20.謝らないで
ジャンが短剣でスイッチを押したその瞬間。
「きゃぁああ!!」
「アリシア!!!!」
差し出されたジャンの手を、アリシアはパシンと取った。
柔らかかった床が形状を変え、真ん中に立っていたアリシアが飲み込まれ始めたのだ。さながら、流砂がそこにあるかのように。
ジャンは手を引っ張ってくれるが、抜け出せそうにない。それどころか、このままではジャンまでも巻き込んでしまう。
「逃げなさい、ジャン!!」
「あなたを置いて行けるわけないだろ!!」
「手を離して!!」
「絶対に離さない!!」
アリシアは恐ろしい速さで床に飲み込まれていく。罠だと悟った瞬間には、すでに体は動けなくなっていたのだ。
「お願い、逃げ……」
アリシアの言葉はそこで途絶えてしまった。すべてを床に飲み込まれ、暗闇がアリシアを襲う。しかし手のぬくもりだけは、いつまでも消えることはなかった。
うねうねとアリシアを包み込んだ床は、先ほどまでの感触と同じにも関わらず、気持ちの悪いものだ。そして押し出されるようにその床は終わりを告げ、二度と触れることは叶わないと思っていた空気の中へと排出される。
「きゃっ」
「っく」
ドスンと尻餅をついたアリシアは、なにが起こったかわからずに辺りを見回した。隣には手を繋いだままのジャン。しかし彼もまた事態が飲み込めずに、キョロキョロと顔を動かしていた。
「……助かったのね」
「そう断定するのは早計だけどね……」
二人は手を繋いだまま立ち上がる。落ちてきたはずなのに、上を見てもなぜかただの天井だった。
「どういうこと?」
「さあ……とにかく部屋を見て回ろう。変な物に触れないように気をつけて」
「わかったわ」
アリシアはジャンの手を強く握る。戦場では怖いなどと思うことはなかったが、わけもわからぬ力でおかしな場所に落とされては、恐怖を感じざるを得なかった。
落ちた場所は先ほどのベッドルームと同じで薄暗い。どうやら通路に放り出されたようだ。
「……帰れるかしら」
「絶対に俺が帰すよ。心配しなくていい」
「……ジャン」
ジャンの力強い言葉に少し安堵し、逞しい彼の横顔にホッと息を吐く。
狭い通路を抜けると、小さな部屋にたどり着いた。その部屋には流線を描いた高さ一メートルほどの石像の上に、正八面体の宝石のようなものが取り付けられている。ジャンはそれに向かって進み、アリシアも引っ張られるようにそれに続く。
「これはなに……また罠?」
「いや、これは多分、メモリークリスタルだ。初めて見た」
「これがクリスタル? 通常の
通常、宝石店で売られているクリスタルは、大きくとも手の平サイズだ。このクリスタルは人の顔よりもさらに大きい。
「普通のクリスタルとは違って、これは記憶媒体なんだよ。これは古代人の遺産って言われてる」
「きれいね……古代人は、宝石を作り出す技術があったってこと?」
「コムリコッツの謎は深いよ。現代技術なんか遠く及ばない秘術で溢れてる」
「大昔に、すごい人たちがいたものね!」
「それよりも、メモリークリスタルの記録を見てみよう」
「どうやって見るの?」
「クリスタルに手を当ててスライドすれば……スワイプって言うらしいけど、そうすれば新しい記録から順に見られるって言ってたな」
そう言ってジャンはクリスタルに手を置き、横に撫でるようにスワイプさせた。
するとそこに映っていたのは……
「ロクロウだわ!!」
「シィッ、何か言ってる」
クリスタルの中を、アリシアとジャンは覗き込んだ。そこにはギラギラとした目のロクロウが映っていて、アリシアは久々に見るその姿に涙を浮かべる。
ロクロウはクリスタルに触れたようで、その手が大きく映し出されると右から左に移動させた。
『記録なしか。ここを踏破したのは俺が初めてということだな。攻略が楽な遺跡のように作られているから、熟練ハンターも見落としたんだろうが』
今度は雷神の独り言が、クリスタルから発せられる。アリシアはジャンの手を離し、クリスタルにかじりついた。
「ロクロウ! ロクロウの声よ! 今しっかり聞こえたわ!!」
「……そうだね」
『ここが最深部だな。広い……これは帰り道を探すのは骨が折れるぞ。今日中に帰れるかわからんな……アリシアが心配してないといいが……』
思いがけず、雷神から自分の名が聞けたアリシアは、ポロリと涙が溢れた。
久しぶりに見る、一緒に過ごした人の姿。懐かしい人の懐かしい声。愛する人が発した自分の名。胸がいっぱいになったアリシアは、いつの間にか「ロクロウ」と連呼していた。
クリスタルはその後、遠ざかる雷神を映し終わると消えてしまい、アリシアはもう一度見るためにメモリークリスタルを撫でる。
「……筆頭、俺ちょっと周りを見てくるから。ここから動かないで」
「わかったわ」
アリシアはジャンの言葉を聞き流し、また先ほどと同じ雷神の姿を見る。
『今日中に帰れるかわからんな……アリシアが心配してなきゃいいが……』
