03.息を吐いただけだ
暑い夏が過ぎ、秋になろうとしていた。
雷神は今もフェルナンドの家で世話になっている。もう勝手知ったる他人の家だ。最初は客間を与えられていたが、別の部屋に移動させられてしまった。客間は客が来た時に使うからと言われて。
つまりフェルナンド達にとって雷神は、すでに家族扱いなのである。
雷神は庭に出て、西を向いた。日が落ちて行く方向。そちらをじっと見つめる。
見えるわけじゃない。フィデル国が。カジナル市が。かつてこの手に抱いた女の顔が。
見えなくとも、雷神はジッと見続けた。
そろそろだろうか。もしかしたら、もう生まれているのかもしれないと思いながら。
雷神はストレイア王国に来る前、フィデル国にいた。
フィデル国に着いた時の雷神は、ボロボロだった。
大切な友人を、古代遺跡の秘術の実験のために殺してしまったのだ。
友人自身が望んだからだ、そんなつもりはなかった……というのは言い訳だろう。
その秘術を彼に施したのは、間違いなく雷神だったのだから。
友人は死に、雷神は逃げるようにその地を去った。彼の恋人、ユウカになにを言われるかわからなかったから。怖かったから。だから、逃げるようにフィデル国に入った。
そしてカジナルという街で、一人の少女に出会った。ミュートという、まだ十六歳になったばかりの少女だった。
ミュートは酒を喰らって倒れている雷神を介抱し、家に泊めてくれた。その優しさが身に染みて、泣いてしまった雷神を優しく慰めてくれた。
その優しさに甘えるように。ミュートが自分に悪い印象を持っていないのをいいことに。そしてその時、彼女の両親が留守だったのをいいことに。
雷神はミュートを抱いた。
天使のような少女の腕の中は温かく、友人を亡くしたことを、その間だけは忘れられた。
ミュートにはシロウという偽名を使っていたが、彼女は雷神に一目惚れをしていたらしい。
それを聞いた時、雷神は理解できずに驚いた。魔物と対峙することも多いので体は鍛えてはいるものの、特に男前というわけではない。
黒目黒髪、目は切れ長ではあるが一重瞼。彫りの深いこの地域の人間から見れば、のっぺりとした顔に見えるはずだ。
着ているものは動きやすい簡易の服で、グレーと黒で統一されている。身長も高くはなく特に目立つわけでも無い。
髪は長くも短くもない、ただのストレート。前髪が少し長めなので、よく根暗に見えると言われる。あながち間違ってはいないが。
そんな雷神を癒してくれた優しいミュートを、傷付けてしまった。
妊娠したと告げられて、彼女の元を去ったのだ。
一箇所に留まるわけにはいかないと。己はトレジャーハンターなのだからと。
ハーフエルフへの恩返しも、古代遺跡の秘術を解き明かすことも、まだなにも成していない。こんなところにずっといるわけにはいかないと。
ミュートがいない間に雷神はカジナルを去り、フィデル国から逃げ出した。
そしてストレイア王国に入ってから後悔したのだ。
妊娠させたことを。
逃げ出したことを。
もしかしたらミュートを愛せたかもしれないのに、その選択をしなかったことを。
きっとミュートは絶望しているだろう。
利用するだけ利用して、捨ててしまったのだ。今さら戻ったところで関係は戻るまい。
こうして雷神はさらに後悔を増やし、己の頭を壁に打ち付けた。
逃げてばかりの自分が、酷く情けなくて。
「どうしたの、ロクロウ」
雷神はハッと顔を上げ、回想を断ち切った。
いつの間にか夕日は沈み、後ろにはアリシアが立っていて、雷神は体を向けた。
「アリシア……」
「最近、いつもあっちを見てるのね」
アリシアは、すでに日の沈んでしまった方角に目をやる。雷神はなにも答えられなかった。
「今日、ジャンの様子を見てきたわよ。あの子、本当に変わったわね! 相変わらず気だるそうで人を馬鹿にした感じは変わらないけど……でも、目がギラギラとしていたわ」
最近、雷神は孤児院に行っていなかった。
ミュートのことが気になり、遺跡にも行かなくなった。遺跡に行かなくては余分な金も生まれず、孤児院に行く理由もない。雷神の孤児院に行く理由は、邪魔な金を処分するためだけの場所だからだ。アリシアのようにボランティアをしたくて行っているわけじゃない。
「ロクロウも行ってあげたらどうかしら? あの子あんなだけど、あなたに来てもらいたくて仕方ないのよ、本当は」
雷神は振り返る。そしてアリシアの顔を真っ直ぐに見つめた。いつでも動じない彼女が一瞬たじろぎ、しかしすぐにいつもの笑みを見せてくる。
「あの時……」
雷神は言った。
「俺にこう言ったな。『あなたもなにか見つけられるといい』と……」
「言ったわね」
「どういう意味だ」
「ロクロウ、わかってないの? あなた今、腐った魚のような目をしてるわよ?」
「…………」
酷い言われように雷神は絶句する。もっと他に言いようはないものか。しかし歯に衣着せぬ物言いが、この女らしい。
「なんで俺を家に上げたんだ? 腐った目をした奴なんか、放っておけばよかっただろう」
「残念ながら、ほっとけない性分なのよね! 父さんも母さんも、同じ気持ちだったって言ってたわ! だからロクロウの傷が癒えるまでうちに……って、これは内緒だったかしら」
傷、と言われて雷神は目を逸らす。心に傷を負っていたことが、見た目にわかるほどの顔をしていたのかと思うと、雷神は恥じた。
「なにがあったのか、聞かないのか」
「言ってスッキリするなら言っちゃいなさい。私が聞いてあげるわ。でもそうじゃないなら、聞かない」
「すまない、助かる」
雷神は聞かれないことに心底安堵してそう言った。まだ十九の女に、人体実験して友人を殺したなどと、そして十六の少女を孕ませて逃げたなどと、言いたくはなかった。
アリシアに──警戒されたくなかった。
自分が楽になりたいからと、女に手を出すのはもうやめだ。アリシアにはアリシアの人生がある。手を出してめちゃくちゃにしていいはずがない。ミュートの時のような過ちを繰り返してはならない。
雷神は思わず、深い息を吐いた。
「あ、溜め息!」
「……違う、今のは息を吐いただけだ」
アリシアは、美人だ。長く色んなところを旅してきた雷神から見ても、一、二を争うくらいの。
「あーっはっはっはっはぁあ!!」
そして、いきなりよく笑う。
「な、なんだ?」
「ロクロウの代わりに笑ってあげてるのよ! あーっはっはっはっはぁあ!!」
「なんだそりゃあ」
「あーっはっはっはっはぁあ!!」
「お、どうしたどうした!? 面白いことがあったんだな! 父さんも混ぜろ!」
仕事から帰ってきたばかりのフェルナンドがやってきて、彼もまた盛大に笑い声を上げ始める。
「わーっはっはっはっはっはっ」
「あーっはっはっはっはっは!」
「あら、楽しそうね! うっふふふふふふ」
家の中からターシャも出てきて、豪快な笑いの中に柔らかな笑みが零れる。
「わーっはっはっはっはぁ!」
「あははは!! もう、父さんったらぁ!」
「うふふふふふ!! やだもう、二人とも、近所迷惑よ! うふふふふふ!」
「あは、あはは! 母さんこそー!」
なぜかゲラゲラと真剣に笑い始める三人を見て。雷神は。
「ッフ……クックッ……」
つられるように笑い声を漏らした。ほんの、一瞬だけ。
それを見たアリシアたちは、さらに大きな声で笑っていた。
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