9. 人生を君に

「今日は天気がいいよ。カーテン、開けておくね」



開けたカーテンから溢れる強い陽射しに、蓮司君の顔は明るく照らされる。瞼はまだ閉じたままだった。僕はそれでも彼のためにカーテンを開け、美しい太陽を覗かせる。彼をこの桜木医院に連れて来てから、もう3日という時間が過ぎていた。



「蓮司君、いい加減、起きてくれないかな…」



蓮司君の頬に触れて僕はぽつりと呟いた。返事はもちろんない。動かない彼の横に用意した簡易的なデスクの上に、今日もまたパソコンを開き、ひたすらに情報を集めて仕事に没頭する。アズサちゃんから連絡が入っていた。笹野の別荘にいた柳田組の幹部2人、若い組員6人、そしてヤクの取引相手だった中国マフィア7人を逮捕。それをキッカケに芋蔓式に柳田組を壊滅に追い込む算段が整った、と。


しかし、笹野だけは姿を消して依然見つかっていない、と彼女は申し訳ないと何度も謝ったが、僕はその謝罪を聞く度に酷く心が痛んだ。だって、笹野を逃したのは僕なのだから。


僕は爪を噛む。自分でもコントロールが出来ない感情が溢れると、僕は昔からの悪い癖で爪を噛んでしまう。叔父や兄によく注意されていた悪い癖がまた出ていた。僕はアズサちゃんからのメールを読みながら苛立ちを隠せなくなっていた。


僕は、あの日、悪魔と取引をした。


佐伯君から蓮司君のバーに怪しい人が、つまり笹野が来たと連絡が入った時、僕は仕事で家にはいなかった。仕事を放り出して急いでバーへ駆けつけたが、店は既に鍵が閉められて誰もいなかった。蓮司君は笹野に連れ去られたのだと結論付けてしまうと、途端に僕は身動きが取れなくなった。怖くて、怖くて、足がすくんだ。蓮司君に万が一の事があったら…。そんな時、悪魔が僕の目の前に現れた。眼帯をして、片腕は骨折しているらしく固定され、見るからに痛々しい怪我を負っていた。



『蓮司さんを探してますね?』



悪魔はそう言って笑った。僕はそいつの顔を見て、焦りや不安は怒りに変わった。この悪魔を目の前にすると、こいつが蓮司君にした酷い仕打ちを思い出し、僕の殺意がふつふつと振り返す。



『そんな怖い顔しないで下さい。俺なら場所、分かります。まぁ、山藤会お抱えのあなたなら既に目星はついてるんでしょうけど。ね、塩田 庵さん』



『な、…なんで僕の事…』



僕の素性を知っているこの悪魔は只者ではないと、その瞬間に悟った。



『同業者です。それに笹野さんの事ならあなたよりうんと知ってます。笹野さんって、別荘やら隠れ家やらいくつも持ってるでしょう? 蓮司さんを連れてどこへ消えたのか、あなたに分かりますかね。いくらあなたでも特定するのにかなり時間がかかりますよ』



悪魔はとても悪魔だった。僕に囁く言葉は本当に悪魔の囁きそのものだった。



『…何が望みですか』



『取り引きしませんか。蓮司さんは笹野さんのある別荘にいます。このまま放っておけば、蓮司さんは薬漬けにされて殺されるのも時間の問題です。だから場所の特定は、早ければ早いほど良いでしょう? 俺、その場所を知ってます』



何が望みなのかと僕は警戒した。無言でいた僕に、悪魔はふっと笑う。



『警戒してますよね。…少し、状況を話しましょう。あの柳田組にはマトリの潜入捜査官がいます。この情報は掴んでなかったでしょう? 中国マフィアと取り引きがあるようなので、きっと、その一斉摘発の為に動いているのかと。組対も自由に動けない今、あなたの"ご友人"に助けを求めても、待て、と言われるだけだと思います。そりゃそうでしょうね。あるひとりの男を、しかも過去に笹野さんと関係のあった訳ありの男を助ける為に、中国マフィアと柳田組の摘発を台無しにするわけですから。ご友人も、助けに行って良いよ、なんて言えません』



こいつの言う事が本当なら、その別荘に僕ひとりで行ってどうにかなるわけがない。アズサちゃんの助けが必要なのに、きっと、彼女は柳田組の壊滅と中国マフィアの摘発を優先する。彼女に文句は言えない。だとするなら、僕はこの悪魔に縋るしかない…。



『……』



『もし、俺の取り引きに応じてくれるのであれば、中国マフィアとの取り引きを早め、蓮司さんを奪い返す手助けをします。そうすりゃぁ、あの人達もお縄、蓮司さんも助け出せます』



しかし、こいつ、本当に一体何者なのだろうか。ただの同業者ではない事はすぐに分かった。ペラペラと話しているが、その中身は決して簡単に得られるような情報じゃない。第一、僕とアズサちゃんが繋がっているとどうして分かった? 僕は得体の知れない悪魔を見上げた。



