第31話 水占いと団子


「なあ、悠斗はん。水みくじもしてみたい」


 初めて耳にする言葉だったが、あかねは幼い頃に一度母親に連れられてこの地を訪れたことがあるという。その時に占いをしたことが、今でも忘れられないそうだ。


「水みくじ? 占いもするのか?」


「ええやろう……。ほな、いこか」


 あかねは何を思ったのか、可愛らしい京都弁で甘えてくる。水占いができるところまでは、かなり歩かなければならなかった。何しろ、下鴨神社の境内は広大で、東京ドーム三個分もあるという。


 退院したばかりの彼女の身体を心配していた僕は、その一歩一歩を見守りながら、彼女の健気な姿に胸が熱くなった。


「遠いぞ。おんぶしてあげようか」


「そんなん、いやや。恥ずかしいさかい」


 彼女は「もう子供とちゃうから」と口を尖らせ、両手で顔を隠してしまった。うなじのほつれ髪を気にして、小首をかしげながら直す仕草は、まるで駄々っ子のようでありながら、愛おしくてたまらなかった。


「本当にやりたいのか?」


「うん、ほんまや。水に浸すと文字が浮かび上がる仕掛けのおみくじやて。恋愛運とか金運とか色々占えるんやで。すごいやろう」


 彼女は目尻を下げて、そう説明した。


「へえ、面白そうだな。けど、変な凶とか出ても泣くなよ」


「そんなん、へっちゃらやで」


 普通の女性なら、最悪の凶みくじを手にしたら怖じ気づくだろう。しかも、今の彼女にとっては酷にも思えた。正直なところ、あまり乗り気はしなかった。


 僕はあかねの想いに折れて、授与所でおみくじをふたつ購入し、御手洗池みたらしいけへと向かった。池に浮かぶ蓮のつぼみが涼しげに目に映った。


「ほな、一緒に浸けてみよか」


 あかねは微笑みながら言った。「いいね」と、僕も彼女の意見に賛同した。ふたりは手をつないで、おみくじの紙をゆっくりと池の水面に浸けると、文字が少しずつ浮かび上がってきた。


「わあ、見て見て! うちらの二枚とも大吉や!」と、彼女は嬉しそうに叫んだ。「本当だ。すごいな!」。僕も驚きと喜びがこみ上げてきた。


 正直なところ、あかねのおみくじに不運が出たらどうしようと心配していたから、安堵の息をついた。肩を並べて、ふたりでおみくじの内容を読み進めていった。


 恋愛や学業や仕事、金運や健康などの神託が細かく表示されているが、特に恋愛運に関して、「この人となら幸福あり」「この人を逃すな。信じなさい」と良い言葉が綴られていた。けれど、彼女の眼差しには、どこか憂いが浮かんでいるように見えた。


「これはラッキーだね」と、僕はあえて元気そうに振る舞った。


「ほんまやね……これからも悠斗はんとずっと一緒にいたい。うちら、運命的なお似合いのカップルかもしれへん」と、彼女は僕の気持ちを察したのか、すぐに抱きついてきた。


「もちろんだ。あかねを大好きだよ」と、僕はあかねの唇にそっと触れた。初めてのキスだった。彼女は目を閉じて、僕の気持ちに応えてくれた。優しくて甘いキスだった。


 あかねの黒く艶やかな髪を撫でながら、彼女のぬくもりや香りを感じた。あかねは僕の胸に頭を埋めて、小さく息を吐いた。僕は彼女が大切だと改めて感じた。



 僕は水占いで引いたいずれのおみくじをポケットにしまった。それは大吉の知らせというより、まるで神さまが僕たちのために授けてくれた宝物のお告げのように思えた。


 夕闇が刻々と迫っていたが、あかねと戯れながら、糺の森でもっと幸せいっぱいのデートを楽しんでいたかった。しかし、彼女は子どものように駄々をこねてきた。


「もういっぺん水みくじをしたいねん! ええやろう」と、彼女は僕の手を引っ張った。僕は笑って、「えっ、もう十分だろう! まだ、下鴨神社の七不思議はたくさん残っているんだよ。時間も限られているから、次を探しに行こう」と誘ったが、彼女は聞く耳を持たなかった。


 とても可愛らしい女性なのに、あかねには思い立ったら突っ走る頑固なところがある。万が一、彼女がへそを曲げたら大変なことになるだろうと気づいた。


「七不思議なんてつまらん。不運がやって来る前に、縁を深めるためもう一度水みくじがしたいんや!」と泣きそうな顔をした。あかねの可愛らしい仕草に、僕はつい根負けしてしまった。


「わかった、わかったよ!」と口にしながらも、歩きっぱなしで少し疲れていたことに気づいた。彼女もきっと同じだろう。それに、そろそろ小腹も減ってきた。


 すると、道すがらどこからか香ばしく甘い匂いが鼻腔をくすぐった。『みたらし亭』と書かれた幟旗のぼりばたが心地よい風になびいていた。


 僕たちはみたらし祭開催中の看板がある店先で立ち止まった。そこには鰻のイラストが描かれていた。今日は、僕の大好物の鰻で有名な土用の丑の日だった。


 一方で、この場所は「鴨の七不思議」の三番目、「御手洗池の水泡」の謎を解き明かす聖地でもあった。


 あかねは目を輝かせて看板の案内を読み始めた。僕も一緒に追いかけると、池に足を浸して無病息災を願う「足つけ神事」と呼ばれるものであることが分かった。湧き水に裸足で入り、祭壇にロウソクを献灯するというものだ。

 真夏でも地下から湧き出る冷水で身を清めることができるという。常には水が流れていないが、土用になると池底から水が湧き出してくるという不思議で、その湧き出る水泡の形をもとにして団子にしたのが、みたらし団子だという。


 僕はその由来を知って、ますます団子を食べたくなった。池の方角を見ると、浴衣を着た少女たちがロウソクを持ちながら、清水に足を浸している光景が見えた。お日さまの光がほのかにやんわりと差し込み、赤い社や黄昏色の空、そして緑の木々が溶け合うようなコントラストが美しい。その光景に見とれてしまった。


「真ん中に立ってごらん」と、僕はあかねをモデルにしてカメラのレンズを向けた。彼女が羽織る薄紫の浴衣色も加わり、ファインダー越しに映る姿は可愛い少女のようで、思わず心が躍った。合格点の出来映えに自己満足して、撮影したモニターを彼女に見せた。


「えらい良う撮れてんねん。そうそう、言い忘れとったのかんにんしてな。新人賞おめでとう。もう、すっかりプロカメラマンやな」


 あかねが目を輝かせて口にした言葉に、僕は胸が熱くなった。やはり、彼女に褒めてもらうのが、一番嬉しかった。でも、朝から彼女と会うのに夢中で、ろくに食事もとっていなかった。その上、タバコまで吸いたくなっていたが、当然のことながら彼女の前では我慢しなければならなかった。


「水占いは後にして、みたらしを食べてからにしよう。もう、お腹ペコペコだ。花より団子や」


「ああ……しゃあないなあ」と、あかねの顔には、まんざらでもない微笑みが浮かんでいた。


 僕らはさっそく、熱々のみたらし団子を注文して頬張った。それは見た目はそっくりだったが、初めて東京で食べたみたらし団子とは異なる味に、目を見開いた。彼女は、「この味、この味……」と頷きながら、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。


「悠斗はん、これ、最高のごほうびやな」とあかねは言ってくれた。僕も同じ気持ちだった。ふたりの楽しい時間はまだ続いていく。いや、心の中ではいつまでも終わらせたくなかった。

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