8. 覚めない夢から

『蓮司、私は君に金も快楽もうんと与えてきた。それなのに、何故、私の元から離れようとするんだ』



『…俺はもう、嫌なんです、クスリも、何もかも、それを強要するあんたも』



『君は気持ちの良い事が好きだろ? 大丈夫、このクスリはとっても気分が良くなるだけだ。何も怖い事はない。もし悪い夢を見るのが怖いのなら、私が側にいてあげるから』



『そうじゃない! もう、…やりたくない! 笹野さん、……俺を、離して下さい。俺が離れる事を許して…』



男は俺の顔をひどく気に入っていたから、顔を殴った事はなかった。でもその日、初めて頬を殴られた。ガンッと強い衝撃が脳を揺らして俺はその場に倒れ、一瞬何が起きたのか分からなかった。愕然とその場に倒れる俺を男は見下ろす。殴った張本人なのに、とても悲しそうに顔を歪めて俺の目の前に腰を下ろした。



『蓮司、君は良い子だ。そうだよね? 私は聞き分けの悪い子は嫌いだよ』



頬を鷲掴まれ、一錠のタブレットを半ば強引に口の中へ押し込められる。その後の事はあまりよく覚えていない。ただ強すぎる快楽に身を任せ、淫らに欲を吐き、気を失っては水を掛けられる。知らない男もたくさんいた。頭の先から足の先まで全てをどっぷりと汚した。訳の分からないクスリを体の中に入れ続け、まぐわい続け、それが気持ち良いのかも分からなかった。男を裏切ったからこうなった。きっと、一生逃げられないと思ったのが、今から10年ほど前。その数ヶ月後、シロと黒崎会若頭の辰也さんに救われ、男と縁を切ったはずだった。


それなのに、目の前にまた、その男が平然と姿を現した。



「…店長、大丈夫っすか」



佐伯君が俺の目の前でヒラヒラと手を振っており、俺はふと我に返った。



「あ、あぁ…大丈夫。店閉める準備、お願いね」



グラスを持つ手が震え、それを気付かせないようにグラスをカウンターに置く。



「了解っす。あと発注用紙がいつものと違うんすけど、ちょっと一瞬、来てもらえます?」



佐伯君は口をへの字に曲げて、俺にスタッフルームへ来るよう首を傾けている。俺はそんな佐伯君を見て、許可を取るように笹野さんへ視線を向けた。



「あの、笹野さん…」



顔色を伺うように笹野さんを見ると、「行っておいで」そう微笑んだ。



「すみません」



笹野さんに少しだけ頭を下げ、「佐伯君、どの用紙?」と声を掛けながら奥の暗い部屋へ入った。佐伯君はドアを閉めるや否や、とても低い声で「今の人っすね?」と俺を見上げた。彼の目は警戒心剥き出しだった。



「塩田さん、前に言ってましたよね? 厄介な人が来るかもしれないって。来たら、すぐに自分に連絡を寄越せって。塩田さん、呼んでおきますか?」



「あ、いや…」



塩田は俺を迎えに来る度に、よく一緒に店に立っていた佐伯君にだけ伝えていた。容姿がやたらと良い、ヤクザっぽくないヤクザが来たら僕に連絡して。きっと蓮司君が動揺するほどの人物だから、と。俺は大丈夫だよ、とその度に笑っていたが、佐伯君は塩田の言葉をきっちりと覚えていて、そして鼻の効く彼は俺の態度を見て、その男だと理解したらしい。


けれど今、塩田を呼んでしまうのは危険だった。鉢合わせは何よりも避けなくてはならない。塩田はきっと、呼んでしまえばすぐに飛んで来るだろうから。



「連絡しなくて大丈夫」



そう断って笑って見せる。



「…本当すか? 俺、けっこう店長のこと知ってて働いてるから、ヤバイ匂いすんの分かるんすけど」



「そう? 匂いする? いや、でも、大丈夫だからね。発注と掃除済ませたら今日はもう帰っていいから」



俺はそう言って焦るようにスタッフルームを後にして、笹野さんの元へと戻った。笹野さんはカウンター席にひとり、並べられるボトルを眺めていた。笹野さんがひとりで来るはずがなかった。だからこそ、ここに塩田を呼ぶ事はできないのだ。



「すみません、ごたごたしてて。まだ注文、とってなかったですよね?」



「そうだね、どうしようか」



この人は今まで俺に絡んできたイカれた人間とはわけが違う。俺に近付く理由も、俺に望むことも、全てが違う。笹野さんに俺という人間は通じない。俺はこの人を目の前にすると何も出来ない。だから笹野さんを目の前にすると、恐怖で手が震え、声すらも出なくなる。自分を落ち着かせ、絞り出すように声を発しては無理に笑顔を作った。大丈夫、大丈夫。そう何度も心の中で言い聞かせて、柔らかく口角を上げた。



