5. 疑念

「斉藤、例の産廃場の件どうなった?」



事務所の一室、俺は年季の入った黒革の椅子に腰を掛けながら、若頭補佐である斉藤と数枚の書類に目を通していた。



「順調に進んでます。その件で白井興業の社長が話したいそうですが、どうしますか」



コンクリート上に蜃気楼が見えるほど外は暑いのに、この斉藤という男はいつもビシッとスーツでキメている。今日もシックな深い灰色スーツにベストまで着て、ネクタイまできちんと締めて、いつ見ても暑そうだ。



「もう済んだ話だろ。けど揉め事は避けたいよなぁ」



「えぇ。あそこは安住組と関わりがありますので、話し合いで解決できるのであればした方が良いかと」



「とはいえ契約書類はうちの手元にあんだろ? あのおっさんは、何を今になってごちゃごちゃと話したいンだよ」



「分かりませんが、書類を返せとか、うちにも権利があるとか、そういう事かと。安住組が出て来ては面倒です。元はといえば小田野の契約書が発端ですから」



「…はぁ。分かったよ。白井のおっさんとは話す。まずは気ィ良くさせて、良い加減、手ぇ引かせるしかねぇな。あそことは良い関係ってのを保ちたいからね。んで仕事くれりゃぁ、万歳だわな。けどま、話で分からねぇなら、そん時はちょっと脅しかけるしかねぇけどよ」



「脅したら安住組が出てきませんか」



「出てこれねぇような脅しのネタはあるからな。汚いマネするがあっこは一応カタギだ。悪いカタギさんよ。ヤクザとズブズブで安住にべったり。なのにだ、笹木ノ橋の建設のサバキは安住じゃなく黄堂会に依頼してたんだよ。これを安住が知ったら、あのおっさんだってタダじゃ済まないわなぁ」



「え? でも笹木ノ橋って、白井興業じゃなくて島高建設と中岡土木じゃ…」



「違うのよ。島高のバックは白井興業。金の出所もあっこだったのよ」



「それ、相当ですね。通りでカシラ、落ち着いてた訳ですね」



「脅しのネタがありゃぁな、ビビる必要は何もない。でもこれは切り札だからさ、最終手段ってやつな」



「分かりました。では、今夜はエトワールで接待しますか? 白井社長、童顔の女の子お好きでしたよね? 可愛い子入ったそうですよ」



「お前はいつも気が利くな。そうよな、童顔のエロい女が好きだったな、あのエロじじい。よし、エトワールがいいな。これで黙ってくれりゃぁいいが…。お前も今夜は付き合えよ」



「えぇ、もちろんです」



けど、待てよ。斉藤連れてくの、ちょっと厄介だな。頷いた斉藤を見上げながら俺は顎を撫でて、考え直した。



「……あ、やっぱダメだ。やめとくわ。お前じゃなくて新崎連れてくわ」



「え!? 何故ですか。俺じゃ何か…」



「いやぁ、お前連れてくと女の子達はお前ばっかチヤホヤするだろ。だからルックスの良いお前じゃなくて、新崎な。あいつには伝えておいてくれ」



すまんな、斉藤。斉藤はここら辺の界隈じゃ話題になるほど極道らしくない見た目で、いわゆるハンサムな類いのルックスである。細身で背が高く、色が白い。仕事もできるし、話題が豊富なこいつは接待だって任せられる。けど、今回はダメだ。



「…分かりました」



斉藤は承諾したが顔には不満です、と素直に書いてある。分かりやすい男だ。



「悪いな。…あ、あと、部屋出たら青木を呼んでくれないか。車庫で俺の車磨いてると思うから」



「はい、すぐに呼んできます」



仕事の話を済ませた斉藤は一礼して部屋を出た。俺は熱い茶を啜りながら青木を待つ。まさかこんな風に青木と仕事をするとは思わなかったが、現実、あの青木がここの組員としてせっせと働くことになり一週間ほどが経つ。俺とは滅多な事がない限り口は利かないし、あれ以来、ロクに顔も合わせていなかったが、仕事はきちんとしているらしい。俺はぼうっと椅子に深く腰を掛けて、あの日の事を思い返していた。


正直、度肝を抜かれた。自分があれほど殴って蹴って、いじめていた相手があんな風に俺を組み敷き、力じゃ自分が上だと楽しそうに首を絞めてきた。首を絞めたまでは理解できるが……。くっと下腹部に力が入る。あの出来事を思い返すと、下腹部に走った圧迫感や違和感、無遠慮に吐き出された熱の熱さをつい思い出してしまう。あいつは今、何を考えているのだろう。あんな面倒な男を下に置くなんて、ストレスでハゲるかもしれねぇな。そう溜息混じりに考えていた俺の部屋に、コンコンと青木がノックして部屋へ入ってきた。白いTシャツに黒いジャージを履き、ダサいゴムサンダルを履いている。そして相変わらずの仏頂面。



「失礼します」



「おう」



パタンと閉まったドアを確認して、青木は口を開いた。



「斉藤さん、なんか荒れてたけど良いのか?」



「ん? あぁ、良いンだよ」



目の前の青木はこの茹だるような暑さのせいで、額に汗を滲ませている。



「車、綺麗になったか?」



「あぁ」



不満丸出しな顔に俺は笑いそうになった。そりゃそうよな、洗車なんかさせられてんだから。下っ端のチンピラにでもさせろよ、って言いたそうだ。



「…ダッセェな、そのカッコ」



吹き出して笑うと青木の機嫌の悪さに拍車が掛かる。



「うるせぇな。良いから早く用件早く言ってれない? お前と違って暇じゃないんだけど」



「ふふ、悪かったよ。この一週間、下っ端の仕事させてきたが元はお前だって幹部だろ」



「そうだね」



「未だにあんたがあの瀬戸組の幹部だったなんて信じられねぇけどよ」



未だにな。あんなゲスい組の幹部だったとは信じ難い。俺は青木を見上げると、青木は冷めた面して面倒そうに口を開く。



「俺の事は信用できないから仕事は任せられないって、ずっと車磨きしろって、わざわざそう言うために俺を呼んだのかよ」



「そうじゃない。…ひとまずそこ座れ」



顎でソファを指し、青木は素直にそのソファに腰を下ろした。俺もローテーブルを挟んで反対側にあるシングルソファに座り、タバコに火を点ける。



「あんたがここに来て一週間、あんたとはまともに話せてないだろ。けどあんたを預かってる身としては、話、聞いておくべきかと思ったんだ。どうして瀬戸組にいたかとか、…あんたに何があったのか、とか」



「ある程度は聞いてんじゃないの」



永井から少しの情報は聞いてはいたが、そんなの誰でも知っているような内容だった。俺が知りたいのはそんな誰でも知っているような情報じゃない。



「俺としてはあんたが心底嫌ってたヤクザになってるって現実が未だに信じられねぇんだよ。だからあんたの口から直接聞きたい」



ヤクザなんて滅ぼしてやると息巻いていたあの青木が、そのヤクザになってるなんて誰が思う? つまり、こいつには退っ引きならない事情があったのかもしれない。この世界にズルズルと入らなければならないような事情が。



「別に大した理由なんてない」



けれどそう簡単には言わないらしい。



「俺は今やあんたの上司だ。隠し事は得策じゃねぇな」



そうまるで脅しをかけるように言うと、青木はまたいつものようにふっと鼻で笑い、「言わなかったら殴る?」そう煽るのだ。これだからこいつを側に置きたくない。俺だってガキじゃない。今は誰彼構わず手は上げない。いや、昔だって誰彼構わずじゃないけど、今は特に慎重になった。丸くなったと言われるほど暴力で解決する事は多くない。けど、そんな俺に殴りてぇなと思わせるこいつはもはや天才だ。落ち着いて聞き出すしかねぇかな。俺は何をどう聞き出そうかと考えながら、タバコを深く吸い込んだ。



