刺青

裏 鬼十郎

第1話

暑い暑い、うだるような午後のことだった。

イルカは、船の上でシャチを待っていた。

もう、シャチが言ってしまってから、日が随分傾いた。

いったいどこで何をしているのだろう、とイルカは焦る。

ひょっとしたら、シャチはどこかで怪我したか、死んだのかもしれない、と思うと、胃の辺りがねじれた感じがする。


イルカは、海を眺めた。ゆらゆらと揺れる水面は美しい。だが、この海の下には、とんでもない怪物がいる。馬鹿でかい鮫や、イカなどの生き物。出会ってしまえば、人間などはひとたまりもないから、イルカはシャチが心配だった。


シャチがこの集落、と言っても、旧世代の軍艦などの船をつなぎ合わせただけの「陸」へ流れて来て、もうだいぶ時間は過ぎていた。「陸」は、元々温暖化で国地を失った者が流れ着いた場所だったが、最近になって罪人の追放場所として使われ出した。罪人の行きつく場所だから、柄が悪い。罪人の子として生まれてきたイルカは、そのガラの悪さに慣れていた。ふざけあいで人を殺してしまうようなこの「陸」の粗っぽさを、愛してさえいた。

でもたぶん、シャチは違う。イルカは思った。勝手にシャチと呼んでいるが、シャチは多分ちゃんとした人間が暮らし、森や田んぼがある「大陸」から来た人間で、ちゃんとした名前があるに違いなかった。


シャチは、どこからかふらっと流れてきた。いつ死んでも構わないのだという目をしている、暗い少年だった。いルカよりは年上なはずだが、ひょろっといていて、喧嘩をできない質(たち)だったから、イルカは放っておけなかった。


親のいない独りぼっちの子供は、徒党を組んでおかないと、この「陸」の世界では悪いおとなの餌食にされてしまう。だが、シャチは一人きりでもよく戦った。喧嘩が強くないが、知恵を使って大人を丸め込んだり、煙に巻くのが上手かった。だから、ここいらで一番たちの悪いフカという大人に目を付けられるまでは、一人でも生きていた。しかし半月前、フカとひと悶着あって結局半殺しにされ、そこをイルカが担ぎ上げて、自分の縄張りへ連れてきたのだった。


今日シャチは、よその子供たちを見舞いに行っていた。おんぼろの船の上には、どこにでも親に棄てられた孤児がいた。シャチは、医学の心得があり、よくそういった子供を診ていた。

まだ病み上がりの体で、とぼとぼと「患者」の元へ向かうシャチを見て、ほっとけばいいのに、と、イルカは苛つく。

イルカがシャチを助けたのは、医学ができるシャチは、自分のチームに必要となると踏んだからだった。シャチの人だすけは、それとは違う。年端もいかず、「陸」の大人たちの目をかいくぐって市場で盗みをするのもできないようなちび達さえ、シャチは面倒を見る。


何の役にも立ってくれない者に、見返りもなく手当てを施すシャチの気持ちは、イルカには、理解できなかった。素直にそう言うと、シャチはイルカを悲しげな眼で見ていた。お前を憐れむ、と、そう言われた。それも、イルカには理解できない言葉だった。


シャチは、俺の知らないことをたくさん知っている。

きっと、俺が大人になるために必要なことを。それを教えてもらうまで、シャチを逃がすわけにも、死なせるわけにもいかない。イルカがそう考えたところで、ひょっくりとシャチが帰ってきた。


「どこへ行ってたんだ」イルカが訊く。彼は、年上のシャチにも横柄な口を利く。何故なら、シャチが食べる分のものを盗んでくるのは自分だから。シャチは盗みなどしたくない、と言って、イルカが与える食べ物を受け取るだけだから。


「まただ。」というシャチは、イルカの質問には答えていなかった。

「また、子供が死んだ。どうしたら助けられるのか、知ってるんだ。知ってるけれど、ここには薬品も、器具も足りなすぎる。」

珍しく饒舌なシャチの言葉をしかし、イルカは理解していなかった。また意味のない診察ごっこをしていたのだということだけが、少しわかっただけだ。


「イルカ、俺は、医学を棄てる。ここも、戦場と同じだ。俺の妹の命を奪った戦場と同じ。俺は、ここへきてもまだ、自分が他人にしてやれることを考えていた。けれど、そんなものは、ないんだ。俺は、医学を棄てる。そして、明日から盗みに参加するよ。もう、自分だけのことを考えて生きるほか、ないんだ。」


シャチが言った言葉は、他にもあった。神が遣わされた使命だの、アガペーだの、神に見捨てられたというような。しかし、イルカに分かったのは、もうシャチがあの悲しい、けれど、酷く惹きつけられるうようなあの目をしないのだ、ということだけだった。

