第22話 虚実の狭間で
医師の指示に従い、僕はケガから回復し、病院を背にした。退院手続きを迅速に済ませ、カメラバッグを肩にかけ、玄関でひと息つきながら、過ごした一ヶ月間の生活の場である病棟を眺めた。
その一ヶ月間は、切なさと無力感に満ちた日々だった。時には時間が止まったかのように感じられ、時には風のように過ぎ去った。それは僕の心に深く刻まれた、不思議な感情の集積である。
忙しい中、碧さんが見送りに来てくれた。一ヶ月という短い間ではあったが、彼女とは毎日のように顔を合わせ、僕の戯れにも笑顔で応じてくれた。最後の別れを惜しみながら、彼女の声は震えていた。
「神崎さん、おめでとうございます。もうお会いできないのは寂しいですが、一人前の写真家になる日を楽しみにしています。あかねさんとのことも応援していますよ」と温かい言葉をかけてくれた。
碧さんの優しさは、僕の心の支えであり、退院の日には、その思い出が色鮮やかによみがえった。彼女は別れを惜しむように、長い間手を振っていてくれた。
僕は深く頭を下げて感謝の言葉を述べ、病院を後にした。タクシーに乗りながら、彼女の寂しげな姿が目に焼き付き、涙があふれた。彼女の笑顔は、僕の記憶に永遠に残り、心に深く刻まれた。
✽
病院を去ってから二か月が経過し、退院の日の記憶は、桜の花びらが舞い散る儚さと共に、心に刻まれている。あの日、アネモネの花が満開で、あかねの面影を追いながら病院を後にした。今、初夏の訪れを告げる風が、新しい香りを運んできている。
写真スタジオへの復職を果たし、社長の大和田から、もっと休むべきだという優しい言葉をもらった。ところが、仕事が始まると、甘えることなく、社長の厳しい「悠斗、早く機材を持ってこい」という声が、日々の業務を促している。
専門学校とアルバイトを両立させながら、夢と希望に向かって一歩ずつ進んでいる自分がいる。忙しい毎日の中で、未来への道を切り開いていくことに、心からの喜びを感じている。
プロフェッショナルなカメラマンになるには、「もも栗三年、柿八年、シャッター覚え十年」と言われる。その習わしを教えてくれたのは、経営者としてだけでなく、一流のカメラマンとしても有名な大和田自身だった。彼のふたつの素顔に、僕は深く憧れ、尊敬の念を抱いていた。彼からの指示があれば、足の痛みさえ忘れて、重い荷物を背負い、どこにでも走り回ることができた。
しかし、今日は運が良かった。バイト先に顔を出すと、すぐに社長から呼ばれた。
「悠斗、おめでとう!」
それは、まさに夢のような嬉しい知らせだった。僕はコンクールに「嵐山の朝焼けのうた」という作品で応募していた。その作品が新人特別賞を授かったという連絡が入った。
これで、僕もようやくアマチュアからひと皮むけて、プロカメラマンとして認められたことになるのかもしれない。思わず、感動と喜びで胸が熱くなった。あかねに直接会って、この知らせを伝えられるときが待ち遠しかった。彼女はきっと喜んでくれるだろう。ふたりきりのデートの約束を果たせる日が近づくことを心から願った。
「悠斗、すぐ事務所へ連絡してくれ」
大和田社長と撮影をしていると、もうひとつの吉報が届いて再び声を掛けられた。電話の相手はなんとあかねの母親だった。なんと、あかねはあと数日で退院できるらしい。「ああ……良かった!」と心の中で言葉が漏れた。けれど、それと同時に、彼女との約束を思い出すと喜びと共に不安がよぎった。
「一緒にあかねと京都の街を歩きたい」
確かにそう約束したはずだ。叶えられるとすれば、二か月ぶりの再会となる。ところが、あかねと会った日、病室の外での出来事を思い出していた。会ったのは紛れもない彼女の母、野々村すずさんだった。僕とあかねの会話を全て盗み聞きしていたらしい。急に、病室から少し離れたところに連れて行かれた。娘に聞かれるとまずいと思ったのだろうか……。
「あの娘は目がまだ不自由で、真っ直ぐに歩くことも出来ひんのどす。まだ二十歳にならへん高校生や。うちには父はんもおらんし、あんさんとは生きる世界がちゃうんどす。どないな気持ちで、誘うてるんや?」
「ただ彼女を励まそうと思っているだけや」
声を大にして答えていたが、母親は聞く耳を持たなかった。
「まだ、若おして、女心が分からへん思うけど、ただ思いつきのからかいなんでしゃろ。惑わすようなこと、止めとぉくれやす。あの娘に期待をさせてしまう。辛い思いで辛抱させるのは、もう懲り懲りなんどす」
「惑わすって? そんなつもりは……」
もちろんのこと、あかねの心をもてあそぶつもりなどなかった。僕は弁解しようとしたが、母親は僕の言葉を遮って言い放った。憤りを感じながらも、その勢いに押されて言い返すことができなかった。
「神崎はんは娘にとって命を救うてくれた恩人どす。心から感謝してます。短い時間やったら散策することは許すけど、これ以上惑わすのんはやめとぉくれやす」
そう言葉を残して、彼女は僕から離れていった。その厳しい眼差しは、最初に病室で会った時の岩陰に小花が咲くようなしおらしい女性とはまるで別人だった。
今になってみると、母親の心配は無理もないだろう。あかねと母親の過去は謎ばかりだったのだから。だが、あかねは、本当に元気になったのだろうか……。「 頭を強う打った」と母親から以前に聞いていた。もし、記憶障害となり、僕のことを忘れていたら、どうしようかと不安にも駆られていた。
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