『その見返りは、なんですか』



悪魔の口角がゆるりと上がる。



『笹野さんです。彼は警察に渡さない』



笹野を逃がす。到底、僕が飲める条件ではなかった。僕は苛立ちにぐっと拳を握り、言葉を絞り出す。



『飲めません』



『まぁ、ですよね。笹野さんが塀の向こうにいないと塩田さん、あなたは不安でしょう。でも、そう悠長な事、言ってて良いンですか? それに、心配しないで下さい。俺は彼を連れてこの国を出ます。二度と、あなた達の前に姿は現しません。約束します』



『その怪我、笹野に負わされたんでしょう。だとするなら、あなたに笹野をコントロール出来るとは思えない』



『うーん。そこを突かれると…。この怪我を負ったのは確かに俺の不注意ではあります。けど、抵抗しようと思えば抵抗出来ましたよ。力なら俺は負けない。でも、抵抗しなかったのは、まだ俺は素性を隠して笹野さんの側にいる必要があったから。俺はただの冴えない会社員、それも柳田組のフロント企業の。まだ素性を明かすわけにはいかないので』



『素性…?』



『えぇ。多くは語れませんが。でも今は、俺を信じて、俺と取り引きした方が賢明では? 俺の素性が分からないからと言ってこのお誘いを断ったりしませんよね?』



『……っ』



『ね、塩田さん。賢い判断をして下さい。大丈夫、笹野さんはもう二度と蓮司さんに近付かせませんよ。…ね? 俺に腹を立てるのはごもっともですけど、そのせいで、大切な人が今、この瞬間にも、無理矢理にヤクをやらされて、輪姦されてるかもしれないんですよ? 懸命なご判断を』



確かに一刻も早く蓮司君の居場所を特定する必要があった。笹野という男は狂ってる。蓮司君を殺す事も想像出来る。だから僕には、どうしようも出来なかった。



『…分かりました。蓮司君の居場所、教えて下さい』



『えぇ。もちろん。じゃぁ、塩田さん家、行きましょうよ。組対の友達にも連絡しなきゃ、でしょう?』



僕は、あの日、悪魔に魂を売った。僕はぎりりと奥歯を噛み締め、ただ苛立ちを飲み込んだ。



「…庵、起きてたのか」



「なかなか眠れなくて仕事してた。何か用?」



ノートパソコンをぱたんと閉じ、心配そうに僕を見ていた叔父を見上げる。叔父は頭を掻きながら、「少し休んだ方が良いぞ」と近くのパイプ椅子に腰を下ろす。



「ありがとう」



僕はそう答えながら叔父の様子を伺った。蓮司君を助ける際、僕は生まれて初めてこの人を脅した。山藤会会長と関係が深いこの人が、危ない橋を渡って蓮司君の救出に手を貸してくれたのは、この人の優しさなんかじゃなく、そうせざるを得なかったから。  


僕は情報の扱いが上手い。それは昔から。それを恩人である叔父に使う事になるとは思わなかったが、あの時、僕には医者である叔父が必要だった。だから僕は、僕の武器を全て使った。蓮司君の為なら僕は何だってする。悪魔との取引も魂を売る事も、何だって。



「そういやぁ、誠也は元気か?」



「うーん、兄さん、あまり連絡くれないからなぁ。元気だとは思うけど」



「まだ、ハワイにいるんだよな?」



「うん。異動になるかもーとは言ってたけど、まだしてないと思う」



「そっか。今の季節、きっと楽しいんだろうな」



「そうかもしれないね」



そう他愛もない話をしながらも、叔父の表情はどこか曇っている。そりゃそうだ。自分の最大の弱みを僕が握っていると知ってしまったのだから。



「…なぁ、庵、」



叔父はそう難しい顔をした。僕は叔父を静かに見つめ、何を言おうとしてるか察して食い気味に口を開く。



「今夜は西区の小野坂第二倉庫で組対が動くそうです。狙われたのは鴎楼会の直参米澤組。チャカの取引とヤクの取引らしいですから、帰りは遅くなるかもしれません」



「……っ」



この人はすぐ顔に出る。こんな世界にいるくせに嘘が苦手らしい。動揺して眉間に深い皺を刻むと、僕を見ながら言葉を無くしてしまった。



「おじさん、僕の願いをもうひとつ聞いてくれませんか」



カタギの人間とはいえ、この人はヤクザ世界にどっぷり浸かってる。そんな人間なのに警察の人間と関係を持っている。それも組対の人間と。アズサちゃんの上司だった。元はマトリの捜査官で、今は昇進を蹴っては現場を好む血の気の多い組対の刑事。そんな人間に叔父は特別な感情を抱いている。恋人かどうかは分からない。けれど互いに信頼し合い、好意を寄せている事は確かだった。


そして問題は、叔父が自分の立場を、背景を、過去を伝えていないという事。相手は叔父が山藤会のお抱え医師だという事を、そして叔父が山藤会会長と付き合いがある事を知らないのだ。だから叔父にとってこれは最大の秘密なのだ。



「…俺に、拒否権はないんだろ」



「うん。そうだね」



「なら、さっさと言いなさい」



叔父は分かりやすいくらいに呆れた顔をした。



「僕、山藤会のお抱えを辞めます。蓮司君が目を覚ましたら、僕は、彼を連れてどこか遠くへ行きます。そしたらおじさんは有らぬ疑いをかけられるかもしれない。僕が消えたって事は、柳田組壊滅に僕が関わっていて、おじさんも実は関与してたんじゃないか、って。だから、ごめんなさい、その時は組の連中に酷い目に遭わされるかもしれません」



