02.今日は受け取ってもらうぞ
フェルナンドの家では、年末に皆で大掃除するのが恒例になっているらしい。
実は、雷神は綺麗好きだ。雷神の生まれた地域では玄関で靴を脱ぎ、裸足か靴下、もしくは室内専用の履き物でしか家の中を歩いたりはしなかった。
いつもは宿を取り、一年分を先払いして、部屋をとことん綺麗にする。そしてその部屋ではいつも裸足で過ごすのだ。
だから、雷神はいつものように床を徹底的に掃除した。この家のすべての床を、顔が映るくらいピカピカに。
雷神が這いつくばり、裸足で掃除しているものだから、アリシア達は恐縮していた。
「なにもそこまで磨かなくても、どうせ汚れちゃうわよ?」
せっかくピカピカに磨いたところをアリシアの土足で汚され、雷神は手で避けるようにと指示を出す。それを見たアリシアは横に飛び退いてくれ、雷神は汚れた部分を拭き上げた。そしてまた、現在立っているところを避けろと促す。
「ちょっと、これじゃあキリがないんじゃないのかしら!?」
あきれたようなアリシアの言い分に大きな笑い声を上げたのは、家の主であるフェルナンドだ。
「はっはっは! これだけ綺麗にしてくれたんだ、汚すのはもったいない! 俺達も裸足になるか!」
そう言ってフェルナンドは豪快に靴を脱ぐ。それを見て慌てたのはアリシアだった。
「父さん!? この時期に裸足だなんて、風邪引いちゃうわよ!」
「靴下を二枚重ねれば、ほぉら、あったかいわよ」
ターシャも靴を脱いで、靴下を重ね履きしていた。それを見て、アリシアも仕方無いというように靴を脱ぎ始める。
「まぁ……これも健康的でいいかもしれないわね! 父さんの水虫が治るかもしれないわ!」
「あ、こらアリシア! 水虫をバラすな!」
あはは、とアリシアが笑い、うふふとターシャが笑い、最後にはわっはっはとフェルナンドも笑った。まったく、底ぬけに明るい家族である。
(というか、水虫の男の靴を俺に履かせたのか……移ってないだろうな)
溜め息をつきそうになり、下手な笑顔で誤魔化した。
結局玄関には雷神の提案でマットが敷かれ、そこで靴を脱ぐようにと取り決めがされた。最初は面倒だとボヤいていた彼らだったが、靴を脱いだ開放感が病みつきになったのだろう。軍学校に通うアリシアの冬季休暇が終わる頃には、すっかりその習慣が固定されていた。
雷神の、フェルナンドの家で過ごす生活は快適だった。アリシアは軍学校の宿舎に戻ってしまったが、フェルナンドとターシャはまるで息子のように扱ってくれる。この時、雷神は二十二歳であったので、実際に二人の息子でもおかしくない年齢だったのもあるだろう。
雷神は遺跡探査で家に戻らぬ日もあったが、自由にすればいいと拘束されることはなかった。
おはようとおやすみの時にされる、フェルナンドの乱暴な頭の撫で方、それにターシャからのハグや頬にされるキスだけは慣れなかったが。
やがて春になり、アリシアは十八歳で軍学校を卒隊した。彼女が正騎士になって家に戻ってくると、より一層家は賑やかになる。フェルナンドもターシャも明るい人物だが、アリシアには華があるのだ。彼女がいるだけで家が明るくなり、フェルナンドの笑い声もさらに大きくなる。
不思議な人物だな、と雷神は思った。
彼女がいるだけで、なぜか心がほっこりとする。どんな罪も、彼女なら許してくれそうな錯覚さえ覚える。そんな、存在だった。
***
雷神がフェルナンドの家に住み着いてから、半年が経過した。
この近辺の遺跡は複雑で、探査はおもったよりも時間が掛かりそうだ。
半年も過ごしていると、この王都ラルシアルにもすっかり慣れた。遺跡帰りには毎回寄る場所もある。
「ねぇ、もしかして孤児院に支援してるのって、ロクロウ!?」
ある日、雷神はアリシアにいきなりそう問い詰められた。
彼女の息が頬に当たるくらい近寄られてしまった雷神は、彼女を払いのけながら、特に隠す必要もないので首肯してみせる。
するとアリシアは「やっぱり!」と飛び上がるような勢いで喜び、うんうんと首がもげそうなほど顔を上下に動かした。
「背格好を聞いて、そうじゃないかと思ったのよ。どうして黙ってたの?」
「別にわざわざ知らせるほどのことじゃないだろう」
「今度の休みに、一緒に行ってくれない? 前からボランティアに興味があったんだけど、ああいうところってどういう顔で行っていいかわからないのよね」
「別にあんたは、いつもの飛び抜けて明るい顔で行けばいい」
「あら、私って明るいのかしら?」
「自覚がないのか……」
アリシアは、いつもと変わらぬ笑顔で笑っていた。
次のアリシアの非番の日、雷神は彼女と共に孤児院へと赴いた。着くと同時に何人かの子どもが駆け寄ってくる。
「ろくろーだぁ!」
「今日はなにくれるのー?」
