誰の理念
翌晩、大型のモニターやコンピューターの置かれた一室には、一組の男女が居合わせていた。
「首相……これが貴方の望んだ楽園ですか?」
そう訊ねた女は、首相の専属の秘書であり、その名を
「私一人の望みではない。民がそれを望んだのだ。この政策に、私は一切の私情を挟んではいない」
それが彼の考えであった。確かに、彼は楽園システムを導入した張本人ではあっても、民衆を作為的に操ったわけではない。さりとて、それで弓狩が納得できるはずもない。現に、楽園主義は罪のない命を奪ったのだ。
「し、しかし……今回のはあまりにも……」
言葉に詰まった弓狩は、やや怯えたような顔つきをしていた。されど玲威は、己の考えを改めようとはしない。
「ならば君は、誰の理念であれば信用に値すると考える? 楽園システムは文字通り、民の思想を束ねた上で平均化したものだ。例えこれが過ちであっても、私の過ちではない」
「理不尽な民意で散っていった弱者たちの前でも、その遺族の前でも、貴方は同じことを言えるのですか!」
「何故、私だけが責められるのだ? 私はただ、大衆の望み通りの世界を築き上げただけだと言うのに。そうだろう、水澤弓狩」
そう語った彼は、いかなる罪悪感も覚えていない表情をしていた。そればかりか、彼は己の行いを正当なものであると確信している。その事実は、弓狩にただならぬ恐怖を植え付けるばかりだ。
「これが楽園なのですか? 貴方にとっては、これが世界の在るべき姿だというのですか!」
恐怖に抗い、彼女は声を張り上げた。依然として、その想いは玲威には届かない。
「そうだ。それが、民の選んだ世界にして、楽園だ」
「こんなものは、楽園ではありません! 地球は……『楽園に非ざる星』です」
「民の望みが叶えられた世界が楽園でないと言うのか? ならば、誰の望む世界であれば正しいのだ? 先程も質問したが、もう一度だけ問おう。君は、誰の理念であれば信用に値すると考える?」
再び投げかけられた同じ質問に、弓狩は息を呑んだ。それから一心不乱に思考を巡らせ、彼女はおそるおそる答える。
「正義に答えはありませんが、不正義は必ず存在します。正しい在り方は存じかねますが、貴方が正しくないことだけは確かです」
それが弓狩の導き出した答えだ。しかし玲威は、その意見さえも一蹴する。
「代替案を出せない割に、重箱の隅は突くのか。いつの時代も、与党と対立する考えを持つ者は変わらないな」
「もはや、そんな次元の話ではありません。大勢の弱者が排斥され、射殺もされ、機動隊にはいかなる罰則も課せられていないのですよ!」
「それが民の選んだことであれば、それもまた正しいのだろう。正しさを決めるのは人間で、今回の正しさも人間が選んだのだからな」
やはり彼には、何か「中立的で在ること」をはき違えているきらいがあるようだ。そんな彼に対し、弓狩は問う。
「……一つだけうかがっても良いでしょうか」
「なんだね?」
「首相。貴方個人にとっての正義とは、一体……なんでしょうか」
これまで、玲威自身の主体性に基づいた考えは話にあがっていない。彼は全てを、民意であるがゆえに正しいと主張してきたのだ。その考えが彼の中で揺らぐ日がいつになるかは、神のみぞ知るところだ。
「私は正義の代弁者ではない。楽園システムという正義を維持するための指導者――それがこの私……御神玲威だ」
そう答えた玲威は、使命感を帯びた眼差しをしていた。その瞳には、一切の曇りがなかった。そんな彼の横顔を見て、弓狩は緊張感を覚える。やはりこの男は、己の行いを正義だと妄信しているのだ――彼女はそう確信した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます