07.確実に心は傷付いてると思うの

「ただいまぁ………まだ起きてるのかしら?」


 この日も遅くなったアリシアは、すでに鍵の掛けられた玄関を開け、そっと家に帰ってきた。

 時刻はもう夜の十一時を回っていた。この何日かは仕事が忙しく、なかなか早く帰ってこられないでいる。遅くなった日は、すでにアンナは寝ているのが常だ。

 なので、この日もアンナは眠っていると思っていたアリシアは、かすかに照らされる灯りを見て、首を傾げた。


「……お母さん、お帰りなさい」


 アンナはこの時、なぜか起きていた。自室の扉を開けて、母であるアリシアを迎えてくれる。


「遅くなってごめんね。どうしたの? 眠れない?」

「ごめんなさい」

「どうして謝るの? 眠れない時だって、たまにはあるわよ! 今日は一緒に寝ましょう。少し待ってて、着替えてくるから」


 アンナのつらそうな表情に、アリシアは胸を痛めた。決して寂しいなどと口には出す子ではなかったが、その表情を見ればわかる。特にこの二週間は、シウリスも公務でいなかったから寂しさも倍増したことだろう。

 アリシアは申し訳なく思いつつ束ねた髪を解き、寝巻きに着替えようとしたその時だった。


「筆頭……アリシア筆頭……!」


 控えめに玄関の扉をノックする者がいたのだ。しかしよく聞くその声は、いつもと違い焦燥が含まれている。アリシアはその声の主を確認する前に、彼の名を呼びながら扉を開けた。


「どうしたの、ジャン。なにかあった?」


 ジャンは扉が開いた瞬間、素早く中へと入って後ろ手でパタンと閉める。


「筆頭、まずいことになってる」

「ジャン、あなたにはフィデル国の動向を探りに行かせたはずだけど?」

「情報を掴むのが少し遅かった。俺が着いた時には、すでに事は終わっていた」

「なにがあったのか、簡潔に述べなさい」


 アリシアの言葉に、ジャンは悔しそうに顔を歪める。彼のこんな顔を、アリシアはかつて見たことがない。なにを言われるのかと覚悟した。


「王妃一行が襲撃されて、王女が殺された」

「……なっ」

「どうしたの、お母さん」


 後ろを振り向くと、まだあどけない娘が首を傾げている。説明できるような事柄ではないし、こちらは緊急事態だ。


「ごめんなさい、アンナ。今日も一人で眠ってもらえるかしら」

「……うん、わかった」


 素直に頷きを見せる愛娘を見て、待ったをかける人物がいた。


「いや、筆頭。ちょっとアンナには起きてもらっていた方がいい」

「どうして?」

「保護した王妃と王子を、町の外れまで連れてきているんだ。途中でマックスと合流して、今はあいつに護衛してもらってる」

「どうするつもり?」

「一時的にここで匿った方がいい。まだこの情報は、どこにも漏れていないはずだ。もしかしたら……下手人は、この国ストレイアの者かもしれない。敵がいるかもしれない王宮に今連れていくのはまずい」


 下手人はストレイア人……なぜジャンがそう思うのかわからなかったが、グズグズしてマーディア王妃とシウリス王子の保護を遅らせるわけにはいかない。


「わかったわ」


 アリシアはジャンの言い分を瞬時に受け止め、そしてすぐさま指示を飛ばす。


「すぐに王妃様とシウリス様をうちに連れてくるよう、マックスに伝えなさい。それとこの家の護衛にフラッシュを呼ぶこと。ルーシエには今の状況を説明し、口の固い厳選された手練れを選んで、すぐ王妃様を襲った奴らの追尾調査を開始させなさい。レイナルド様には私からお話するわ。明日朝一で謁見出来るよう、手配をお願い」


 ジャンはコクリと頷くと、すぐさま扉を開けてその闇に溶けて消えていった。


(王女様が……殺された……)


 アリシアはギリ、と奥歯を噛みしめる。情報を掴むのが遅かった、とジャンは言っていた。つまりこれは、フィデル国が仕掛けたものだったのだろうか。

 しかし彼は内部の犯行も視野に入れていたようだ。どういうことか、今の段階ではまだわかりかねる。


「お母さん……なにがあったの?」


 ずっと怖い顔を続けるアリシアに、アンナは眉を顰めている。安心させるために笑顔を向けたかったが、間もなく王妃とシウリスがこの家に来るのだ。アンナにも事情を知っておいてもらう必要がある。


「アンナ、よく聞いて。今からうちに、マーディア様とシウリス様がいらっしゃる。そして……おそらく、お二人は傷ついているわ」

「傷って……怪我をしたの?」

「私にもそれはまだわからない。でも、確実に心は傷ついていると思うの」

「お母さん、私はどうしたらいい!?」


 マーディアとシウリスが傷ついたことを知り、アンナは自身も傷つきながら、しかし頼もしい言葉を発してくれた。


「少しの間、ここで匿うことになると思うけど、それを決して口外しないこと。いつも通り学校に行って帰ってくること。それ以外の時は、マーディア様とシウリス様のお側にいて、望むことをしてあげて」

「わかったわ」


 まずは確保が先と、ジャンに詳しい様子は聞かなかったし、襲われた時にどういう状況かも聞かなかった。後で詳しく聞くつもりではいるが、二人の対応には慎重を期すに越したことはない。


