1. 赤澤と青木

この世の中、生まれたときから不公平。何をどうしたって覆らないものはある。どんな努力をしたって変わらないものはゴマンとある。



「おはようございます!」



チンピラ共に頭を下げられ、「おう」と低い声で返す。いかにもって感じだろう。この世界が好きなやつ、この世界でしか生きられないやつ、この世界に縋るやつ。

そういうやつは沢山いるが俺は少しばかり違った。


この世界でしか生きられない、のは確かにそうかもしれないが、俺はこの世界にはどうも馴染めずに、どこか義務のように居座っていた。ただ昔から俺の周りには少なからず人が集まり、そつなくこなしては出世する。それが才だというのならそうなのだろう。


極道なんて死ぬ程生きにくい。不幸にも俺は生まれた時からそんな極道世界にいた。指定暴力団、関東船木組直系、葉山組組長赤澤連太郎、その男の長男としてスクスクと俺は育った。先代、船木組直参、葉山修蔵という昔気質な極道に可愛がられていた父、連太郎は自分の組は持たず跡を継いだ。親父は俺を雁字搦めにするように、極道世界へと引き摺り込んだ。


子が親を選べねぇってのは、なんというか悲しいもんだなといつも思う。親父は極道世界のイロハを小さな頃から叩き込むような奴で頭の固い男である。男とはこうだ、女とはこうだ、ってのを四六時中言うような親父だ。母はそんな親父の良き理解者だろう。まさに極道の妻という感じで、いつも格好が良く、凛として美しく、情に厚く、賢くをモットーに生きていて肝の据わった人だった。


けど俺はどうも昔からそんな世界が好きではなかった。だからよく母方の祖父母の家に逃げ込んだ。ばぁちゃんが観ていた岡っ引きが大活躍する時代劇物とか、渋い刑事が名推理を披露するサスペンスドラマとか凄く好きだった。だから小さい頃の俺の夢は刑事だった。悪い奴を成敗。正義を守るために渋くキメやがる。


だからまぁ、極道の子供は刑事になれないって知った時は酷く悲しかった。そういった法律はないと言うけれど現実はいつも残酷だ。この稼業を選んだ父を死ぬ程恨んだ。ここの子供である事を死ぬ程恨んだ。けれど恨んだところで状況は変わらない。


そんな刑事になりたかった俺の学生時代は、ヤクザの子ってわけで皆んなと仲良く過ごしましょう、なんてお友達と仲良しこよしとは程遠い生活を強いられてきた。蔑視される事がほとんどで、俺と関わろうとする人間はほとんどいなかった。ただ、一部からは人気だった。それが所謂不良である。喧嘩なんて好きじゃない。ヤンキーも好きじゃない。なのに高校ではろくに喧嘩もせず番長的な位置にすぐ収まった。理由は簡単。誰も喧嘩をしたがらないから。


けどまぁ、悪い気分ではなかったね。正直、天下を取った気分だったね。高校では他人の喧嘩を毎日毎日眺めてはわりと楽しく暮らしていた。


ただひとり、同じクラスにいる男が気に食わなかった。いつもツンと澄ました顔で、喧嘩もせず真面目に勉強ばかりしているそいつは成績はいつもトップだった。真面目な学生は一定数いた。俺を含め荒れた学生もいたが、賢い連中もいたし、毎年偏差値の高い国立大学や難関私立と呼ばれる大学に受かる学生はまぁまぁな数で必ずいた。


けどそいつはちょっと違う。俺はお前ら馬鹿とは違います、って明らかに顔に書いてあんだ。しかもそいつ、将来の夢は刑事だと言う。気に入らねぇよな。自分が憧れに憧れた職をこうして目の前で掴もうとされてるとさ。ガキの俺は死ぬ程気に入らなかった。苛立った。それはもう、自分でもなんでそんなに腹を立てているのか分からないくらい、そいつを見るだけでも腹が立った。


