第13話 再会への祈り


 意識が薄れゆく中、夢と現実の狭間であかねの姿がぼんやりと浮かんできた。彼女の微笑みが優しく、僕の心を癒してくれる。しかし、その微笑みも次第に遠のき、深い闇が僕を包み込んだ。


 目覚めたとき、窓の外には淡い朝の光が差し込んでいた。身体の痛みと共に現実に引き戻され、僕は重たい瞼をゆっくりと開けた。ベッドのそばには看護師の碧さんが立っており、優しい声で話しかけてくれた。


「おはようございます。昨夜はゆっくりとお休みになれましたか?」


 彼女の言葉に、僕は微かに頷いた。まだ頭がぼんやりとしているが、彼女の温かい笑顔に少し救われる気がした。


「あかねさんのことが気になりますよね。彼女の容態を確認していますので、分かったらお知らせしますね」


 碧さんの言葉に、僕は再び希望の光を感じた。あかねが無事であることを祈りながら、再び眠りに落ちることを願った。


 まどろみの光の中で、ただぼんやりと夢追い人として時を刻む音に身を委ねた。不安と希望の狭間で良い便りを待ち続ける。それはまるで、日々がひとつの時間旅行であるかのようだ。過去と未来の間で揺れ動く、切なくつらい心の旅だった。


 朝の光がまた病室にそっと差し込む。しかし、僕の視界に映るのは、あかねの儚げな姿ばかりだ。僕はいったい、どこをさまよっているのだろうか……。


 窓が少し開いていたのか、そよ風とともにバッハの「G線上のアリア」が流れてきた。僕の大好きな曲だ。傷ついた心に染み入るような美しいメロディだった。好きな曲を聴いていると、心なしか日差しが暖かく感じてくる。京都にも、春が近づいているのかもしれない。


「この程度の怪我で良かった。一歩間違えれば死んでいたかもしれない。この調子なら手術は必要ないだろう。自然の治癒力に任せてみよう。でも、一ヶ月ぐらいは入院しないといけないね」


 そんな医師の声で目が覚めた。なぜか彼の口調は昨日とは異なり優しいものに変わっていた。いつの間にか午前中の回診が始まっていた。いったい何時間ベッドで寝ていたのだろうか。疑問ばかりが脳裏に湧いてくる。


「先生、一ヶ月もですか?」


 今日、手術だと聞いていたが、レントゲンの結果で身体にメスを入れることは回避できそうだった。だが、一ヶ月も寝たきりの入院など、信じられない気持ちがこみ上げて喜びも半減した。


「命が助かっただけでも、神さまに感謝しないとね。動くと悪化するから、安静にしてください。ギプスをつければ二週間ぐらいで歩けるようになるから、もう少しの辛抱だよ」


 医師はそう言い残して病室を立ち去った。突然の入院で、健康の大切さを初めて痛感したが、止まったような時間は退屈で仕方がなかった。僕は身動きもできず、煙草も吸えなかった。もちろん、それがわがままだということは理解していたが…。


 差し当たり、僕は病人なのだ。考えることはただひとつ、あかねのことだった。彼女は露草のように繊細で、今にも折れてしまいそうなほど弱々しい。つぶらな瞳と通るような肌の白さ、あの類まれな面影は、決して忘れられなかった。


 ふと、彼女のことを思い浮かべるたび、あかねが元気でいることを祈らざるを得なかった。なぜ、あかねは朝焼けの美しい渡月橋から飛び降りたのだろうか。それとも滑り落ちたのか。いずれにしても、何か理由があるはずだ。その真相を解き明かしたくて仕方なかった。


「神崎はんの部屋は、ここでっしゃろか?」


 三分粥など気に入らなかったが、昼食を済ませた。部屋の外から賑やかな声が聞こえてきた。扉が開き、年配の和服姿の女性が入ってきた。艶やかな肌としなやかな立ち振る舞いが目を引いた。彼女は僕に向かって、奥ゆかしい京都弁で話しかけた。


「あかねの母親、野々村すずどす。お礼の言葉も見つからへんくらい感謝しとるさかい。ほんまにおおきに」


 彼女は両手を膝に付けて、僕の顔を見上げた。嵐山に住む親戚が病院のことを教えてくれたという。野々村さんは、昔から花街に伝わる京都弁を使ってきた。それは、あかねの舌足らずの愛しい言葉とは異なっていた。


「やめてください。娘さんのご容態はどうなんですか?」


 僕はまず気になることを尋ねた。


「はい、心配してくれておおきに。両足や胸の骨がたくさん折れてて……おつむも強く打ったらしいの。でも、先生が命は助かるって言うてくれたさかい。そないなんより、あなたを怪我させてもうてかんにんえ」


 母親は涙を溢れんばかりに溜めて、頭を下げた。担当医師に面会し、命は大丈夫だと言われたらしい。それよりも、突発性の記憶喪失になることを心配していた。


 あかねは生きてくれている。彼女は助かったのだ……。


 母親が頭を下げた後、突然、胸に熱いものがこみ上げ、涙が溢れてしまった。会話が一旦途切れたが、野々村さんは涙ながらに言葉を続けた。


「あかんのは、うちなんどす。あかねから悠斗はんのこと聞いとった。あの子が不憫で仕方あらしまへん。生きとってくれるだけで嬉しおす。改めてご挨拶するさかい、許しとぉくれやす」


 あかねは僕と会ったとき、母親の前で一度も見せたことのない嬉しそうな笑みを浮かべていたという。それは、彼女なりの精一杯の抵抗だったのだろうか。野々村さんはそう言い終えると、頭を下げて病室から去っていった。


 彼女が立ち去った後、僕はしばらく呆然としていた。野々村さんと話したことで、あかねのことをもっと知りたくなった。


 どんな家庭に育ち、どんな夢や希望を抱いていたのだろうか。お茶屋の若旦那の身請け話は聞いていたが、それが進展したのか、それとも彼女が自ら命を賭すほど追い詰められた理由に関連しているのかは分からない。


 あかねへの想いがぼんやりとしたまま、自分でも確かなものではなかった。ところが、彼女を救ったときの鼓動と温もり、笑顔を見たときの心の響き。それは同情や友情を超えた、もっと深くて強い愛だった。確信を持って言える、それは紛れもなくこの上ない愛だったに違いない。


 今すぐあかねに会いたかった。もっと話して、自分の気持ちを伝えたかった。しかし、それが叶うのだろうか。あかねは僕のことを覚えているだろうか。もし彼女が記憶を失ってしまったら、どうすればいいのだろう。


 不安が僕の心を蝕んでいた。だけど、希望は捨てなかった。あかねが生きているなら、何とかなると信じていた。身も心も元気になってくれさえすれば、彼女は必ず僕を受け入れてくれるだろう。あかねと再会する日を信じていた。でも、その日は遠い未来のように感じられた。そう考えると、切なさがひしひしと押し寄せてきた。

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