叔父は溜息をついた。



「俺を痛めつける云々の前に、そもそも組織が何もかもを知ってる君をそう簡単に手離すとは思えないが」



「そこをどうにかして下さい。おじさんなら、どうにか出来るでしょう?」



「無茶苦茶だな」



叔父はまた深い溜息を吐いて頭を掻く。



「お願いします」



「…それが済めば、もう、あの写真は削除、口も閉ざす。そうだな?」



「うん。これでも僕はプロの情報屋です。口は堅い。だから大丈夫、おじさんが僕の願いを叶えてくれるなら、僕は一生口を閉ざすし、あの写真は消します」



叔父は腕を組み、眉間に深い皺を寄せ、しばらく考えた後にゆっくりと口を開いた。



「…分かった。飲もう」



叔父は銀縁眼鏡をくいっと上げる。



「ありがとう」



「もともと拒否権なんてないだろ」



「うん。ごめんなさい」



僕は知っている。この人はきっと、なんのお咎めもなく僕を組織から離してくれると。だから僕はこの人に縋ったのだ。最後の最後に迷惑をかけてしまったけど、僕には他に方法がなかった。蓮司君を失う事だけは耐えられないから。



「けど、彼はいつ意識を取り戻すか分からない。それまでの間はどうするんだ。このまま山藤会の情報屋を続けるのか? 今すぐ抜けると言ってもそう簡単にはいかないだろ。本家を敵に回す事は組織全体を敵に回す事になる。それはもちろん、分かってるだろ?」



「うん、分かってる。だからしばらくはこのままでいるよ。彼らの動きを掴むには内部にいた方が安心だから。僕が疑われてるか否か、逃げるべきか否か、判断できないと命を取られちゃう。だって相手はヤクザだからさ。怖いよね」



「バレたら最後。地獄行きだ」



「うん。怖い怖い」



「今のところは平気なのか?」



「そうだね。大きな動きはないみたい。僕が関与していた事はもちろん気付かれてない」



「そうか。あの荒木ってのは信用できるのか」



あの日、叔父にきちんと説明はしなかった。ただ、蓮司君の居場所を知っていて、案内してくれる人、そう叔父に伝えただけ。



「うん。彼は大丈夫。彼から漏れる事はないよ」



あと少し遅かったら、蓮司君は手遅れだったかもしれない、そう考えると僕はゾッとする。同時に、荒木に対して殺意を抱くが、荒木のお陰で助かったと言っても過言ではなかった。まだ、心臓が動いている。それだけが今の希望だった。大丈夫、目を覚ます。僕はそう何度も言い聞かせている。



「そうか。それなら良いが」



叔父は安堵に表情を緩めた。優しい叔父だが、僕はひとつ、問い詰めなければならない。また叔父を追い込む事になってしまうが許してほしい。だって僕はここの情報屋で、知らないふりをするわけにはいかない。



「おじさん、けど、勘付いてる人はいるよね。その人がどう動くかが問題だ」



今は、荒木より厄介な存在がいた。その人は僕には直接連絡をせず、叔父に連絡をするだろう事も分かっていた。どうして柳田組の壊滅に関わっているかもしれないと嗅ぎつけたのか分からないからこそ、本当に厄介な存在なのだ。



「……何が言いたいんだ」



「分かってるはずだよ。隠してるよね?」



叔父は分かりやすく、ひくりと反応する。



「別に何も隠してない」



叔父が隠すのは僕の為だという事は分かっていた。僕に心配を掛けないようにと叔父は僕に何も言わないのだろう。けれど叔父にとって、それは叔父の首を絞めるだけ。だから僕は叔父の目をじっと見て端的に聞く。



「会長は何も言ってきてない?」



「……なんで、」



ほうら、図星。叔父の焦った顔を見ながら僕は続ける。



「蓮司君について、何か言ってきてるんじゃない?」



会長自らが笹野の別荘からいなくなった蓮司君の行方を探っているという事は、僕にとってかなり厄介な出来事だった。柳田組の組員ですら、あの騒動に紛れて消えた蓮司君の事なんて気にも留めていないのに。よりによって会長だった。きっと叔父が絡んでるから会長は探りを入れてるのだろうけど、僕に辿り着かないとも限らない。



「……」



叔父は口を閉じて眉間に皺を寄せたまま、視線をゆっくりと下ろした。



「無言って時に多くを語るよね。会長から連絡があったんだね?」



叔父は少し項垂れるとまた頭を掻いて、「あった」と肯定して頷く。



「何て言ってたの?」



「お前に会って直接話したい、って。けど断っておいたよ。大事な甥っ子を極道者と直接話しをさせる事はできないって突っぱねた」



「えー、そんな言い方しちゃったの?」



「正之輔はもともとそれを飲んだ上でお前をお抱えにしてる。お前の情報は正確だから、どんな条件でも良いから欲しいと言ったのはあいつだ。これくらい言っても問題はない。けど…」



