第24話 水路閣の静寂
病室から見えた五重の塔に心を奪われた僕は、京都には他にも美しいものがあるのではないかと思い始めた。
季節ごとに移りゆく街並みを写真に収めたいという思いが強くなり、ネットで色々と検索していった。スマホの画面に映り込む風景はいずれも初夏の風が香り、神がいるのだと感じさせる聖地で、すぐに目を奪われた。
祇園の一角に佇む八坂の塔は、民家の木塀や白壁土蔵に溶け込み、濡れた石畳にその優美な姿を映し出している。雨上がりの祇園の街からほど近い清水寺へ参拝するために、一年坂、二年坂、三年坂を歩くと、古民家の軒先に京情緒あふれる番傘が干してあるのが目に留まる。
天気の良い日を選んで由緒ある正寿院に足を運べば、風に吹かれ心地よい音色を届けてくれる小さな釣鐘に迎えられ、快慶が作ったお不動さんの迫力ある表情に出会える。一方で、夕涼みの癒しを求めるなら、鴨川の納涼床と並んで名の知れた貴船の涼やかな川床など、次々と京都の観光名所が目に飛び込んでくる。
しかし、ネット画面で見た街並みの中にはかつて訪れた聖地もあり、目新しいものではない。しかも、そこにはインバウンドの名のもとで目を背けたくなるほど、大声で会話を交わす観光客があふれている。誰とは言わないが、静寂で粋な雅を誇る京文化がないがしろにされているように思えてならない。
古式豊かな京都の街並みを心静かに訪ね歩き、許されるところで写真に収めるというのは、ただのたわむれではない。それは、時間を超えた撮影の旅路であり、心の奥深くに眠る感情を呼び覚ます儀式のようなものだ。あかねとの思い出が刻まれた京都の街は、彼女の不在をより一層感じさせる。
そこで、彼女と寄り添って、誰にも邪魔されず、音や香りで初夏を感じられる「恋人たちの聖地」に行きたくなった。祇園精舎の鐘の音や悠久の時を刻むせせらぎの水音、静寂な聖地を飛び交う鳥のさえずり、初夏に咲く沙羅双樹の花の香りなど、五感で感じられるものを探して、僕は自分の目や耳だけではなく、心まで傾けて歩いた。
目的地を探し求めて歩いていると、我が国で一番格式が高い寺と言われる南禅寺に運命の導きの如くたどり着いた。青もみじの葉に雨上がりの雫が残る光景は、観光客には見せたくないほどこよなく美しい。
もみじは紅葉が有名だが、その清々しい姿も決して劣ってはいない。青もみじの方がまさっていると言っても誤りではないだろう。境内に立ち並ぶもみじの並木道は、春に新緑に色づいた葉が初夏を迎えて徐々に濃くなり、その濃淡のコントラストにしばし魅入られてしまう。
久しぶりに見る南禅寺は、限りなく美しいところだ。かつて冬場に撮影で訪れた蹴上インクラインの近くにあり、落ち着いた雰囲気の聖地で、今日は参拝客も少なかった。境内に一歩足を踏み入れ、青もみじの写真を撮り終えると、目に飛び込んできたのは水路閣だった。レンガ造りのアーチ橋で、その上部を流れるせせらぎの水音が心地よく響いていた。
橋から望める景色は、風にそよぐ青もみじが名残惜しくなるほど、心を揺さぶるものだった。そばにこっそりと隠れる蹴上船溜の池には、木漏れ日が水面に映り込み、キラキラと輝く中、陽だまりには時間を惜しむように愛らしい蓮の花が顔を覗かせていた。
神々しい花に立ち止まり、湧き水の優しい音色に身を清められ、小鳥たちの求愛するようなさえずりに癒された。あかねもこの神宿る聖地なら喜んでくれるかもしれないと期待を抱いた。彼女が隣にいてくれたらどんなに良かっただろうか……
いや、もうすでに僕の心の中にあかねが寄り添って「えらい素晴らしいとこや。早う連れていっとぉくれやす」と京都弁でこの景色を楽しんでいたのかもしれない。そんな白昼夢を思い浮かべると、余計に胸が痛んだ。
水路閣の爽やかな景色を後にして、近場を散策する。国の史跡に指定されている本堂や方丈など見どころは多いが、あまり興味を持てなかった。ただひたすら、あかねと歩ける緩やかな道を探す。途中で出会った猫に話しかけたり、おみくじを引いたりするが、それも気分転換にしかならなかった。
黄昏まではまだ時間があり、もう少し歩きたくなり、南禅寺の裏山にある「哲学の道」を訪ねた。そこは、桜、蛍、紅葉、銀世界と四季を通じて景色が移り変わる、絵になる静寂な小路である。喧騒を忘れてひととき思索に耽るには最適な場所だ。
哲学者の西田幾多郎氏が思案顔でよく散策したことから、その情緒ある名が付けられたという。平安神宮から銀閣寺まで続く約2キロメートルの道で、通りすがりには多くの有名な寺院や解放感あふれるカフェがあった。観光客が集まる寺院は目を背けたが、カフェの軒先に並べられている、滑らかでお茶の香りが漂うわらび餅のサンプルを見ているだけで、暖簾をくぐりたくなった。
わらび餅の美味しさに、男ひとりで心寂しく舌鼓を打った。カフェを後にすると、哲学の道をさらに魅力的な聖地を求めて、奥へ奥へと歩き始めた。
道すがら通り抜ける竹林の合間から木洩れ日が差し込んでいた。その優しい光に心を癒されたのだろうか。あかねほど文才もないにもかかわらず、突然の如く美しい言葉が脳裏に浮かんできた。
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