第6話 禁断の恋の証

 

 あかねの瞳には、薄汚れた雪の欠片のような翳りが見えていた。しかし、その涙は透き通るように輝いていた。彼女の語る言葉は重苦しいベールに包まれていたが、心の奥底から湧き上がる悲しみとともに、その切なく辛いトラウマの内容がゆっくりと明かされていった。 


 言葉の端々から、あかねの人生が葛藤と苦悩に満ちていることが感じられた。彼女の運命は、花街の不吉な悪しき慣習である「身請け」によって、お茶屋の若旦那として知られる裕福な男性の手に委ねられていた。


 先斗町で栄華を極めるお茶屋の二代目となる若旦那は、あかねが18歳になったら金に物を言わせ、彼女を自分のものにすると豪語しているらしい。彼は彼女の母親が勝手に決めたいいなずけの男だ。


 けれど、あかねにとってその男は全く面識がなく、縁もゆかりもない存在だった。しかも、彼は既婚者で、二股をかけているかもしれないというのだ。


 断じて許されないことだが、一見華やかに見える花街の裏側には、舞妓さんを束縛する暗黙のルールがあった。そこでは、金の力で舞妓の自由を奪い、彼女たちの運命を支配しようとする男たちがいた。


 表向きでは男たちは舞妓の支援者として振る舞い、裏では自分の欲望のままに花街の女性を操ろうとしていた。


 さらに、信じられないことだが、置屋の女将を通じて、裕福な男たちは気に入った舞妓の恋愛や結婚を許さず、身請けという儀式を強制した。身請けとは、舞妓が大人になった時に、茶屋の若旦那に初めての夜を捧げることだった。


 これは紛れもなく花街の許されざる悪しき習慣である。女性たちは、時には好きでもない既婚者の男に愛人として一生付き添わなければならないこともあった。その嘆かわしい話を聞いて、僕は悲しい運命に縛られた女性たちに深く同情し、胸が締め付けられる思いがした。


 現代ではそのような薄汚く恐ろしい習慣は廃止され、過去の遺物だと信じていた。舞妓や芸妓も、自由に恋愛や結婚ができるようになったと聞いて、ほっと安堵していた。しかし、真意は定かではないが、あかねの周囲にはまだその悪しき習慣が残っていたらしい。


「悠斗はん、お願いや。この話は聞かへんかったことにしとくれやす。これ、花街全体の問題やなしに、うちだけのことやさかい」


 あかねは涙ながらにそう呟き、僕の手を強く握った。彼女の話には、深い闇に覆われた秘密があるようだった。本当に、母親はあかねを見ず知らずの男に身請けさせようとしているのだろうか……。


 僕はあかねを見て見ぬふりはできず、ひとりにしておけなかった。許されるなら、すぐにでもあかねを抱き締めたかった。だが、まだ会ったばかりの関係で、それが叶えられない罪深い行為だと知り、素直な気持ちだけを伝えた。


「もちろん、約束するよ」


「悠斗はん……。おおきにな」


 彼女の言葉に、また涙がこみ上げてきた。僕は何もしてあげられない無力さを痛感しながらも、あかねに寄り添い、その小さな手を離さず感謝の言葉を伝えた。


「話してくれて、ありがとう」


 その言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「悠斗はんは、優しいおにいみたいなんや。ひとつだけお願いがあんねん」


 あかねは僕のことをお兄さんみたいだと呼んでくれた。彼女はひとりっ子で、これまで心を許せる相手もなく、ずっと寂しかったという。そして、カメラを指さした。


「もういっぺん、写真を撮ってくれへんか」


 あかねの頼みに応えて、僕はすぐに頷き、カメラを構えた。


「もちろんだよ」


 シャッターを切った瞬間、カシャッという音が響き渡り、一筋の光が彼女の姿を照らした。出会ってから間もないあかねなのに、不思議な気持ちが込み上げてきた。その瞬間の静寂と緊張感を共有しながら、僕たちは頷き合った。


