カノン

 依然として赤字経営の続いていたミライ・グループは、更に支店と子会社を失っていった。オンラインのサービスなども人手が足りず、メンテナンス作業が追い付かずに閉鎖していく有り様だ。このままでは、ミライ・グループが潰れる日も近いだろう。この時、蒼太は限界を感じていた。一方で、ただ一人だけ、やる気を失っていない社員もいる。

「私は最後まで、会社を見限りませんよ! 明知あけちさん!」

「ああ、君か。君はいつも真摯に仕事と向き合っているな。今の僕には、もったいないくらいの社員だ」

「明智さんらしくもないですよ! ミライ・グループは、未来を担うIT企業でしょう?」

 この期に及んでもなお、この社員は希望に満ちた目をしていた。そんな希望も、今や蒼太そうたには残されていないものであった。

「……君になら、この会社を任せても良さそうだ」

「明智さん……?」

「僕はもう、CEOを続けられないかも知れない。君のように、まだ残ってくれている社員もいるけれど、多くの人たちはすでに辞めていった。僕に経営は向いていないのかも知れないね……」

 過剰なベーシックインカムの導入により、ミライ・グループは多くを失った。そして今、この会社は、現CEOさえも失うか否かの瀬戸際に立っているのだ。



 その日の晩、蒼太は鈴木すずきを自室に招き入れた。寝台の隅に腰を下ろしつつ、蒼太は話を切り出す。

「鈴木さん。僕は会社を捨てて、熱心な社員にCEOの座を託そうと思う。もう鈴木さんを雇う余裕はないし、もうじき、お別れになると思う」

 今までのような稼ぎがなければ、使用人を雇う余裕も失われる。今の世情を鑑みるに、二人が時間を共にし続けるのは厳しい状況だ。心なしか、鈴木も少し寂しそうな表情をしていた。それでもこの男は、それを言動には出さない。

「また使用人が必要になった暁には、こんな老いぼれではなく、もっと未来のある若者をお雇いください」

「おやおや、僕もついに嫌われたものだね」

「滅相もございません。この鈴木はいつでも、明知様の味方でございます。しかし私も、老い先が短いものですから……」

 鈴木は歳を召している。その事実と誰よりも向き合っていたのは、彼自身であった。蒼太の中で様々な感情が入り混じり、情緒が乱れ始める。

「ははは、皮肉な話だよ。僕が自ら手放さないといけない人が、あんな連中と違って僕の支えになってくれる鈴木さんだったなんて」

「あんな連中?」

「会社を見捨てて辞めていった元社員たちだよ。僕が上手くいっていた時は散々神輿を担いで、いざ僕が追い込まれると梯子を外した――そんな連中だ」

 今の彼にはもはや、恨むことしかできなかった。その心情は、理解に難いものでもないだろう。そんな彼のことを、鈴木は気の毒に思うばかりであった。

「明智様は、若いながらに頑張ってきましたよ。これから何があったとしても、明智様が誇り高き経営者であったことは、この鈴木の胸に、未来永劫刻ませていただきます」

 彼らの関係は、単なる雇用主と使用人の域を超えているのだろう。そこには間違いなく、絆のようなものが芽生えていた。

「鈴木さん。これで最後になると思う。パッヘルベルのカノン……弾いてくれないかな?」

「ええ、『いつものやつ』ですね。ようやく覚えていただけましたか」

「ふふ……まあね」

 今ここでカノンが演奏されれば、それが鈴木の使用人としての最後の演奏になるだろう。鈴木はグランドピアノの前に腰を下ろし、繊細な指遣いで鍵盤を叩き始めた。毎晩のように聴いてきたはずの音色も、今や蒼太の涙を誘う音色だ。この時、蒼太は眠気に抗っていた。今までは睡眠導入のためにピアノ演奏を聴いてきた彼も、今回ばかりは、最後まで演奏を聴きたいと思ったのだ。

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