「永井に聞いたがあんた、瀬戸組には一年くらいいたんだろ? その前はマチ金。そこには二年くらい。間違いないか?」



マチ金と言っても、こいつがいたのは組のフロントだった。金は瀬戸組に流れていたし、どこぞの社長や政治家の資金洗浄の為の会社にもなっていた。そんな瀬戸組のフロントも瀬戸組と共に摘発され、どこぞの企業の社長や政治家など関わっていた連中が次々に逮捕された。はてさて、目の前にいる男はその事を知っていて働いていたのかそれとも偶然か。まさかなぁ。偶然ってことは、ねぇかな。



「…カナミヤファイナンス、ね。二年と三ヶ月働いてた」



ぼそっと青木は言った。 



「最初は知らなかった。瀬戸組の金庫みたいなもんだってことも、どっかの社長達の脱税に絡んでる事も。入った時は何も知らなかった」



「…それで?」



「俺が瀬戸組に入るキッカケになったのは、俺がちょっとマズい話を聞いちゃったから。その日俺はさ、夜遅くまで飲んでて、会社に家の鍵を忘れた事に気付いて取りに戻ったんだ。そしたら事務所に明かりがついてて、入ったら応接室に誰かいるみたいだった。盗み聞きするつもりなかったけど、社長と強面ないかにもな人が何か話してて、その話してる内容が内容でさ。ローンの返済が出来なくなった人達をどうするか、とか、架空口座がどうたら、とか。あー、俺、マズい会話聞いてンな、って思ったね」



偶然、居合わせて話を聞いてしまった、という事なら、自ら志願して組員になったのではなく、半ば強引に引き摺り込まれた、というニュアンスの方が近いだろうか。



「そんで都合悪く、そこにいたそのヤクザの舎弟に俺が盗み聞きしてるのがバレて、色々あって、瀬戸組に入った。っていう経緯だけど」



色々とは。そこが肝心なんじゃねぇのかよ。しかも盗み聞きしてるのバレたのに消されず、ヤクザに引っ張られて尚且つ幹部に大抜擢、か。わかんねぇな。



「よく死なずに済んだな」



「痛い目には遭ったよ。けど、俺はその舎弟と顔見知りだったからさ。それが死なずに済んだ理由かな」



「あんたが盗み聞きしてるのを取っ捕まえた、その舎弟か?」



「そう。だから逃してくれって、鍵を取りに来ただけなんだって、最初は頼み込んでみたのよ。でもそいつ、仕事一筋、組長一筋の真面目野郎だったから、それは出来ないって一蹴された。けど、兄貴分のヤクザに話しつけてくれてさ、殺さない代わりに俺の下で仕事しろって。で、その兄貴分が安藤若頭ってわけよ」



「その舎弟の名前は?」



ちょっと良く出来た話だと思うのは、俺がこいつの高校時代を知ってるから、というだけではないよな。青木は俺の瞳を真っ直ぐに見つめ、「菅野 陸斗」と低い声でその命の恩人とやらの名前を口にした。菅野 陸斗、どこかで聞いた事があった。瀬戸組の若衆頭兼用心棒がそんな名前だったような気がするが。



「殺されたけどな」



そうだ、殺されてる。俺はハッとした。菅野が殺された理由を考えると、やはり青木を疑わざるを得ないのだ。この男は何を考えているのか腹の底が全く読めない。

 


「その怪訝な顔を見ると、何故、菅野さんが殺されたか知ってるんだ?」



「今、思い出したよ」



「ふーん、そ」



菅野は生きたまま海に沈められたと聞いた。あの男の正体はマトリの刑事だったと、組内で詰められて始末された。俺は今ひたと考えている。そんな男が内側に連れ込んだ目の前の男は、本当にただのチンピラなのだろうか、と。



「…けどね、俺、あの人はハメられたと思ってんだ」



青木は突然そう言って顔を顰めた。



「ハメられた?」



「菅野さん、警察側の人間なんかじゃねぇよ。マトリだって言われて組内で騒がれて殺されたけど、あの人は違う。確かにさ、あの人ってヤクザにしちゃ生ぬるいとこあったかもしれないけど、でも組長に恩を感じで真面目に仕事してたし、ちゃんとしたヤクザだった」



「なんで言い切れる?」



「あの人を育てた父親さ、本当の父親じゃなかったんだよ。本当の血の繋がった父親はヤクザだった。この事知ってんの、…たぶん、俺だけなんだけど。でさ、身内にヤクザがいると刑事とかマトリとか、お国の仕事には就けないんだよ。知ってた? 身辺調査を徹底的にされて、綺麗な人間じゃないとなれないんだ。だから誰かがハメたとしか思えねぇの」



青木はそう言うと溜息をつき、俺の目を見つめると、「あの人はヤクザだった」と付け加える。もしそれが本当なら菅野は白。そうなると、青木も白、と思って良いのだろうか。



「…けど、やっぱりあんたの事が分からねぇ。別にあんたがサツだと疑ってるわけじゃねぇが、ただ、嫌ってたヤクザになってるって、どうも信じられない」



そう言うと青木はふふっと肩を揺らした。俺は何故笑われているのか分からず眉を顰めると、青木は「ま、そりゃそうか」と溜息をひとつ吐いた。



「高校ン時は刑事になるのが夢だった男が、再会したらヤクザになってた。んで、ヤクザになるキッカケである男はマトリだって言われて殺された。疑って当然だよな。お前の立場からしても、俺を疑わないわけにはいかない」



「あぁ」



青木は深呼吸をすると俺の目をじっと真っ直ぐに見つめ直す。



「でもね、赤澤。俺は、警察ではない。そう否定し続ける事しかできない。俺は今ここにいて、お前の下で働いてる。だから信じてくれ」



トンと胸に響いた。そう堂々と言われると正直参ってしまう。俺は少し考えるように視線を外し、再び視線を青木に戻す。



「菅野がマトリだって殺された時、あんたも散々疑われたんだろ?」



「そうだね」



疑われた、つまり、ひどく拷問もされたろうし、やりたくない仕事もさせられ、どれどけ組に尽せるか試されたのだろう。試された結果、こいつはここにいる。あの安藤の叔父貴が気に入るくらいだ。だとするならこいつは警察側の人間ではない、その可能性が高い。俺は頭を掻きながら、ひとつ決心をした。



「疑いが晴れてここにいる。なら、俺もあんたを信じたい。ひとまずは普通に仕事してもらうよ」



「……そ。分かった」



青木はふっと安心したように口角を上げた。しかし確証が欲しい。可能性が高いだけではなく、俺の中でこいつは警察ではないという確証が何よりも欲しい。



「早速なんだが、やってもらいたい事がある」



「何?」



青木の口角は緩く上がったままだった。優しい表情の男を目の前に、俺はタバコの煙を吐いて口を開く。



「イノグチ アキオって男を始末してほしい」



どうでる、青木。あんた、人を殺せんのか。青木は表情を一切変えなかった。イノグチ アキオという男は、蘭戸組から偽札とチャカを盗んで逃げた男だった。マル暴かもしれないと永井が嘆いていた男で、その男をついに捕まえたと永井から連絡があったのは今朝の事だった。そのイノグチをちょっと利用させてもらおうと、俺は静かに続けた。



「この組では御法度のヤクを売ってやがった。その上、組の金を100万ほど盗んでトンズラしたのよ。その男を今朝捕まえてね、ある所に監禁してる」



青木には嘘の情報を意図的に流した。殺す男はクズだと印象つけて殺し易くし、あの男と対面させる。両者、どういう反応するか。それを見たかった。これは賭けなのだ。



「組の恥さらしを、あんたに殺してほしい」



もし青木が警察組織の人間なら、こいつはどうにかしてでも人を殺さない道を選ぶだろう。信じてほしい、という言葉をそのまま信じたいが証拠が無ければ信じる事は難しい。なんせ俺はこいつという人間を知っているのだから。こいつがサツならさっさと切り離さなければならないが、それを見抜くにはこいつが一線を越えられるか否かだった。警察側ならこの命令に対して断るだろう。



「いいよ」



だが青木は俺の予想と反して即答だった。意外だった。こいつは今、何を考えてんのかな。そう思うほどこいつの返答には躊躇いがなく、顔にも声にも全く動揺がなかった。



「そう、か」



俺の返事に青木は「そうだよね」と呟きながら、ソファに深く腰を掛け直す。背もたれに寄り掛かると、頭を掻いて口を歪めた。少し悩むように沈黙を置いた後、ぽつりと言葉を絞り出す。



「俺はお前を地獄に落とす、って昔、言っちゃったからね。お前、俺の事は信じられないンだろ」



「正直、お前を信じたいが、あんたがヤクザってのがどうもね。高校の時、あんたは刑事になりたかったろ。そんな男がヤクザになるとは思えないってのが本音だ」



「それは昔の話だろ? 俺にも色々あったの。…でも、ま、サツを身内に入れたとなりゃぁ大問題だもんなぁ。いいよ、好きなだけ疑えよ。お前が殺せって言うなら、俺、誰であろうと殺すよ」



どういうつもりでその言葉を吐いたのだろう。怪訝な顔をしていたであろう俺を青木は静かに見ていた。数秒、何も言わない俺に痺れを切らしたようで、「さて、話は終わり?」そう立ち上がった。



「あぁ。……また、連絡する」



こいつを苦しめようと四苦八苦していた高校時代じゃねぇけど、俺はこいつをどうしたいのだろう。どうすべきなんだろう。青木が出て行くと、俺はまた斉藤を呼び付けた。この世界、結局は誰が信用できて、誰が信用できないか。疑いたくねぇな、でも、ある程度調べておく必要はやはりありそうだ。というか、疑いたくない、って何だ。何故、疑いたくない? 高校の時ずーっと苛めてきた男が、無様に殺されるのって可哀想だなとか思ってんのか? だとしたら歳かな。本当、面倒くせぇな。嫌悪するくらい嫌いなんだろうがよ。



「だから内側にいれンの、面倒だと思ったんだよなァ…」



つい心の声というものがポロリと口から漏れた。



「カシラ、呼びましたか?」



その時、斉藤がドアをノックして、そっと入ってきた。幸いな事に俺の呟いた言葉はどうやら聞こえていなかったらしい。



「あぁ。悪いな忙しい時に」



「いえ」



「少し、頼まれてくれないか」



「はい、もちろんです」



「青木について調べてくれ。ここまでの経歴をざっと」



「…え? 何かあったんですか」



「いや、なに、今後もここで面倒見るならどんな奴か知っておくべきかと思ってよ。あーいう男がこの世界を選んだ理由っての、知りたくてな」



「あーいう男、ですか。…分かりました。瀬戸組の一件もありますし、調べておきます」



「頼んだぞ。あと、これは他のやつらには内緒で頼む」



「はい。何か分かりましたら報告します」



これであいつが俺を騙してるか否か分かるのだろうか。



「あぁ、頼む」



俺は考え込む事が嫌なのに、色んな考えがぐるぐると脳内を巡っていた。斉藤が出て行くのを横目に、俺の知らない青木という男についてただ、ひたすらに考えている。なぜ、こっちの世界に来たのか。なぜ、瀬戸組だったのか。なぜ、こうなったのか。地獄に落としてやる、そう言ってたよな。


高校の時、あれだけ暴力を嫌い、ヤクザを嫌っていた男がこの暴力にまみれた世界に入る理由とは何々だ。本当に菅野がキッカケなのか? 仲間になれば命は助けてやる、そう脅しを掛けられたとしても、昔のあいつなら鼻で笑うような気がするが…。それでも幹部にまでなって、きっちり働いて組に貢献してた事に変わりはない。そう考えるとやはり、俺の考えすぎなのか。


分からないな。あー嫌だなぁ。ずーっとあいつの事を考えてる自分自身も嫌になってきた。あいつの事なんて何も知らない俺が考えても何ひとつ答えは出ないのに。俺が考え込んだところで何も変わらないのに。それでも考えてしまう。この十数年間、あいつは何処で何を経験していたのか、少しでも知りたいと思ってしまう。



「青木についてまとめてきました」



数日後、斉藤はそう俺にA4サイズの茶封筒を渡した。中にはダブルクリップで綴じられた紙束が入っていた。もちろん、その紙束には青木の情報がぎっしりと詰め込まれたものだった。



「知り合いの刑事にも探りを入れましたが、至って怪しいところはありませんでした」



怪しいところはない、か。その言葉にホッと胸を撫で下ろしたが、その安堵に嫌気がさした。あいつは警察じゃなかった。ならば組員として使える。それだけの理由で安堵したのではないと、心のどこかで分かっていたからだ。



「そうか。助かった」



「あの、他に何か調べる事はありますか」



「いや、今はない。目を通してからまた呼ぶかもしれない。しばらくは事務所にいてくれ」



「はい、分かりました」



「あぁ、そうだ。それから五丁目の集金、青木に行かせてくれ」



「はい。伝えておきます」



斉藤が書類を残して出て行き、パタンとドアが閉まった。一枚、ひらりと捲る。斉藤らしくきっちりと分かり易くまとめられていた。家族構成、学歴、職歴、もちろんマチ金の前の事も記載がある。


両親は俺が知っている通り官僚の父親と教師の母親。祖父母だって俺が知ってた情報に変わりはない。母方は田舎で広い土地を持つ地主で農業を営んでおり、父方は官僚やら代議士やら秘書やら、お堅い職の人達ばかり。兄弟は兄がひとり。その兄はどうやら、父と同じ様に官僚を。どう見たってマトモな家庭でボンボンだ。


そして西第一高等学校卒業。そうか、あの後無事に卒業したのか。それから国立の難関名門大学を卒業していた。専攻は法学だった。やはりどこをどう見ても、この世界に入りそうな人間ではない事は一発で分かる。その後、小さな食品会社に就職していた。営業だった。けどそこはどうやら倒産し、そこからまた別の食品会社へ。そこは三年ほど働いて辞めている。怪しいところはどこにもなかった。


そしてポンとカナミヤファイナンスの名前が出て来た。カナミヤでは仕事ができると評判が良かった、らしい。接客態度も良く、クレーム対応も出来る。査定を任せてもきっちり調べ、信頼ができると。ますます分からない。職歴からは何も判断できないようだ。


ならば交友関係か。悪い友達でもいて、借金でもしたろうか。そう思いながら読み進めるが、友人はほぼなし、と一言記載があるくらいだった。横に小さく数名の友人らしき人物の記載はあるが、真っ当な職に就いているカタギらしい。友人関係ではないなら女だろうか。あいつって意外と悪い女に引っかかるタイプなんじゃねぇの。そう思いながら読んでいくが、恋人関係までは探れなかったのか、女関係は皆無なのか、それに関する記載は全くない。つまり目立った事がないという事らしい。


そして突然、菅野 陸斗の名前が出くるのだ。さて、ここはどう繋がっていたのかとじっくりと読み込むが、何度読んでも怪しいところはない。繁華街にある静かなバーで知り合った、という点は菅野が殺される直前、瀬戸組に詰められた際、そう漏らしたらしい。そのバーは瀬戸組がケツ持ちしており、菅野が面倒を見ていたところだった。菅野とは元々知り合いだったとあいつは言っていたが、それは菅野がヤクザだと知っていて仲良くなった、という事のようだ。ヤクザと知ったうえで仲良くなるなんて、昔のあいつからは考えられないが…。あいつの人生に何があったのか、嫌でも気になってしまう。とはいえ俺の知ってるあいつは、たったの高校三年間しかない。あいつだって変わるよな?