だから事あるごとに俺はそいつを殴った。澄ました顔が気に入らねぇ。見下したような目が気に入らねぇ。あんたのやる事なす事全てが気に入らねぇ。腹が立つんだよな。ある日の放課後、俺は不機嫌だった。



「…赤澤……!」



優等生の青木くん。いつも澄ました顔の青木くん。死ぬ程真面目で賢い青木くん。吐き気がするほど嫌いだった。



「2万でいいんだぜ、2万。俺ね、今月すっからぴんなの」



「ないよ、そんな金」



「金持ちのお坊ちゃんが何言ってんの。いいから寄越せって」



あいつの腹の立つ顔を殴る時、少しストレスは軽減する。きっとあいつの苦痛に呻く顔が俺のストレスを和らげる薬らしい。



「そんな金、…本当にねぇって!」



ボッコボコにしてやってよ。プライド高いから、あいつは親に泣きつくことは絶対にしなかった。泣きつかれてたら俺も少しはヤバかったかな? 反省したかな? ま、しねぇか。


あいつも俺の事は心底嫌いだったろう。毎日毎日暴力を振るった挙句、そいつの全裸の写真を撮った事もあった。そんでケタケタと笑ってやったっけ。そうしたら数日後、その変態写真はどこぞの誰かが学校の裏掲示板とやらに載せて問題になった。


誰がやったんだろう。俺の取り巻きのうちのひとり? まぁ、誰でも良いか。あれ、よく撮れてたし。けどネット社会ってのは怖いんだ。一気に広がり、女子全員があいつの事を不気味がった。そりゃそうだろうな。まともに口も開かねぇし、会話もままならない。その割にプライドはえらく高い。勉強だけは出来て、出来ないやつは見下すんだ。怖いねぇ。サイコパスだってもっぱらの噂だった。クラスの可愛い女子がある時言った。



「赤澤くん、青木くんに刺されちゃうかもよ。あまり、いじめない方がいいよ」



と。かなり勇気を振り絞って言ってくれたのだろう。普段、マトモな連中は俺と目も合わせないのだから。でもその子は俺の事が好きだったみたいで、だから心配してくれたらしい。ありがとう、でも大丈夫だよ、そう答えるとその子は頬を少し赤らめてやけに嬉しそうな顔をした。


その日、俺はいつものように青木を殴りながら考えていた。こんなやつ、俺を刺せるわけがねぇよな、と。それでも青木はやっぱりどこか変なやつで、変態騒動があった後、あいつは1週間ほど学校を休んだが、また何事もなかったかのように登校した。本当に、何もなかったかのように。その日の放課後、もう来るなよと青木の顔面を殴る俺に、青木は鼻血を流しながら「可哀想に」と鼻で笑った。俺の取り巻き達の前で「ヤクザの子って本当に馬鹿だよなぁ」と付け足して。


俺は誰とも連む気はなかったが、勝手に周りに寄ってくるのがたまたま見た目が派手なヤンキー共だった。そんな奴らも一応は俺を慕ってるわけだろ? だからそいつらの前で馬鹿だよなぁ、なんて笑われたらこっちとしては黙ってられない。気付いたらあいつをまた殴っていた。蹴っていた。誰も止めには入らなかった。あいつは気を失う前に俺を睨みつけながら言った。



「…お前みたいな奴をいつか滅ぼすために俺は刑事になるよ。お前みたいなクズをこの世から消すために! ヤクザの子なんて所詮クズだもんな!」



ショックだったなぁ。そして、腹立ったわな。俺だってヤクザ好きじゃないぜ? 極道なんて美しく言うけどよ、所詮ヤクザはヤクザだし。けど他人に自分の親父を馬鹿にされるのは違うだろ。そんで何がショックって、ヤクザの子で括られるんだなと改めて実感して、なんだか全てが嫌になった。そうか、俺はヤクザの子なんだなと。


