第2話
秋に近づく、少し涼しげな風が吹く夕べだった。
シャチは、誰かが自分を尾けていることに気付いた。誰が何故自分を見ているのかわからないという恐怖にたじろいだ。がしかし、誰が尾けているのかわかって、うんざりとはしながらも、少しだけ安堵した。
自分を尾けているのはフカだ。フカは、少なくとも自分をそう簡単に殺すつもりはないと、シャチは知っていた。
「フカ」
シャチは後ろを振り向き、闇が淀んだ方へ呼びかける。
「言っているだろ。あんたと組むつもりはないんだ。」
呼びかけた方向から、くつくつと低い笑い声が聞こえる。
「そんなにつれないことを言うなよ、シャチ。」
暗闇から現れた男は顔に傷があった。それを見て、この乱暴者は体中に傷痕があるのだろうとシャチは思った。
「ガキ共とつるむより、俺といる方がよほどいい思いができるだろうに。イルカのチームのどこがそんなにいいんだ?」
海に浮かんでいる故に、大陸から、水さえも買わなければならないここ「陸」は、お世辞にも住みよい場所とは言えない。フカはそんな「陸」の仕切り屋だった。
シャチやイルカのいる軍艦とその周辺の民間船の、大陸の人間のための売春宿や麻薬カルテル、殺し屋、そのほかうさんくさい職業、大陸の人間の欲望を満たすためのいかがわしい職業のある程度を、その膂力と頭脳、何よりも死を乗り越えるような生命力で仕切っている。実質か、「陸」の王者だった。
陸はいくつかに区切られていて、区域一つ一つにフカのような王がいる。大陸から陸へ麻薬を流す本物のマフィアに比べたら野良犬のようなものかもしれないが、フカはこの「陸」の中で、確固とした力を持っていた。
シャチには、そんなフカが、自分になぜ執着しているのか理解できなかった。
「あんたは顔が広いけど、その分敵も多いから一緒にいたくないだけだ。」
素っ気なく、シャチは答える。
「俺はお前を気に入ってるんだぜ。一緒に来い。俺はお前を養子にしてやりたいと思っているんだ。」
シャチが顔をしかめるのも気にせず、フカは顔をずいとシャチに寄せる。これは、フカの口癖のような言葉だった。フカは、気に入った若いのがいればいつでも養子にしてやりたいと言う。それは、本心から発されたものではないのだと、イルカから聞いてシャチは知っていた。
シャチは、その股間狙って素早く蹴りを繰り出した。
「がっ‼︎…ってめえ、また半殺しにしてやろうか…!?」
フカがうずくまる。シャチはナイフを取り出して、寸分違えずにフカの頸動脈に突きつけた。
「俺は、以前の俺とは違う…何人も、殺したんだ。今更、お前一人殺しの人数に足したところで、なんとも思わない。」
動きを取ろうとするフカの首に、シャチは少しだけナイフをめり込ませる。
「正確な位置だろう。俺がその気になれば、すぐ殺せる。人を助けるために学んだ解剖学を、まさか人殺しに使うとはな。…そもそも、護衛一人付けずに俺の前に現れるのが間違いだ。」
フカは自分の窮地を知っていて、それでも敢えてからからと笑った。幾度も命のやり取りをしてきた彼にとっては、シャチのように死を望む者だけを屠ってきた人間の殺意など、蠅が止まったように軽いものが纏い付いて来たに過ぎない。そうでなくてもフカは怯みさえしなければ死線は乗り越えることができるという哲学を持っていた。
「そうだ、そういうところだ。俺も最近は誰かに俺が築いた国を渡すことなんか考えててなァ、お前なら、その器だ。お前は俺と同じだ。他人の命を、なんとも思ってない。そういうやつにこそ、俺の後を継ぐ資格がある。」
「なっ、…何を…」
シャチは動揺した。自分は他人の命に対して敬意を持っている、と反論したかった。しかし、今の自分はどうだろう。イルカに医学を棄てると言いながら、医学の知識で人を安楽死させる生業をしている自分は。本当に、他人の命をなんとも思わない人間になってしまったのではないか。
シャチは、どうしても助からない苦しみの中にある人間を苦しみなく殺してしまうようになっていた。それは、頼まれて報酬と引き換えのこともあれば、ただで施してやることもあった。
医学の知識はあっても薬品も用具もないこの陸では、シャチは医学で他者を救うことは諦めざるを得なかった。しかし、彼はそう簡単に他者を救うことを諦めきれずに、自殺することは罪ならば、ならば罪は自分だけ被ればいいと、他者を「救って」いた。
「…俺の前から去ってくれ。そうしてくれないなら殺す。」
シャチはフカに冷たく言い放った。
殺せば、フカの仲間から恨みを買うだろう。脅しに乗ってくれるとも思えないが、そう言うしかなかった。
「お前は賢い。お前みたいなガキが、一体なんでイルカなんかと一緒にいるのかねぇ。」と、フカは臆する様子もなく、ゆるゆるとかぶりを振りながらそう言った。やはり俺がフカを殺すなんてできないのだと、フカは知っている。シャチは溜息をついた。
「この辺りを仕切ってるお前に半殺しにされた俺を、誰も助けなかった。お前の報復が怖かったからだ。イルカだけが俺を助けたから、恩は返す。それに、俺から見たらお前もイルカも似たようなものだ。」
「ひょっとしてイルカを殺したら、お前、俺のものになるか?」
そう言ったフカの言葉に、シャチはたじろいだ
「いい加減にしろ!」
そう言いながらも、最後の一押しができない。ナイフを少し、引くだけでフカは殺せる。だが、確かな一線があって、シャチはそこを超える勇気は出ない。
フカがにやりと笑った。
「これは話し合いじゃない。脅しだ。わかるよな?」
シャチは瞳を揺らしながらも、必死で弱みを握らせまいと言い返す。
「イルカのことで俺が動じると思うか?イルカのことなんかなんとも思っていない。それに、俺を引き留めておきたいのなら俺の仲間に手を出すのは得策じゃない。そんなことをするなら、俺は陸を去る。」
「大陸へ帰るよすががあるのか?」
フカが初めて懸念の様子を見せた。はったりでしかなかったが、シャチは深く頷く。
「そうだ。俺には、大陸への帰り道がある。お前の後釜か鉄砲玉か知らないが、そうなるくらいなら、俺は陸を去る。」
フカは少し考え込んだ後、こう言った。
「わかった。無理にこっちへ来いとは言わない。だけれどな、シャチ。ここで暮らしている以上、お前らは俺の手の内にいるのと同じだ。イルカは見逃してやる。お前は俺と来なくてもいい。そのかわり、一つ条件がある。」
シャチに条件を飲ませ、手をひらひらと振って、フカはシャチから離れて行った。
緊張感が一気に解けたシャチは、船のぼろぼろの壁に背中をつけ、そのままずるずるとしゃがみこんだ。フカの言ったことが、頭を谺して、頭の中がズキズキと痛んだ。
「無理だ」
口に出して言う。そうすると、少しだけ、気が楽になった。しかし、陸の王座に座るフカのいうことは聞かなければならない。以前は半殺しで済んだが、今度は仲間も痛めつけられるだろう。イルカの他に、フナムシやアザラシといった、仲間の顔が、脳裏に浮かんだ。
やるしかない。ため息を吐き、シャチは今日のところは仲間のいる場所に帰ろうと、足を踏み出した。
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