「けど、おじさんの立場が危うくなった? 僕に手を貸して柳田組を壊滅させたと思われた?」



「疑ってはいるかもな。でも正之輔は何も言ってこないから分からない。ただお前と話しをさせてくれ、その一点張りだよ」



叔父は会長を正之輔と呼び捨てに、会長は叔父、神崎 亮廣のことを確か、アキさん、と呼ぶ。同郷、小、中、高の先輩と後輩であり、ふたりは良き友で信頼関係が出来上がっていた。だからこそ叔父はヤクザのお抱え医師を長い事しているのだ。


会長は叔父の言う事はよく聞く。過去に何があったかは僕でも探れなかったが、とても恩を感じているようだった。その何か、というのは決して大きな出来事ではなく、個人間でちょっとした事が起きた、それだけにすぎないのかもしれないが会長は叔父の為に命を懸けるほど叔父を慕っている。組織のトップに立ち、会長の為に命を懸ける男はゴマンといるその世界で、会長は叔父の為に命を捨て兼ねないような人なのだ。ふたりの関係は未だによく分からない。ただ少し、異常なのだ。



「ね、僕、会いますよ。きっと一度会って話をした方が、おじさんの為にもなるから」



「ヤクザとは対面で話さないって言ってたろ。極力顔は出したくないし、関わりたくないって。無理するな。俺から正之輔に伝えておくから」



「ありがとう。…でももう事が事だから。会長にだけは会うよ。いや、会わせて下さい。僕が会わないと、会長はおじさんを疑い続ける。そんな厄介な事、僕は望まないよ。僕はおじさんを巻き込みたくはなかった、でも、…蓮司君の為に必要だった。だから、出来る事はする。会いますと、僕が言ってたって伝えて」



「……そうは言ってもな。あいつは根っからのヤクザだぞ。お前が柳田組を潰したと分かったら、本当に命を取りかねない」



「だから会うんです。僕が説明をしなきゃならない。それに僕が柳田組壊滅に関与していた証拠はどこにもない。証拠のない人間を、そう簡単に始末するとは思えません。ましてや僕はおじさんの甥っ子。会長は僕に手は出せません」



「けど、」



「おじさん、大丈夫だから。僕に任せて」



僕は意を決していた。決意は固く、叔父はそれを察したようだった。



「……そう、か。分かったよ」



「うん。ありがとう」



「けど、直接話すなら場所はここにするぞ」



「うん。助かる。おじさんが過保護で良かったー」



「お前には振り回されてるがな」



「ふふ。そうでした」



叔父はふっと笑うと椅子から腰を上げると「正之輔には連絡しておく」、そう言って部屋を出て行った。僕はひとり、目を覚さない蓮司君をぼうっと見下ろしながらその頬に触れる。殴られた頬は色を変えていた。この殴られた痕が消えるまでには目を覚ましているのだろうか。いつ目覚めるか分からない蓮司君を想いながら、悔しくて、ついまた涙が溢れそうになった。


何の進展もないまま時間だけが過ぎていき、翌日、叔父から会長が会いに来る事を伝えられ、僕はその時を待っていた。会長は柳田組の壊滅に手を貸した人間がいると踏んでいるだろうから、僕は何をどう答えるべきかをただひたすらに考え、証拠という証拠は全て消し去った。

 

昼下がり、蝉が鳴いていた。病院の裏口に男がひとり。こんなに暑いのに黒の高級スーツのジャケットまで着て、しっかりとボタンも閉じていた。手土産にと庶民的な氷菓子を大量に買って来たらしい。それは全て叔父の好物であった。


病院は休診中の札を下げ、叔父の右腕のような存在である看護師兼叔父の助手を家へと帰した。彼を家に帰すほどの事なのだから僕は少し緊張した。それでもやる事はひとつ。僕の意思は固い。狭い院長室という名の叔父の部屋に、会長は年季の入ったソファに座っている。僕と叔父はその対面に座った。叔父は冷たい麦茶を用意し、会長はカップに入った氷菓子を開けて食べている。叔父も席に着くとウキウキとその氷菓子をつつき、僕もひとつ貰う。残りの氷菓子は叔父が冷凍庫へ大切そうに仕舞っていた。



「急に悪かったな」



会長はそう僕に言う。



「いえ、僕も連絡を入れた方が良いと思ってはいたのですが立て込んでしまい、連絡ができず、申し訳ありません」



「アキさんの甥っ子ってんだから、もっとデカくて厳ついのを想像してたんだが今の若い子って感じだね」



若いと言っても30歳、会長からすると僕はまだまだ若者でこの世界の若輩なのだろう。



「血は繋がってないって言ったろ。この子は弟の嫁の子だ」



「あ、そうだったそうだった。通りでアキさんに似てないわけだ!」



「俺に似たらなんだってんだよ」



「可哀想だなって」



「可哀想ってお前な」



軽い雑談は敢えて僕に緊張をさせない為だろう事はすぐに分かった。僕はカップに入った氷菓子をスプーンでザクザクと崩して口に入れながら、いつ本題に入るのだろうかと静かに言葉を待っている。僕の方は準備が整ってる。どう聞かれようが僕は吐かない。証拠のないものは絶対に認めない。食べ終わる頃、会長が口を開いた。