あいつは言うだけ言って気を失い、俺は何も言わずにその場を後にした。とにもかくにも俺はあいつが嫌い。あいつも俺が嫌い。


青木という高校の同級生は、イライラするほど真面目君で、勉強が出来るから人を見下して馬鹿とは話したくないと口はあまり開かない男で、将来は、俺みたいなクズを滅ぼすために刑事になるとほざいていた。


なのに、どうしたもんか。



「何、やってんの」



俺が再び会ったその男は、殴られて右眉を少し切り、鼻血を出して顔は血だらけ、チンピラがいかにも着ていそうな派手な柄物のシャツを着ていて、路地裏でぶっ倒れていた。



「赤澤の叔父貴!」



殴っていた若いのは俺がよーく知っている奴らで、俺の頭には無数のハテナマークが並んでいる。久しぶりに再会した苛つく男は刑事になるはずだったのに、どうしたものかチンピラヤクザになっていた。船木組の三次団体である俺の組の傘下にある蘭戸組のチンピラに成り下がった男は、高校の時の面影をまだ少しだけ残していたが、かなり変わっていた。


二年前に組を構えたばかりの蘭戸組組長、蘭戸 栄之助はもとは葉山組の組員だった。長年、自分の組を持ちたいとコツコツ泥臭く生きてきた男がようやく、葉山組組長である俺の親父の後押しで組を構えた。つまり、この血だらけの男が蘭戸組のチンピラなら、俺はまたこいつに苛々する日々を送らなければならない、という事かもしれない。まったく。どんな運命の悪戯だよ。



「こいつ、何したんだ?」



「永井の兄貴を怒らせちまったんすよ」



そう困ったように言う蘭戸組の若いのと、ぐったりへばっている青木君。ワケがわかんねぇなと俺は可笑しくて堪らない。 



「何、女でも寝取った?」



「いえ、そんなんじゃないんす。タバコっす、タバコ。兄貴のタバコ間違えたんすよ。だから体に叩き込めって」



「あー、あいつのやりそうな事よな」



とんでもなく短気な永井の下につくなんて、こいつもついてねぇなと俺は青木を見下ろした。青木は俺の方を見もしない。ざまぁねぇな。お坊っちゃん。あんたは人を見下しては殴られるね。もっともっと殴られろよ。ついでに夢や希望もなくしちまえよ。そう青木を見ていると、昔を思い出してはやっぱり腹が立った。



「まぁでも、それくらいにしてやんなよ。永井の怒りはどーせもう消えてるんだろうしよ。お前らもさっさと中入って、あいつの太鼓持ちでもして小遣い貰え」



俺の言葉に若いのはケラケラと笑う。俺はしゃがみ込むと汚いゴミ箱に寄りかかる青木の顔を覗き込んだ。



「良かったな? イケメンにしてもらってよ」



相変わらずだった。青木は俺の目を見ると虫唾が走ったと言わんばかりに嫌悪丸出しの表情となり、キツく俺を睨む。威勢が良いけど立場分かってんのかよ、こいつ。



「テメェこら、何睨んでんだ」



ドスの効いた低い声で若いのが青木の顔面に蹴りを入れた。ま、そりゃそうなるわ。俺はあんたのとこの組員ではないけどさ、一応同じ船木組であんたの組より格上だし、それに俺も今や若頭なのよ。あんたひとり、本当に殺せちゃうよ。そんな事は面倒くさいだけだからしないけど。



「すんません、叔父貴。こいつうちに入ったばっかで、礼儀とか本当に知らなくて」



「ならこの世界のルール教えてやらなきゃな? 永井のタバコの件もあるしなぁ。おい、原ァ、あいつが吸ってるいつものタバコ持ってんだろ?」



「え? あ、はい。ありますよ…」



「一本くれ」



「はい」



一本のタバコを取り出し、俺はデュポンのライターで火を点ける。ふぅと青木の顔に煙を吹き付ける。青木は煙たそうにもせず、顔色も一切変えず、スカしてやがる。昔っからこういうとこ、あったなぁ。嫌いだったなぁ。



