第8話 花街の儚い恋


 あかねの切ない気持ちが懐かしい歌を通じて僕の心に響きわたり、ふとした瞬間に彼女との出会いが思い出された。神さまが授けてくれた運命の戯れのような偶然の出会いから、今に至るまでの深い絆がよみがえった。


 夜の帳が下りるにつれ、別れの刹那が近づいていることを知りながらも、ふたりで過ごした貴重な時間が心に深く刻まれていた。


 花街の先斗町で織りなされるあかねの人生は、多くの謎を秘めていた。母親のことは触れられていたが、父親の存在は謎に包まれていた。あかねには父親がいないのだろうか。母親から勧められる婚約話に対するあかねの心の内は、沈黙の中に秘められたままだ。その沈黙の中で、疑問はより深くなるばかりだった。


 心地よいひとときをふたりで過ごしたが、今では彼女との別離が心に重くのしかかる。もどかしさを抱えながら、僕は自分の連絡先を書いたメモをあかねに渡した。彼女は涙ぐんでそのメモを受け取り、声を震わせながら「おおきに」と小さく呟いた。その短い言葉が空気を変え、別れの刻限が目の前に迫ることを告げた。


 あかねは物憂げに肩を落とし、僕の手をほどき、ゆっくりと歩き始めた。彼女の一つひとつの仕草には、言葉にならない複雑な気持ちが込められているように感じられた。彼女の瞳からあふれる涙が、僕の心にも深い悲しみを刻んでいた。


「もう少し、一緒にいられるかな?」


 ふたりの別れがあまりに早すぎて心が重たくなり、どうやって「さよなら」を伝えればよいのか分からなかった。この場にふさわしい言葉が見つからず、涙をこらえながら、あかねの目を静かに見つめて問いかけた。


「もう帰らなあかんのや。女将に叱られるさかい」


 彼女は悲しげに答えた。その言葉は僕の胸を締め付けた。


「えっ、どこに?」


「風花楼の置屋に戻らなあかん」


 あかねはそう言って、一瞬足元を見つめた。冷たい木枯らしが吹きすさぶ空から降り積もる雪の中で、彼女は舞妓の装いに映える京紅色の蛇の目傘を静かに開いた。


「もうどうしようもないのか?」


 僕はあえて尋ねた。あかねとまだ離れたくなかった。


「そうなんや。今日が最後やとしても、帰らなあかんさかい」


 彼女は僕から目をそらしながら言った。


「最後って……?」


 僕は声を詰まらせたけれど、返事はなかった。彼女の目には涙が浮かんでいたが、彼女はそれを見せまいと必死にこらえていた。


「君がいなくなったら、僕はどうすればいいんだ?」


 もう一度問いかけた僕の声は震えていた。あかねは一瞬だけ僕の方を見たが、すぐにまた目をそらした。


「かんにんな、ほんまにかんにん。そやけど、これがうちの運命なんや」


 彼女の声も震えていた。僕はあかねの手を強く握ったが、彼女は静かにその手を振りほどいた。


「さいなら、もう会えへんかもしれんけど、悠斗はんのことはずっと忘れへん」


 彼女はそう言って、雪の中を歩き出した。僕はその背中を見送りながら、涙が止まらなかった。


「あかね……」


 我慢できず、彼女の名を呼ぶしかなかった。


「かんにんしてな……」


 彼女は涙を拭いながら、言葉を続けた。


「最後に悠斗はんと出会えて、ほんまに嬉しかったんや。こないな忘れられへん思い出をおおきにな」


 もう僕は別れが辛すぎて、繰り返し涙がこみ上げ視界がにじんでいた。


「あかね、待って」


 僕は彼女に駆け寄ろうとした。


「やめて……お願いや」


 あかねは涙を手で拭いながら、さらに言葉を重ねた。


「これ以上近づかんといて……。そないしたら、戻れへんなるさかい」


 その時、突然黒塗りの大きな車のクラクションがどこからともなく鳴り響き、あかねは振り向いて後ろを見た。


「あれ、お茶屋の怖い若旦那かも。悠斗はんに迷惑はかけられへん」


 彼女の言葉に、僕は啞然とした。このところ、彼女は誰かに監視されていると感じていたという。彼女の願いは、僕たちの間に流れる沈黙の理解となり、言葉を超えた絆を感じさせた。


 遠くから車が近づき、クラクションが再び鳴った。その音で、あかねの運命が危ういものであることを改めて知った。ここは紛れもなく花街、美しくも厳しい世界だったことを思い浮べた。


 あかねの背中は少しずつ遠ざかり、僕はただ見守ることしかできなかった。彼女の歩みは遅く、一瞬道すがらで立ち止まった。あかねが履くおこぼの音と身に付ける鈴の音色が途中で消えかけたが、振り返ることはなかった。僕は彼女の笑顔をもう一度見たくなり、物悲しさが心を締め付けた。


 雪が激しく降り続け、視界がぼやける中、あかねの姿が徐々に僕の視界から消えていった。彼女が差していた可愛い傘は、まるで彼女の未来を暗示するかのように、刻一刻と白く染まっていく。彼女は裏路地へと消え、僕は赤い糸で結ばれた五円玉を失わないように握りしめた。それは、深く愛するあかねとの再会を願う証だった。涙を何度も拭ったが、彼女の愛らしい頬、透明な肌、丸い瞳を忘れることはなかった。


 その夜、僕はあかねとの思い出を胸に抱きながら、儚げな気持ちでひとり寂しく先斗町の街を歩いた。揺れる灯りに照らされた花街の風景は、どこか幻想的で、現実と夢の狭間にいるような気がした。


 もしあかねとの出会いがふたりの運命の戯れであったなら、再び彼女に会える日が来るのだろうか。そんな思いが頭をよぎった。


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