雷神は服の必要な子には服を与え、靴の必要な子には靴を与えた。前回に来た時になにが必要なのか、見極めるのだ。絵を描くのが好きな子には絵の具を。勉強が好きな子には本を。
「ミダ、絵の具セットだ。シュゼット、人形でよかったか」
そう一人一人に声を掛けては渡している。
「寄付という形で院にお金を渡したりはしないの?」
「しない。俺がこの地にいるのは長くとも三年だ。寄付を一生できるならともかく、頼りにされても困るからな。子どもらにも、特別高いものは渡さない」
そう言って、雷神は最後に残った少年に声をかけた。
「おい、ジャン」
ジャンという名の少年は、気だるそうに振り返る。まだ六歳の少年がする顔ではない。
「ロクロウか……なに」
「今日は受け取ってもらうぞ。……これだ」
そう言って雷神は一本の短剣をジャンの目の前に出して見せた。アリシアの目が丸くなる。子どもになんというものを渡すのか、という顔だ。
しかしジャンは、気だるそうな表情から一転、力のこもった目でそれを受け取った。
「俺の短剣を見ていただろう。俺のはやれないが、これもそれなりのもんだ。古代遺跡から発掘した、魔力の込められた短剣だからな」
ジャンはその説明を聞き、短剣を鞘から抜いた。その鋭さに心を奪われたかのように、ジャンは短剣に見入っている。古代遺跡から発掘される剣は、基本的に切れ味の変わらない、不思議な力が備わっているものが多い。
装飾は豪奢ではないが、刃の煌めきは宝石の何倍にも勝るものだ。
「斬りかかってこい、ジャン」
その言葉に、ジャンは躊躇いもなく雷神に向かって斬りかかってきた。この思い切りのよさがいい。雷神は少年の刃を己の短剣で軽く受け流す。
「いいぞ。どんどんこい!」
少年は息を切らせながら、一心不乱に短剣を振るった。それをすべて受け止め、雷神はジャンの心に応える。ようやくこの少年も一歩前進できた、と心で笑って。
やがてジャンが動き疲れた時、雷神は己の短剣をしまった。そして肩で息をするジャンに向かって問いかける。「楽しかったか」と。
「……別に」
少年はそう言って短剣を鞘に納めた。どこか高圧的で、人を見下したかのようなジャンの発言。この少年が誤解を受けるのはこういう態度からだろう、ということを雷神は察する。
「またやろう。ただしその短剣を俺以外には向けるなよ」
「わかってるよ」
ジャンは面倒そうにプイと横を向いてどこかに行ってしまった。アリシアはなんとも言えぬ顔で腕組みをしている。
「……あんた、そんな顔もできるんだな」
「あら、変な顔も素敵でしょ?」
「なにか言いたいことがあるんだろう。さっさと言え」
「それじゃあ遠慮なく言っちゃいましょうか」
アリシアはスッと息を吸い込むと、怒涛のように質問を被せてきた。
「あんな小さな子に短剣を持たせるなんて、危険過ぎない? 特別高いものは与えないって言ってなかった? 斬りかかってこいなんて、一歩間違えば二人とも怪我をするのよ? あの子はどういう生い立ちなの? どうして特別扱いしてるのかしら?」
思った以上の質問を浴びせかけられて、雷神は少し困惑しながらもひとつひとつ答えていく。
「俺は昔、四つのガキに脇差を持たせて剣を教えたことがある。大丈夫だ、ガキはガキなりにわかってる、心配ない。あの剣は売れば高いが、遺跡で拾ったもんだ。金を出して買ったわけじゃない」
わざわざ買って与える分には高価な物を買うつもりはないが、拾った物をあげるには問題ないつもりだ。それがアリシアに伝わっているかは怪しいが。
「それに俺は強いから、あんなガキの攻撃で怪我をすることもさせることもあり得ない。あとは……あいつの生い立ちだったな。そんなのは知らん、本人に聞け。俺には関係ない。えーと、それから……」
「あの子を特別扱いする理由よ」
「別に特別扱いしてるつもりはないんだがな」
「じゃあどういう意図であの短剣を渡したの?」
その質問に、雷神は一拍置いて答えた。
「あいつ、子どもなのに大人みたいな目をしてたろ」
「……ええ、そうね」
雷神は去って行ったジャンの深い緑色の瞳を思い返す。達観した目。周りを蔑むような目。人を見下すような目。物憂げな目。
さらには雷神と同じ漆黒の髪が、周りのすべてを拒絶しているように感じられた。
「なにか夢中になれるものを探してやりたかった。それがあいつにとっては短剣だったってだけだ」
「そうなのね」
「見てろ。あいつは今に変わるぞ。なにかを見つけられた奴ってのは、必ず変わる」
「そう。あなたも見つけられるといいわね、ロクロウ」
アリシアがあまりに自然に言ったので、雷神はそれに反応することができなかった。
ただ緑眼の美女は、金色の髪をなびかせながら雷神に微笑みかけていた。
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