第16話 心を繋ぐ季節


 入院してから退屈な日々が長い間続いていたが、季節は確実に移り変わり、新たなページが開かれた。僕はその移ろいに驚く一方で癒されていた。


 窓から吹き込む春風は心地よく、温かさに包まれている。どこからともなく小鳥たちがさえずり、木々には新しい芽が鮮やかに萌え出している。この季節を待ち望んでいたかのように、花々が咲き始め、外の世界は鮮やかな色彩に染まっていることに気づいた。


 話し相手を求めて大部屋に移ることを希望したが、満室で叶えられなかった。けれど、春の訪れが僕の心に少しの希望と温もりを灯してくれた。窓にもたれて感傷にひたっていると、面会者が現れた。歩くことがまだままならない僕にとって、面会者は退屈しのぎのこよなく嬉しいものとなった。


 仕事で忙しい中、訪ねてきてくれたのは、大和田英明(おおわだひであき)と渡邊結衣(わたなべゆい)のふたりだった。彼らは、僕がアルバイトをしている写真スタジオの社長と同僚であり、日頃から大変お世話になっている。特に、大和田社長は冗談好きで、いつも周囲を楽しませてくれる陽気な人物だ。


「足の怪我だけで済んで良かったな。指が動くなら、写真ぐらい撮れるやろう。それはそれで大変だけど……。しばらくは季節外れの冬ごもりだな」


 社長はそう冗談を言いながらも、笑顔を見せた。続いて、僕と同い年の結衣が、彼にからかわれるように、可愛くふざけた。


「もう、無茶はしないでね。けれど、女子高校生の命を救ったなんて素晴らしいわ。男らしくて見直しちゃった。悠斗さんのこと、好きになっちゃうかもしれん。退院したら、お祝いしようね」


 結衣は、場の雰囲気に応じて標準語と京都弁を巧みに使い分け、古風な魅力を合わせ持つユニークな女性だ。彼女の落ち着いたオーラは、モダンと伝統が完璧に調和している。シンプルで洗練された結衣のファッションセンスは、特別な努力をしなくても京都の街中で注目を集める。

 以前、彼女とふたりで撮影機材を購入しに行った時、大勢の店員たちが彼女に注目しているのを見て驚いたことがあった。


 今日の結衣は色鮮やかなカーディガンに薄手のコートを羽織り、春らしい花柄のスカートで彼女のスタイルの良さが際立っている。結衣の存在は、時代を超えた美しさの象徴として、誰の心にも深く刻まれるだろう。アルバイト先で大和田社長の助手を務める彼女だが、その輝きはモデルとしての期待を一層高めている。


「そんな優しい言葉、初めて聞いたよ。いつもは文句ばかりだけどね」


 久しぶりに会ったので、僕の言葉は冗談混じりとなり、少し辛辣だったかもしれない。でも、今日の結衣はご機嫌で、無邪気な笑顔を見せてくれた。


 さらに、彼女は僕の顔を覗き込んで、キスではなく、額に軽くデコピンをした。その笑顔と言葉から、彼女の中にある純粋さと、僕への深い愛情を感じ取ることができた。この瞬間、僕たちの距離は一歩近づいたように感じた。


「そんなこと、あらへん。悠斗さんが、女心を理解できない男だからあかんのや」


 彼女のあざと可愛い京都弁を巧みに織りなす言葉に、僕は社長と顔を見合わせて苦笑いせざるを得なかった。


「おい、元気な顔を見られたから帰るぞ」


 社長はそう言い放つと、まだ名残惜しそうな結衣の手を引っ張りながら帰っていった。僕は話し相手がいなくなり、また何の面白みもない時間が戻ってきた。


 窓から外を眺めながら、退屈な時間が早く過ぎ去るようにと願った。目に飛び込んできたのは、残雪の風花が舞う五重塔のある寺院だった。盆地の京都は初春でもまだ寒さが残り、雪解けも遅いのだろう。


 そんな風景をぼんやりと眺めていると、先日の出来事が頭をよぎる。それは事故だったのか、それとも意志によるものだったのか。あかねの切ない姿がまた繰り返して浮かび、自問自答を繰り返した。


 あかね、君が抱える感情の深さは僕には計り知れない。それでも、君の心の暗闇を少しでも照らし、明るくできたらと願っている。きっと、僕たちふたりの出会いは偶然だったけれど、それが運命に導かれたものだと信じている。


 あの日、彼女の命を助けた瞬間、僕はただ直感に従って行動した。困っている人を助けたいという一心だけが、僕を動かしていた。その純粋な行動が、僕たちの間に特別な絆を築いたのかもしれない。


 いや、まだその気づきは完全ではないのかもしれない。僕は自分の本心を理解できず、何度も葛藤を繰り返した。あの刹那のひとときに、彼女の命を救うことになるとは、僕には想像もつかなかった。それが運命なのか、ただの偶然なのか、今もまだはっきりと答えは出ていない。


 しかし、その瞬間が僕たちの人生を変えたことだけは確かだ。凍える寒さが立ち去り、春が訪れるように、僕たちの関係も新しい季節を迎えつつある。桜の花が静かに咲き始めるように、僕たちの関係もゆっくりと、確実に進展している。


 先斗町の花街で初めて出会った時、あかねはまだ舞妓の見習いだった。まるで月下美人が咲き始めるかのような、儚くも繊細な美しさで、僕の心を一瞬で奪った。同時に、彼女の心の奥底にある深い闇を感じ取った。その闇が何なのかは分からなかったが、それが彼女を苦しめていることだけは確かだった。


 運命のいたずらにより、僕たちは同じ病院で時間を過ごすことになった。怪我によって身体と時間が束縛され、ふたりは会うことが叶わない距離にいる。


 だが、僕の心は運命に立ち向かい、あかねを一瞬たりとも忘れたことはない。静かな病室での白昼夢の中で、彼女の愛らしい笑顔を描き、その切ない声を聞く度に、僕たちの心はしっかりと結ばれていると感じる。


 どんなに運命が厳しく、僕たちを引き裂こうとも、心は常にひとつだ。彼女への愛は、この病院の窓から望む空のように、限りなく広がっている。


 あかねは僕にとって何にも代えがたい存在であり、彼女に初めて会った瞬間から恋に落ちた。彼女がいる病室を訪れ、その顔を見て励ますことができたら、それ以上の幸せはない。一秒でも早く彼女に会って、元気づける言葉を伝えたい。


 午後になり、ギプスを巻いた左足で少しずつ歩けるようになったが、そのことが心の奥深くにある切なさや熱い想像をかき立てた。


 病院の消灯時間は早い。夜型の僕には、それがまるで冷たい宣告のように感じられた。夜の九時になっても眠気は一向に訪れず、他にやることも見つからなかった。


 月明かりが青白い暗がりを照らす中、看護師に気づかれないようにそっと歩き、アニメに関する書籍を何冊か借りた。病棟のデイルームには、患者が自由に読めるように本棚が設置されている。


 僕はプロのカメラマンを目指してキャリアをスタートしたばかりだ。けれど、本は以前から落ち込んだ際の心の拠りどころだった。堅苦しい内容よりも、アニメはそんな時にぴったりの選択肢となった。過ぎし日に見た春の星座を懐かしく思い出しながら、「乙女座のスピカ物語」を手に取った。

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