第10話 黎明の銀世界

 

 太陽が地平線下6度に迫ると、乳白色の靄は名残惜しげに消え去り、東の空が優雅な朝焼けの色に染まり始めた。


 赤から黄色へと変わるにつれて、嵐山のシルエットがくっきりと浮かび上がり、渡月橋の足元を流れる桂川には柔らかな光が映り込んだ。それは、まるで「黎明の銀世界」が目を覚ますかのように美しく輝いていた。


 僕は、水鏡を思わせる刹那の輝きを、大自然の神々に取り憑かれたかのようにカメラに収めた。シャッター音が連続して響き渡り、その一瞬一瞬を大切に切り取っていった。


 ゆっくりと移ろう景色は、僕の夢に焦がれた世界であり、人生を変えるかもしれない希望そのものだった。愛用のカメラを胸に抱きしめ、この上ない感動と満たされた気持ちで涙がこぼれた。


 詩織さんは僕の真剣な気持ちに応えるように、穏やかな微笑みを浮かべてくれた。僕が撮った写真をひとつひとつ丁寧にモニターで確認しながら、「これが一番素敵だね!」と優しく言ってくれた。その励ましの言葉は、僕の心に深く響き、柔らかく包み込むような温かさがあった。


「どれも甲乙つけがたい、とても感動的な写真ばかりだね。コンテストに応募するんでしょう? これならきっと賞を取れるよ!」


 僕は首を横に振りながらも、彼女が続けた言葉に感謝の気持ちで胸が熱くなった。詩織さんが誘ってくれなければ、この中州に来ることも、写真を撮ることもできなかっただろう。彼女との出会いは、黎明の陽射しを浴びる銀世界の写真を撮れた運命のひとかけらだったのかもしれない。


 詩織さんはそっと僕の手を握り、その目は輝いていた。女性が主導して手を繋ぐのは初めての経験で、詩織さんの笑顔に心が揺さぶられた。


 これまで僕が好きになったのは、同年齢か後輩の女性ばかりだったが、詩織さんは違った。彼女は僕の顔をじっと覗き込み、黙っていられない様子で言った。


「冗談じゃないよ。写真を見る目には自信があるんだから……。それに、人を見分ける目も持っているの。あなたの繊細な心が、写真にそのまま映し出されているわ」


 僕は思いがけない言葉を聞いて、黙っていられなくなり、彼女に感謝の気持ちを伝えたくなった。


「今日は本当に楽しかったよ。最高の写真が撮れたのは、すべて詩織さんのおかげです。本当にありがとう」


「こちらこそ。私もすごく嬉しかったわ。その写真、素敵だった。悠斗さんはまだ若いのにすごい写真家だよ」


 彼女は僕の名前を呼び、写真を何度も褒めてくれた。人は些細なことでも褒められると嬉しくなるものだ。僕もそのひとりだった。


「そんなことないさ。僕なんてまだまだ青二才の写真家だよ。でも、詩織さんは僕の夢を応援してくれる大切な人だよ」


 僕は素直な気持ちで言った。彼女はそんな僕に驚いたように目を見開き、照れくさそうに笑った。


「私も、あなたの夢を心から応援したいと思ってる。悠斗さんは、自分にとって特別な人だから」


 彼女はそう気づかいしてくれた。僕は渡月橋の欄干にもたれかかり、桂川の水面に映る自分の顔を見た。顔が真っ赤になっていた。


 僕の気持ちを察したのか、彼女はそっと右手を差し出してきた。それはただの握手かもしれないが、雪の華のように白くて柔らかな手触りだった。その瞬間、僕たちの距離は近づき、心はひとつになった。


 詩織さんは真剣な眼差しで僕の顔を見上げた。僕はその瞳に引き込まれた。彼女のうるんだ瞳には、何か伝えたいことがあるようだった。 


「ねえ、また会える?」


 そっと僕の耳元でささやいた。詩織さんの声は甘い風のように僕の心に触れた。思いのほか積極的な彼女の姿勢に、僕は一瞬で心を奪われた。詩織さんの存在は、青空に燦々と輝く太陽のようで、その笑顔は魅力的に輝いていた。


「うん、もちろんだよ。なら、連絡先を教えてもらえるかな?」と僕は少し緊張しながらも期待を込めて問いかけた。詩織さんは少し微笑みながら「じゃあ、これが私のSNSの番号。メッセージ、楽しみに待ってるから」と答えた。


 僕はその瞬間、心がすっと軽くなったような気がして、「ありがとう、本当に」と心から感謝の気持ちを込めて応じた。


 先斗町であかねと出会ってから、女性との運命的な出会いが重なっている気配がする。詩織さんとの出会いも、まるで縁結びの神が戯れで授けてくれたかのような、古都を彩る雪の魔法のおとぎ話だったのかもしれない。


 僕の心の中にはあかねという大切な人がいる。それなのに、もうひとりの年上の女性に惹かれているのかもしれない。これが、人生で一度だけ訪れると言われる、運命の女性が交差し離れ、また寄り添う刹那のひとときなのだろうか……。



 普段ならば思いも寄らないことをぼんやりと考えていると、詩織さんが僕の手を引き、渡月橋へと導いていった。


 空には、渡月橋から立ち昇る虹色の光が架かっていた。これは、雪華が太陽の光を反射して虹のように見える珍しい現象であり、七色の光と残雪が奏でる「雪虹のハーモニー」だと、彼女が教えてくれた。


「なんて美しいんだ……。どこまでも綺麗だよ!」


 僕は感動を抑えきれず、思わず叫んでしまった。詩織さんは微笑みながら、静かに僕の目を見つめて頷いた。その笑顔は雪虹に負けず劣らず、鮮やかで京都の女性らしい優雅な気品が漂っていた。


 彼女は、僕の繊細な心の機微を感じ取ってくれる女性だった。僕は雪虹の景色をカメラに収めることも忘れ、詩織さんの手をそっと握りしめ、もう一度心から「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。


「残念だけど、これから仕事なの。また連絡するね」


 詩織さんはそう告げると、僕の視界から立ち去っていった。彼女の声がまだ耳に残り、ひとり残された寂しさが、冷たい風が頬を撫でるたびに募っていく。


 コンクール用の写真撮影は無事に終えたけれど、帰る気にはなれなかった。カメラバッグに機材を片付けながら、中洲で気もそぞろに立ち尽くしていた。

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