「さて、本題といこうか。アキさん、悪いけど席を外してくれませんか」



叔父は眉間に深い皺を作って会長を凝視する。



「俺がこの場にいちゃマズい事でもあるのか」



でも事をややこしくはしたくない。叔父にはもう十分にワガママを聞いて貰ったのだから、あとは僕ひとりでどうにかしなきゃなと僕はカップをテーブルに置いた。



「おじさん、大丈夫。いいですよ、ふたりで。僕が今回の件に関して山藤会長とお話しします」



叔父は僕を見下ろすと少し迷った目をするものだから、再度、「大丈夫だよ」と頷いた。



「なら隣の部屋にいる。何かあったら声を掛けてくれ」



「ちょっとアキさん、俺、別にこの子を取って食ったりしませんよ。話を聞くだけですから。安心して下さい」



「…分かってるよ。まぁ、終わったら声を掛けてくれ」



「はい」



叔父が部屋を出て行き、ドアが静かに閉まる。会長は叔父がいなくなったのを確認した後で、足を組み直し、ふふっと相好を崩した。



「アキさんは本当に君が大切なんだな」



「血は繋がってなくても子供の頃は叔父が父の代わりで、本当の子のように僕に接してくれていましたから」



「そうなんだな」



会長はそう口角を上げると沈黙を敢えて作っているようだった。グラスの麦茶を飲むと、カタンと音を立ててテーブルに置き、じっと僕の顔を見た後で口を開く。



「単刀直入に聞こう。柳田組の一件に関して事前に情報が掴めなかったと報告を受けているが、それに間違いはないか」



「はい」



「今までガサ入れに対処出来たのも、サツの目を欺けたのも君のお陰だ。そんな君がこの一件だけは分からなかった、どうも腑に落ちないものでね」



そうだよな。そう思って然るべきよな。僕は静かに答えた。



「柳田組、笹野若頭補佐の別宅に家宅捜索が入った聞いた時、僕はすぐに警察に探りを入れました。僕と繋がりのある内部の人間に連絡を取りましたが、今回は中国マフィアの摘発も絡んでいた為、主導は麻薬取締局だったようです。前から柳田組に潜入がいたという情報も昨日掴んだものです。極秘で進められ、あの日に取り引きがあると知っていたのもマトリの一部チームと、柳田組に詳しいマル暴の刑事2人のみ。僕の情報源である人間は今回の一件には関わっていなかった、というのが理由です」



「確かに、主導はマトリだと報告があったな」



会長は顎を撫で、それから僕を見る。



「…話しは変わるが、ここに、ひとりの青年が運ばれて来たね?」



やはり、疑いはそこだ。



「はい。蓮司君のことですね」



「アキさんがたまたまひとりで大原へ温泉旅行に行き、たまたまあの別荘エリアを通りかかり、たまたま笹野の別荘でガサ入れが起き、その騒ぎに紛れて逃げ出した青年をたまたまアキさんが拾った、と。それについて、君はどう思ってる?」



「偶然としか言いようがありません。会長は叔父や僕を疑ってますか」



「アキさんは君のように情報を集めたり、御上に探りを入れるなんて事できるわけがない。パソコンも使えなきゃ、コネもない。摘発が行われる日が分かっていたとは思えない。それに、笹野に拉致られた青年を助ける理由がない」



まぁ、そりゃそうだけど。会長、本当に知らないんだな。叔父は組対の刑事と深い仲だってこと。でも会長が叔父を疑っていないのなら、疑っている人間は僕ひとり、ということだ。僕は会長を真っ直ぐに見つめた。



「僕を、疑っているのですね」



「そうだな」



会長は肯定する。否定せず、誤魔化しもしない。どうしてここまで自信があるのかと、僕の不安は掻き立てられるが顔には出さない。証拠はない。だが、なくとも怪しいと、黒だと確信しているのは厄介だ。



「叔父の大原旅行ですが、叔父は今月誕生日でしたので、1日くらい休んで温泉旅行に行って来たらと前々から勧めていました。大原には行きたいと言ってたので今回、その場所を選んだ事に対して僕は何も疑問に思いません」



「全て、偶然だと言うんだね」



「はい。宿のレシート、あるはずです。裏取りの必要があれば、フロントに掛け合って頂いても結構です」



「君の仕事力はよく知ってる。だから君には言値の額を払ってきた。それくらい君は情報屋として優れている。そんな君が宿に根回ししていない、なんて事はないだろう。そんな小さな事で粗を出すとは思ってない。ただ私はね、君の意見が聞きたいんだ」



「粗を出すも何も、僕は嘘をついてません」



「アキさんは君に何と言って青年をここへ運び込んで来た?」



「温泉街からこちらへ帰ってくる際、別荘地を通った。今にも倒れそうな男が車道を歩いていた。出血していたのが見えた為、車を停めて、話しかけた所、倒れてしまった、と。だからここまで運んで来たと、そう言っていました」



「大原の別荘地から都内まで、病院はいくらでもあったろうに。倒れた人間を、それも素性の知れない人間を救急車も呼ばずに連れて帰って来てしまうなんて、信じられると思うかね。医者ならそんな状態の人間を車に乗せて都内まで運ぶという選択しないんじゃないのか?」