「お前らこいつを押さえてろ。俺がこの世界がどういうモンかを教えるからよ」



若い奴らは身動きが取れないよう青木の腕を押さえつけ、青木はそれでも顔色を変えずにただじっと俺を睨んでいた。



「新人くんよぉ、ここは素直に申し訳ございませんでしたって泣いて詫びるところだろうがよ。ん? あんたは少し、この世界を知った方が良いやなぁ」



相変わらず白い青木の腕に俺はなんの躊躇もなくタバコを押し付けると、さすがに青木は痛みに顔を顰めて歯を食いしばった。



「永井はびっくりするくらい短気だ。それに暴力も大好きだ。だから気ィつけな?」



忠告してやってんのに青木は無視を決め込んだ。俺を睨む様に一瞬だけ目を合わせると、痛みに顔を顰めて目を伏せた。だから青木のその長い前髪を鷲掴み、俺の方を見るよう顔を無理に上げさせる。明らかな屈辱を受けて心底嫌悪してる顔だった。


なんでこいつの事、こんなに嫌いなんだろうな。分からないが昔っから、本当、反吐が出るほど嫌いなんだよな。だからこそ、こいつの今の状況、死ぬほど面白いし楽しいのだ。



「落ちるとこまで落ちたなぁ」



俺はそう呟いて立ち上がり男から離れた。



「永井はまだそこの店だろ?」



「は、はい!」



若いのは威勢よくそう返事をした。



「ん、了解。お前らそいつ、しっかり躾とけよ? じゃぁな」



「は、はい!」



全く、青木くんよぉ。あんた何してんのよ。刑事になるんじゃなかったの? そんで俺みたいなのを滅ぼすんじゃなかったの? けどまぁ、落ちるとこまで落ちてきて良いねぇ。あんたが苦しんでんの、俺はすげぇ楽しいよ。



「あ!赤澤ちゃーん! こっちこっち!」



「おう。元気そうだな」



繁華街の少し外れにある落ち着いたバー「Lucy」。外れにある割に意外と可愛い女の子が揃っていると有名で蘭戸組がケツ持ちしている。そのバーのカウンター席で、永井は満面の笑みを浮かべて俺に手を振っていた。永井は端の席に腰を下ろし、ここのママ、と言うべきか女主人と言うべきか、若いが貫禄のあるハズキさんにウィスキーを注いでもらっていた。



「元気してたかよ!兄弟!」



隣に腰を下ろした俺の肩をバシバシと叩く調子の良いこの男は、気分の上がり下がりが激しく、たまに俺でも手に負えないのである。がしかし、今はどうやら上機嫌らしい。外でこいつの下っ端達はこいつの機嫌が悪いとビクビクし、あのチンピラ風な青木を殴っていたというのに当の本人はこの調子だ。



「元気だよ。調子は悪かねぇな」



「だろぉな!若頭だもんなぁ? くぅー。やっぱりお前がなったか、若頭は」



「成り行きだろうよ」



「まぁたそんなこと言ってぇ。謙遜すンなよ。お前の力はどいつもこいつも知ってンだからよ!」



ニコニコとやけに笑っている目の前の男は、どうやら何か良い事でもあったみたいだ。こんなに上機嫌のこいつは久しぶりだなと思いながら、俺はハズキさんに永井と同じウィスキーのロックを頼む。



「そんな事より、外、騒がしかったぞ。路地裏とはいえ一応は繁華街だ。サツ呼ばれたら面倒なんじゃねぇのか」



「でもここは外れだしよ、警察様なんて滅多に来ねぇよ」



「殴られてたあの新人、最近入ったのか」



「ん? あぁ。もともとは瀬戸組の幹部だったンだよ。でもあそこ、ほら、ニヶ月前にガサ入って壊滅したろ? 瀬戸組長も安藤の叔父貴も逮捕されてよ。幹部相当、持ってかれちまったじゃねぇか。それで、残った幹部を何人か預かる事になってな。けど、あいつだけはどーも好かなくてよぉ。下っ端やらせてんのよ」



