第28話 最初のデート


 夜半の夏、涼やかに一夜だけ咲く月見草は、咲き始めは真っ白で、朝になると淡いピンクに染まる不思議な花である。その儚い美しさから、ほのかな恋心を象徴するとされ、宵待草という名前もつけられている。


 アパートの庭先で淡いピンク色の月見草を見かける季節を迎えると、あかねとの待ちに待った約束の日がやってきた。今日の午前中に、彼女は退院することになっていた。僕はこの日を首を長くして待ち焦がれている。


 楽しいときは一瞬で過ぎ去るが、辛い日々は際限なく長く感じられ、孤独感に迷い道に足を踏み入れることもあった。


 あかねとの初デートの場所をどこにしようか……。かつて僕が見つけた南禅寺の水路閣にも興味があったけれど、詩織さんが勧めてくれた「ただすの森」の社も気になっていた。


 あかねならどちらを好むのだろうか……。分からないながらも真剣に考えざるを得なかった。いかんともしがたい葛藤に苦悩しながら、京都の観光スポットを紹介するスマホのアプリを何度も見返しては消して、見返しては消していた。


 迷ったあげく、清々しい森に囲まれた「下鴨神社(賀茂御祖神社かもみおやじんじゃ)」を選ぶことにした。ふたつの選択肢のうち、南禅寺ではなく下鴨神社に決めた理由は、糺の森に伝わる神々の不思議な伝説に惹かれたからだった。


 京都の街には、鴨川の大河が南北に流れている。古代中国から伝承された風水思想によると、その街は東西南北を司る神獣に守られた「四神相応の地」であり、東の守り神(青龍)にあたる鴨川は平安京にとって重要な存在だったという。


 山紫水明の聖地とも形容される京都の鴨川は、生活や農業用として、古来より人々に欠かせない命の水の存在だったらしい。悠久の歴史の中で京文化を育んできた川であり、今も大都市にあって人々の憩いの場となっている。そして、川の畔には、悠久の都を見守るように賀茂神社がふたつ鎮座している。


 アパートに近い「上賀茂神社(賀茂別雷神社》)」の境内には幾度も足を運んだが、糺の森は初めて訪れる聖地だった。


 かつて平安京だったこの都には千二百年の歴史が刻まれ、そこかしこに不思議な言い伝えが見受けられた。ご多分に漏れず、この下鴨神社にも不思議な謎が残されていた。知れば知るほど面白くなっていくその謎は、京都市左京区に伝わる「鴨の七不思議」とも呼ばれていた。


 ❶.連理の賢木/❷.なんでも柊(ひいらぎ)/❸.御手洗池みたらしいけの水泡/❹.泉川の浮き石(烏縄手からすのなわて)/❺.舩島(奈良殿神地ならどのかみのにわ)/❻.赤椿/❼.切芝


 あかねと一緒に、境内にある案内の立札を探しながら、ひとつずつ謎を解きたくなってしまった。その神社は、僕たちにとって、初めてのデートの場であり、鎮守の森の謎を解き明かす冒険となる「ナゾアド」といっても良いだろう。


 さっそく車を駐車場に停めて、カメラを肩から下げた。出町柳駅からほど近いところにある大鳥居の前で、あかねが来るのを待った。高さは約12メートルあり、京都市内では最大級の鳥居だと言われていた。神社に近づくと、なぜかしら五感まで研ぎ澄まされる気がした。


 風に乗って漂ってくる木々の香りがとても心地よい。目を凝らすと、鼻先に百日紅の赤やピンクの花が咲いていた。耳を澄ますと、夏を告げる鳥、不如帰ほととぎすのテッペンカケタカという声が遠くから聞こえてきた。


 本当にあかねは現れるのだろうか……。待ち合わせ時間が刻々と迫るにつれ、期待と共に不安が顔を覗かせ、落ち着きがなくなり、胸が高鳴った。時はまだ午後二時にはなっておらず、約束の時間には余裕があった。


 京都の道筋は東西南北に伸びる碁盤の目状になっており、そこには古都らしい流儀が残っている。北の方角へ行くことを「上ル(あがる)」、南の方角へ行くことを「下ル(さがる)」と言う。住所の地番にもそれらが表記されることがある。


 賀茂川を基準に見るならば、上流(北側)の畔に上賀茂神社が、下流(南側)の畔に下鴨神社が鎮座していることになる。上流では「賀茂川」と記されるが、下流に行くと「鴨川」に変わる。


 下鴨神社は上賀茂神社から見て南の方角の大きな交差点のそばに佇んでおり、目をキョロキョロさせながら、彼女がいつ来るのかと通り過ぎる車を追っていた。


 一方で、下鴨神社の辺りは、幼子がまりつき遊びをしながら歌う「京の手毬唄」で「まるたけえびすに、おしおいけ、あねさんろっかく、たこにしき……」と親しまれている。土曜日ということもあり、人通りは多く、観光客らしき人々が神社の境内に吸い込まれていた。


 ああ、心地よい風が吹いている。青葉を通り抜けるような、夏の爽やかな香りが漂う。日差しも柔らかく、完璧な一日だ。境内を深く見渡せば、詩織さんが話していた通り、静けさと厳かな雰囲気に身を浄められる森が参道沿いに広がっている。


 僕は目と鼻の先にある立て看板に立ち止まり、心を惹かれた。そこには、この聖地についての説明が詳しく書かれていた。あかねが来るまで時間があったので読んでみることにした。


「糺の神」は、神社の主祭神で、人々の罪や穢れを正すという意味があるという。この森は神社の境内に果てしなく広がる自然林で、国の史跡に指定されていた。古代の植生が残っており、樹齢600年以上の樹木が多くあるそうだ。四季を通じて美しい景色を見せてくれるという。


「源氏物語」や「枕草子」などの古典文学にも登場する鎮守の森であり、神秘的な雰囲気に包まれていた。


 源氏物語の「須磨」の巻では、あの著名な光源氏が下鴨神社を後にして詠んだ和歌に、「憂き世をば今ぞ別るる とどまらむ名をば糺の神にまかせて」とあり、主祭神のことが詠まれていた。


 僕はこれを読んで、当時から神の宿る森として扱われていたことが想像できた。これまで昔の物語などには関心がなかったが、思わず厳かな雰囲気を感じ、深く息を吸った。柔らかな風に乗ったように、小鳥たちの囀りが耳元をかすめていく。


 空を見上げると、すっかり晴れ渡り、絶好のデート日和だ。京都屈指の歴史が息づく神社、その境内にある相生社(あいおいのやしろ)は縁結びの神さまが祀られており、四季を通じて結婚式も執り行われている。まさに、若者たちの新たな出発にふさわしい聖地である。


 縁結びや健康祈願で京都一の霊験豊かな名所と知り、あかねの傷ついた心を癒してあげたかった。

 

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