第3話 先斗町の黄昏
黄昏時になると、橙色に輝く雲が街並みを包み始めた。
昼間よりも黄昏時の方が、京都にはよく似合う。それでも寂しさを感じた僕は、ファンタジーの世界に癒しを求めて、レトロな喫茶店に入り、『舟屋の雪女』という漫画に夢中になった。
物語の舞台となる「伊根の舟屋」は、静寂な海に浮かぶように立ち並ぶ古民家が郷愁を誘う京都の奥座敷だ。
僕も撮影のために何度か訪れ、その限りなく清々しい海と海面に影を落とす山並みは忘れられない。伊根の舟屋には、ずっと昔から「浦嶋太郎伝説」が語り継がれ、その地には神秘的な雰囲気が漂っている。
漫画の佳境に差し掛かると、芳醇なブラックコーヒーの香りを楽しみながら、タバコを一服したくなった。
窓の外には、古風な町家風の格子窓から漏れる薄明かりが石畳に映えていた。京都ならではの奥ゆかしい風情が漂い、しばしその景色に目を奪われた。
そろそろ喫茶店を後にし、本日最後の撮影準備をしなければならないのに、摩訶不思議な漫画の世界に引き込まれていた。
しかし、読みかけの京都の海を舞台とする漫画を一番盛り上がるところで途中下車するのは心残りがあった。この物語は、そのイラストを眺めているだけで、美しくも恐ろしい魅力に引き込まれる。
こんな臆病な僕でも、いつの間にか怖いもの知らずとなり、冬蛍の光が海面全体を青白く染める伊根の海で繰り広げられるホラー話に興味を惹かれていた。
物語の冒頭には、伊根の山奥に潜む雪女が登場する。美しい女性が舟屋に現れ、村人とのいさかいが描かれる。雪女は美しさと巧みな言葉で男を惑わし、冷たい息で凍らせたり精気を吸い取る恐ろしい妖怪だ。祭りの舞台で囚われの身となり、篝火で焼かれようとするが、海人の男が命を助け、恋に落ちる。
けれど、雪女との恋には彼の命を奪う運命が秘められていた。ふたりの世界は異なるにも関わらず、彼らは切ない恋物語に心を奪われた。僕は、運命によって引き裂かれたふたりの恋に、自分自身の過去を重ねて見ていたのかもしれない。
季節外れの冬蛍が夜空に儚く漂う幻想的な海が目の前に広がる。雪女が木枯らし吹きすさぶ満月の下、愛する男に涙を浮かべながら雪山へと消えていく姿が脳裏に焼きつき、忘れようとしても忘れられない。
ホラー要素もイラストと会話で細かく描かれており、恐怖と美しさが交錯する独特の雰囲気が魅力的である。久しぶりに漫画の世界に心を動かされ、涙まで誘われた。
✽
喫茶店を出て、
そこは今日の最後の撮影スポットだった。季節外れの朧月夜に粉雪が舞い降りる不思議な光景に出会い、心が弾んだ。千鳥の紋章が描かれた提灯がともる路地には、舞妓さんたちの稽古場や
とはいうものの、一見さんお断りの店が多く、暖簾をくぐっても通りすがりの若造の僕などは相手にされず、すぐに追い出されてしまうだろう。茶屋の店先からは女性の甘い声や和楽器の音色が聞こえてくる。
目の前で見聞きするものは、僕にとってまさに未知の花街らしいはんなりとした幽玄の世界だった。京都らしさを感じられる魅力に満ちあふれており、すぐにシャッターを押したくなるほど、夢のような被写体が数多く残っていた。
先斗町は、ただ艶やかなだけの花街ではなく、古き良き時代の名残が深い懐かしさや哀愁を呼び起こす。しだれ柳の葉が朽ち果て、灰褐色になった枝に雪が降り積もる美しい景色を写真に残したくなった。これを今日の最後の一枚と思い、千鳥の紋章が描かれた提灯の薄明かりを頼りにカメラに収めた。
ところが、カメラに映ったのは通りすがりの舞妓さんだった。僕は初々しい舞妓さんに心惹かれていたのかもしれない。彼女は僕にとって魅力的な被写体であり、それ以上の存在だった。心の奥底では、このチャンスを逃したくなかったのだろう。
写真に収まった女性は、まだ寒空だというのに、春らしい華やかな花柄の着物を着ており、だらりとした長い帯が可愛らしい。ひと目で京の舞妓さんとわかる雰囲気を醸し出していた。
舞妓さんの化粧は白塗りが基本だと聞いていたが、彼女は薄いメイクで、りんごのように赤い頬が初々しかった。口紅も下唇だけに塗っており、髪型は赤い鹿の子が見え隠れする割れしのぶで、さくらの花かんざしを挿していた。
足元には白木の履物(おこぼ)が着物の裾から覗いていた。鈴の音を響かせ、涼しげな眼差しで、よそ行きのつんと取り澄ました表情で雪の石堀小路を歩く姿は若々しい。長い帯が風になびき、その可憐な姿が目に飛び込んできた。その姿は僕の心に深く刻まれた。
深い考えもなくシャッターを切ってしまったが、それは許されない行為だった。だが、珠玉の宝物のように感じて、一度でも残した画像は消すことができなかった。
京都に来てから道すがら、偶然にいくども舞妓さんたちと出会ったが、口を利いたことはなかった。僕の切なる願いに気づいてくれないだろうか。少しでも微笑んでくれないだろうか。言葉をかけて謝りたかったが、恥ずかしくて勇気が出なかった。ただ、ひたすらその後ろ姿を見つめていた。
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