第9話 朝焼けのうた
雪は、まるで黄昏時に消え去った僕たちの恋をあざ笑うかのように、夜通し降り続き、朝になっても止むことはなかった。
どれだけ布団を重ねても、寒さは心の奥底まで染み渡り、まるで凍りつくようだった。しんしんと冷え込む寝床で、あかねのことを思い浮かべると、一晩中眠れずに過ごした。
しかし、いつまでもくよくよと悩んでいる余裕はない。もうすぐ重要な写真コンテストの締め切りが迫っている。
都合のいいことに、僕は青春の真っ只中にいる。若いからこそ、失敗しても許されることもあるし、立ち直るエネルギーと時間もある。一刻も早く失意を抜け出し、立ち上がる必要があるのだ。
「夜明け前の若者たちよ、過去から未来に飛び立て!」への挑戦は、プロカメラマンを目指す夢の一歩だった。この全国規模のコンテストは、新人カメラマンである僕にとって、一流写真家への道を切り開く重要なステップとなる。
僕は、京都の四季折々の美しさを写真に収めるために、年間を通して一生懸命取り組んできた。コンテストに投稿できるのは一枚の写真だけ。しかし、撮りためた数多くの写真の中から一枚を選ぶことができなかった。なぜなら、どれも僕の熱意の結晶であり、深い思い入れがあったため、一枚に絞ることには強い抵抗があったからだ。
「やはり、心を許せる彼女がいたらよかったのに……」
ぼそっと、虚しいひとり言を呟いた。
僕のそばには、親愛なるはるかやあかねの姿がなく、専門学校やアルバイト先でも相談できる相手はいなかった。撮影作品の完成度にもどことなく満足できず、プロカメラマンとして認められたいという焦りが募るばかりだった。切なる夢を叶えたいという熱い想いが空回りし、心の中で渦を巻いていた。
眠れぬ夜明け前、アパートの窓から見下ろす庭に目をやると、月明かりに照らされた樹木や草に氷華が咲き誇っていることに気づいた。京都の冬の風物詩ともいえるこの光景に心を奪われ、思わず安堵の息をついた。
風に舞う雪やおぼろげな月、そして色とりどりの草花にも神が宿っていると、僕は聞いたことがある。もしそうなら、これらの美しさは恋や結婚を紡ぐ女神からの贈り物なのだろうか。女神は、写真家としての夢や希望を支える一方で、あかねとの再会を促してくれているのかもしれない。
少しでも気持ちを落ち着けるために、僕は窓を開け、冷たい風を呼び込んだ。そして、清々しい空気を大きく吸い込み、ゆっくりと息を吐いた。気持ちを奮い立たせながら、撮影の旅に出かける準備を始めた。
眠い目をこすりながら、予約したレンタカーに飛び乗り、京都の奥座敷である嵐山へと急いだ。なぜか、嵐山の景色にはあかねの面影が浮かんでいるような気がした。それが儚い幻影だとわかっていても、切ない思いは途切れることがなかった。
彼女の笑顔をもう一度見たい。その輝く笑顔が、僕の心を温め、未来への希望を与えてくれる。彼女との未来を描くたびに、胸が高鳴り、じっとしていられなくなる。行動せずにはいられないのが僕の性分だ。彼女との幸せな日々を夢見て、何度もその思いに駆られるのだ。
写真のデザインや撮影の構図は、すでに浮かんでいた。朝焼けの雪景色に合わせて、せせらぎの水音が届く様子が脳裏にしっかりと描かれている。初春を迎える嵐山と渡月橋が共演し、シンクロするイメージだ。タイトルは「朝焼けのうた」に決めていた。
思い描いた渡月橋は、「月が渡る夢の架け橋」。その名前のとおり、月明かりに照らされた橋は、まるで風花が舞い上がる空に浮かんでいるようだった。完璧に手ぶれを防ぐため、カメラを三脚にセットするのは当然のことだった。
車は希望を抱いてまっしぐらに嵐山へ向かっていく。周囲には、どこまでも広がる真っ白な雪原が見渡せる。ところどころに雪だるまや雪像が見える。子どもたちが作ったのだろうか。楽しそうだ……。僕も幼い頃はよく雪遊びをしたものだ。
けれど、悠長なことは言っていられない。目的地まであと何キロだろう。時計を見ると五時半。日の出はもうすぐだ。間に合うだろうか。車の中はエアコンが効いて暖かいが、きっと外は息が白くなる氷点下だ。寒暖の差で、窓ガラスには結露の雫がついている。速度を上げると、風切り音が耳に響く。
嵐山の駅近くに車を停めて外に出た途端、寒さで身体が小刻みに震えた。「おお……寒い」。吐く息まで凍てつくようだ。
それでも、寒さに負けず駅前には早朝から若いカメラマンたちが集まっていた。
彼らも同じように、コンテストでの一発逆転を狙っているのだろうか、その眼差しは真剣そのものだった。撮影スポットは限られている。特に雪が降りやんだ朝は空気が清められ、こよなく美しい景色になるものだ。彼らが朝焼けの嵐山と渡月橋を撮るつもりで川岸に足を運んでいるのが目に留まった。
こんなことで負けていられない。僕は三脚とカメラバッグを持って、ひとり渡月橋へ向かった。道すがら、見ず知らずの女性に声をかけられた。
「初めまして、生野です。カメラマンとして活動していますか? 今朝は桂川の中州へ特別に入れるんです。川岸よりも中州の方が撮影に適していると思いますよ」
彼女は嵐山の観光協会のスタッフとして働いており、出勤前の時間にここに来たのだという。初めて聞く話にビックリした。桂川に架かる渡月橋を渡った先には、小さな島のような中州があり、視界を遮るものがない絶好の撮影スポットになっていた。
「えっ、中州に。本当ですか?」
雪解け水が減ってきたので、許可されているそうだ。ひとりだと寂しいので、誘ってくれたのだという。中州なら、真正面からの撮影が可能だ。それは天から神さまが囁いてくれたような嬉しい提案だった。
「よかったら、一緒に行きませんか?」
驚いて彼女を見た。もちろん、異論などなかった。笑顔で僕に手を差し出してくれた。まだ夜明け前なのに、彼女の肌は雪のように色白で、瞳は明るくキラキラと輝いていた。僕より少し年上だろうか……。言葉づかいも丁寧で奥ゆかしい女性である。
彼女は自ら生野詩織と名乗ってくれた。彼女の案内で中州へと足を急いだ。そこから見える嵐山と渡月橋は、まるで絵画のように幻想的で美しい。山や橋や木々が、雪あかりで夜光虫のように青白く照らされており、心を奪われた。大自然の息吹が感じられ、目の前に写真家としての絶好のチャンスが訪れようとしていた。
────日の出まであと数分だった。
10.9.8.7.6.5.……。いよいよ、カウントダウンが始まった。僕は彼女と息をそひめて心を落ち着かせ、「朝焼けのうた」が響き渡る瞬間を待っていた。
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