しかし頭を傾けて必死に考えても、やはり疑問は尽きそうにもなかった。どんなにこの情報を読んでも、この菅野という男と、あいつはただの飲み仲間だという報告だけで俺が得たい情報はないのだ。知り合いだったから、あの日、菅野は青木の命は助けるよう上に掛け合い、青木はこの世界に入ってきた、なんて何か匂うと思ってしまうのが当然だろう。


でもそれはあいつの高校時代を知ってる俺だから、そう言われてしまえばそれまでなのだが。斉藤が言う通り、あいつを探ったところで怪しいところは何も無い。強いて言うなら、何もない事が怪しい。俺の勘だけがあいつを怪しいと疑っているに過ぎないのだ。



「おい、斉藤。ちょっと来てくれ」



「はい」



書類に目を通していた斉藤を呼びつけ、部屋に入れる。何人かの若衆が斉藤の周りを囲んでいた。俺が顔を出すと「お疲れ様です!」と頭を下げている。



「何かありましたか」



ドアを閉めると斉藤は、デスクを挟んで俺の前に立った。



「何もなさすぎやしないか」



「青木、ですか?」



「あぁ。真っ白すぎる。なんでこの世界に入ったのか分からない」



「…そう、ですね」



首を傾げる俺に、斉藤は少し間を置いて俺から視線を外した。その視線の外し方はあまりにも露骨だ。ほーう。どうやら何か隠しているらしい。



「斉藤」



「はい」



「隠し事、ねぇよな?」



そう詰め寄ると斉藤の眉間に皺が寄り、急にしどろもどろと言葉を詰まらせる。



「いえ、あの、隠し事というわけでは…」



「何だよ。言ってみろ」



「あの……、えっと」



「斉藤」



「はい……」



「全部言え。命令だ」



斉藤の目をじっと見ながら圧を掛けると、斉藤は観念したようだった。



「……あの、…あんな大学の法学部を出た男が、小さな食品会社に勤めるかと思ったんです」



「まぁ、確かに。…それで?」



「それでその会社を調べてみたのですが、怪しいところはありませんし、確かに働いてたようですし嘘はないみたいで…」



そう言う割には少し目が泳いでいる。まだ何かあるんだろうな。



「その割には歯切れ悪いじゃねぇか」



更に詰めるように低い声でそう聞くと、斉藤は申し訳なさそうに口を開いた。



「そこに記載するほどではないかと思いまして」



「言ってみろ」



「…実は青木と話す機会があったので、元々、悪かったのかと、なぜ、この世界に入ったのかと、雑談混じりに探りを入れてみたんです。そうしたら青木、高校の時の同級生にヤクザの息子がいた、と答えたんです」



同級生にヤクザの息子、ね。



「その同級生、自分が他校の連中から絡まれた時に、そいつらを殴ってくれたそうなんです。その行動にかなり驚いたと言ってました。自分には、昔から友達と呼べる存在がなくて、自分の為に誰かを殴ってくれる人なんて後にも先にもその同級生だけだったと。でもその人、ある日突然、別れを告げて転校したそうなんです。悔しかったみたいです。行き先も告げず、消えてしまった事が。それでヤクザになったらいつか会えるかもしれないと、その時、思ったみたいで…。だから瀬戸組に引っ張られた時、この世界に入っても良いと、これは運命なんじゃないかなと思ったようなんです。青木は消えたその同級生を理解したかったと最後に言っていました」



どきりとした。愕然とした。俺は何も言葉を出せず、度肝を抜かれている。だってあいつはまるで俺を良いやつだった、と斉藤に伝えているのだから。斉藤の言葉はあまりにも恐ろしい。



「すんません、カシラ。調べさせてもらいました。その同級生ってカシラの事ですよね」



青木はなぜそんな風に言ったのだろう。本当は嫌悪し、目も合わせたくない存在だったはずなのに、そう俺をまるで助けてくれた恩人だと言うように本当の関係を隠すのはやはり何か狙いがあっての事、なのだろうか…。



「青木にその後、聞いたんです。その同級生ってカシラの事じゃないか、と。カシラと青木は年齢、出身地が同じだって事を伝えたら、青木、難しそうな顔をして答えてくれました。自分と同級生ってのはあまり大っぴらにしない方が良い、と。自分はどうしたって疑いを向けられる人間だから、俺と同級生という事が何か足枷になっては困ると。青木はかなり自分の背景を気にしているようでした。瀬戸組の一件でも確かに疑われていましたし、経歴を考えればヤクザである事が不思議でなりません。けどムショにいる安藤のカシラにも探り入れましたが、青木は白だと断言してました」



「……そう、か」



「確かに菅野の手引きで瀬戸組に入ったのは事実です。でも瀬戸組は青木を白だと最終的には判断しました。拷問もあったようです。無実を証明するために、酷い仕事もさせたようです。ただそれを全て熟した為、疑うのを辞めたと安藤のカシラは言ってました。それを聞いて俺も青木に怪しいところはないかと。それに、カシラを…その、長年、探していたみたいですし」



「…どういうつもりでそうお前に言ったんだろうな」



斉藤は俺の言葉に怪訝な表情を見せた。



「…あいつ、お前には重要な事を言ってない」



「重要な事、ですか…」



「あいつは俺を心底嫌ってた。高校の三年間、俺があいつから金を奪っては殴り、蹴り、恨まれるような事しかしてないからね。だからあいつがそこに触れずお前に語ったのはどうも引っかかる。あいつは今でもきっと、俺の事を許してないだろうからな」



「…そう、でしたか」



斉藤は視線を落とし、そうぽつりと吐いた。幻滅させたな。仕方がねぇよな。それが事実なんだ。少し間を置くと斉藤は眉を顰めたまま、また真っ直ぐ俺を見た。



「でも許してない、とは言い切れないかもしれません」



訝しげに首を傾げると、斉藤は続ける。



「最初に青木と話した時、その同級生は力加減をする人だと言ってました。どうすればその人が苦しむか、どうすれば死ぬか当たり前のように分かってると。だからヤクザらしいヤクザになるんだろうなと思ってた、なんて言ってましたが。青木にとってカシラは色んな意味で特別、だったのではないでしょうか。俺がその同級生ってもしかしてカシラのことか、と訊ねた時、ふっと優しく笑っていましたから。青木はどう見てもカシラを嫌ってるようには見えませんでした」



