第20話 あかねの手紙


 母親は僕にとって、家族の中で唯一の味方であり、良き理解者だ。夢を追いかけて東京から京都に旅立ったときも、一切苦言を呈さなかった。


「若いのだから、後悔しないように、やれることをやりなさい!」と僕の背中を押してくれた。これまでも、岐路に立つたびに色々なことを教えてくれた。彼女は四季を通じて庭先で花づくりに励む、思いやりのある心優しい女性である。


 アネモネの花言葉は「はかない恋」。その花は彩りに溢れている。白いアネモネの花言葉は「真実」、紫の花言葉は「あなたを信じて待つ」、紅の花言葉は「君を愛す」だと習ったことに気づいた。


 一方で紅紫色は、花や女性、そして心の中など、多岐にわたる美しいものを表現するのに最適な彩りだと教えられていた。もしそうならば、その色合いの花言葉である「あなたを信じて待つ」「君を愛す」を信じていたくなった。


 あかねも病室の窓から僕と同じ、満開のアネモネが広がる春の景色を眺めていたのだろうか……。手書きの文字で描かれた便箋に、筆の痕跡が滲んでいた。いや、ひょっとしたら滲んでいたのは筆の痕跡ではなく涙の雫だったかもしれない。彼女の切なる思いを胸に刻みながら、僕は手紙を読み進めた。


 ♧


「悠斗さん、そして、お兄ちゃん、ありがとうございます。明日、ご退院とのこと。あなたのお怪我をずっと心配していました。私の為にご迷惑をおかけしてしまい、本当にごめんなさい。お会いしたいとのお申し出、傷だらけの醜い顔で良かったら直接お礼を言いたいので、お越しいただけますか。私が歩ければ、こちらから伺いたいのですが、本当にごめんなさい。」


(あかねより)


 僕は手紙を読み終えて、彼女の顔を思い浮かべた。手紙は舞妓ことばではなく、標準語で書かれていた。彼女は僕の想いを受け入れてくれた。それだけでも嬉しくて、苦しくて、切なくて……。手紙を胸に抱きしめ、目頭を押さえるのが精一杯だった。けれど、涙があふれて止まらなかった。


 あかねが「会いたい」と告げてくれた事実は、夢か現実かの境界にあるようで、まだ信じがたい。彼女が僕をどう見ているのか、確信が持てない。しつこくて腹黒い男と思われているのか、それとも愛されているのか。はたまた、ただの兄として見られているのか。不安は尽きることなく、自問自答を繰り返し、真実を探し求めている。


 彼女の存在が僕の心を占めるたびに、胸が高鳴る。再会した瞬間、どんな言葉をかけたらいいのか、その瞬間が来るたびに考え込んでしまう。ただ、彼女の笑顔を見るだけで、全ての不安が吹き飛ぶ気がする。あかねが僕にとってどれほど特別で、かけがえのない存在なのかを伝えることができたら、どれだけ素晴らしいことだろう。


 あかねと過ごした日々が、僕の心に深く刻まれている。過去の思い出が今も鮮明に蘇り、そのたびに胸が温かくなる。彼女との再会が実現することを願いながら、その瞬間を待ち続けている。


 心の中で夜空に輝く星々に願いをかける。彼女の幸せを願い、僕の心があふれる思いを届けることができるように。たとえ言葉にできなくても、あかねへの想いは決して変わらない。彼女の声を聞き、笑顔を見れる日を夢見て、僕は前を向いて歩いていく。


 考えれば考えるほど、目頭が熱くなる。この気持ちは何だろうか……。心を落ち着かせるために、いつものように窓から外を覗いてみる。今日はガラスも開けたくなった。思い切り、すーっと新鮮な空気を吸ってみた。


 ああ……良い気持ちだ。眼下の景色には、冷たい風にも負けないアネモネの小さな花が咲いている。昨日よりつぼみが開いているようだ。その花びらは彼女の肌や唇のように柔らかそうだ。花色が紅紫から薄紫に変わり、少女の清楚な面影と重なってくる。そんな透明感のあるナチュラルな見た目や心根の美しさに心を惹かれていた。



 昼食を手早く済ませて、彼女の病室に向かうことにする。昼食時間なら、配膳の準備に追われて、看護師たちも僕に気を留めないだろう。このチャンスを逃すと、回診などで二度と彼女に会えなくなるかもしれない。


 僕には明日の退院が迫り、残された時間はほとんどない。思い立ったら突き進むしかないのだ。階段を転ばないように、一つひとつ下がる。廊下を歩いていると、ここは女性専用フロアーの案内が目に留まる。


 すれ違う医師たちの訝しげな視線が心に突き刺さった。僕は素知らぬふりをし、気後れせずに歩みを進めていく。廊下には、今日も映画「卒業」のテーマソングが流れている。そのメロディーに勇気づけられる。


 医師たちからすれば、僕はパジャマ姿で目を輝かせて、病院内をうろつく変人だろう。もうどのように罵られても気にしない。後ろ向きになることだけは、絶対に妥協できなかった。階段を転ばないように、一つひとつ下がる。


 病室の番号を確認しながら廊下を進むたびに、心臓の鼓動が高鳴っていく。あかねとの再会への期待と不安が交錯する。もうすぐ彼女に会えるというのに、先ほどまでの元気はどこに消え失せたのだろうか。僕自身が、臆病者に見えてくる。

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