第5話 紡がれる世界


「この姿は、不細工じゃないよ。とても可愛いらしいよ」


「そないなことあらへん。うちなんて、ひとりではまだ髪もまともにくくれへんのやさかい。いつまで経っても、ほんまにひよっこの見習いや」


「そんなことないさ。けど、見習いの舞妓さんって、どんな活動をしているの?」


 僕はつい調子に乗って、余計なことまで聞いてしまった。あかねという舞妓さんに夢中になり、どうしても聞かずにはいられなかった。いや、違うだろう……。舞妓としてではなく、ひとりの女性としてあかねを好きになったのだ。


「そら……ちょっと話長くなるけど、かまへんか?」


 あかねは僕の問いかけに少し眉間に皺を寄せ、困ったような顔をしながらも、舌足らずの口調で優しく教えてくれた。その口調は、若い舞妓らしい「花街ことば」であり、なんとも愛おしかった。


 あかねは「小鈴」という芸名を授かった見習いの立場で、先斗町の伝統のある置屋「柳都楼」に通い、年少の舞妓のお世話をしながら、日本舞踊や三味線などの芸能を習っているという。


 この花街では、舞妓たちが白塗りの顔に色とりどりの花を咲かせるように着物の色柄や髪飾りを選び、華やかで可愛らしい姿で人々の目を楽しませるように日々努めているという。


 二十歳になると、姉さんの立場の芸妓に昇格するそうだ。あかねはいつまでも舞妓でいたいという。舞妓や芸妓は京都の伝統文化に欠かせない存在であることを改めて知った。


 あかねの話に耳を傾けるほど、舞妓たちは古き良き日本の伝統と美しさを今に伝える、生きた雅のマドンナに思えていた。僕は感心しながらあかねに声をかけた。


「それは大変だね。でも、すごく夢や希望があって素敵だよ。あかねさんは、どうして舞妓さんになろうと思ったの?」


 僕は軽い気持ちで尋ねた。それは、彼女のプライベートの奥底に踏み込む余計な口出しだったのかもしれない。あかねは僕の問いかけに答えてくれなかった。彼女の顔色が一瞬で変わるのが手に取るようにわかった。


 いつの間にか、目に涙さえ浮かべていた。女性の涙に弱い僕は一瞬どうしたらいいのかと心が動揺し、黙ったままでそっと彼女の様子を窺っていた。


 あかねには不思議な魅力があった。虚ろな瞳、透き通る肌、華奢な姿は白くて美しい花を一夜だけ咲かせる月下美人のようだった。見れば見るほど心が揺さぶられた。あかねの存在に心を奪われたが、彼女は手の届かない世界の人だった。


 彼女との間には高い壁があると感じたが、一緒にいられる刹那はかけがえのないものだった。僕はプロカメラマンを目指す学生で、収入はバイト代のみ。高い壁をどう乗り越えるのか考えると、涙すら浮かんでいた。


 あかねのことがもっと知りたくて、言葉を交わすたびに心が弾んだ。彼女の純粋な美しさに心から感動し、淡い恋心を抱いた。


 留まることなく、切ない思いに駆られていると、かつて祖母から耳にした言葉を思い出した。彼女の声が、僕の心に響いてきた。


「男女の恋はほんまに不思議な巡り合わせやなぁ。そやけど、その恋が本物やったら、ふたりはいつまでも純愛の赤い糸で結ばれてるんやで」


 あの時は純愛などあり得ないことだと一瞬疑ったが、今思えば、祖母が教えてくれたとおり、僕とあかねの糸は今後も紡がれていくものなのだろうか。本当に、この世の中に赤い糸など存在するのだろうか……。ふと、そんな切ない期待で心の中がざわめいた。


 僕たちのやり取りは幸運にも途切れることなく続いていた。先ほどは、畏れ多くも神さまに愚痴をこぼしてしまった。


 しかし、かつて信じていたとおり、先斗町のお社には縁結びの神さまが宿っていたのかもしれない。ふたりのことを末永く見守ってくれているのだろうか……。


 あかねが迷いを振り払ったかのように、ようやく口を開いた。けれど、その言葉からは次第に不穏な空気が漂ってきた。


「悠斗はん……。うち、弱い人間なんや」


 あかねは、僕の手を握りしめて、小さく頷いた。


「何か悩んでるんだろう。なんでも話してくれたら、聞いてあげるよ」


「迷惑かけるだけやろう。けど、ほんまに言うてええの?」


「うん……。気持ちを吐き出したら、楽になるよ」


 あかねは、時おり虚ろな目を向けてきた。やはり何かに苦しんでいるのかもしれない。僕には、人の心を救うことなんてできないけれど、できるだけ彼女のそばにいてあげたかった。少しでも、彼女の話に耳を傾けていたかった。


 僕は自分に甘えて、嫌なことからすぐに逃げ出したくなる。僕も弱い人間だからあかねの気持ちが理解できるはず。彼女が弱い人なら、なおさらひとりでは答えなんて見つけられないだろう。彼女はまだ少し迷ったようだったが、言葉にしてくれた。


「うち、もうすぐ舞妓さんやめなあかんのやす。それがうちの運命なんよ」


 僕はその言葉に心をかき乱された。なぜやめると言うのだろうか。せっかく、可愛らしい舞妓になれたというのに。彼女はどんな苦しみを抱えて、舞妓の道を歩んできたのだろうか。もっと、少しでも多く彼女の話を聞きたくなっていた。


「もうええの。どうせ成人になったら、運命の日がやってくるんや」


 それはあかねのぽつりと口にする呟きだった。その声には、投げやりな冷たい気持ちが滲んでいた。


「成人って、いつのこと? その運命の日って、何のこと?」


 僕は黙っていられず、問いただした。


「成人は18歳やろ。もうすぐ誕生日やさかい。悪いけど、運命は……誰にも言えへんことなんや。まして、悠斗はんには関係あらへんことやろ。うちとは別世界で生きてる人やさかい。これ以上言うたら、おかんに怒られてまうわ」


「そんなことないよ。なんでも話してくれていいから」


 僕はあかねの頬を伝う涙を見て、心を締め付けられた。


「おかんに決められた道や」


「母親に人生を決められるのか? そんなの納得できないよ」


「ううん、仕方ないんや。もう泣かへんわ」


「でも、まだ理解できないよ」


「見習いでも舞妓になれて夢叶うたんや。見習いは男の人を好きになったらあかんと言われてきた。そやけど、最後に悠斗はんと出会えて奇跡やったさかい。うち、そないな出会いを前から待っとったんや」


 あかねの切なくも儚い叫びに、僕は言葉を失った。彼女はどんな運命に縛られているのだろうか。そして、本当は僕に何を伝えたいのだろうか……。


「悠斗はん、花街の身請けの定めなんて聞いたことあらへんやろう」


 彼女は目を背け、足元に視線を落とした。頬を伝う涙が流れ、口を滑らせた。あかねの言葉は悲しみと切なさで震えていた。その重苦しい気持ちに触れ、僕も涙が込み上げた。今日、彼女と出会ったばかりなのに、この涙は何だろうか……。

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