斉藤の言葉に俺は思っている以上に動揺した。青木は何を考えてそんな事を斉藤に話したのだろうか。


『俺がヤクザになった理由、お前にあるって言ったら、更にイライラする?』 


なんて馬鹿にしたように言っていたが、俺を探す為にこの世界に入ったと言うのだろうか。あいつは俺の事を恨んでいるに違いない。許してなどいない。嫌悪し、ふつふつと恐ろしい怒りを抱えているに違いない。殴られ、蹴られた男が運命だとか、俺を理解したいだとか言うはずがない。現にあいつは俺を組み敷き、「地獄へ落とす為にここにいる」そう言ってたろ。あいつの目的は俺を苦しめる事。


けれどあいつが言っていた言葉が全てだと思う一方、斉藤の言葉を信じたいと傲慢にも思ってしまう…。斉藤が青木の事をきっちり調べて俺に伝えても、やはり俺は半信半疑で、右腕の斉藤が言った事ですら信用できずにいた。


斉藤の言葉ですら信用できないのなら、俺はただ、あいつに恨んでると、だからお前の首を取りに来たと、そう言わせたいのかもしれない。それ以外の言葉は何ひとつ、信じる事ができないのかもしれない。それならやはり、試すしかねぇわな。 



「斉藤…」



「はい」



「イノグチ、まだ生きてるよな?」



「はい。だいぶ痛めつけたとは聞いてますが」



「見張り番に、今夜行くと伝えておけ」



「分かりました」



青木が人を撃てるか否か。それは試すだけだった。こいつに渡す銃は空砲であり、本当にトリガーを引けるか否かを見たいだけだった。


しかしもし引けなかった時、俺はどう動くのだろう。斉藤のいる前で、…いや、永井達もいるその目の前で。青木、本当にあんたは人を殺せんのか。腕時計の針が午後十時を指す。空は真っ暗で、月だけが空に浮かんでいて星はひとつもない。


俺は青木と斉藤と共に倉庫へと向かった。青木はひと仕事を終えた後だったらしく黒色のダブルのスーツを着ているが、どう見てもヤクザには見えなかった。相変わらず何もかもが面倒くさそうな面をして、後部座席の俺の隣に座っている。青木は人を殺せと命じられているのに緊張の欠片も見せず、ただじっと外を眺めていた。


俺はジュッとタバコに火を点け、ミラー越しに斉藤をちらりと見た。斉藤は特に俺達の関係を気にする事もなく、運転に集中しているようだった。



「いるか」



そう青木にタバコを一本差し出す。



「いりません」



青木は俺を一瞬だけ見るとそう即答する。可愛げというのが皆無なやつである。しかし一応、俺の補佐である斉藤が運転しているからだろう、青木は俺に敬語を使っている。そりゃぁ、いつもの調子で俺に話していたら俺達の関係を知らない奴らはこいつを殴りかねない。とはいえ、今回は涼司ではなく、ある程度の事を知っている斉藤だからいつも通りで良いのだが。そう思いながら、俺はタバコをふかした。



「…いつも通りで良いよ」



青木はその言葉を聞いて、外の景色から再び俺を見る。



「あー、そっか」



一瞬だけ斉藤を見ると、また窓の外へと視線を移す。



「なぁ、青木」



「何?」



「あんた最近、稼いでるみたいだな」



「そうだね」



青木は流れる景色をぼうっと眺め、そんな青木を横目に俺は窓を少し開けてタバコの煙を外に吐いた。



「どうやってあの人達からみかじめ取った?」



青木に与えたエリアはヤクザ嫌いが多かった。みかじめはもちろん払わない。だからタチの悪い客との揉め事が頻繁に起きていたが、それでもヤクザに払う金はないと断言していた人達だった。しかし青木に任せた途端、手の平を返すように払いだしたのだ。こいつの不思議なところが次から次へと湧いて出てくる。



「特別な事は何もしてない。前に管轄してた組員が脳なしだったんじゃないの」



青木は煽るような言葉を平気で口に出す。俺がその組の若頭で、運転席にはその補佐がいるにも関わらず。斉藤がキレやしないかと一瞬ひやりとして斉藤に視線を向けたが、斉藤はバックミラー越しに一瞬だけ青木を見て、すぐに視線を戻し、聞かなかったふりをしている。



「あんたって本当に口の利き方を知らねぇよな。そのせいで面倒な目に遭ってるくせに、何ひとつ学ばない」



「正直に言っただけだろ。前のやつは脳がなかった、そう思うほど特別何かしたわけじゃない」



「具体的にどうやったよ。あの人達をどう落とした?」



青木は俺の方を見るが、その顔には面倒くさ、と大きく書いてあった。



「ただ話しを聞いただけ。聞いて、会話をしただけ」



「話を聞いただけで落ちるような人達かよ。あんた、とことん秘密主義だろ」



「お前に秘密もクソもないだろ」



青木はそう静かに吐き捨てると、また外を眺めてしまう。そう言われてしまうと聞きにくいよなぁと俺は頭を掻いた。少しの沈黙の後、青木は口を開いた。



「怖がらせたり、脅したりするだけが手じゃない。その人は何を望んでるのか、金を払ってでもそうしたいと思わせる何かを提示してあげれば向こうも納得する。その何かを探る為に話を聞く。それを前のやつは出来てなかった。一方的に押しつけるヤクザらしいヤクザのやり方ってのは通用しないんだよ」



「一方的、ね」



ヤクザらしいヤクザのやり方。殴ろうが蹴ろうが、暴力では解決できないものもあるのだと、そう言いたいのだろうな。



「ま、稼いでやるから、そう不安な顔すんなよ」



こいつの狙いは分からない。俺の側にいる事が復讐なら、さっさと復讐すれば良いだろうが復讐らしい事は今のところ起きてないし、こうして組の為に仕事をしている。だからこそ、青木には証明してもらう必要があった。


しばらく車を走らせ、港にある倉庫へ停車する。倉庫内のカビの臭い、鉄の臭い、潮の臭い、すべてがごちゃ混ぜになった臭いが鼻を刺激する。俺は青木と斉藤を連れて奥へと進んだ。だだっ広い倉庫内に、小さなプレハブ小屋が建てられている。部屋のドアの前に見張りがふたり。強面な男達である。部屋の中は薄暗く、今から殺されるであろう男がひとり転がっている。ぐったりとして動く様子がなかった。部屋の端にあった錆びたパイプ椅子に永井は腰を下ろしていた。



「よぉ」



「よう。ご希望通り生かしてるよ」



永井の表情はとても険しく、俺と青木を一瞬見るとすぐにイノグチへと視線を戻した。そりゃぁ険しくもなるよな。刑事かもしれない男を組に引き込んで、舎弟として側に置いていたのだから。



「そいつ、本当に生きてンのか」



「生きてるよ」



永井は不機嫌で、それはもう下っ端がビビり散らすほどだった。忙しなく貧乏揺すりをしてはタバコを吸い、足元にいくつも吸い殻が捨てられている。俺は床で倒れる男に近付く。永井は生きてる、と言うが、イノグチという裏切り者はもうピクリともしない。手は後ろで縛られ、足もキツく縛られ、裸で、血か、何かよく分からないがとにかく汚れていた。相当、拷問されたのは一瞬見ただけでも分かる。顔は髪で隠れてよく見えないが、悲惨な事になってるのだろう。俺はその場に屈んで血でベトつく前髪を鷲掴み、顔を上げさせた。


さて、青木は驚いてるだろうか。顔見知りだろうか。同じ警察側の人間だったりするだろうか。この目の前の男の無惨な姿を見て何を思っているのだろうか。仲間がこうして野垂れ死にそうになっていたら、どう思うよ。


