第25話 心字池の記憶


 今日に限って不思議な思いになるのは、彼女とのデートが迫り、心が研ぎ澄まされていたからかもしれない。竹林を見上げながら、心の声を上げた。


「哲学の道は、まるで心の迷宮のようだ。琵琶湖疏水の運河が静かに流れ、平安から桃山時代を偲ばせる邸宅が過去の記憶を呼び覚ます。京都東山の風景は、時の流れを超えて僕を包み込む。茅葺きの苔むす静寂な山門をくぐると、花々や木々が優しく迎えてくれる」


 途中で「なんて爽やかな初夏だろうか」と感嘆の声を上げてしまう。なにぶん、今見ているのは、スマホの画面ではなく、目と鼻先にかけがえのない景色が広がっているのだ。とりわけ、切なくも美しい草花をあかねに見せたくなる。


「心地よい風が耳元をかすめ、花びらが舞い上がる刹那、あかねの笑顔が浮かんだ。彼女の心の中も、この疏水の運河のように澄んでいればいいのに。彼女が何を考え、何に悩んでいるのか、見通せるようになりたい」


 初めて会ったとき、あかねはさくら柄のかんざしを黒髪に挿していた。花が好きな彼女ならどんな香りが好きだろうか。彼女の好きな花色は何だろうか。そんな思いにひたりながら歩いた。


 あかねの笑顔は、幾ら打ち消そうとしても僕の脳裏から離れず、ひとときも忘れることができない。一刻も早く会いたくなる。これまで、幾度も心の中で同じ叫びを繰り返していた気がするが、今日は特別だ。彼女の笑顔は、僕の心に温かい火を灯してくれた。


 しかし、どうしてこうなったのか……。今はこのかけがえのない聖地に彼女の姿も見えず、声も聞こえず、手も触れられない。そんな現実に、胸が苦しくなる。


 日が沈む前に、高台寺や永観堂などを巡ったが、気落ちしていたのか、どの寺院も心に響かなかった。ただひとつ、例外があった。等持院の庭池には夢中になった。


 辺り一面に白い半夏生の花が咲き誇り、石灯籠や石仏が顔を覗かせる。気品あふれる雰囲気が漂う「心字池」に特に惹かれた。半夏生の切ない花には特に魅了された。


 半夏生は極めて不思議な草花だ。一見ドクダミに似ているが、その花言葉は「内に秘めた情熱」と健気なものだという。一年を通じて半日陰でも育つ強い花である。初夏になると、緑と白の明暗が分かれる葉から、小さく可愛らしい花弁を覗かせる。その姿が、理由はわからないけれど、あかねの面影に重なった。


 池の畔に腰を下ろし、しばらく見入っていた。その池の名前の由来は、「心」の字をかたどったものだという。


 白波ひとつ立たない池にじっと目を凝らしていると、案内の通り心の字に似ていることに気づいた。不思議な気持ちになり、カメラのシャッターを何度も切った。いつしか、あかねへの想いを心字池の姿に重ねていた。


 彼女の心の中も、この池のように見えればいいのに……と思った。彼女がどんなことを考えているのか、どんなことに悩んでいるのか、心の闇の本質をつかめるようになりたかった。


 ふと寂しさがよみがえり、携帯電話を取り出してあかねにメールを送った。手紙も悪くはないが、メールはすぐに彼女の反応がわかる。今日のひとり旅で見た由緒ある寺や静寂な哲学の道のこと、口にしたわらび餅の美味しかったこと、心字池のことなどを書き、週末に会えるのを楽しみにしていると伝えた。撮った写真を添えてメールを送ると、期待どおり、すぐに返信が届いた。


「悠斗はん、こんにちは。メールおおきに。京都の寺や哲学の道のこと、えらい興味深う読んださかい。滑らかなわらび餅を一緒に食べてみとおす。とりわけ心字池のことは素敵やった。うちもいっぺん見てみとおす。悠斗はんに会えること楽しみにしてます。今日もお疲れやす」


 あかねはメールも京都弁で綴ってくれた。それを読んで、僕は嬉しくなった。彼女も僕と同じ気持ちでいてくれるのが嬉しかった。僕はすぐに返信した。


「メールをありがとう。心字池は本当に不思議なところでしたよ。一緒に見に行きましょう。僕もあなたに会えることを楽しみにしています。今日もお大事に」


 メールを送ると、またすぐに返事が来た。


「悠斗はん、心字池に連れ立ってはよう行きたい。うちも会えること楽しみにしてます。今日もおやすみなさい」


 夜更けになっても、終わらないメールのやりとりが続く。僕たちは「おやすみなさい」と言っても、まだ話したいことがあるという気持ちでいっぱいだった。どんなに些細なことでも、彼女と共有できると嬉しかった。


 メールには、あかねらしい愛くるしい京都弁が散りばめられており、それが僕の心を和ませてくれた。彼女との再会はもうすぐだ。


 アパートに帰ると、僕はその日を心待ちにしながら、寝床に横たわり眠りにゆっくりと沈んでいった。


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