密入国

 それは半年前、夜空の真下に広がるとある田舎では、嵐が吹き荒れていた。雑木の影に身を潜めているのは、怪しげな男と九龍クーロンだ。九龍は男に、大金の入った封筒を手渡す。紙幣の枚数を確認し、男は言う。

「……よし、金額は足りているな。善は急げだ……行くぞ」

 そう囁いたこの男は、密輸業者だ。レジスト国に亡命するにあたって、九龍は彼を頼らなければならない。二人は息を殺し、雑木林を突き進んでいく。その周囲には国境警備隊の包囲網が張られており、このセキュリティを突破するのは至難の業だ。そこで密輸業者は、九龍を洞穴まで案内した。懐中電灯を頼りに、九龍は真っ暗な空間を突き進んでいく。地上からは、怒号のようなものが聞こえてくる。

「密入国者の身柄を確保! これより強制送還を行う!」

「これより、厳重な身体検査を行う!」

「麻薬の運び屋か? それとも、亡命か? 正直に答えろ!」

 一歩間違えれば、九龍も国境警備隊に捕まっていた。否、ここから間違えても、やはり彼は身柄を拘束されることとなるだろう。内心、九龍は恐怖を感じていた。レジスト国は、正式に国と認められているわけではない。ゆえに、正規の手順で亡命申請を出すことはできない。そんな国への侵入を試みる者は、先ず真っ先に怪しまれるだろう。無論、九龍もそれを理解していた。安易な亡命が許される環境では、レジスト国の諜報員が地球国の情報を入手し、それを横流しにすることだって考えられる。国境を警備するということは、まさに国を守るということなのだ。


 九龍がしばらく歩みを進めると、周囲の酸素は徐々に薄くなっていった。洞穴の深部にまでは、新鮮な空気は循環しない。洞穴の中は、砂塵が立ち込めている。しかしうかつに咳をしようものなら、国境警備隊に見つかる危険性もあるだろう。更に嵐で土がぬかるんでいることもあり、彼は泥を掻き分けるような忍び歩きをしなければならない。その上、洞穴の内壁には苔が群生しており、その悪臭は凄まじいものだった。酸素濃度の低下により、九龍は半ば立ち眩みを起こしていた。それでも彼は、前進するのみだった。彼が求めるものは自由――楽園システムの管理を逃れた世界である。


 そんな九龍が洞穴を抜けた時に、すでに日が昇りかけていた。体力の著しい消耗により、彼の思考は十分には回らない。肩で息をする彼の目に飛び込んできたものは、有刺鉄線の張り巡らされた鉄柵だった。無論、ここまで来て、彼が引き下がるわけにはいかない。ましてや、いつ国境警備隊に気づかれるのかさえ定かではない今、迷っている暇などない。九龍はリュックサックから軍手を取り出し、それを両手に装着した。そして彼は、鉄柵をよじ登り始める。軍手越しとはいっても、やはり有刺鉄線は彼の掌に食い込んでいく。軍手の表面には血が滲んでいたが、九龍は歯を食いしばりながら有刺鉄線を登りきった。それから鉄柵の奥へと飛び降りた彼は、眼前の川にリュックサックを投げ捨てる。この川の対岸まで泳ぎきれば、彼はいよいよレジスト国に入国できる。当然、ここまでの過程で、九龍の身は疾うに酷く疲弊している。しかし、彼のゴールは目の前なのだ。そこで九龍は深呼吸をした。それから腹を括った彼は、川へと勢いよく飛び込んだ。昨晩の嵐の影響か、川の流れは不安定だ。激流を掻き分けつつ、九龍は残された体力を振り絞って泳ぎ続けた。対岸までの距離は、おおよそ五百メートルだ。通例、それは十分に訓練されていない人間が泳げる距離ではない。ましてや、それが激流の中であればなおさらだ。一方で、緊急時に発揮される人間のポテンシャルもまた、常軌を逸したものだ。


 人生においてたった一度だけ――その瞬間だけ、九龍は国境を超えるという偉業を成し遂げた。

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