人権の敗北

 あれから一週間ほどが経過した昼間のことだった。この時、拓海たくみは世間を恐れていた。何故なら、数多の通行人が彼を盗撮し、卵や空き缶を投げつけてくるからだ。カメラを回され、醜態を笑われ、彼は冷静さを欠いていく。世情が狂ったことや、自身が迫害を受けていることにより、拓海は一段と増して荒れ狂うばかりだ。

「何故そこまで残酷になれるのです! アナタたちには、人の心というものがないのですか! 正義とは、なんだったのですか! 心とは、なんだったのですか!」

 必死な叫び声も、人々のざわめきに半ばかき消されていた。いつもと同じだ。彼が何を叫んでも、誰にも響かない。何も響かない。彼の熱意も、善性も、正義も、全ては嘲笑の的でしかないのだ。

「お、人権オナニストが暴れてる」

「ちょっとやめろよ、聞こえるだろ」

「まあまあ、どうせコイツも無力だって」

 人混みの中から、そんな囁き声がした。今や「人権」という言葉そのものが、世論に逆行する過激派しか使わないものとして認知されているのだろう。それを知ってか知らずか、拓海は根気強く叫び続ける。

「人権は大切! ただそれだけのことが、そんなに理解できませんか!」

 もちろん、その答えは明白だった。今の大衆には、人権の価値など理解できない。金銭欲と怠惰に支配された民衆は、弱者の人権を蔑ろにすることを「正しさ」と定義したのだ。

「ねえ、どうする?」

「警察を呼ぶしかないでしょ。ずっと一人で騒いでるんだもん、あの人」

「そうだよね、通報するしかないよね」

 もはや人権活動家の演説は、単なるノイズですらなかった。言うならば、彼の演説は騒音とみなされているのだ。全てが思い通りにいかず、どんな声をあげても嘲られる――そんな状況に、拓海の焦りは増すばかりである。

「人に優しくすることが、そんなに間違っていますか!」

 それは紛れもなく、簡単でわかりやすい一言であった。その一言さえ、庶民たちは真っ当な意見としては聞き入れない。人権活動家が口にすることは、問答無用で戯言なのだ。そういった意識が、大衆の中に刻み込まれている。


 やがて数人の警官が駆け付け、拓海を取り押さえ始めた。

「離してください! 何をするのですか! ワタシの何が悪いのですか!」

 拓海は必死に抵抗した。無論、警官たちは、彼の発言をろくに聞いていなかった。

「貴方が街中で叫んでいると通報がありました!」

「はい暴れないでください!」

「落ち着いて、落ち着いて! 話は署で聞くから!」

 これが現実だ。世間の見世物と成り下がった人権活動家には、発言力など欠片もない。人々は発言内容よりも、誰が発信者であるのかを気にする性分らしい。それから数分間、警官たちはその人権活動家を羽交い締めにし続けた。


 その末に、拓海は眠るように崩れ落ちた。


 それから数分後、その場には救急車が駆け付けた。野次馬の包囲網を掻き分けながら、救急隊員が前に出る。それから拓海は、すぐに病院へと運ばれた。


 それから拓海が息を吹き返すことは、二度となかった。


 彼の死因は、急激なストレスによる心不全だった。翌日、彼の死は全国に報道されたが、大衆の多くはこの出来事を喜劇として見ていた。匿名掲示板では、彼を揶揄する書き込みが何件も投稿されている。

「人権マンがストレスで死んだの、申し訳ないけど今年で一番笑った」

「馬鹿は死んでも治らないから、地獄でも人権スピーチでマスかいてそう」

井上いのうえ先生! 人の死を笑う自由も人権に含んでください!」

 大衆は元より、無垢なる孤児の命を金としか見ていなかったような連中だ。そんな彼らが、人権活動家の死を重く捉えるはずなどなかった。


 民意だけで成り立つ社会にて、人権意識は私利私欲に敗北したのだった。

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