第7話 希望の五円玉


 あかねも、僕との別れが辛かったのかもしれない……。彼女は懐かしいお守り袋から、赤い糸で結ばれた五円玉を取り出して、そのひとつを僕に渡した。


「これは、60年に一度しか手に入らへんのや。いつか役に立つことがあるさかいって、おかんが渡してくれたんや。こうやって、うちらの願いが氏神さまに届くねん。一生懸命に天空へ向かって投げんねん!」


 あかねが大きな声で叫んだ。その瞬間、彼女の瞳は希望に満ちて輝いていた。それは、僕たちの運命を左右するコイントスのようなものだった。


 彼女は、甲子(きのえね)の年の春に一度だけ発行される希少な五円玉を天に投げることで、僕たちの願いが神さまに届くと信じていたのだろう。あかねもきっと、僕と同じ気持ちだったのだと思うと、胸が締め付けられるような切なさで目頭が熱くなった。


「悠斗はん、先にやってみて」


 彼女の誘いに応じ、僕は五円玉を空高く力強く放り投げた。銀色に光り輝くその五円玉は、空に舞う風花と共にきらめきながら、ゆっくりと僕の手元へ戻ってきた。手を開いた瞬間、五円玉の表が上になっていたのを確認し、心に安らぎを覚えた。


「神さま、うちの願いを聞いてや」


 次はあかねの番だった。彼女は色鮮やかな和服に身を包み、空に少しでも近づこうと背伸びをしながら、白木のおこぼの鈴を優美に鳴らし、精一杯の力で五円玉を投げ上げた。


 あかねの手から放たれた五円玉は、雪で煙る空へと舞い上がり、彼女の切なる願いを乗せて天高く飛んでいった。


 その瞬間、彼女の顔には無邪気な笑顔が咲き、その純粋さは初雪に驚く幼子のようだった。その笑顔は僕の心に深く刻まれ、大切な記憶となった。


 ところが、その笑顔は一瞬で消え去った。滑りやすい石畳で足を踏み外したあかねを見て、僕はすぐに駆け寄った。冷たい風に揺れる彼女の髪を見ながら、小さな肩に手を回して助け起こした。


 あかねが無事であることを確認し、僕はほっと安堵した。しかし、彼女の瞳に浮かぶ涙を見て、胸が締め付けられるような痛みを感じた。それは、彼女を守りたいという強い願いからくるものだった。


「怪我しなかったか? 痛かっただろう?」


「ううん、平気や。あんまり痛ないで。そやけど、おこぼちゃうくて低い草履を履いてきたらよかったなぁ。着物も濡れてしもうた」


 ほどなくして、健気な返事が耳元に届いてきた。しかし、あかねの白い足袋に薄っすらと血が滲んでいた。僕はポケットからハンカチを取り出し、傷口が痛まないようにそっと拭いてあげた。


「おおきに。ほんまに優しい男やなあ……」


「大丈夫か? 歩けるのか?」


「歩けるさかい、大丈夫や」


 あかねの瞳は、これまでに見たことのないほどに可愛らしく、素肌は透き通るように白く、頬をうっすらと赤く染めていた。


「やっぱし無理なんや。これがうちの運命なのかもしれへん」


 五円玉は華奢な手を離れて、雪の吹き溜まりに隠れていた。僕はすぐに拾い上げてあかねに差し出した。あかねは濡れそぼり、薄汚れた五円玉を受け取り、運命を受け入れるように呟いた。僕たちふたりの物語は、五円玉のように小さく紆余曲折があっても、深い絆で結ばれていることを感じた。


「あかね、希望は捨てたらダメだよ」


 残念ながら、僕の励ましに答えてくれず、彼女は口を閉ざして頷いた。その表情には、深い悲しみや苦しみが滲んでいるように見えた。


「悠斗はん、うちのこと、忘れんといてな」


 彼女の悲痛な言葉に、僕は胸が張り裂けるような思いだった。どうしてもあかねを彼女の暗い運命から助けたい、彼女の爽やかな笑顔を取り戻してあげたいという気持ちが強くなった。


「忘れるなんてできないよ。あかね、君のことをずっと覚えているよ」


 僕はあかねの手を強く握りしめ、真剣な眼差しで答えた。彼女は涙を拭い、微笑んでくれた。その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。


「こんなんを告げられたの、初めてや。ほんまにおおきに、悠斗はん。うち、心から嬉しいわ」


 その瞬間、僕たちの間には確かな絆が生まれたように感じた。あかねの瞳には希望の光が宿り、僕も彼女のためにできることを探し続ける決意を新たにした。


「あかね、君がどんな運命に直面しても、僕はいつも味方だよ」


 僕の言葉に、あかねは再び微笑んだ。その笑顔は、僕にとって何よりも大切なものだった。もう僕たちは今日会ったばかりの間柄ではないような気がした。まるでずっと以前から愛し合っていたふたりのような繋がりを感じた。かつて祖母が話してくれた通り、赤い糸で結ばれていると信じた。


「おおきにな、悠斗はん。うち、運命なんか気にせずもういっぺん頑張るわ。諦めへんでやってみるさかい」


 なぜか、あかねが昔に耳にしたことのある京都の歌を口ずさんでいた。僕は懐かしいと思う一方で、どこか違う気がして、それが替え歌だと気づいた。


 彼女は、それが京都の花街で舞妓たちに伝わる歌だと教えてくれた。その歌は、恋に破れた女性や一途な愛に生きる女性の切ない想いを表しているという。僕はただ黙って、彼女の切なくも美しい歌声に耳を傾けた。



 京都 先斗町

 八坂の祇園さん

 恋に破れた女がひとり

 しょんぼり訪ねます


 京都 風祭町

 縁結びの六角さん

 恋に生きる女がひとり

 へそ石を撫でます


 京都花街の舞妓さん

 出立てのこっぽり

 鼻緒はいつも紅色

 鈴の音が入ってます


 はんなり歩くたびに

 風花の舞う石畳に

 足音を打ち鳴らします

 長い振り袖の褄を取って

 持ち上げて歩きます

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