そうくるだろうなと、僕は一呼吸置いた。



「さぁ? 叔父のした事です。僕には分かりかねますが、ただ、推測はできます。叔父はあなた方、組のお抱え医師で、一般の病院に運べない状態の人間を何人も見ています。例えば、違法薬物の摂取。オーバードーズ。病院に連れて行けば警察沙汰は免れません。ご存知かとは思いますが、蓮司君はオーバードーズを起こしていました。一命は取り留めましたが、今もまだ意識がない状態です。薬物の詳細は分かっていません。ただ違法薬物である可能性が高かった、だから叔父は、最低限の処置をして車を走らせ、自分の病院へ運んで来た、という事かと」



「見ず知らずの男なんだ、知らん顔して他の病院に連れて行けば良かったろう。そうすればこんな厄介な事にならなかっただろうに」



「確かにその通りです。しかしそれが出来ないのが叔父だと、あなたは分かっているのではないですか。警察沙汰にさせたくないと単純に思ったんでしょう。それだけだと思います。…叔父に直接聞いたのではないですか?」



会長はしばらく考え込み、組んでいた足を解く。



「あの人の性格ならよく知っている。その分、君の言い分が的を得ていて攻めにくいものだね」



「何度も言いますが、僕は嘘をついてません。叔父の取った行動原理も叔父の性格から考えたものですから、断定はできませんがきっとそうだと思います」



「運び込まれた青年、蓮司君と言ったね? 彼はまだ意識を戻していないと言ったが、警察に知らせたのかね」



「いいえ」



「家族、友人、職場関係から捜索願いが出されてるかもしれないのでは?」



確かに、そこを突かれるのは勘弁してほしい。僕は少し考え、僕と蓮司君の関係を素直に吐いた方が身の為だと結論付けて口を開いた。



「彼の母はフランスにいます。よく連絡を取る仲ではありません。日本にいる父とも連絡は頻繁に取る仲ではないようです。彼には友人と呼べる存在はいませんし、数人、飲み仲間のような関係の人はいますが、今のところ連絡は入ってません。職場関係は僕の方でコンタクトを取っています。ただ、彼がヤクザに拉致られてオーバードーズ起こして意識が無い、とは言えませんので、怪我をして仕事をしばらく休むと伝えています。このまま意識不明が続けば、仕事は辞めざるを得ないかもしれませんが、今のところ、店は回っているようですし、誰かが警察に訴える状況ではないと判断しています」



会長の片眉が上がったのを見て、僕は続けた。



「僕と蓮司君は同級生です。今は一緒に住んでます。彼の事なら僕が一番知ってます。彼の事、警察に知られるのはそちらとしても不都合でしょう? 蓮司君の為にも、僕は警察には知らせたくありません」



「ほーう」



会長は再び顎を撫でると、背もたれから背を離し、膝に肘をついて神経質そうに指の腹を合わせ、僕をじっと見た。



「あの青年は、もともと笹野と関係があった事は知っているかい?」



「えぇ」



「なら、笹野が彼にひどく執着している事も知っているね?」



「…はい」



「君はあの青年の為なら、何でもする気なんじゃないの」



「………仰ってる意味が、」




「柳田組にはお抱えの病院があるって知ってるよね」



僕はしまった、と眉間に軽い皺を寄せてしまう。表情には出さないように奥歯を噛み締めていたが、あの片桐という医者の口止めはしていなかった。会長はどこまで嗅ぎつけ、何を得たのだろうかと僕は不安になった。



「えぇ。先月、蓮司君がお世話になった病院です。蓮司君、肋骨にヒビが入っていたので」



「なぜ、組と関係のない彼がその病院に運ばれたのか辿ってみると、やはり疑問は尽きないよね?」



あぁ、腹の探り合いは好きじゃない。嘘をつくのも得意ではない。ましてや相手は極道社会に生きる人間。会長にまで昇り詰めた男。嘘で固めるのは得策じゃない。



「……会長はどこまでご存知で?」



「笹野がどういう男で、あの青年とどういう関係を築いていたかくらいは分かってる。そして君は今、彼と一緒に住んでいて彼を大切に思ってる。そんな彼の為なら、君は大組織を裏切る事も厭わない、そう思っているよ」



確たる証拠はないのに、この人はそこまで明確に僕を疑い、僕に刃を向けている。僕は意を決して口を開いた。



「………分かりました。疑いを掛けられているのは理解します。そうなってしまうのも。蓮司君があの片桐医院に運ばれたのは、荒木という柳田組のフロント企業の人間に暴行を受けたからです。荒木は蓮司君に違法薬物を打ち、暴行しました。さんざん暴行し、気を失った蓮司君を一般の病院に運べるわけがありません。だから柳田組と昔から繋がりのあるあの病院に運んで来た、という流れです。でも会長、あなたが気になるのはそこじゃないですよね。なぜ荒木が蓮司君に暴力を振るったか、そこが気になるんですよね。そしてその答えを知ってるから、僕が今回、柳田組の壊滅に関わっていると踏んでいる。違いますか?」



「嘘が下手な人間は嘘に嘘を重ねる。しかし上手い人間は必要最低限の嘘しか吐かず、真実を織り交ぜるから上手い。君は、後者だろうな。今言った事は全て、真実だ。俺が君を疑っている事も含めてね」