しかし青木は一切表情を崩さなかった。無表情にソレを見下ろして俺の視線に気付く。俺は目が合うと、反射的にその視線を外した。俺は再度イノグチを見て呼吸があるかを確認する。



「おい、コレ、気ィ失ってんのか」



「多分な」



「…斉藤、こいつを起こせ」



俺は立ち上がりながらそう斉藤に命じる。



「はい」



斉藤は奥にあった蛇口から水を出し、錆びたバケツにジャバジャバと水を浸している。それを永井はただ見つめ、水が満杯になる頃に俺の方を見た。



「…で、青木が殺すのか?」



「あぁ」



「…そ」



永井は青木をちらりと見ると、そう興味なさそうに呟いてタバコをまた目一杯吸い込む。永井は自分の手で始末をつけたかったようだ。それがこの機嫌の悪さの原因だろうなと、俺は山のような吸殻を眺めながら思った。最後はお前の手で落とし前つけさせてやるよ。


でもその前に、少しイノグチを利用させてくれ。青木がイノグチを殺すから生かしておけと伝えた時、自分の手で、と永井は悔しそうに吐いていた。だが俺はそれを断り、無理矢理のようにイノグチを殺す事を承諾させた。永井には青木の事は伝えず今に至る。永井に全て言ってやりたいが、こいつは驚くほど嘘をつく事が下手だから、少しの間、苛立っていてもらうしかない。


それにしても、永井はこのイノグチって男にそこまで入れ込んでいたとは驚いた。情なんてあまりないような男だと思ったが、そうではないのかな。そう淡々と考えていた俺に斉藤は「カシラ、」と声を掛けて俺を見ていた。斉藤は水で一杯になったバケツを抱え、イノグチの横に立つ。



「起こしてやんな」



斉藤は勢いよくその冷水をイノグチの頭にかけ、辺りは水浸しになり、奥の排水溝へと流れていく。目が覚めて、もし知ってる仲間の顔があったらどんな反応をするのかと、俺は一歩下がって青木とイノグチに視線を向ける。青木は顔に出さなかった。でも、イノグチはどうだろうか。頭から冷水を浴びたイノグチは口を大きく開けて空気を目一杯吸い込もうと必死になり、目をパチパチと開けては、状況を把握しようと咳き込みながら周り見渡した。永井を見て、俺を見て、そして青木を見る。



「あ、兄貴……本当すんません! 勘弁して下さい!」



だが、イノグチの表情も一切変わらなかった。青木を確かに見た。目が合っていたようだった。だがまるで赤の他人のように青木を見ていた。誰に命乞いをすべきか判断し、すぐに青木を視界から外したのだ。その視線は永井へと向けられ、永井へ命乞いをした、となると、イノグチも青木も互いを知らない? 青木が警察ではないのか、それともふたりとも、白、なのか。永井はタバコの煙をもくもくと吐き出しながら、イノグチを見下ろしている。



「殺されたくないなら、いい加減本当の事を言いな? 死にたくねぇんだろ? そこにいんの、お前もよーく知ってる本家筋の赤澤くんよ、赤澤くん。葉山組のカシラよ。こいつが殺さないと判断すりゃぁ、お前は生きれんの。俺達はただ情報が欲しいだけだから。だから言って楽になれよ、なぁ?」



永井はイノグチを吐かせたいと必死だった。確信が欲しいのだろう。自分が警察を引き込んだなんて、信じたくねぇもんな。



「情報ったって…俺は本当に金が欲しかっただけなんすよ! 女と一緒に暮らしたかったんすよ! 銃を持ってったのは、絶対…追われると思ったからで…自分とあいつの身を守る為で…」



永井はそこまで聞くと俺の方を見た。俺は何も言わず永井を見る。まだ殺さない、話を聞きたい、そういう意味だった。永井はそれを汲み取り、イノグチの頬を乱暴に鷲掴むと「あれ、偽札だって知ってたろ」と低い声で詰め寄った。



「そ、れは…」



「隠し事すンなって言ったよな?」



さて、どう言い逃れするのだろう。大量の偽札を持って女と逃亡したかった、なんて意味が分からない。お前がただの馬鹿なチンピラヤクザなら、本物の金持って逃げれば良い話だ。本物ではなく敢えて偽札を盗んだのはお前が警察で、摘発するための証拠にしたかった。そうだろ。



「…かと思ったから」



ボソッと呟かれた言葉に永井は眉間に皺を寄せて「あ?」と聞き返す。



「組の金に手ぇつけたら…大きなマイナスを生むと思ったから…そしたら、兄貴、困るから…」



イノグチは今にも泣きそうな顔でそう呟くように言った。これは演技なのだろうか。永井は大きな溜息をついて、困ったように俺の方を見た。どうする? そう言ってるらしい。どうするも何も、こいつは青木を試すための道具でしかない。生かすも殺すもお前次第だ、と永井には言わず、青木に空砲の銃を渡した。それを見てイノグチの顔色が変わる。同時に永井の様子も少し、ほんの少しだけ変わったように見えた。苛立ちや怒りに身を任せるような態度だった永井の顔から怒りは消え、表情はどこか曇っている。



「ごめんなさい、兄貴! 本当、もうしません! 兄貴! いやだ、死にたくない! いやだぁあ!」



「もう無理だろ。足掻くのはやめろ、みっともねぇ」



永井はそう吐き捨てると新しいタバコに火を点けて、イノグチに背中を向けた。俺を一瞬だけ見ると、何か言いたそうな顔をして、何も言わず俺の横に肩を並べてイノグチを見下ろした。



「青木、一発で仕留めろ。撃ち方が分かんねぇ、なんて言わねぇよな」



びーびーぎゃーぎゃー喚くイノグチを目の前に、俺は青木の後ろ姿を見ながら圧を掛ける。青木は銃を握ったままその手を軽く上下させ、俺の方を向くとほんの少しだけ口角を上げた。



「大丈夫よ。"あの時"も弾が入ってたら、ちゃんと脳天ぶち抜いてたから」



青木は揶揄うようにそう言って、いとも簡単に引き金を引く。イノグチは悲鳴をあげる。永井は目を細めてその光景を見ていた。しかし、銃弾は出ず、イノグチの脳天は弾かれない。青木は空砲に目を見開き、俺の方を見る。



「あれ…?」



青木は拍子抜けしたようだった。青木が何の躊躇いもなく引き金を引いた事に、イノグチという男を殺せるという事実に、俺は心底ほっとしていた。



「これ、弾、入ってない」



青木は中を確認して弾が入ってない事を俺に見せている。怪訝な顔をする青木に、俺の口角は安堵に緩みそうになった。俺は銃を受け取り、ポケットに入っていた銃弾をひとつひとつ丁寧に入れ直す。



「永井、こっからはお前の好きにしろ。この阿保の始末は責任持ってお前で決めろ」



「……は? え? どういう事よ」



永井の目は点になる。



「そのままの意味だ。この事に関して親父は知らない。叔父貴はこの事を知っていて全部お前に任せてンだろ? だったら好きにしろ」



永井に銃を渡し、俺は青木と斉藤を連れてその部屋を出た。見張り役のチンピラが俺に頭を下げ、俺達は車へと戻る。永井はあのチンピラとふたりきり。さて、どう落とし前をつけるのだろうかと考えていると、骨に響くような破裂音が一発、倉庫内に響き渡った。倉庫から出る直前だった。その銃声を聞いて隣を歩いていた青木の表情が一瞬、ほんの少しだけ変わった。あれだけ無表情を貫いていた青木の眉間に皺が寄り、すぐに元の表情に戻る。俺はそれを見て見ぬフリをした。