あの青木が瀬戸組の幹部? 同じ船木組系とはいえ、瀬戸組は金の稼ぎ方が汚いと有名だった。主にヤクで稼いでいるが女子供だって売り払う。金の為なら何だってする組で、あまり他の組からよく思われていなかった。そんな汚ない組の幹部に成り下がっていたとは、人生とはどうしたもんか。高校の頃のあいつを知ってる俺からしたら、ちょっと信じられる話じゃない。



「タバコ間違えただけでボッコボコにされちゃぁな。あの新人、辞めたがるんじゃねぇのか? あんま虐めんなよ」



「んな事、分かってるよ。それに俺が嫌いなのはあいつだけ。瀬戸組の他の連中はちゃーんと可愛いがってるぜ? けどあいつは好かないのよな。なんか目が、嫌いだな」



目が嫌い、か。目が嫌いってのは同意だなと俺は心の中で呟いた。あの目は人を見下す目だから、昔から腹が立つのだ。けどそんな目をするのはヤクザが嫌いだったから、なんじゃねぇのか? なのにそんなヤクザになっちまって何を考えてんだろうな。俺は差し出されたウィスキーをくいっと飲みながら、さて本題に入ろうかと永井の方を見た。永井はタバコに火を点けると、ふぅと誰もいない出入口側へと煙を吐いている。



「で、話だが…」



切り出すと永井は露骨に嫌な顔を見せた。



「もうその話かよ。もっと楽しい話をしたいのによぉ」



「お前なぁ。どーする気なんだ? あの件」



「兄弟にはあんま迷惑かけないようにはするよ。最悪、ちょっとばかし兄弟の力借りる事になるかもしんねぇけど。あ、でも、多分大丈夫だと思うのよ」



「おいおい、しっかりしろよ。多分ってなんだよ。俺の耳にも入ってンだ。広まるのも時間の問題だぞ」



「そうは言ってもよぉ。こっちだって必死で探してンのよ。あのクソ野郎、見つけたらタダじゃ済まさねぇ」



「…ったく。面倒になったな」



永井はチッと舌打ちするとウィスキーをあっという間に飲み干した。つい三日前、蘭戸組若衆のひとりがチャカと組の金を持ち出して姿を消した。それはもう忽然と。まるでそんな男なんていなかったかのように綺麗さっぱりいなくなったのだ。そして最悪な事にその男は永井の舎弟だった。きっと多くの秘密事を知っていた。だからこそ厄介なのだ。このままその男が見つからなければ、永井が落とし前をつけるハメになるだろう。なのにこの男はなんとも呑気なものである。



「まぁ、そのうち見つかると思うけど」



「あのなぁ、永井。お前らの組はまだまだ若いんだ。今しくじる訳にはいかないだろ?」



「だから、いざとなったら力を貸してくれって言ってンだろ。もしこの件が組内で収まらなくなってよぉ、大きくなっちまったらよぉ、絶対おやっさん出てくるだろ? 俺ぁ絶対、責任取らされて殺されると思うンだよ」



殺されるって何だ。途端に嫌な予感がした。



「待て、お前、何を想定してる? 落とし前はつけなきゃならないかもしれないが最悪破門だろ? 破門ったって、そう簡単にほいほいするようなもんでもないし、俺ァそんな事は考えてなかったぞ。なのに破門だけじゃ済まされねぇって、どういう事なんだよ」



