第19話 未来への一歩


 退院を目前に控え、心は複雑な感情の渦に飲み込まれている。あかねへの手紙が無言のままで、その沈黙は重くのしかかる。


 手紙というものは、実に不思議で冷酷なものだ。返信が届かなければ、紙屑と同然になってしまう。彼女が僕の想いをどう受け止めたのか、その答えは夜空の彼方に消えた星屑のように掴みどころがない。


 それでも、僕の胸の内はあかねへの思いで溢れている。あの可愛らしい笑顔、別れを惜しんだ瞬間、楽しかった日の記憶は、僕の心の中で生き続けている。先斗町で過ごした刹那のひとときは、今でも色褪せることなく、僕の日々を彩り続けている。


 あかねに再び会える日を夢見ながら、彼女の姿を心に刻み続ける。この感情は、ただの義務感や責任感を超えたものだ。それは、心の奥底から湧き上がる、抑えきれない熱い想いだ。どれだけ否定しようとも、この感情はますます強く燃え上がり、僕を動かす力となっている。


 あかねの病室は、ワンフロア下の一角にあるという。柴咲さんが、その秘密を僕だけにそっと教えてくれた。


 彼女が運んでくれるあかねの返事を心待ちにしていた朝の胸騒ぎは、今や切ない期待へと変わっていた。思い切って彼女の病室を訪ねてみようかと淡い期待を抱いていた。


 今日に限って、柴咲さんの温かな笑顔はどこにも見当たらず、病室のドアが開く度に希望と不安が交錯する。


 入院生活もすでに一ヶ月が経とうとしている。病室には時計の針の音だけが響き、カレンダーのページはめくられない。スマホの光に照らされた日付を見ては、また一日が過ぎ去ってしまうのかと心を痛める。


 病室の外から届く音楽が、静寂を破り、色彩を添える。そのメロディーは、かつてスクリーンで観た「卒業」のテーマソングを思い起こさせる。心を慰めるはずの旋律が、今は哀愁を帯びて響く。音楽は心を揺さぶり、涙を誘う。それは言葉にできない奥深い悲しみと、静かなる叫びとなって心に響き渡る。


 ベッド脇に置かれた僕の私物は、いつでも退院できるように紫織さんの好意で整えられていた。


 愛用のカメラを手にし、先斗町で撮影したあかねの写真を眺める。彼女の笑顔は、僕を惹きつけ、同時に苦しめる。あかねを守ろうとしたあの日、僕も傷を負った。病院のベッドで、彼女のことを想い続ける。


 あかねは、きっと傷ついた姿を他人に見せたくないのだろう。だから、僕は会うべきかどうか、答えが見つからない。


 もし、あかねが療養生活を送る病室を無断で訪ねれば、僕自身が軽率な行動と見なされるかもしれない。それでも、僕の心は彼女への感謝と謝罪、そして愛情で満ちている。どうしても、それを伝えたい。「ありがとう、ごめん、そして愛してる」と。


 僕はまだ二十一歳だ。青春(アオハル)の刹那は、いつも遠くまで見渡せる晴天の青空とは限らない。一寸先は闇かもしれないが、だからこそ、未知の未来に夢や希望を抱いていたいのだ。


 こんなことなら、柴咲さんに手紙など頼むことはなかったはず。かえって迷惑をかけてしまったのだろう。後悔はしていないが、胸が痛む。頭の中では僕の心を責める声が響いていた。ふたりの僕自身がせめぎ合い、葛藤が続いていた。


「彼女は助かったのなら、それで十分じゃないか! お前の役目はもう終わったんだよ。他に何を望むんだ!」


「愚かなことを言うな。恋なんてすべて期待溢れる妄想から始まるんだ。少しでも希望を捨てたら終わりさ!」


 僕はもうひとりの自分の騒がしいざわめきを耳にして、すぐに打ち消した。


 しかし、わずかな期待に反して、お昼が過ぎても柴咲さんは姿を見せず、僕の心には暗雲が立ち込めていた。もうダメだろう。諦めようとした。もう会えないのだと覚悟を決めた。そのとき、ドアの外から声が聞こえた。誰かが入ってくる気配がした。