「答え合わせしましょうか」



「あぁ、是非」



「荒木は笹野を慕っています。異常なほどに執着し、心酔しています。そして笹野は蓮司君に対して異常な執着心を持っています。荒木は蓮司君に暴行し、笹野が自分と蓮司君を天秤に掛けた時、どちらを取るか試したかったのでしょう。…荒木がその後、どうなったかはご存知ですか」



「さぁ。埋められたか?」



これは本当に知らない、という事か。僕は会長が嘘をついていないと踏んだ。



「僕にも生きているか死んでいるかは分かりませんでした。ただ蓮司君が言っていました。笹野が荒木に復讐したと言っていた、と。だから死んだものと、僕は思っていました。しかし、笹野の行方が分からない今、荒木が実は生きていて、笹野を逃す為に手を貸したのなら、笹野の行方知れずの理由に納得できるかと思います」



会長は僕の目を見ながら、再び背もたれに寄りかかる。



「荒木という男は何者なんだね」



「さぁ。ただ、笹野と共に逃げている可能性は高いかと。どういった関係なのか僕には皆目検討もつきませんし、関わりたくはありません」



「荒木と君の接点さえ掴めれば、ね」



「僕は今回のこの一件に関わりはありません。蓮司君が連れ去られ、こんな目に遭わされたとしても僕は山藤会を敵に回す事はしません。いくらあなたが僕と蓮司君の関係を疑い、僕がその復讐で柳田組を壊滅させたと疑っても、何ひとつ証拠は出て来ませんよ。だって僕は関与していませんから」



「君が関わっているという確証がないのは分かってる。随分と探りを入れさせたが、何ひとつ浮かび上がらなかった。どこへ行こうが、聞こうが、アキさんがたまたま大原で蓮司君を拾った、という事だけ。もしこれを君が裏で糸を引いているのなら、私はやらなければならない事がある。…いや、やはり君が裏で糸を引いているのだろう、その蓮司という男の為に。愛した人間を守る為なら何だってするのだろう。俺はね、君はそういう人間かどうかを見極めたかった。だから君と話して、君の考える事を読みたかった。その青年の為にこの組織を裏切ったのか、否か、をね」



「だから僕は…」



「俺の勘はよーく当たる。そして俺は根っからのヤクザよ。証拠がなくても怪しい点はいくつもあり、実際、君は警察から情報を得られず柳田組を壊滅させた。その事実だけで君の命を取る事だって出来る。それがヤクザってものよ。いつも理不尽だ。証拠なんて最初からいらないんだよ。ただ、知りたかった。俺の勘は正しいのか、否かを」



「勘で、カタギの僕を殺しますか」



「柳田組は反吐が出るほど悪どい連中だが、稼ぎは大きい。そこが無くなったんだ。庵君、いくら君が今回の件に関わっていないと否定したところで、情報屋の君がガサ入れを読めなかったところに落ち度がある、それは認めたな? だとしたら命だけは助けてやるから、落とし前をつけろ、と言われたら君はどう、落とし前をつける」



会長はふっと口角を上げたのを見て、僕はなるほどと納得した。



「落とし前。…本題はこれですね」



「ふふ。そ。そういうこった。埋め合わせをしてから高飛びするんだな」



冷静に受け答えしたつもりが、その言葉に僕は反応して眉間に皺が寄る。



「高飛び…?」



「遠くへ逃げンじゃないのか? 笹野は捕まっちゃいない。あいつも荒木もな。君はその蓮司君が目を覚ましたらすぐにでもこの街を出て、うちとは手を切りたい、そう思ってんだろ。そしてそれが最善だ」



この人は…。僕は深呼吸をした。



「…分かりました」



ノートパソコンを開く。少しずつ進めていた事があった。僕が消え、叔父に迷惑がかからないようにと進めていた事だった。でも、こうして会長直々に組織の足抜けを打診してくれるなら、こんな好都合な話は逃せない。僕はあるファイルを開き、それを会長に見せる。その書類には大きく極秘というスタンプが押されていた。



「今、この土地を買い占めることが出来れば、5年後、この周辺一帯の価格はうんと跳ね上がります。今の売値はかなり低く設定されてますので今が買い時です。何もない寂れた土地ですが、5年後、都市開発され近くに商業施設が建ちます。そうれば利益は数十億はくだらない。この近くのマンションも全て高騰するはずです。買い取って長期的に利益を生み出す事もできます。それと、蓮司君が目を覚ますまでの間の情報代は不要です。これが僕の落とし前。僕の足抜けする為の金額です。金額としては柳田組の補填となるくらいは稼げるかと」



「ほう。…この土地開発、裏は取れているのかね」



「はい。まだ準備段階ではありますが、土地開発されるのはほぼ確定です。それから、ここ。この一帯は、国が買い占めるようです。国道がこの道に繋がるようですので、一気に高騰するかと」



「さすがだな。極秘ファイルの入手なんて、またとんでもない所に手を出したものだね」



「えぇ。僕が抜ける穴埋めはさせて頂きます。その代わり、蓮司君が目を覚ましたら僕達は消えます。僕を、彼を、自由にして下さい。良いですね?」



「………彼を、か」



「はい。笹野がいない今、責任者はあなたです。落とし前、つけて下さい」



会長はふっと笑う。僕の言いたい事は通じたろう。僕はパソコンを閉じた。



「僕は僕の落とし前を。あなたはあなたの落とし前を」



僕は悪魔に魂を売った。だからもう何も、怖くはない。会長はなんだか楽しそうに笑うと何も返事はせず、席を立ってドアを開ける。廊下へ顔をぬっと出すと、「アキさん、終わったよ」と声を掛けた。叔父は隣の部屋からのそのそと入ってくると、会長を見下ろし、僕を見下ろし、「何もなかったか」と僕へ声を掛けた。