違和感を覚えて眉を顰めると、永井は肩を落として大きな溜め息をひとつつき、俺の目を見つめ、そして小声でポツリと吐く。



「警察、だったかもしれねぇんだよ」



「…なっ」



背筋が寒くなる。ギョッと永井を見つめるが、永井の方は至って冷静、というか呑気というか事の重大さが分かってないように見える。



「あいつの実家も、女も、どれも全部偽物だった。あいつの経歴もぜーんぶな」



「おいおいおい、どうすんだよ」



瀬戸組の事もあり、俺は心底ひやりとしている。これは思った以上に事態が悪い方へ転がっている気がしてならない。



「あいつを身内に入れたのは俺だからさ、責任取らされるんだろうな。でもよぉ、大事にならなきゃ良いわけだろ? 大事になる前に、あいつのタマ、取れば良いわけよ」



俺と打って変わって、こいつまだヘラヘラと笑っている。少しは焦れよ、この馬鹿。



「ま、大事になった時はよ、お前おやっさんをどーにか説得してくれよ。まだ死にたくはないしな」



「お前なぁ…」



「おやっさん、息子のお前の言う事はきっと聞くだろ? だから、な? 頼むよ」



「さすがに無理に近い事を言ってるって分かってんだろ?」



「んー? まぁ。でも大事になる確率、低いと思うのよ」



「あ? どういう事だよ」



「世の中には悪ぅーい警察ってのはゴマンといるのよ。だろ? お前のがその手の話しは詳しいか。だからさ、そいつに大金払って、男の身柄を渡してもらうのよ。ま、もし、その男が本当に警察だったら、の話な」



「お前にそんなコネあったのか」



「舐められちゃ困りますよぉー。俺だってコネくらいあるよ。ま、お前の持ってるコネに比べたらあれだけど」



確かに昔から警察内部にはパイプがあった。この世界には必要悪ってのがあって、それを受け入れてしっかり理解している"悪い"警察上層部は一定数いて、そいつらがいわゆるパイプである。金と有益な情報と共に動いてくれるのだが、そのパイプは俺のというより親父のに近い。



「けど、その男がただ逃げ出したヤクザって場合もまぁ最悪よ」



「どこかで持ち逃げしたチャカを弾いちまえば使用者責任、か」



「そうそう、組長を持ってかれちまう。チャカをどこぞでぶっ放して、そのチャカから足がついたら厄介すぎんだろ。それにここだけの話、あいつが持ってった金、本物の金じゃねぇのよ。だから一刻も早く、とっ捕まえたいの」



「偽札とチャカね。本当に厄介だな。胃痛がしてくる…」



「まぁまぁ、もし大事になっちまって赤澤のおやっさんがカンカンになったら、どーにか頼むよ。金の用意はあるからさ。その金はお前に渡すから、頼むよ、な?」



「…今、お前を蘭戸組に渡して後悔してるよ。蘭戸の叔父貴が自分の組よーやく持てるってなって、組を安定させるために稼ぎの良いお前を移動させたが、こうなるくらいなら、お前じゃなくて斉藤を行かせるべきだったよ」



疲労が一気に俺を襲った。



「俺が行ってなかったらこの組なんて保ってねぇだろ。俺の稼ぎ知ってるから移したンだろうがよ」



それはそうだが、こうも問題事が増えるなら…と言いそうになって口を閉じた。



「もう、いい。ひとまず状況は分かった。親父の耳にはまだ入ってないし、もちろん本家の耳にも入ってない。知ってんのは俺くらいだから派手な事はするなよ。分かったな? そんでさっさと片ァ付けろ」



「…ったく、分かってるよ。こえぇなぁ」



俺はウィスキーのロックをぐっと飲み干して深い溜息をひとつ吐いた。その時、カランとドアベルを鳴らして永井の舎弟である芳原という無駄にガタイの良い男が入って来た。



「…おぉ、どうした、芳原ァ。お前はあの新人躾けてたンじゃねぇのか?」



永井がグラス片手にそう芳原に尋ねると、そいつは永井に近付き面倒くさそうに小声で話す。 



「言われた通り殴りましたが、あれ、ダメです。反省してるように見えないんです。今、気ィ失ってますが謝りもしませんでした」



ほう。芳原でもお手上げか。そりゃそうかな。あの青木が相手じゃぁな。あいつは高校時代、俺がサンドバッグにしたやつだもんな。惨めな事させても、何にも響かないような男だったからな。だから心底嫌いだが、心底すげぇ根性してんなと思う。心をポッキリ折って不登校になってもおかしくはなかったのに、しれっと来るから余計に腹が立ったし、来る度に俺を睨んで、嫌悪しているって顔を向けてくるのだから恐れ入る。その度に殴られてのその繰り返しなんだけど。



