第14話 新たな旅立ち


 翌朝、窓から柔らかな陽光が差し込む病室に、柴咲さんが息を切らせて新聞を手に駆け込んできた。彼女の表情はいつもの穏やかさを失い、まるで衝撃的なニュースを伝えようとするかのように緊迫していた。


「神崎さん、おはようございます。これをご覧になってください!」


 彼女が渡した新聞は、京都の朝刊で、そこには僕が救助した女子学生の話が詳細に記されていた。特に「嵐山での女子高生救出」という大きな見出しは、一瞬で視線を釘付けにした。僕はその記事に目を通しながら、驚きとともに深い羞恥心を感じた。僕は決して名誉を求めて行動したわけではなかったのだ。


 ところが、新聞記事に書かれているとおり、若い女性が夜明け前の寝静まる頃に、寒々しい雪景色をひとりで見に行くことなどあり得ないはず。今でも不思議でたまらない。すぐにでも、嘘偽りのない本当のことが知りたかった。

 

 残念ながら、希望は叶わず、僕の心にはもやがかかり、まるで深い霧の中に迷い込んだように感じた。けれど、柴咲さんは僕の気持ちを察したのか、明るく励ましてくれた。


「神崎さん、これは悪いことではないです。気にせず前向きに捉えてみて。そうすれば、きっと良いことがありますから」


 彼女は日ごろから辛いことがあった際に、そのような姿勢で考えているらしい。


「うん、そうだね……。碧さんがそう言ってくれるなら、信じてみるよ」


 名前で呼んだことで、柴咲さんとの距離が近づいた気がした。彼女はその些細なたわむれを喜んでくれた。


「私の名前まで覚えてくれているんですね」


 柴咲さんの言うとおりだった。


 僕たちは患者と看護師の関係で知り合ったばかりなのに、僕はもう彼女の名前を覚えていた。彼女は恥ずかしそうに、胸のネームプレートを手で隠した。


 そして、僕と視線を交わしながらほほ笑んでくれた。年上とはいえ、柴咲さんは医師がいないところでは、本当にお茶目で可愛らしい女性だった。


 もちろん、僕は自分が柴咲碧さんから恋愛対象の異性として見られているとは期待していなかった。彼女にとって、僕は突然舞い込んできた弟のような存在なのだろうか……。


 それでも、僕はよかったのだ。入院している間、彼女と少しでも多く楽しいひとときを過ごしたかった。


「病院であなたのような素敵な女性に出会えるなんて、まさに奇跡ですよ。これからもずっとよろしくお願いします」


 僕にしては珍しく気の利いた言葉が口から飛び出した。入院してまだ二日目だったけれど、病室での生活にはすでに飽き飽きしていた。少しでも彼女と長く話せる時間を作りたかったのだ。


「まあまあ、真面目そうな学生さんだと思っていたのに……。こんなお姉さんをからかってどうするの。でも、私には自慢の娘がいます。旦那はいないけど」


 柴咲さんはそう言いながら、僕の額に「このいたずら坊主さん」と言って優しく触れてきた。それは、ひとまわり年上の女性とのたわむれだった。


「えっ、本当に?」


 碧さんは自分のプライベートな話まで打ち明けてくれた。その言葉一つひとつがふたりの距離を縮めていくようだった。


 しかし、僕には彼女がシングルマザーで苦労しているなど、とても信じられなかった。毎回会う度に、彼女は明るく爽やかに振舞ってくれていたからだ。


 柴咲さんとの会話を通じて、僕は自分自身を見つめ直す機会を得ることができた。彼女の存在が、僕の心に新たな希望と活力をもたらしてくれた。そして一方で、彼女が抱える困難や挑戦に対する強さと勇気にも深く感銘を受けた。


 そんな想いに浸っていると、彼女が忘れていたかのように、口を開いてきた。


「ああ、大切なことを言い忘れてたわ。あのお嬢さん、今朝早く意識を取り戻したんですよ。良かったですね」


 彼女は「ごめんなさい」と言いたそうに、両手を合わせて目を潤ませてきた。その仕草がまたいじらしくて素敵だった。


「本当に?  あかねが……」


「冗談なんて言うはず、ないでしょう。神崎さんの大切な人のことを」


 彼女は僕の気持ちを察していた。


「よかったあ。ありがとう」


 僕は嬉しくて思わず声を上げてしまった。その瞬間、僕の心は満たされていく感覚に包まれた。それは、まるで乾いた大地に恵みの雨が降り注ぐような、生命力に満ち溢れた感覚だった。


 柴咲さんの優しい言葉が、僕の心にじんわりと染み込み、不安や疑問が次第に溶けていくのが分かった。「あかねが、再び意識を取り戻した!」という知らせは、僕にとってこの上ない喜びだった。それは彼女を救ったことへの最大の報いであり、彼女の人生が再び花開く瞬間を迎える予感に満ちていた。


 新しい旅立ちが始まり、柴咲さんやあかねと一緒に歩んでいくことで、僕の人生はより豊かで充実したものになる予感がする。それは新しい希望、新しい挑戦、そして新しい絆を築くことの喜びを教えてくれる。


 この刹那の間から、僕は自分自身と向き合い、自分の人生をより良く生きることを決意した。それは柴咲さんやあかねへの感謝の気持ちから生まれた決意であり、これからの人生で直面するであろう困難や挑戦に立ち向かう力を与えてくれる。


 そして今、僕は新しい一日を迎えようとしている。それは未知なる冒険への第一歩であり、新しい希望への扉でもある。この過ごす時間は僕にとって何よりも貴重な宝物で、それはこれからも大切にしていきたい。


 ゆっくりとベッドから起き上がり、窓の外を眺めると、雪解けの緑が芽吹く春の光景が広がっていた。空には綿菓子のような白い雲がふわふわと浮かび、太陽の温かな光が僕の顔を柔らかく照らした。


 深々と息を吸い込み、心から願った。あかねが健康を取り戻し、僕に会いに来てくれること。柴咲さんが笑顔で迎えてくれること。そして、僕が彼女たちに幸せをもたらせるように。

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