それが、なにとはなく残念だった。


そうして二人は、シャチの体に墨を入れた。それは、イルカの率いるチームが体に入れる、仲間の証だった。

仲間の証だというのに、イルカはそれを入れるのがひどく嫌な感じがした。シャチの中の、喧嘩が下手な部分に、イルカは惹かれるものを感じていた。イルカの言葉で言うなら、シャチは弱いけれど、強い。シャチはその部分を止めてしまうのだと、イルカは思った。


海の様子は急変し、雨が降り始めていた。イルカのいる船は大丈夫だ、けれど、嵐が来れば、小さな船はまた沈むだろう。シャチはそうなると、じっとうつむいてしまうのが常だった。

でも、これからは俺たちのように、他の人のことなど考えないように、シャチも変わっていまうのではないかとイルカは思った。それを残念に思う気持ちがあることが、イルカには可笑しかった。無力な他人を思いやる無力な、しかし靭(つよ)いシャチに、自分とは違う何かを見出していたのかと、イルカは自問する。あや、自問しようとして、戸惑う。イルカには、自分を客観的に見ることのできる人生など、なかった。だから、変にむず痒い気分だと、そう考えるだけだ。


入れ墨は、波の模様を描く。シャチは唇を噛んで、痛みに耐えた。病み上がりの細い体は、シャチの骨張った体格をいよいよ痛々しく見せる。フカになぶられてシャチの顔の半分は焼け爛れている。怪我をしていない方の右腕に、イルカは丹念に、墨と唾を均等に塗り込め、針で入れ墨を彫った。


今日の分の入れ墨を彫り終わると、イルカはシャチをじっと見つめた。

「本当によかったのか。」イルカはシャチに問う。何かが間違っていると、本能的に感じていた。何がなのかはわからない。わからないけれど、何か。何かが間違っている気がした。

「どうして。」

とシャチは問う。

「あんなに嫌がっていたのに。」とイルカは答えた。


シャチは、イルカのグループの世話になりながら、イルカのグループと同化することを拒んでいた。盗みは人間のすることではないと言って盗みはせず、乱闘にも加わらず、ただ必要最低限の治療と食料だけを受け取る代わりに、イルカたちに読み書きや計算を教え、必要な治療をしていた。イルカも、シャチのすかした態度に少しは苛立ちながらも、それでもこの距離感でもいいと思ってきたのに、イルカからしてみれば、シャチは急にあちらから歩み寄ってきたのだ。


「もういいんだ。」とシャチは言う。

「医者になりたかった。でも、戦が起きて、家族はみんな死んだ。父の教えで、少しでも誰かの役に立つならと思ってここまで来たけど、限界だ。俺には、誰も救えないとわかった。」

だから、ギャングになって、全て忘れて生きていきたいのだと、シャチは言う。躊躇いなく盗み、奪い、生きていくための覚悟として入れ墨をするのだと。


「俺は、お前たちを憐んでた。」とシャチは言う。

「だが、憐れむべきは俺の方かもしれない。この世で通じない道理を、信じていたのだから。」

イルカは、そんな話を聞きながら、シャチに入れ墨を施すしかなかった。入れ墨を丹念に器用に彫りつけながら、イルカは、シャチに会ってから自分は随分苛立ってばかりいると思った。例の如く、何に苛立っているのかはわからない。だが、シャチは自分とは全く違う生き方を持っていて、それが羨ましいような苛立たしいような気がした。


自分には、捨てることができる生き方も、失うことができる「家族」も、「教え」も存在しない。だから、それを捨てるだのなんだのと言っているシャチが坊ちゃんに見えた。そうして、そんな素晴らしいものを持っているのにシャチがそれを捨ててしまうことを残念だと思った。

だが、シャチのそういったことに踏み入れないことも感じていた。だから、黙ってしかめ面して入れ墨を彫っていた。


「今日はここまでだ。」

ひとしきり彫り終わるとイルカは言った。

「水に入るなよ、バイ菌がそこから入って、病気になるから。」忠告してやると、シャチは力なく笑った。

「入らない。入るわけがない。」

「この前、船から落ちたフナムシを助けてた。」


そう、少し前に、シャチは海に飛び込んで、仲間のフナムシを助けていたのだ。イルカはその時驚いた自分を思い出した。あんなに潔癖に盗みや暴力を忌み嫌ったシャチが、潔く飛び込んだのは、何が潜んでいるかわからない海の上だ。あんな力が出るのかというほどの力で、その日シャチはフナムシを引いて陸に上がってきた。


「わかったよ、」シャチは答えた。

「気を付ける。」

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