しばらく車は走り、マンションの前で車が停まる。斉藤は後部座席のドアを開けて俺は外へ出る。



「涼司には明日の三時に迎えに来るよう伝えてくれ」



「分かりました」



斉藤が頷いたのを確認し、俺は再び車内を覗き込む。



「あんたも降りろ」



その言葉に青木は俺を見上げて眉間に少しだけ皺を寄せたが、何も言わずに重い腰を上げ、ドアを開けて反対側から外に出た。斉藤の方に向き直り、「後は頼んだ」と伝えると、「分かりました。失礼します」と斉藤は頭を下げて俺を見送る。青木は不満そうな顔で俺の後をついて来た。エレベーターホールでエレベーターを待つ間、青木は「用事はすぐ済むのか」と大儀そうに訊ねた。「あんた次第だな」と返すと、「あ、そ」と返ってくる。


部屋に着き、中へ入ると青木は欠伸をひとつしてソファにどんと座る。俺はジャケットを脱ぎ、冷蔵庫から冷えたビールを二本取り出して一本を青木へ渡す。青木がそれを受け取った後、横にあるシングルソファへと腰を下ろした。



「あんたはこの世界に向いてない」



「急に何よ?」



カシュッと音を立ててビールを開けた。一口飲み、淡い炭酸を喉で感じる。青木は蓋を開けず、缶を片手に俺を見ていた。じっと相変わらず警戒して壁を作っているように見えた。



「倉庫出る時、銃声を聞いてあんた、顔を顰めたろ」



そう詰めるように言うと、青木の視線がすっと下がる。それが意味している事は何だろうか。ここにいるのは何か目的があっての事。ヤクザなんてと見下し、鼻で笑ってるのか。そうである方が過去のこいつを考えても、こいつの経歴から見ても随分と納得はいくのだが、青木は何も答えなかった。否定も肯定もしない。



「何か言え」



せっつくと青木は溜息を吐いた。



「俺はお前が思うような人間じゃない」



俯いたまま、そうぽつりと吐き出される。



「つまり?」



「人が死ぬ事に対して慣れるほど俺はこの世界にまだ慣れてない。疑われて、その疑いを簡単に晴らせるほど俺に証明できるものはない。…でも、俺はお前が疑うような存在じゃない」



「イノグチを見たろ。アレは組の裏切り者だ。それを、あんたは躊躇なく引き金を引いた。けど永井が撃った一発には反応した。あんた、本当はイノグチを助けたかったんじゃねぇのか」



「俺はお前に始末しろと命じられて、きっちり撃ったろ。アレに弾が入ってたらイノグチは始末できてた、違うか? 俺はただ銃声に反応しただけだろ。人がひとり死んだ。無感情でいろって方がおかしいんじゃないのかよ」



青木は呆れたようにそう吐くと、苛立つように頭を掻く。確かに、青木の言っている事はその通りだった。銃声一発で顔を顰めたからという理由だけで青木を疑ってしまうのは、やはり、青木の過去を俺が知っているから。もしこいつの過去を俺が知らなければ、俺はきっと、こいつを真っ白に置いている。



「……なんて、お前に何を言っても無駄なんだろうな。なぁ、赤澤。正直に言えよ。お前は俺を何だと思ってンの」



「さぁ、な。分からない。でも俺はやっぱり信じられねぇんだよ。あんたがこっち側の人間だなんて未だに信じられない。いっそ警察でした、だからお前の息の根を止めに来ました、ってオチの方がうんと納得できる」



結局は何をどうしたって納得はいかないのだろう。青木は俺をじっと見た後、ぽつりと吐き出した。



「この世界じゃ俺は異質だと分かってる。どれだけ足掻いても必ず俺は疑われる。仲間が警察に捕まったら、ガサが入ったら、情報が漏れたら、裏切り者がいたら、疑われるのは必ず俺だ。そんなの分かりきってる。俺の過去を知ってるお前なら特にそうだろうって事も」



そこまで早口で言うと青木はビールを少し乱暴に音を立ててテーブルに置いた。立ち上がるとジャケットを脱ぎ、シャツのボタンをひとつひとつと外していく。



「信用に足る人間だと証明するのは他のやつらよりうんと苦労する。エンコ詰めて、はい許します、って世界ならどれほど良かったか」



青木は目の前でひらりとシャツを脱いだ。俺はただその姿を見て、目の前のそれに愕然とした。あの日、こいつの体を見た時は他のアザの方が目立って気付かなかった…。



「菅野さんが殺された後、俺も仲間だと疑われた。疑われて、殺されかけた」



青木の白い腹には3つの刺し傷が深々と残っていた。数センチほどの長さ、内蔵にも傷が入ってると思うほどの深さはあったろう。それほど傷痕は大きく、生々しく残っている。



「お前なら分かるんじゃないの? 組に大きな損害を与えた組員が実はマトリかもしれない、マル暴かもしれない、裏切り者かもしれない、そう一度疑いを掛けられたらもう逃げ場はないってこと。そいつを吐かせるためにはどんな手でも使ってさ。…傷はこれだけじゃないよ。背中はもっと酷い。それでも俺は死んでない。殺されてない」



青木は淡々と説明するとシャツを着直した。ボタンをひとつひとつと溜めていく。



「お前が俺の事を信じられないのは理解してる。俺はお前を目の敵にしていたし、刑事になりたかったのも本当だから。でも現実はそうじゃないって事、良い加減、分かってくれよ…」



青木は悔しそうに表情を歪めると俺をを見下ろした。



「俺の命はお前のモンだって言っても、お前は信じねぇよな」



その言葉に何かが胸につっかえた。ぐっと苦しくなり、どうすりゃぁ、楽になれるのだろうと眉間に皺を寄せる。



「…なぁ、」



青木は怪訝な顔をしていただろう俺に、そっと腕を伸ばした。



「俺は確かに下手打って菅野さんの手引きでこの世界に入ったよ。でも根本の理由はお前だ。お前を探す為に、俺はこの世界で生きていこうって決めたんだよ」



「なんで、そこまで……」



そう戸惑いを隠せずに言うと、青木はふっと笑い出し、何が面白いのかケタケタと肩を震わせた。



「おい、青木…」



冷たい手が頬に寄せられ、やけに甘い目を向けられる。



「…どーせ、言っても信じないんだろ。だったらお前が欲しい言葉をあげる」



青木はそう言うと、優しく微笑んだまま続けた。



「お前の事は許してない。お前のその座をいつか奪って、お前の上に俺が立って、いつかお前が俺の為に命を張るの。そうなった時、俺はお前をちゃんと地獄に突き落とす。だからその時まで、しっかり若頭を全うしろよ、ね?」



どーせ、言っても信じないんだろ。……か。本音は何だよ。なぁ、青木。お前は、何を考えて俺の側にいるんだ。



「人を殴る事もできないあんたには、そう簡単に奪えねぇよ」



「さぁね、どうだろ。やってみようよ」



「………青木、あんたは、俺を若頭の座から下ろしたいだけなのか。俺の側にいる理由は、」



「言っても信じないものは口に出したくない。良いじゃない、それで。俺はお前を若頭の座から突き落として、地獄を見せてやろうと思ってんの。それで、良いじゃない。それとも、そう宣戦布告されると、俺が怖い?」



「あんたは警察側の人間じゃないと、否定すんだな」



そう青木の目を見上げた。青木は優しく微笑んだままだった。ゆるりと口角をあげ、頬に寄せていた掌を俺の後頭部に回し、髪を優しく撫でるように掴むと、視線を合わせ、楽しそうに呟いた。



