第18話 退院前の葛藤
感動の余韻に浸りながら、読み終えた本を閉じると、もう眠りにつくことができなくなり、一刻も早くあかねに会いたいという葛藤が心の中で渦巻いていた。
夜明け前の病院は、一時の静寂に包まれており、夜間の落ち着いた照明の下で、薄暗く冷たい空気が支配していた。その静けさは、不気味なほどで、何かが潜んでいるような気配を感じさせた。
突如として、病院内に隠れている未知の存在に導かれるように、深夜の探索へと駆り立てられた。ちょっとした悪ふざけをしたくなり、ドアを静かに開けて暗い廊下を覗くと、そこには期待と不安が入り混じった冒険が待っていた。
病院の廊下は、青白い誘導灯と不穏な蛍光灯の揺らぎによって、幽玄な光景を作り出していた。その光は、周囲を凍りつかせるような雰囲気を醸し出し、静けさの中でさえ生命の脈動を感じさせた。この深夜の病院は、不思議と心を引きつける魅力を持っていた。
廊下を音を立てずに歩いていると、誰もいないはずなのに、目の前を黒い人影が一瞬横切った。頭上の蛍光灯が残り火を燃やすように消えつつあるのに気づくと、僕は男だというのに恐怖で心が凍り付いた。
今回の入院で遭遇したことはなかったが、この病院からも黄泉の国に旅立つ患者がいたのだろう。人の命の儚さを感じると同時に胸が締め付けられた。
ナースセンターに一筋の光と動く看護師の姿が見えたので、ほっと安堵した。けれど、見つかったら叱られると思い、すぐに自分の病室に戻ってドアを閉めた。またやることがなくなり、夜明け前の静寂が広がる中、窓際の椅子に座り、ひとりで空を眺めた。月明かりがまだぼんやりと照らす中、目を細めて、ひとつの星を探した。
やがて、月の近くに一番光り輝く明るい星を見つけることができた。その星に目を凝らしていると、ひとりの女性、あかねの顔がまた脳裏をよぎり、浮かんでは消えていく。まだ彼女と会えないことにやるせなくなった。
✽
重苦しい日々がすでに一ヶ月以上続いていた。今日は、運が良いのか悪いのか知れないけれど、医師との面談があり、退院の予定が決まった。三月の末には自由の身になれるという。
「退院まであと二日か……。なのに、あかねは……」
このままでは、あかねを残したまま病院を去らなくてはいけない。そう考えると、嬉しいはずなのに、なんだか寂しい気持ちが募って、思わず独り言が漏れた。でも、病院は個人的な感情でいつまでも居座っていられる施設ではない。ここは、否応なしに別れを告げなくてはならないところなのだ。
入院した当初は退屈で暇を持て余し、闇の巣窟みたいな館から一刻も早く抜け出したかったはずなのに……。ところが、今や180度反対となるコペルニクス的転回の感情を抱いていた。一日でも多くこの病室に留まり、あかねと会える機会を待っていたかった。
思いがけない心の変化に、僕は自分自身で驚いてしまう。いったい、どうしたことだろうか……。こんな想いをしたことは、初めてだった。
今日は、親父と弟が浮世気分で見舞いにやってくるらしい。朝起きたら、連絡が入っていた。壊れたスマホも詩織さんが直してくれていた。おふくろは入院した当日に来ていたのに、彼らは随分のんびりとしたものだ。
「悠斗、良かったじゃないか。いよいよ、明後日に退院だって聞いたよ。このまま京都観光して帰るけど、大丈夫だよな」
久しぶりに親父のしわがれた声を聞いた。弟は窓から見える景色に心を奪われたのか、父親の話にも上の空だった。男同士の親子の繋がりなんてこんなものである。それとも、カメラマンになるため、後先を考えずに東京の実家を離れた僕自身へのしっぺ返しだろうか……。
きっと、ふたりは春を待つ京都市内を気の赴くままに見て歩き、おふくろの目を盗み、祗園の街まで足を伸ばして帰るのだろう。本当にのんきなものだ。そんなことなら、入院費用と小遣いだけをさっさと置いて、一刻も早く姿を消してほしかった。
立ち代わりに、柴咲さんが朝の挨拶にやって来た。こちらの訪問の方がよっぽど心地よかった。毎日のように顔を合わせる看護師の彼女と患者の僕には、他人行儀な言葉はもう消え失せていた。
「おはよう。いよいよ退院ですね」
彼女の温かな笑顔は、いつも僕を癒してくれた。退院が間近に迫り、僕たちだけの世界になれる日を心待ちにしている。彼女に伝えたいことがある。それは、あかねに会うための最後の頼みだ。
昨夜は一睡も眠れず、月あかりの下で手紙を書いた。書き終えて、枕元にそっと隠しておいた。
やっと動けるようになり、あかねに会いたくてたまらない。会って、この切ない感情を伝えたい。彼女は僕の願いを受け入れてくれるだろうか。無為に過ごす時間を終わらせ、心からの決意を新たにした。失敗を恐れてはいけない。何もせず後悔するより、挑戦して失敗する方がずっと価値がある。僕は便箋を取り出し、心を込めて筆を進めた。
「これを、あの娘に届けてください」
僕は、この場にふさわしい言葉を探しながら手紙を柴咲さんに託した。厳粛なルールがある病院では許されないかもしれないが、心の中で詫びつつ彼女に頼んだ。彼女は首の後ろあたりを触りながら一瞬黙り込んだが、僕の熱い想いを理解してくれたようで、笑顔で頷いてくれた。
「これは……ラブレターですか。あの娘のことが好きなんですね。彼女は昨夜から少しずつ動けるようになっています。若いって素晴らしいですね……」
柴咲さんは羨ましそうな眼差しで僕の顔を覗き込んだ。僕は「少しずつ動けるようになった」という言葉に、幸せと不安が同時に心を満たされた。
彼女が立ち去った後、僕はいつものように窓から外を眺めた。病院の庭に咲くアネモネの花が、風に揺れながら僕の目に飛び込んできた。その小さく愛らしい姿は、まるであかねそのものだった。
手紙は柴咲さんを通じてあかねに届けられた。その中には、僕の限りない想いが詰まっている。これが真実の恋、純粋な愛なのだろうか。分かっているはずなのに、心はドキドキが止まらない。
窓から外を見ると、空はどこまでも青く澄み渡り、病院の建物は太陽の光を浴びて輝いていた。夕暮れには、空は青紫色に染まり、建物のシルエットが際立った。アネモネの花は色を失わず、夜の訪れと共にさらに鮮やかになった。
この街にも、気が付かないうちに春の息吹が感じられるようになっていた。そんな景色に魅入られていると、あかねの姿が脳裏に浮かんできた。
退院まであと二日だけ
自由になれるけど
心はぽっかりと
穴が空いて
あかねの笑顔が
忘れられない
窓越しに見える庭先に
早咲きのアネモネが
淡い紅紫色に染まって
風に揺れるその姿は
あかねそのものだと思う
あの娘に渡した手紙は
読んでくれたのだろうか
返事はないけれど
僕の想いは届いていると
信じていたい
空は青く澄んで
五重塔がきらめく
日が沈むと色が変わる
その色が僕の恋心を映す
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