 少しすると、こつんと窓が鳴らされた。アリシアはそっとその窓を数センチ開ける。


「筆頭、俺です。カーテンはそのままで」

「マックス、首尾は?」

「上々です。ただ玄関からは目立ち過ぎます。裏を開けてください」

「わかったわ。すぐに裏に回って」


 アリシアはすぐに裏戸を開ける。するとその扉がカチャリと向こう側から開かれた。入ってきたのは、一人の少年。


「シウリス様……こちらに。アンナ、シウリス様をお願い!」


 すぐ後ろについてきていたアンナにシウリスを任せ、アリシアはその後ろに呆然と立っているマーディア王妃を部屋に促す。


「筆頭、俺はどうします」

「とりあえず中に入って。詳しい話が知りたいわ」

「わかりました」


 中に入るとシウリスはすでにソファーに座っていて、アリシアはマーディアもその隣に座らせる。二人の体をざっと見回すと、所々に擦り傷や抵抗した跡は見られるものの、大きな外傷はなかった。これなら医者の手配をする必要もなさそうだ。

 アンナは心配そうにシウリスの手を握っている。するとシウリスの手は震え始め、アンナの温かさに触れたためかボロボロと涙が溢れていた。


「うう……ひ、ひっく。……アンナ……」

「シウリス様……」


 アンナがシウリスにそうしているように、アリシアもマーディアの手を握って目の前で膝を折る。許可なく王族に触れるなど不敬だが、今は人の温もりを感じさせてあげることの方が優先だ。


「マーディア様。もう大丈夫です。ここは私の家ですが、おわかりになりますか?」

「……………」


 マーディアは無言だった。視線はどこかに投げられたまま、やはり呆然としている。

そんなマーディアを痛む心で見ていると、マックスに後ろから声をかけられる。


「アリシア筆頭。フラッシュが来たようです」

「すぐ入るよう言って」

「はっ」


 アリシアはマーディアの冷たい手を握って、絶望という二文字が頭に飛び込んできてしまった。

 いつも優しく朗らかに微笑んでいたマーディアが、今はまるで空っぽだ。よほど怖い目に遭ってしまったのか、心が見えない。その出来事を自らシャットアウトし、すべてを拒絶してしまっている。


「マーディア様……」


 アリシアはかける言葉が見当たらず、ただ手を優しくさすった。しかしやはり、マーディアはピクリとも動きはしなかった。ただ息をしているだけである。


「え、王妃様……シウリス様!? 一体なにがあったんすか?」

「フラッシュ、声のトーンを落とせ」


 フラッシュがマックスに諌められながら入ってきた。フラッシュはアリシアの家に王族がいるのを見て首を傾げている。


「ジャンから聞いてない?」

「いえ……剣を持ってすぐに筆頭の家に行けってだけで。あ、お前は目立つから裏から入れとも言われましたけど」

「そう。悪いけど、後で説明するわ。あなたはここで、マーディア様とシウリス様の護衛をお願い。アンナ、シウリス様をお願いね。母さんは少し、マックスとお話があるから」


 そう告げると、フラッシュとアンナは頷いてくれた。アンナはシウリスを抱きしめたまま。フラッシュはいつでも剣を抜けるよう、立ち位置を変えて窓の外を警戒している。


「マックス、ちょっと」

「はい」


 アリシアはマックスを別室へと連れ出し、パタンと扉を閉める。灯りは最小限に留め、アリシアは聞いた。


「事件の内容を、できるだけ詳しく教えて」

「はい。でも俺は事件後に合流したので、あまり詳しくは。ジャンも当事者がいる目の前では、話しにくかったようで」

「わかる部分だけでいいわ」

「はっ」


 いつも通りハキハキと返事をし、マックスは続けた。


「俺はジャンの内偵調査が終わる予定の一昨日の午後、ライザル峠でジャンと待ち合わせしていました。次の仕事は俺の手を借りたいからと……でも、その日ジャンは現れなかった」


 アリシアは首肯し、先を促す。


「ジャンが現れたのは、次の日の……つまり昨日の早朝です。夜も明けきらぬ中、血塗られた馬車でやってきました。どうしたのか聞くと、第一王女のラファエラ様が殺された……とだけ。馬車の中には王妃様とシウリス様しかおらず、御者や王家専属警備隊の姿はありませんでした」

「フィデル国の仕業?」

「いえ、俺にはなんとも」

「ラファエラ様のご遺体は?」

「わかりません」

「そう。後でジャンに聞くわ。続けてちょうだい」


 今度はマックスが首肯して、話を先に進める。


「俺は血塗られた幌を交換し、馬車に付いた血を洗い流しました。その間ジャンは自身の傷を手当てしていたので、敵と相対したのかもしれません」

「ジャンからはなにも聞いていないのね?」

「ええ、なにも。なにせ王妃様とシウリス様がああいう状態で目を離せませんでしたから。お二人の前で傷を抉ることはしたくなく、俺も聞けませんでした。すみません」

「いいのよ。いい判断だったわ。話はそれで終わり?」

「はい。そこからは急いでここを目指しました」

「わかったわ、ありがとう」


 マックスの話は当時の状況を知り得るものではなかった。ジャンが戻るのを待つしかないようである。


「筆頭、どうします」

「私の一存で決められるようなことではないわ。明日レイナルド様に……」


 と言いかけた瞬間、リビングでカチャンと物音がした。


「行くわよっ」

「っは!」


 アリシアとマックスは、その部屋を後にした。

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