都らしいものがたくさんあった。定番のいか焼きや焼きそば、チョコレートバナナやかき氷なども目に入った。屋台の数は数えきれないほどだった。


 僕たちは子供のようになり、時間を忘れて夢中で遊んだり食べたりした。あかねは射的でハズレのキャラメルをもらって喜び、りんご飴を食べるのに口を大きく開けてはしゃいだ。たこ焼きをひとつずつ口に運び、美味しそうに頬張った。


 あかねはまだ物足りなかったのか、綿あめの屋台に立ち止まった。しかし、可愛らしい袋に入った綿あめが1,000円と表示されているのを見て、目を丸くした。「信じられへん。こんなに高いんやったら、いらんわぁ!」と浴衣の袖を振って首をかしげた。初めてのデートだから、値段など気にしなくても良いのに。彼女の遠慮がちな可愛らしさに、僕は心が弾んだ。


 このふたりの楽しい時間が永遠に続くことを願った。しかし、その時、母親との辛い約束、「夕食までには連れて帰ると約束守っておくれやす」が頭をよぎった。


 あかねはまだ未成年で、もしふたりで駆け落ちして世捨て人になり、母親に訴えられたらどうなるだろう。若い女性を誘惑した不届き者と非難されても仕方がない。


 けれど、僕自身は度胸もないというのに、そんな恐ろしい誘惑へと駆られそうになった。僕の評判などどうでもよかったが、あかねだけには迷惑をかけたくなかった。


 彼女とはまだ四度目の出会いだ。初めて出会った風花の坂道、嵐山でのトラブル、陽だまりの病室での再会、そして今日の糺の森での初デート。僕にとってはすべてがかけがえのないものだった。


 今やふたりのデートが終わることが怖くなり、この時間が永遠に続いて欲しいと心から願った。なぜか、あかねに二度と会えなくなる恐怖が心に渦巻いていた。空を見上げると、太陽がゆっくりと沈んでいくのが見えた。昼間の暑さで汗ばむ日差しは次第に薄暗くなり、涼しさが漂い始めていた。


 今回のデートの最後に、鴨の七不思議のひとつ、「何でも柊(なんでもひいらぎ)」を見たいと強く思っていた。あかねの手を握りしめながら、ふたりの未来を夢見た。


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