第11話 命を繋ぐ刹那


 今朝早起きしたせいで、眠気が一気に押し寄せてきた。背伸びをして深呼吸をすると、清々しい香りが鼻をくすぐる。梅の花の香りだろうか。ジャスミンのように華やかで甘い香りがほのかに漂い、心がほぐれていくのを感じる。


 足元に視線を落とし、耳を澄ますと、雪解け水のせせらぎが聞こえてくる。それは雪の下を静かに流れる伏流水が、せせらぎに溶け込む音である。


 耳に届くリズムは、まるで春が少しずつ近づいているような感覚を与え、心地よさを感じさせる。新たな季節の訪れを予感させ、心を躍らせる。この瞬間、僕は自然と一体になり、美しさと静けさに包まれている。


 その思いは、言葉では語り尽くせないほど感動的だった。僕はこの余韻を楽しもうとしばらく目を閉じた。


 しかし、星が煌めきながら遥かな世界へと消え、空の色がゆっくりと変わろうとするその瞬間、橋の方から女性の甲高い叫び声が響いた。その叫びと共に、僕の静寂な世界が一変した。


「助けてぇぇぇ……バシャン!」


 これは何の声なのか、いったい何の悲鳴なのか……? どことなく、その声には聞き覚えがあった。儚くも切ない、絶望に満ちた叫びだった。恐ろしい不安が胸を締め付け、僕は重いカメラバッグをその場に残し、一目散に渡月橋へと駆け出した。


 雪道に響く僕の足音だけが冷たい空気を切り裂き、橋の向こうには何も見えなかった。暗闇に隠れた何者かが女性を襲ったのだろうか。足を滑らせた事故なのか、それとも自殺を図った身投げなのか……。


 どんな事情があったとしても、自分の人生に区切りをつけようとしたのかと考えると、心臓が激しく高鳴った。


 橋の真下まで駆け寄り、声のする方に目を凝らした。その瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑み、恐怖に包まれた僕は、その場に釘付けになった。


 目の前に泡が立ち、さざ波の中に白い女性の揺らめく姿が浮かび上がってきた。僕は無我夢中でキラキラと輝く川面に飛び込んだ。


 水かさは少ないものの、凍るような冷たさだった。日の出とともに薄明かりが届く中、渦に漂う人影を見失わないように、力の限り追いかけた。


 幸いなことに、ようやくその細い腕をつかみ、中州に引き上げることができた。化粧気もなく、長い黒髪の痩せ細った少女だった。もし冬の嵐で水かさが増えていたとしたら、きっと流されていただろう。


 やはり暗い雪道で足を滑らせ、彼女は橋の欄干を越えて落ちたのだろうか……。少女の身体はすっかり冷え切っていた。この瞬間、僕の心は驚きと心配で溢れかえり、嵐山の美しい雪景色など目に入らなかった。僕の愛用する一眼レフカメラや専用のバッグも手元から消えていた。


「死ぬんじゃない!」


 僕は必死に呼びかけた。


「起きろ、起きるんだ、起きてくれ!」


 もう一度、続けて呼びかけた。


 少女の顔は傷だらけで血が流れていた。彼女の顔を間近で見て、僕は驚愕した。悪い予感が当たってしまった。やはり、少女は先斗町で出会ったあかねだった。助けた女性があかねだと知り、僕の心臓は一瞬止まったように感じた。


 先斗町を一緒に歩いたあのときの笑顔が、今ここにいる彼女と重なり、涙が自然とこぼれ落ちた。これは神さまが授けてくれた運命的な再会なのかもしれない。


「誰か、いないか? 助けてくれ!」


 あかねの命の灯が消えかかっている。彼女を一刻も早く病院に運ばなくてはいけない。僕の切なる叫びは誰にも届かなかった。力の限り大きな声で叫んだが、周囲には人の気配がなかった。スマホを取り出したが、水に濡れてしまったのか通話できなかった。


 あかねの唇は血の気が失せ、肌は青ざめ、瞼は閉じたままだった。彼女はまるで眠っているかのように静かだった。しかし、あかねの胸が上下に動かないことに気づいた。彼女は呼吸もしていなかった。このままでは、本当に死んでしまうだろう。


「返事をしてくれ!」


 彼女の肩を何度も揺さぶったが、反応はなかった。


「あかね、あかね……」


 僕は無力感に打ちひしがれ、頭を抱え込んだ。何があろうとも彼女を救いたい。彼女のことが愛おしい。一緒に過ごした幸せな時間が心に甦ってくる。あかねとふたりで笑い合い、涙し、手を繋いで歩いた。その平凡だがかけがえのない瞬間が忘れられない。気がつけば、僕の手のひらに涙がこぼれ落ちていた。