「謝らねぇってのは癪だなぁ」



「そうなんすよ。俺はね、兄貴に土下座して謝ってこいって言ったんすよ。そしたら数発殴って終いにしようと思ってたんすけど、あれはダメです。謝る気ないんすから」



芳原は疲れ果て、困った顔をして訴えた。芳原の顔を見ているとつい同情してしまうが、俺がどうこう口出す事でもない。どうしてあいつは反吐が出るほど嫌うヤクザなんかになってんだか全く分からないが、ヤクザになっても尚、所詮ヤクザなんてと見下しているのはとてもあいつらしい。



「なぁ、兄弟よぉ…」



永井が隣で今にも泣きそうな声を出し、俺の肩を組んでぐいっと自分の方へ寄せた。言いたい事は少し分かるけどそりゃぁ嫌だなぁ。



「ヤだぞ」



だからキッパリと断る。



「何も言ってねぇだろうがよぉ」



「俺ンとこにアレ、預けたいんだろ」



「え? 分かった? テレパシー使えた?」



「うるさいなぁ。嫌なもんは嫌だぞ。使えないのは要らない」



俺が呆れた顔をすると、永井はぐっと顔を寄せてにへらと怪しく笑う。



「アッチは試してねぇからよ、分かんねぇけど、アレ、顔良いだろ? 売れると思うんだけど。お前ンとこに会社あったろ? アッチ系の会社。そこで働かせろよ」



「おいおい、無茶言うなよ。そんな事したら俺が瀬戸組長に顔向けできねぇだろうが」



「じゃぁ、金持ちの相手でもさせてよ。お前そういうコネ多いだろ?」



参ったな。この目の前のクソ永井はどうやら面倒事を全て俺に押し付ける気だ。



「ねぇよ、そんなコネ」



「あるだろー! てかさ、アレ、仕事出来ないって訳じゃねぇんだぜ? むしろ出来んの。出来すぎるくらいなの。ただ俺は合わなくてよぉ。なんか腹立つのよ。だから貰ってくれよぉー。瀬戸組長だって、お前のところに預かってもらってるってなったら絶対喜ぶぜ? もともと残った奴ら、お前ンとこに預けたかったんだろうし。お前ンとこのが格上だし、組としてしっかりしてっしよ」



「お前、本当無責任な。それでも若頭補佐かよ」



「今も昔も若頭補佐ですよぉ。なぁ、頼む!」



永井は珍しく本気で困っていて手を合わせる始末だ。確かに永井は今、逃げ出した組員の件もあり、忙しいのは分かってる。青木にいちいち腹を立たせたくないのも分かる。けどなぁ、こいつは知らないだろうが俺と青木の方が昔っから確執あるのよな。なんせ高校の約三年間、俺はあいつに暴力を振るいまくったわけだ。あいつが俺の下につくとなると、相当厄介な事になるだろう。



「叔父貴、俺からもお願いします! この通りです!」



威勢の良い芳原はどこぞのビジネスマンのように頭を下げた。俺はさすがに困り果てている。無言でいると、芳原はちらりと俺を見る。泣きそうな顔して「叔父貴ィ、この通りですからぁ」と再び泣きそうな顔で訴える始末。


どうすっかな。いや、どうもこうも、あいつを預かるって事は俺にメリットなんて何もない。いや、待てよ。瀬戸組長に恩を売れるかな。あーでもな、正直、瀬戸組長ももう終わったようなもんか。なーんのメリットもねぇよなぁ。あんな仏頂面のヤクザ嫌いですって顔に書いてあるような男が売り物になるとも考えられないし、臓器を売って殺すわけにもいかない。参ったなぁ。