 もしかすると、僕らみたいな若者たちの恋心には、それとなく縁結びの神さまが見守る魔物が棲みついているのだろうか。一旦燃え上がった恋の炎は、魔物の力を借りてさらに勢いを増し、留まることを知らなかった。


 だが、それだけでは物足りなかった。もっとあかねと一緒にいたかった。もっと彼女の声を聞きたかった。三脚を取り出して自動シャッターをセットし、あかねの手を引いてふたりでカメラの前に立った。


「もっと近づいて、笑って」


 僕たちは写真映りなど気にせず、お互いにカメラのレンズから目をそらして、優しく見つめ合った。でも、ふたりで並んで撮った写真は、僕にとって何ものにも代えがたい宝物になった。


 写真を撮り終えると、目を閉じてしばらくその場に立ち止まり、彼女と肩を寄せ合いながら今日の出来事を振り返った。撮影した写真の枚数が増えるたびに、これまでの人生で最も多くの出来事に出会った刹那のひとときだと感じ、シャッターを押せなくなるほど感涙にむせぶことが何度もあった。


 あかねとの出会いは、先斗町の花街で、彼女の瞳に映った重苦しい運命を見た一瞬から始まった。その出会いは偶然のようでいて、運命的なものでもあった。僕たちの行く手には茨の道が続き、困難が待ち受けているように感じられた。


 しかし、昔から「困難な恋ほど情熱的になる」と言われている。僕にとって、彼女との出会いは運命の神さまにいざなわれたかのような、かけがえのないものだった。


 たとえ世間が「禁断の恋」と噂する、学生と舞妓の許されざる関係であっても、希望を捨てなければ、あかねとの再会は叶うと信じていた。ふたりの絆は、さらに強まると確信していた。世間の人々が「純愛なんて、今どきあり得ない」と軽蔑するかもしれないけれど……。


 そんな思いを胸に、僕たちは京都の由緒ある古き良き街角を歩いた。神々が息づく静謐な空気が、1200年の時の流れを感じさせた。そこは、若き日の無知な僕たちが、運命の糸に導かれる聖地だった。痛みさえも愛おしく思えるほどに、青春の日々の中で信じる道を歩むことの尊さを知った。


 もうあかねを恋する感情が押さえきれず、解き放たれた。彼女の肩に手を添え、その温もりを感じながら、ふたりは時を忘れて抱きしめ合った。その瞬間、あかねの髪飾りの桜がかすかに震えた。それは、刹那の美しさを象徴するかのようだった。あかねの瞳は僕を見つめ、その微笑みは儚く切なかった。



 先ほどのシャッター音が蘇ったのか、神々の目覚めを告げるかのように、再び風花が薄明かりに照らされながら舞い上がった。白銀の世界は、ふわりと舞う粉雪で覆われ、僕たちの頭や肩に静かに積もっていった。


 ところが、僕たちはその冷たさを払いのけることなく、むしろその柔らかな触れ合いに心を寄せ、さらに温もりを待ちわびた。


 不思議なことに、僕たちを取り巻く空気は冷たくなく、縁結びの神に祝福されたかのような暖かさに満ちていた。神はふたりの純粋な愛を静かに見守り、時には道標となり、僕たちが白銀に染まる世界を歩む際の案内人となってくれた。


 この切なくも美しい情景は、神秘的な力によってさらに彩られ、ふたりの絆を永遠のものへと導いてくれるような気がした。


 僕たちは離れることが惜しくなり、再び抱擁しあった。あかねの柔らかな頬に触れた瞬間、冬の冷たい息吹がほんのりとした紅色に変わるのを感じた。その温もりを分かち合うように、僕は彼女の凍えた指を優しく包み込んだ。


 そして、僕の指先が彼女の唇に触れると、桜の花びらが水面に触れるような繊細な震えを感じた。その一瞬、僕たちの心は寂しさを超えて、深い絆で結ばれていることを確かめ合った。僕たちは、言葉を交わさずとも、その瞳で全てを語り合っていた。

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