「刑事になりたかったのは子供の時のただの夢。今はこうしてチンピラヤクザやってんの。虎視眈々とお前を蹴落とす事ばかりを考えてんの。…こうして、お前の上を取ってさ、喉笛に噛みついてやろうと考えてんの。だから安心して良いよ? 俺はお前の側にいるからさ」



「……安心、できるかよ。そんな考えのやつ、側に置けるわけないだろ」



「じゃぁ手離す? 俺は良い部下だと思うよ。野心溢れてさ」



「俺の座を奪う為に、だろ?」



「そう。気を付けろよ。俺、仕事できるから。あっという間にお前の座を奪うから」



冗談なのか本気なのか、もはや分からない。ただ、青木はとても楽しそうで、俺は困ったように笑っているのだろう。



「……そうかい」



そうして甘い瞳が俺の目を見下ろし、唇へと視線が流れる。



「赤澤、」



「……何だよ」



「俺、もう後戻りできないから。お前が望んだように落ちて来てやったんだから、少しは喜べよ」



斉藤が言っていた。瀬戸組で疑われた時に、こいつは過酷な命令をいくつも聞いたのだろうと。全てを飲み込んで実行したからこそ、瀬戸組での疑いは晴れたのだろうと。全ての命令を聞いて、足掻いて、それでも疑われて、殺されそうになって、ただひたすらに無実だと言い続けた。…こいつは本当に、白、なのかもしれない。俺がただ過去を知ってるからという理由だけで否定したかっただけなのかもしれない。良い加減、受け入れる覚悟を持つべきなのかもしれないな。



「俺の事、信じられない?」



青木は困ったように眉を下げ、不安そうに口角を上げる。そんな顔、今まで見た事がなかった。


『…消えたその同級生を理解したかったみたいです』


そうこいつが言ったと、斉藤は言っていた。俺がこいつに別れを告げたあの日の放課後、屋上でこいつはじっと街を見下ろしていた。あの時のこいつの表情を思い出す。あの日、俺はこいつに何を言いたかったのだろう。言うべき事はゴマンとあったのに、何一つ言わなかった。いや、言えなかった。永遠の別れだと思って離れたあの瞬間、これで良いと、心の底から思った。


ひどく重い執着ってのはジリジリとぶり返し、雁字搦めにしては俺の思考を鈍くする。マトモな考えってのができなくなり、何もかもがどうでもよくなる。嫌だな。面倒だな。


あぁ、本当に、反吐を吐きそうだ。



「………赤澤、」



「考えても、考えても、答えは出ないのにな」



青木が俺を見下ろす。意を決したように、表情は少し硬い。



「あの日からだ」



「………」



「お前が俺の前から去ったあの日から、俺はお前を見つけだそうって、そう誓った。だって俺、お前の事は何よりも嫌いだから。大嫌いだから。………なぁ、お前もそうだろ?」



許されるわけねぇのにな。



「あんたの事を好きになった事なんて一度もねぇな」



「ふふ、……だよな?」



青木の甘い香りを嗅いだ。青木の噛み付くような口付けに、余裕が奪われていく。柔らかい髪に指を絡めて唇を離し、そっと青木の顔を見た。



「抵抗しないんだ?」



「して欲しかったのか」



「さぁね。どうだろ。嫌がるお前を無理矢理に組み敷く事も最高に良いけれど、ちゃんとお前の事、見たいから。俺がいつか泣かせる相手の顔や体を、しっかりと見ておきたいからね」



青木はそう揶揄うように笑う。片膝を俺が座るソファの脇に入れると体をぐっと近付け、じっと俺の目を見下ろす。次に鼻、そして唇へと視線を移す。そうまじまじと見られると、なんだか居心地が悪くなり、視線を外すと前髪を鷲掴みされる。眉間に皺を寄せると、「怖い顔」と楽しそうに笑われる。その手を解こうと青木の細い手首を掴むが、青木は一向に俺の髪を掴んだままだった。



「良い加減、離せよ…」



「そうやって嫌がられると、やっぱちょっと興奮するよね」



「あんたって、そういう趣味だったのか」



そう睨むように吐くと青木はパッと手を離し、俺の首筋に軽くキスを落とした。



「お前も大概だろ。高校生の頃は逆だった。お前が俺の髪を掴んで、好き勝手したろ?」



「……ならこれは仕返しか?」



「そうだね。仕返しかな」



「…趣味悪いな」



「そう? 趣味悪くても、俺はこうしてお前を見下ろしてる時が一番心地良い」



そう言うと俺の首元に顔を埋め、そこを甘噛みする。



「俺ね、お前の香水結構好き。お前がいるとすぐ分かるのな」



軽く甘噛みされ、ちくりと淡い痛みが走る。俺は顔を顰めて青木の胸を力なく押し返した。



「痕、つけんなよ…」



けれど青木はやはりとても無邪気で楽しそうだ。



「マーキングしたくなるのかもね。だってお前、いつも良い香りがするから。高そうな良い香り。この前も思ったけど、お前って、首筋と、」



そう言いながら慣れた手つきが下へ下へと下がっていく。ベルトを外し、ジッパーを下ろす。冷たい手が触れると、つい体は緊張した。



「……ッ」



「下腹部、」



青木は床に膝をつき、下腹部に甘く唇を寄せた。



「それと、内腿に、つけてるよね?」



「……あんた、犬みたいだな」



「俺は鼻が良いの」



悪戯な顔をする青木を見下ろすと、伏せられた瞳に心臓が速くなる。何の躊躇もなく咥えたこいつの考えている事が全く分からず、そしてこれが現実かどうかも、急に定かではなくなったような気がした。心臓が痛い。煩い。顔が熱い。体が熱い。



「正直な体だよなぁ。ま、俺も人の事、言えないけど」



面倒な事になる。厄介な事になる。これはかなり危険なんじゃないだろうか。こいつとの関係は、切るべきなんじゃ……。



「……ッ、久しぶりに挿れたけど、…やっぱ苦しいよね」



焦る俺とは裏腹、青木はこの状況に心底満足しているようだった。俺の上を跨ぐと、ゆっくりと腰を下ろして頬を赤く染める



「青木、」



「お前さ、下になるのすげぇ嫌だろ。この前は無理させちゃったし、今日は良いよ、俺が下で。俺がお前に抱かれてやるから好きにして良いよ。……それに、俺の体はもうお前のモンだからさ」



苦しそうに笑う青木を見上げながら俺は呼吸を整えた。もう、後戻りはできない。それはきっと俺も。



「……ッ、俺が嫌がる事、したいんじゃねぇのかよ」



熱い息に思考が鈍くなる。急激な快楽に体も脳も追いつかない。



「良いんだよ。お前は俺とヤる事自体、嫌…なんだから…ッ」



青木はそう揶揄うように笑っている。



「…そうだな」



「…ん、…お前ほど嫌いな人間、この世にはいないからさ」



半開きになった青木の唇に噛み付くように唇を寄せた。切羽詰まるように互いに肩で息をしては、余裕もないのに余裕ぶる。軋むソファの音、乾いた肌と肌がぶつかる音、声にならない声が漏れていた。何時間経っただろうか。甘い疲労感に息を吐き、ふたりしてベッドに横になる頃にはすでに陽が昇っていた。



「赤澤…」



青木は俺の頬に手を寄せて困ったように眉を顰めて笑った。



「…ん?」



「………お前はやっぱり、阿呆だよな」



青木を信じる事が破滅に繋がると分かっているのに、俺は再会したこの男を、もう二度と手離したくなどなかった。

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