 柴咲さんだろうか……。秘かに最後の希望を抱いた。しかし、そこに立っていたのは、体温計を手にした別の看護師だった。彼女は笑顔で挨拶してくれた。


「神崎さん、こんにちは。今日は私が担当です。よろしくお願いします」


 僕はがっくりと肩を落とした。柴咲さんは非番のスケジュールでいなかったのだ。そこはかとなく、明朝、ひとり寂しく病院を立ち去る僕自身の姿が目に浮かんだ。


 看護師は僕に寄り添って、血圧や体温を測った。いつものルーチンワークとなる測定は異常なく終わったはずなのに、彼女は僕のそばを離れず、一瞬ふたりの視線が交錯した。


 彼女のポケットから何かを取り出すのが見えた。それは、春を告げるさくら柄の封筒だった。もしかしたら、奇跡が舞い降りてきたのかもしれない。


「あの……。神崎さん……」


 看護師はそう言いかけて、一瞬ためらうように言葉を詰まらせた。僕は彼女の顔を覗き込んだ。彼女は深呼吸をしてから、口を開いた。


「実は、頼まれてきたんです」


 彼女はそう言って、手に持っていた封筒を渡してくれた。それを見て、僕は瞬時に心を奪われた。それは手紙だった。あかねからの待ちに待った返事だった。封筒の表書きには「親愛なる悠斗さま」と綺麗な文字で書かれていた。


「えっ、本当に?」

「はい。あかねさんからです」

「ありがとう」

「これを渡してくださいと頼まれたの」


 僕たちは矢継ぎ早に言葉を交わした。彼女は微笑んで言った。


「本当によかったですね。でも、今回のことは内緒にしておいてください」


 彼女は人差し指を口に当てる仕草をして、部屋から出て行った。僕はひとりになった。呆然としながらも、こみ上げてくる喜びを抑えられなかった。この瞬間をどれほど待ち望んだことだろうか……。


 ひょっとすると、その手紙には僕の想いを受け入れてくれる言葉が書かれているかもしれない。それとも、僕を拒む言葉が待っているかもしれない。どちらにせよ、これが最後のチャンスだ。その事実が、僕の心を一層高鳴らせた。


 この手紙には、僕たちの未来が詰まっている。それは、希望か絶望か、僕にはまだわからない。しかし、どんな結果であれ、僕はそれを受け入れる覚悟がある。


 だから、もう一度深呼吸をして、封筒を開けることにした。その瞬間、僕の心は未来への一歩を踏み出していた。勇気を振り絞り、さくら柄の封筒を開けた。


 中から滑り落ちてきたのは、祈りを込めたように三角形に折りたたんだ一枚の白い便箋だった。それが目に入った瞬間、僕の心は高鳴り、目頭が熱くなった。それは紛れもなくあかねの手紙だった。


 破かないように、そっと折り紙となった三角形の便箋を開いた。


 あかねの文字は、まるで彼女自身がそこにいるかのように、僕の心に響いた。文字の一つひとつが、彼女の優しさと愛情を伝えてきた。僕は手紙を広げて、内容を目で追った。よもや諦めていた返事が戻ってきたのだ。


 まだ安心はできない。崖っぷちから叩き落とされることだって、十分あり得る。後者の方が心の傷は深くなるかもしれない。でも、そんなことどうでもいい。あかねの面影を思い描き、ゆっくりと読んでいく。


 手に浮かんでくるこの汗は

 なんなのだろうか……

 白い便箋には色鉛筆で

 花が描かれている

 小さくて可愛らしい

 紅紫色のつぼみ

 冬の季節を耐え忍んで

 辛抱強く花を咲かせた

 アネモネだろうか……

 かつて母親から習ったことを

 思わず呼び起こした


 この手から滴る汗は、遠い記憶を呼び戻す。白紙に描かれた紅紫のアネモネは、冬の厳しさを乗り越えた強さと美しさの象徴だ。母が教えてくれた花の名前は、時を経ても僕の心に鮮明に残っている。この汗は、過去の教えと現在の感動を結びつける生命の証明かもしれない。それは母との絆の温もりを感じさせ、僕の手の上で静かに息を吹き返す。

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