「はい」



「やだなぁ、信用して下さいよ」



叔父は僕の隣に腰を下ろすと、「で、何を話してたんだ?」と首を傾げた。僕が答えるより先に会長が口を開く。



「もちろん、柳田組の壊滅とアキさんが拾って来た青年について。でも収穫はないンでね。逆に俺が脅されちゃいましたよ」



「脅された?」



叔父は怪訝な顔で僕を見る。



「脅したつもりありませんけど」



「ふふ。見た目はアキさんに似てなくても、肝の据わり方はそっくりですね」



「何、何があったんだよ」



眉間にとてつもなく深い皺を刻む叔父をよそに、会長は知らぬ顔をして笑っている。



「さーてと、庵君、君の要望は受け取った。だから君の方も宜しくね。うんと働いてもらわないと」



「えぇ」



「おいおい、無視するな。…庵、大丈夫なのか?」



「うん、僕は大丈夫だよ」



会長は焦る叔父を可笑しそうに見ていた。



「例の件、蓮司君が目を覚ますまでいつまでも、そうだったね?」



情報代のことか。僕は首を縦に振る。



「はい」



「よし。…じゃ、もう君には用ないよ。今度はアキさん、あなたに用があります」



「俺?」



嘘が苦手な叔父にもきちんと話は合わせてある、が、問題は表情や仕草からそれが嘘だと見破られないか、という事だった。やっぱり、この人は僕と叔父、別々に話を聞いて僕の粗を探すつもりなんだろうな。僕はパソコンを片手に腰を上げる。



「では、失礼します」



「え、あ、おう…」



叔父は少しあたふたと焦っていて、会長はゆるりと口角を上げる。嘘を見破るなら叔父の方が楽だと、そう頬が緩んだのかと、僕は部屋のドアを閉めて少し立ち止まった。物音は立てずに聞き耳を立てる。下手な事を言わなきゃ良いが…。



「…で、なんだよ」



「アキさんにはもう十分話は聞きました。宿にも確認取ったし、泊まってる事も確認しました」



「本当に宿にまで電話したのか」



「えぇ。もちろん。本当は泊まってなかったらどうしようかとビビりながら電話しましたよ」



「ビビりながら、ね」



「そりゃぁ怖いでしょうよ。長年築いてきた信頼が崩れるかもしれないんですよ」



「俺はただ温泉に泊まりに行っただけ。それだけだ」



「アキさんがひとり旅ってのがなぁ。寂しがりやのくせになぁ」



「たまにはひとりになりたい事もあるだろう」



「へぇ。それっていつですか? 長い事、あなたと一緒にいますがね、ひとりが好きだなんて微塵も感じた事ありませんよ。しかも誕生日の祝いなら、尚更。誰かを誘うと思ったンですけどね」



「誰も誘わずひとりぶらぶらと。お前の知らない俺の一面がまだあるって事だわな」



「そうですか。……ま、アキさんが言うなら、そうなんでしょう」



「そうよ」



叔父の返事の後、少しの沈黙が流れた。



「…あ、そうだ、アキさん。ちょっとさ、傷の具合見てくれません? やっぱり痛むんですよね」



「ん、どれ、見せてみろ」



「………アキさんが眼鏡少し下げて眉間に皺を寄せて真剣に何かを見るの、好きです」



「お前だって老眼だろ。色んな物が見え難くて敵わないね」



「アハハ。そうですね。……で、これ、ちゃんと塞がってます? なんか痛むんですよ」



「綺麗に塞がってるが、抜糸まではまだ時間かかりそうだなぁ。別に膿んでるわけでもないし、痛みは引くと思うが気になるならまた来い。あと鎮痛剤、渡しておくわ」



「助かります」



「おう」



「あ、そういえばこの前…」



会長はどうやら叔父を問い詰めたりしないらしい。柳田組の話はどこへやら、ふたりは他愛もない話を始め、僕はまた蓮司君の部屋へと戻った。蓮司君の頬に触れ、じっとその美しい顔を見下ろす。彼が目を覚ますまで、しっかり僕のやるべき事を片付けなければならない。僕はベッドの横に置かれるテーブルにまたパソコンを置き、カタカタと情報を探る。笹野の行方、荒木の行方、あれから荒木とも連絡が取れなかった。僕は苛立ちに溜息を吐く。こんな現実が苦しくて、悔しくて、反吐が出そうになる。


でも、僕は生きなければ。やるべき事を、やらなければ。蓮司君が目を覚ました時、僕は彼と共にこの世界を抜け出すのだから。彼の為なら、なんだって耐えてやる。なんだってしてやる。だから、早く、目を開けておくれよ。僕と君だけの世界で生きよう、蓮司君。



「…いい加減、起きろよ」



僕は今日もまた、その言葉を吐いては虚しさに悔しさを覚え、ぐっと拳を握り締めるだけだった。

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