第17話 異世界の旅路
スピカの物語は、フランスの田舎町の童話に基づいており、少女漫画でありながらも異世界へと誘う力がある。読み進めるうちに、時間が経つのも忘れるほど、その魅力に引き込まれていく。
物語は、冥界を統べる王ハーデスが「自然に恵まれた国『メーテル』に、この世のものとは思えないほど爽やかで愛らしい名を持つ少女スピカがいる」と人づてに聞いたことから始まる。
スピカは全能の神ゼウスと心優しい女王リュンヌの間に生まれた娘で、彼らから大切に育てられ、美しく成長していた。野心にあふれたハーデスは、まだスピカに一度も会っていないのに、ライバルとなるゼウスの娘に恋心を抱いたのだ。
ハーデスの治める冥界は、スピカたちの住むメーテルの国から1200キロメートルも離れた、火の燃えるような荒れ果てた地だった。一方でメーテルは、四季を通じて香り豊かな果物が採れ、野山には小川が流れ、美しい花々が咲き誇る穏やかな国だった。
女王リュンヌは、こよなく自分の娘、スピカを愛していた。ふたりは、ゼウスに見守られながら、いつも一緒にお城の庭で花を摘んだり、歌を口ずさんだりして、幸せな日々を送っていた。
ハーデスは自分の権力でなりふり構わずスピカを妃にしたいと企んだ。しかし、スピカの母親は娘をそんな遠くの国に嫁がせるのに断固として反対した。その言葉を聞いたハーデスは怒り狂い、使者を送ってリュンヌの宮殿を襲撃し、スピカをさらってしまう。リュンヌは愛する娘を奪われたことに悲しみ、冥界に向かって声が枯れるまで叫び続けた。
「スピカを返して……。わが子を戻して!」
スピカは冥界に来てから、ハーデスの愛を受け入れることができなかった。何ひとつ食べ物を口にせず、ただ毎日、涙を浮かべ泣き暮らしていた。
彼女は夜の帳が下りるチャンスを密かに狙っていた。夜半になり、午前二時の刻を教会の鐘が告げてくる。この時刻は城の警備兵が交代するもので、一瞬、空白の間合いが生じるものだと知っていた。
「この隙をつけば、帰れるかも……」
心の中で呟いた。月夜のあかりを道しるべに、銀河の架け橋を渡って母の住む故郷にこっそりと抜け出そうとした。
しかし、その日に限って、時計の針が五分遅れていた。彼女はハーデスの使者に捕まって、城下の牢屋に幽閉されてしまう。希望の架け橋は彼の命令により、二度と使えないように、木っ端微塵に壊されていた。
スピカは母親に会えないことに絶望し、留まることなく涙を流していた。リュンヌは娘の涙を感じたのか、冥界に災いをもたらすように、主人の神となるゼウスと相談した。
彼女は冥界から四季を奪って、畑の作物をすべて枯らし、水源を汚して、山を噴火させたかった。ゼウスは妻の申し出をやんわりと断った。ハーデスの畑だけに竜巻を送り、食べ物が取れないような罰を与えて、冥界に響き渡るように叫び声をあげた。
「もし、娘を殺したら、次は絶対に許さん。全面的な戦争を仕掛けてやる」
暗く冷たい夜、地下牢の影にひとりの男が現れた。彼は他ならぬ冥界の支配者、ハーデスだった。彼の目には怒りが燃え、声には王としての威厳が宿っていた。
「愚かな娘とその親たちめが!」
彼の言葉は怒りに満ち、空虚な威嚇となって響き渡った。
ハーデスは、自らの王妃となったスピカが彼に心を寄せないことに憤り、彼女をこの世から消し去ることさえ考えていた。しかし、全てを見通すゼウスの雷鳴のような怒りが彼に届き、ハーデスはその声に耐えかねてスピカを解放する決断をした。
それでも、彼は彼女に対する恐ろしい罠を計画することを忘れてはいなかった。彼の心の中では、愛と憎しみが複雑に絡み合い、永遠の闇の中で争い続けていた。
「この果物を食べれば、お前は自由だ。母親のもとへと帰ることができる」
ハーデスは薄ら笑いを浮かべながらそう言った。彼の手には、深紅に熟したザクロが握られていた。その果物は、まるで血が滴るかのように赤く、四つに裂けていた。この甘美な申し出には裏があった。
