第29話 糺の森の奇跡


「悠斗はん、お待たせしてかんにんえ」


 浴衣姿で現れたのは、紛れもなくあかねだった。浴衣には薄紫色の風車に似た大きな八枚の萼のある花(キンポウゲ)が描かれているのが目に留まった。


 黒塗りのハイヤーが突然目の前に止まり、車から少女が降りてきた。あかねのおちょぼ口から、可愛らしい挨拶が聞こえてきた。


 京下駄をカランコロンと鳴らしながら、ちょこまかと小股で近づく浴衣姿が愛おしい。もう、歩けるようになったのだと知ると、思わず目頭が熱くなった。こんなにも綺麗な女性だったのか……。


 僕は久しぶりのあかねに改めて見惚れてしまった。真っ白な透き通る肌、薄化粧の顔には傷跡が残っていない。しかも、あふれるばかりの微笑みがある。薄紫色の風車の浴衣もよく似合っていた。


 あかねは目を合わせて、もう一度、「許しとぉくれやす」と言った。京都弁の心地よい響きが僕の琴線に触れたのか、照れくさくなり、目を逸らすしかなかった。


 待っていたかのような優しいそよぎを感じながら、黒髪を束ねた赤いリボンがたなびく少女に目が留まった。ところが、あかねはひとりでは来ていなかった。付き添うのは、眉間にシワを寄せる母親だった。


「ここで先に帰るけど、後は任せるさかい。夕食までには連れて帰ると約束守っておくれやす」


 母親は冷たい口調でひと言だけ残して去っていった。ひとりとなったあかねの笑顔は、ほのかな木漏れ日に照らされ一層輝いて見えた。母親の姿が見えなくなると、あかねはさらに華やかな香りを漂わせながら僕のそばまで駆け寄ってきた。すぐにあかねの身体を心配して声をかけた。


「もう、大丈夫なのか?」


 僕はあかねの可愛らしい手を握って、優しく尋ねた。彼女は僕の目を見つめて、にっこりと笑った。


「うん、もう平気や。リハビリも優等生ってほめられたさかい、悠斗はんと一刻も早う会いとて……。偉いやろう、少しくらい褒めてくれやす」


 あかねはそう言って、僕の腕にしがみついた。彼女の体温がじんわりと伝わってきて、僕の胸が高鳴った。彼女は僕にとって、やはり特別な存在だった。彼女の笑顔を見るたびに、心がほっこりした。


「ゆっくりと歩いて、行こうか。下鴨神社の七不思議を探しに」


 僕はそう口にし、彼女を連れて、天にそびえる大鳥居をくぐった。下鴨神社の境内は、緑にあふれており、厳かで凛とした空気が流れていた。ふたりで恥ずかしげもなく手を繋いで、鎮守の森の謎に挑んだ。それは、僕たちにとって、かけがえのない初めてのデートになった。


 悠久の昔から自然と人々の調和を守る糺の森をゆっくりと進むと、細く長い道に出会った。その道は僕たちの人生のように、どこまでも続いているように見えた。しかし、曲がりくねっており、その先に何があるのかはわからなかった。僕は、あかねに聞いてみた。


「この道はどこに続くんだろうね?」


「うちもわからへんけど、悠斗はんが一緒やったら安心やさかい……。そやけど、あれなんやろう?」  

 

 あかねは不思議でならないといった様子で目を細めながら呟いた。その視線の先には、黒い三本足の烏が描かれた不思議な紋様があった。僕はその紋様をどこかで見た気がしていた。


「あれは八咫烏やたからすだ。日本の神話に出てくる太陽の化身や」


 目を凝らすと、下鴨神社の「七不思議の四番目の謎」を解き明かす案内札が立てられていた。そういえば、この烏を模した紋様が境内のあちらこちらで目に飛び込んでいたことを思い出した。そのからすは、下鴨神社の守り神的なシンボルだった。

 

 子どもの頃、おじいちゃんによく神話の話を聞かされていた。その中に、八咫烏という鳥が出てきて、神武天皇を導いたという話があった。その話が興味深く好きだった。八咫烏は太陽のように明るく強く、人々を助ける神だった。僕は彼女に教えてあげた。


 ふたりでちょっとだけ立ち止まって、案内札を読んでいく。そこにはこのように書かれていた。


「やたからすは、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされる太陽の化身です。中国や朝鮮にも似た伝承が残っており、三足烏と呼ばれている。三本の足は、陽の数である「三」を象徴し、太陽の力を表すと言われています。皆さんも、心の中にしっかりと「三」の数字を刻んでください。きっと良いことがあるでしょうから……。」


「あかね、この道は三叉路になっているらしいよ。真ん中が烏縄手(からすなわて)の道というんや。昔から八咫烏が案内してくれた道や」  


 僕は何も悪いことをしていなかった。ただあかねと一緒にいたかっただけだ。けれど、僕は彼女の母親が残した言葉を思い出していた。彼女は僕に「約束を守っておくれやす」と冷たく言い放っていた。

 母親はあかねが大怪我したことを、僕のせいだと勘違いしているようだった。彼女は僕と会ってから、学業も舞妓さんの修行も疎かになったと嘆いていた。しかし、僕はまったく逃げたり隠れたりしなかった。これからも胸を張って、彼女と歩いて行きたくなっていた。


 ところが、僕には忘れられないふたつのわだかまりが残っていた。そのひとつは、最初にあかねと会ったときに彼女がもらした言葉だった。「お茶屋の若旦那」の話はどうなったのだろうか……。でも、あかねに問いかけると、彼女がどこかに消えてしまいそうな不安すらして、今の僕にはどうしても口に出せなかった。

 それと、もうひとつ、あかねはなぜ嵐山の桂川に流されていたのだろうか……。彼女が話してくれなかった真相や、先斗町や嵐山が魔界や黄泉の国の入口だったことを知らない僕は、あかねの魅力的な姿に心が揺らいでいた。そんな僕の想いを知らないのか、彼女は可愛らしい姿を見せてくれた。


「へえ、そうなんや。どないな神さま案内してくれはんねん」


 あかねは、興味津々に紋様を見つめた。


「下鴨はんは古うから縁結びや子育ての神さまなんや。なんて素敵なんやろう。うちも早う会いたいわ」    


 あかねは目頭を熱くしながら呟いた。


 彼女の激しい感情の変化についていけないでいた。今日のあかねは笑ったり目を潤ませたりと、ジェットコースターのように揺れ動いていた。けれど、僕はただ彼女の手を握って、そばにいることしかできなかった。

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