第12話 運命の交差点


 目覚めた瞬間、白い壁と天井が目に飛び込んできた。病室の無機質な静けさが、意識をゆっくりと現実に引き戻していく。頭はぼんやりと重く、心地よいとは言えない感覚に包まれていた。


「ああ……痛え! 足が動かない」


 足首に突き刺すような痛みが広がり、すべての注意がそちらに向いた。痛みに耐えかねて声を上げると、看護師が慌ただしく部屋に駆け込んできた。


「神崎さん、お目覚めですね。医師をお呼びしますので、少々お待ちください」


 彼女はそう言って部屋を出ようとしたが、僕は彼女の手を取り、ベッドから起き上がろうとした。ひどい痛みをこらえながらも、僕には確認しなければならないことがあった。


「あかねという少女も一緒に運ばれてきたはずですが?」


「まだ動ける状態ではないのです。もうひとりの女性の話ですよね。どうやら高い場所から飛び降りたらしく、全身に傷を負って搬送されてきました。これ以上詳しく話すと、医師に怒られてしまうので」


「迷惑をおかけしてすみません。あかねが飛び降りたというのは本当ですか?」


 余計なことまで尋ねてしまい、彼女のことが心配だった。


「事件については警察が調査中です。彼女は現在、集中治療室で手術を受けており、もうすぐ終わる見込みです」


 僕の問いかけに、看護師は答えてくれなかったが、心に重くのしかかった。


 そんなやり取りを交わしていると、医師が部屋に入ってきた。彼は僕たちふたりの会話を聞いていたのかもしれない。彼の表情は、僕たちを受け入れ難いものとして捉えているようだった。


 あかねが自分から命を絶とうとしたとは思えず、僕たちが同じ病院に運ばれたのは運命的なものを感じた。一刻も早く彼女に会いたかった。


「あかねさんのお知り合いですか? 連絡先を探しています」


 看護師が僕に尋ねた。彼女のことをどう伝えるべきか迷ったが、連絡先は手元になかった。ただ、あかねのことが好きだという気持ちは確かだった。そのとき、医師が僕に向かって話し始めた。


「神崎さん、あなたは足を骨折しており、レントゲンの結果次第で手術が必要です。しばらくは動けないので入院となります」


「骨折? 手術? 入院? レントゲン?」


 医師の言葉は信じられないことばかりだった。僕は驚いて、自分の足を見た。包帯でぐるぐる巻かれた足は、まるで自分のものではないように感じた。


「岩場で足を強く打ち付け、川岸で意識を失ったようです。動けるようになれば、ギプスで固定してリハビリを開始してください」


 医師の言葉が鋭く胸に突き刺さり、深い痛みを感じた。救急隊員から聞いたのだろうか、僕の覚えていないことまで詳しく教えてくれた。彼が話を終えると、忙しそうに病室を去っていった。その背中を見つめながら、僕はただ沈黙するしかなかった。


「大丈夫ですよ。きっと足は治りますから。けれど、川の中で怪我をしても、少女を守ろうとしたのは素晴らしいことです。なんて、ロマンティックな話なのでしょう。あっ、こんなことを話したらまた医師から怒られてしまいますね」


 医師の姿が見えなくなるとすぐに、看護師が穏やかな笑顔で近づき、励ましの言葉をかけてくれた。医師と看護師の間には、明確な違いが感じられた。医師の冷静で的確な言葉と、看護師の温かい励まし。その対比が、僕の心に一層強く刻まれた。


 看護師の言葉を耳にし、僕はあかねを救ったあの瞬間を鮮明に思い出した。川に飛び込み、彼女を救おうとしたこと。彼女の心臓の鼓動が感じられたこと。そして意識が遠のく中で響いていた救急車のサイレンの音。


「あかね、あかね」と僕は呟いた。


「彼女を救うために命をかけたんですね」


 看護師はさらに称賛してくれた。しかし、僕は喜べなかった。あかねの状態が心配でならなかったからだ。


「でも、彼女は……」


 僕は言葉を続けることができなかった。


「あかねさんは頭も強く打っているようですが、早く回復すると良いですね。でも、あなたが助けてくれなかったら、もっと危険な状態だったかもしれません」


 看護師の言葉に、僕は少し安堵した。彼女は僕の気持ちを察したように、そう言いながら優しく微笑んでくれた。


「ありがとう」


 僕は感謝の言葉を伝えた。


「自分のことも大切にしてくださいね。手術は明日の朝ですから、今日はゆっくりと休んでください」


「はい、そうします」


「あかねさんのこと、分かったら教えてあげるから、あまり心配しないでください」


 彼女は僕の耳元に口を寄せて、こっそりと話してくれた。担当の看護師が優しく人懐っこい女性で本当に良かったと、胸を撫で下ろした。


 これから先、完治するまでの長い入院が待っている。看護師の白衣についたネームプレートには「柴咲碧(しばさきあおい)」と書かれていた。


 彼女は僕より少し年上に見え、まさに白衣の天使のような存在だった。とても上品で爽やかな女性で、近くにいるだけで心が和む。もっと碧さんと話したかった。


 けれど、彼女は「またあとで来ますね」と笑顔で言って、病室を立ち去った。その笑顔がいつまでも心に残った。


「あかね……」


 病室にひとり残され、胸いっぱいに広がる寂しさの中、思わず彼女の名前を口にした。大部屋が満床だったため、僕は話し相手もいない個室に入院することになった。誰も聞いていないと知りながら、その声は虚しく病室に響いた。


 あかねは本当に自ら命を絶とうとしたのだろうか……。頭を強く打ったせいで、彼女は僕のことを覚えていられるのだろうか。障害が残り記憶喪失になったらどうしよう。ひとりでいると、不安と暗い妄想が頭をよぎる。


 僕は一刻も早くあかねに直接会って話し、心を落ち着かせたかった。彼女にもっと寄り添い、その温もりを感じながら共に過ごしたかった。大切なものは僕の心の奥にある。もしかしたら、僕はもうあかねを心の奥底から愛しているのかもしれない。


 救急車で運ばれてきた際に打たれた麻酔がまだ身体に残っているのだろうか……。目の前にベールがかかり、眠気に襲われる。


「ただ、助かってほしい!」と、あかねに心の中で叫びながら、生死の境をさまよう風花の蝶を抱きしめるかのように、僕は深い眠りへと落ちていった。

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