「俺になんのメリットもねぇよな、その話。お前の舎弟くらいお前でどうにかしろよ。躾るなり、調教するなりしろ」



「えぇー、ひでぇな、兄弟。じゃぁ、しゃぁないか。…ったく、俺はあーいうタイプの人間って昔っから嫌いなんだよなぁ。うーん、手に入ったヤクの実験台にでもすっかな」



「お前なぁ、死んだらどう説明すんだよ。一応は預かりもんだろうが。瀬戸組長に恩売るつもりで預かったんじゃねぇのかよ」



「いや、そりゃそうよ。けどアレだぜぇ? あんな上に尊敬のソの字もない奴、側に置いておきたくねぇもんよ。ヤク中って事にしてよ、実験台にしようかなと」



呑気な永井の横で芳原が気まずそうに「兄貴、でもアレ、安藤のカシラのお気に入りっすよ」と小声で助言する。つまりは殺せないってことだ。瀬戸組の若頭だった安藤は刑期も瀬戸組長よりは短いし、出てきた時に青木を寄越せと言われる事は明らかだ。組を再建するつもりなら絶対お気に入りを手元に戻したがる。そんで、そのお気に入りがヤク漬けになってたなんて事になったら、これこそ大問題だ。



「はぁ。ほんっと、お前に呼び出されてロクな事がねぇ」



俺は頭を掻いて眉間に深い皺を寄せた。



「なぁー、頼むよぉ。俺はよ、もう手一杯なの。ストレスまみれでよぉ、死にそうなの。アレ、貰って。ね?」



「お前は一回くたばっとけ」



「そんな酷い事言うなよぉ」



全くもって面倒だ。こいつの手元に青木を置いておけばヤクの実験台にされかねない。が、それよりも、この目の前のクソ短気野郎はストレスを与えすぎると青木を本当に殺しかねない。例えその理由がタバコの銘柄を間違えたから、だとしても。次は殴り殺すかもしれない。はぁ。最悪な事になったな。俺は本日何度目か分からない溜息をつき、重い腰を上げた。



「分かったよ。あのチンピラは俺が預かる。その代わり、お前は明日にでも逃げた舎弟の行方を掴め。そうじゃなきゃ、お前は破滅すると思え。良いな?」



「そんな怖い顔すんなよ…。分かりました、明日には掴みますよ、まったく」



「明日のこの時間までには電話入れろ」



俺は永井の呑気な顔を見下ろして低い声で圧をかけると、永井は目を逸らして「はい」と小さな声で返事をする。


さてさて、結局はこうなるわけですか。俺は苛々を抑えながら、そのバーを後にした。芳原は頭を下げて俺を見送り、俺は路地裏で気を失う青木を見下ろした。



「叔父貴…?」



へばっている青木を黙って見下ろす俺を不思議に思ったのだろう、さきまで青木を殴っていた若衆のひとりが横に来て訝しげに首を傾げている。



「お前ンとこの若頭補佐は責任感ってのが本当ねぇな。コレ、今日からウチ預かりだ」



「え!? そうなんすか!?」



そら、驚くよな。俺だって驚いてんのよ。俺の方が驚いてんの。はぁ、と面倒事に巻き込まれた事を恨み、俺が溜息をついていると、「カシラ」と低い声がすぐ後ろからした。



「涼司、コレ、車に乗せろ。ったく、血だらけで汚ねぇな」



「分かりました」



素直に返事をする可愛い俺の用心棒兼運転手は、ゴミ箱の前でへばっている汚い野良犬を軽々抱えると、車のトランクへ放り込んだ。



「お前らも大変だろうけど、せいぜい頑張れよ」



もしかしたら近いうち蘭戸組は壊滅するかもしれないがな、とは言わなかった。若衆達は「ありがとうございます!」と頭を下げ、俺は憂鬱な気分のまま後部座席に腰を下ろしてその場を後にした。

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