「ロクロウ……ロクロウ……」
アリシアはその部分を何度も何度も再生させる。雷神の、自分を思ってくれている気持ちが伝わり、胸が痛くなると同時に熱い涙がいくつも溢れ落ちた。
何度目かの再生の後で、ジャンが戻ってくる。「アリシア筆頭」と名を呼ばれ顔を上げると、そこには難しい顔をしたジャンが立っていた。
アリシアは涙を拭き上げながらメモリークリスタルから手を離す。
「どうしたの、ジャン」
「まずい。この先の部屋、出口がない」
促されて通路を先に進むと、部屋と呼ぶにはあまりに広い場所に出た。壁に囲まれた空間であることは間違いはないようである。
「出口がないと……帰れないわね」
「どこかにはあるんだとは思う。事実ロクロウは出てるわけだし。ただ、出口に繋がる仕掛けが見当たらない」
「私も行くわ。一緒に探しましょう」
アリシアはジャンとともに部屋を一周してみる。一辺が百メートルはありそうな部屋だ。そのうちのひとつの壁の真ん中辺りには、不自然に置かれた宝箱がひとつ。そしてコムリコッツ文字が刻まれた大きな石碑が三つ。
壁の塗料は塗っているところと塗られていないところがくっきりとわかれて、縦の縞模様状になっている。
「ジャン、宝箱があるわね」
「そんなキラキラした目をしても、開けないよ」
「わ、わかってるわよ! 退路の確保をしないと、開けるのは危険なんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、出口を見つけたら開けてみましょうね!」
「……わかってない……」
ジャンはあきれつつも壁や床を丹念に探している。アリシアもそれに習って目を皿のようにして壁を見たが、それらしいものは見当たらなかった。光苔の塗料が塗ってあるところと塗られていない所が十センチ間隔であるので、目がチカチカしてよく見えない。
「ここに来る時と同じようなスイッチだったら、まずいな……塗料が塗られていないところに作られてたら、ちょっと注意して見るくらいじゃわからない」
「嫌なこと言わないで。大丈夫よ、きっと」
そう言いながらもアリシアは不安に支配されていく。ここはアリシアたちには専門外の、コムリコッツの遺跡だ。先ほど見つけたスイッチは、奇跡に近い確率だとはアリシアもわかっている。しかしもう一度その奇跡を起こすべく、アリシアは必死に壁を探し続けた。
そうすること、三時間。
「ない、な……」
「ないわね……」
男女の呟きが、落胆を含んで呟かれる。
「この石碑に書いてあるコムリコッツ文字を解読すれば、ここから出られるのかしら」
「多分、わかったところで脱出方法なんて書いてないよ。ここに書いてあるのは、恐らくコムリコッツ族の秘術……それを外部の者に盗まれないように、こんなわかりにくい場所に置いてるんだ。そしてこの部屋に辿り着いた者が、秘術を持ち出せないような作りにしてる。スイッチもなにも見つからないのがいい例だ。あったとしてもトラップである可能性が高い」
そこまで聞くと、さすがにアリシアも顔を顰めた。今置かれている状況は、とんでもなく厳しい。秘術を持ち出す気などないから開けてくれと訴えたところで、出口が顔を出してくれることはないだろう。
「よほどの秘術だったんだな……俺が他に攻略したところでは、こんな造りの部屋はなかった。ごめん、筆頭。必ず帰すなんて言っておきながら……」
「謝らないで。元はと言えば、私がスイッチを見つけたせいなのよ? 大丈夫、絶対に出口を探してみせるわ。ジャン、疲れたでしょう。眠ってていいわよ」
「一人で探させられないよ。俺も探す」
そう言ってさらに一時間探し続けた、その時だった。今度はジャンが床に小さなスイッチを見つける。
「やったわね、ジャン!! さすがだわ!!」
「罠かもしれないけどね……」
「押さなきゃ罠かどうかなんてわからないわよ。押しましょう」
「……まぁそうなんだけど」
なんの戸惑いもなくババンと決めるアリシアに、ジャンは眉を顰めている。退路を確保せぬままスイッチを押すのが、どうしても納得できないようだ。しかし退路のために探しているスイッチなのだから、押さざるを得ない。
「仕方ない……押すよ」
「ええ!」
こんな時にワクワクとしているアリシアを見て、ジャンはあきれた顔をしながらも短剣を抜き取っている。そしてその見落としそうなほどの小さなスイッチを、切っ先で押した。
ブウゥゥン……
妙な音が聞こえたかと思うと、部屋の真ん中に赤い魔法陣が現れる。そしてその上には……
「ジャン!! 魔物よ! 構えなさい!!」
「ロイヤルサラマンダーか!」
人の三倍もの大きさがある、火を纏ったトカゲのような魔物、サラマンダー。それも、上位のサラマンダーだ。
赤い魔法陣が消えると同時に、そのサラマンダーはアリシアに牙を剥いた。
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