法と進化

 水澤弓狩みずさわゆかりは熱心な人権活動家ではない。されど彼女にも、現状を憂えるだけの人権意識はある。

「人間社会は終わりです。もう、何もかもが……」

 それが彼女の捻りだした精一杯の言葉であった。一方で、玲威は相も変わらず楽園主義を信奉している。この男には、楽園システムのもたらす社会問題がいかに深刻なものであるかが見えていないのだろう。


 玲威れいは語る。

「果たしてそうかな? 私は楽園主義者として、常に中立的な立場に在らねばならない。楽園システムが実装されるまでは人権に寄った考えが主流だったが、実のところ、今の社会の在り方が正しいことも考えられる」

 少なくとも、彼は自らを中立的な人間だと考えている様子だった。無論、そんな彼のことは弓狩には理解できない。否、常識人である彼女に、この男を理解できるはずもない。

「貴方は……何を……言っているのです……?」

 そう訊ねた弓狩は、怯えたように目を見開いていた。曲がりなりにも、玲威には独自の論理がある。ゆえに彼は、己を論理的であると信じて疑わない。

「元より法というものは、人間社会を機能させるために作られたものなのだ。法は不都合が生じるたびに作り変えられ、流動的に進化していった。しかし生物も法も、進化の在り方は似る。進化とは最強に近づくことではなく、時代や環境に適合することなのだ」

 そんな持論を繰り広げた彼は、己の正義に一切の疑問を抱いていなかった。一方で、弓狩は当然ながら、楽園主義に納得することができない。

「法は、どのように変わろうと、どのように進化しようと……! 最低限、正しさに向かうべきです!」

 機械に囲まれた部屋に、彼女の甲高い声がこだました。しかし玲威の思い描く「正しさ」は、弓狩の想定するものとは大きく異なる。

「素晴らしい意見だ。それで、君一人が正しさを決めるのか?」

「そ、それは……」

「それは驕りだよ。大勢が正しいと思うことが正しい――その法則に抗う言論は、概ね綺麗事だと思って良い。どの立場に在れば正しいか……それが曖昧なままでは、人間は安全圏を奪い合う」

 持論を語った玲威は、冷たい雰囲気をまとっていた。そんな彼の人間性を象徴するように、コンピューターのファンが無機質な音を立てている。二人の間に、言い知れぬ緊張感がほとばしった。その重苦しい雰囲気を薙ぎ払うように、弓狩は問う。

「貴方の理屈が、現状を正当化できると思っているのですか?」

 楽園システムのもたらす損害は、膨れ上がっていく一方だ。次はどんな仕組みが破壊されるのか。次はどんな層が生活を奪われるのか。少なくとも、弓狩のビジョンでは、楽園主義に明るい未来などない。そんな彼女に対し、玲威は唐突な質問を投げかける。

「では聞こう。君は、命を平等だと思うか?」

 この時、弓狩には、その質問の意図がわからなかった。

「当然です! 強者であっても、弱者であっても、その命に価値の差など、あってはなりません!」

 それが彼女の答えだった。奇しくも、玲威もまた、命を平等だと考えているが、それは彼女の正義に則した形ではない。

「そうだな、私も同感だ。弱者と強者、どちらの命も重さは同じだ。だが百人の命と一人の命なら、どちらが重いと思う? 命は平等だ――ゆえに、より多くの命を救う楽園システムが必要なのだ」

「貴方は逃げているだけです。自らがもたらした社会的損失から逃げ、諸問題に蓋をし、ただ大勢のためになっているからというだけの理由で地球を楽園と称している――それが今の貴方です!」

「そう言われるのも無理はないだろう。非難を浴びるのは革命家の宿命だからな。最も責められない指導者とは、仕組みを変えない指導者なのだ。大きな行動を起こせば責任が生じるが、現状を維持するだけのことに伴う責任は些末なものだからな」

 そう語った彼の眼差しは、怖いほどに真っ直ぐだった。

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