不器用な音色
あれから結局、
「これは売るもの、これは残しておくもの……そして、これは……」
一瞬にして富を失った蒼太にできることは、部屋にある贅沢な品々を質屋などに売ることだけだ。そうして粗方家の隅々まで吟味した彼は、いよいよ寝室に向かう。そこで彼の目に飛び込んできたものは、鈴木がよく演奏してくれたグランドピアノだった。蒼太は数瞬ほど迷いを見せた。彼には、このグランドピアノを売ることなどできない。
「これは、売らない。何があっても」
そんな決意を胸に抱いた蒼太は、おもむろに鍵盤蓋を開いた。すると鍵盤の上には、一枚の置き手紙があった。それを手に取り、蒼太は怪訝な顔をする。
「……
最後の最後まで、あの男は彼のことを気遣っていた。蒼太は息を呑み、その置き手紙を読み始める。
「
文章を読み上げた声色は、少しばかり震えていた。彼の頬には、一筋の涙が伝っている。しかし、手紙に綴られている文はそれだけではない。
「明智様はまだ若く、頼れる大人が必要であったと存じ上げております。この鈴木がその役割を全うできたかは断ぜません。それでも私にとって、貴方は息子のような存在でした」
「明智様のこれからの人生が上手くいくことを祈ります。この先、何があっても、私はこの命がある限り、同じ空の下で貴方を応援し続けます」
「私の最期を看取る人物が貴方でなかったことは、残念なようでありながら、反面嬉しくもあります。こんな老いぼれのことは忘れて、明智様は幸せになるべきだからです」
一行、また一行と、蒼太は手紙を読み進めていった。そしていよいよ、彼は最後の一行に到達する。
「会社の未来から解放されて、たまには自分の未来を思い描いてください。老いた私にはない未来が、若い貴方にはあるのですから」
その言葉に、蒼太は更に泣き崩れた。会社を辞め、地位を失った今、彼には使用人を雇う余裕などない。彼はもう、鈴木から独り立ちしなければならないのだ。
「鈴木さん。僕の、未来なんて……どう思い描けばいいんですか? 教えてよ。また、カノンを聴かせてよ」
無論、そんな声は誰にも届かなかった。鈴木も、二人を引き裂いた大衆も、今の彼の声に耳を傾けられない。これから、蒼太は一人で生きていかなければならないのだ。
蒼太は鍵盤に指先を置き、その先端をそっと沈めてみた。心地よい音が、彼の心に沁みわたる。されど、今まで鈴木に演奏を任せてきた彼には、ピアノの弾き方がわからない。
「……練習、してみようかな」
そう考えた彼は楽譜を読み、ぎこちなく指先を動かしていった。しかし涙でにじんだ視界には、楽譜は鮮明には映らない。グランドピアノが奏でた音色は、どことなく哀愁の漂う不協和音であった。
それからというもの、彼の寝室は、毎晩のように拙いカノンが奏でられるようになった。その腕前も、いずれは上達していくことだろう。一方で、彼は新たな仕事も見つけなければならない。ベーシックインカムさえあれば生きてはいけるものの、彼はそれだけで満足するような性分ではないのだ。
「鈴木さん。僕はもう一度、ビッグになってみるさ」
そう呟いた蒼太は、今宵も不器用なカノンを演奏するのであった。数々のインテリアが売り払われた邸宅から、せめてあの音色だけは失わずに済むように。
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