「死なせない。死なせるものか!」


 僕は決意した。


「俺が助ける。俺が助けてやる!」


 僕はおぼろげな過去の記憶をたどった。人工呼吸やAEDのやり方をどこかで見たり聞いたりしたことがあるはずだ。テレビや本、学校で。高校生の頃、一次救急講習を授業で受けたことを思い出した。人工呼吸の基本的な手順を習ったが、歳月が過ぎて上手にできるかどうかは自信がなかった。


 それでも手探りの中、まずあかねの頭を後ろに傾けて、あごを持ち上げた。これで気道が開くはずだ。次に、僕の耳を彼女の鼻と口に近づけて、息づかいを確かめた。けれど、何も聞こえなかった。


「息をしてない」と僕は確信した。


「早くしなきゃ」と一瞬の躊躇いもなく、僕の口をあかねに合わせた。そして、鼻をつまんで、息を吹き込んだ。一回、二回……そうしているうちに、僕は自分の唇が彼女に触れていることに気づいた。それはキスというよりも命の授受だった。


「死なないで」と僕は心の中で祈った。


「生き返ってくれ!」と何度も息を吹き込んだ。そのとき、縁結びの神が助け舟を出してくれたように奇跡が舞い降りた。あかねの胸が鼓動を刻み始めた。続いて、彼女が「ごほっ……っくっ」と苦しそうに肩を上下させながら激しく咳きこんだ。


「あっ」と僕は驚いて口を離した。


「大丈夫か? あかね」僕は彼女の顔を覗き込み、心配そうに尋ねた。


 あかねがこの世にある唯ひとつの光を見つけたかのように、目を何度もしばたかせた。繰り返し眩しそうに瞼を開けた。そして、結んだままの唇にほのかな笑みを浮かべた。


 その笑顔は、僕にとって奇跡を呼び込む風花の天使のように儚く切ない、この上なく美しいものだった。きっと、僕たちの縁結びの神さまが彼女の命を助けてくれたのだろう。そう考えると、胸が裂けるような思いが込み上げてきた。


「うち、……。悠斗はん」


 彼女は何かを言おうとしたけれど、途中で声が詰まった。そして、涙をこらえるようにして息を吸い入れた。そのとき、彼女の身体は小刻みに震えた。僕の名前を呼んで、力なく僕の胸にしがみついた。あかねは息を吹き替えしたのだ。


「助かった。もう大丈夫だ」と僕はほっと安堵した。


「救急車が来るまで待とう」と言った。


「うん」


 彼女は涙ながらに頷いた。


「うち、……。悠斗はん、おおきに」


 あかねはほとんど聞こえないような声で囁いた。そして、僕の名前を再び呼んで、ぎゅっと僕に抱きついた。僕もすぐに彼女を自分の胸で強く抱きしめた。


「喋らなくていいんだよ」


 僕はそっとあかねの唇をふさいで、そう言った。彼女の小さく華奢な身体から伝わる鼓動と温もりを確かめた。涙が止めどなく溢れ出た。彼女は生きていた。いや、黄泉の国に向かう途中で引き返し、生き返ったのだ。


「なぜ、こんなことに……」


 僕は心の中で呟いた。頭の中は混乱していた。あかねはただ、僕の胸に声も出せないほど涙を流していた。


 あかねは死ぬ覚悟だったのだろうか……。それとも、足を滑らせて落ちた事故だったのだろうか……。いや、そんなことはどうでもいい。彼女が生き返ったのだから。


 僕はあかねの目を見つめ、そのいじらしく可愛らしい潤んだ瞳に愛を伝えた。そっとゆっくりとキスをした。それは命の授受ではなく、愛の誓いだった。彼女はキスに応えて泣いた。


 あかねは僕の胸にしがみついたまま離れなかった。その刹那、彼女との別れがどれほど恐ろしくも耐え難い喪失の痛みなのかをひしひしと感じた。


「あかね……」


 彼女を抱き上げ、もう一度大声で助けを呼んだ。しかし、その後の記憶は曖昧だった。ついさっきまで、泡立つ水面に反射する陽の光が輝いていたはずなのに、それは彼女の肌に触れる温もりとともに消え去った。


 遠くから聞こえる救急車のサイレンがかすかに響いていたが、僕はそれに反応することができなかった。あかねの生きている証である鼓動とともに、僕の意識も次第に薄れていった。

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