彼の言葉は誘惑に満ちていたが、その目には冷酷な計算が隠されていたのだ。スピカはその選択が、自分の運命を永遠に変えることになると理解していた。彼女の心は、希望と恐怖で揺れ動いていた。
「本当に帰してくれるの? 自由の身にしてくれるならば食べましょう」
スピカは恐ろしい罠に気づかず、ハーデスの言葉を信じてしまった。これで、母親のもとに帰り、穏やかな日々がまた送れると信じた。彼女が果実を口にすると、真っ赤な液体が噴き出して身も心も汚した。
ハーデスはその様子を見て、不気味な笑みを浮かべた。悪魔のザクロには、一年の四分の一、春の季節が見られなくなるという恐ろしい毒が仕込まれていた。スピカは何も告げられずに縄を解かれ、追放という名のもとにリュンヌとゼウスの住むメーテルの国に戻された。
しかし、スピカの心には平和で穏やかな時は戻ってこなかった。春の季節を迎えると、突然目の前が真っ暗な闇に覆われ、彼女の目と心から希望の光が消え失せ、恋が芽生える季節まで奪われていた。
母親のリュンヌは、これでは娘が本当の恋もできなくなってしまうと不憫に思い、涙をこぼす日々が続いた。
娘の目が不治の病だと知って驚いた母親はハーデスの王を怨み、冥界の四季のルーレットを探し出した。そうして、彼が好きだった熱い国を癒す樹氷の冬を選び、二度と食べ物ができないように矢を放った。
リュンヌは娘のスピカを抱きしめながら、冬の大地が火山のマグマで覆われるのをゆっくりと見届けた。冥界の至るところに炎が立ち上ぼり、黒点が増えていくのを目にし、涙を浮かべた。
「これで、もう思い残すことはないわ」
彼女は懺悔の思いをそう口にした。
涙に暮れた重苦しい夕暮れ時、リュンヌは『死ぬんじゃない!』と絶叫する夫ゼウスの束縛から自らを解き放った。その決断は、彼女と娘の命を星々へと還すものだった。彼女たちの魂は、ブラックホールに粛として飲み込まれ、宇宙の彼方へと消えていった。
夜空に輝くスピカは、その赤い涙を星々にこぼしながら、今でも切なさを帯びた光を放ち続けている。彼女たちの物語は、北斗七星からスピカまでの「春の大曲線」の星座の輝きとともに、永遠に語り継がれるだろう。
物語を読み終えた僕は、涙を抑えることができなかった。月あかりの下で、スピカとリュンヌの顔を思い浮かべた。彼女たちの優しい笑顔、温かい抱擁、そして一緒に過ごした幸せな日々。それらの全てが、今は僕から遠く、遥か彼方の手の届かない場所にある。
運命に翻弄された彼女たちの苦しい日々。それらの全てが、僕の心を深く揺さぶった。ふたりの切なくも美しい運命は、限りなく深い傷跡を残した。
一方では、こよなく愛する妻と娘の死を見届けた父親のゼウスがどれほどの悔しさと悲しみを抱えたのか、僕には想像もつかなかった。けれど、物悲しさと失望でいっぱいになり、なぜか、あかねの運命がスピカに重なるように思えた。
「こんなに泣かせるなんてずるいよ」と、涙をこらえながら呟いた。僕は心の中で、彼女たちに祈りを捧げた。
彼女たちは今どこにいて、どんな気持ちでいるのだろう。どんな景色を見ているのだろう。僕はそっと目を閉じた。その瞬間、壮大な星空が目の前に広がった。
その中で、ふたつの星が光り輝いていた。それは、スピカとリュンヌの星だった。彼女たちは星明かりとなり、天空に輝いていた。僕に微笑みながら「ありがとう」と「さようなら」と言葉をかけてくれた。僕も優しく言葉を返した。
僕は彼女たちに「愛してる」と囁いた。そして、星が雲に隠れたとき、涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。スピカたちの切なくも美しい物語に心を打たれた僕は、右手を胸に当て、ふたりの物語を一生忘れないと誓った。
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