「バーボンを貰おうか」



「はい」



店で一番高いバーボンをグラスに注ぎ、コースターに乗せてそっと差し出す。笹野さんは一口飲むと、ふっと口端を上げる。



「美味いな」



良かったと俺は安堵した。不味くたって別に叱られはしないだろうけど、何をしても緊張してしまうのだ。この人の目の前に立つ事自体が怖いのだから。笹野さんはグラスをコースターの上に戻すと、優しい目を俺に向けた。



「君のお友達に連絡しなさい」



表情穏やかに言われたその言葉を、俺は飲み込むしかなかった。たった一言だが、この人が俺と塩田の関係を知っている事を証明している。きっとこの人は、俺がここで働いている事を知り、徹底的に俺の事を調べていたのかもしれない。俺の跡をつけ、家の場所はもちろん、塩田が毎日送迎する事も、俺が塩田の部屋に入り浸っている事も、すでに全て知っているのだろう。この人は全てを俺から奪うつもりなのだ。俺は何も言わず、携帯を取り出して塩田にメッセージを打ち込む。



『昔の友達が何人か飲みに来たから、少し飲んでから帰る。 帰りは遅くなるから、先に寝てて。迎えも不要』



その文章を打ち終わり、笹野さんに見せると、笹野さんはトンと送信ボタンを押した。それを確認して俺は携帯をポケットへと仕舞った。



「もう閉店の時間か? 人がいないね」



店内にはもう笹野さんしかいなかった。佐伯君は奥の掃除を始めており、笹野さんは俺を見上げて返事を待っている。



「そう、ですね。深夜から天気がかなり崩れるみたいですから」



「そうみたいだね。人もいないことだし、一杯、付き合いなさい」



「…はい」



俺は同じバーボンをグラスに注ぐと、笹野さんは俺を見つめながら再び口を開く。



「ずいぶんと、大人になったね」



「…10年、経ちましたから。俺ももう、30です」



「いただきます」そう付け足して、グラスを上げながら笹野さんの表情を伺うと、笹野さんは優しく微笑んだ。俺は一口だけ飲んで喉が熱くなるのを感じながらグラスをカウンターに置く。バーボンがグラスの中でゆらりと小さく揺れた。


これが毒で俺がこのまま死んだら、この人はどうするのかな。ふと、そんな事を思った。俺の死体を放置するか、それとも屍姦、なんてことになるのか。屍姦だなんて強烈に不気味で怖いが、それを容易に想像できてしまう。この人ならやりかねないよなぁ。無言でいた笹野さんを見下ろしながら、そう淡々と想像していた。



「…時が経つのは早いね。私も歳を取るわけだ」



笹野さんはクスッと自嘲するように笑う。



「モデルはいつまで続けていたんだ?」



「26の春過ぎまでです」



「結構長く続いたんだね」



「えぇ。もっと早く辞めざるを得ない状況になるかと思ってました」



本音を言って、そう緊張を隠すように微笑んでみる。ビジネススマイルか、愛想笑いか、笹野さんに対する感情を悟られないようにと表情で壁を作った。



「そうだね。君だものね」



笹野さんと会話を続けながら、視界の端で佐伯君を捉えていた。佐伯君は奥のテーブル席の掃除にやけに時間を掛けているようだった。いつもならさっさと済ませて、「お疲れ様でしたー」と帰って行くのだが、今日はやけに時間を掛けている。笹野さんを警戒するように何度かこちらに視線を向けては何か考えているようだった。佐伯君はとても良い子だから、きっと、心配してくれているのだろうけど、笹野さんには関わらない方が良い。そう心の中で強く念じた。だから今すぐ帰りなさい、と。けれどその言葉を言えるはずもなく、俺の眉間には軽く皺が寄っていた。



「蓮司、」



「は、はい」



「眉間に皺が寄ってるね。考え事かな」



そう笹野さんに指摘され、「いえ、なんでも」そう即答して気まずさから、バーボンをまた一口飲んで喉を焼く。ゆるりと眉間の皺を解いて、何か話さなきゃなと頭を回転させるものの、話題がこれっぽちも浮かばない。そう考えているうちに、笹野さんは突然可笑しそうに笑った。



「それにしても、あれだけ裏でやってたのに、なかなかバレないものなんだね」



19、若くて派手で一番ギラギラと快楽に貪欲だった頃の俺を、この人は誰よりも知っている。



「そう、ですね…」



「あの頃が、とても懐かしいね」



「…笹野さんは戻りたい、ですか」



俺はバーボンを飲み干した。笹野さんはまた甘く相好を崩す。



「そうだね」



時刻は午前12時30分を少し過ぎた。俺は時計を確認しながら、「店仕舞いなので、少し外します」そう売上げの計算をするために、笹野さんから離れる口実を作った。



「待ってるから大丈夫だよ、行っておいで」



笹野さんの口調はいつも優しくて穏やかだった。仮面はいつ見ても分厚くて、俺はその下の素顔を見たことがない。レジの近くで売上げを計算していると、掃除を終えた佐伯君が俺を不思議そうに見下ろしている。何事かと見上げると、佐伯君はがっくりと項垂れていた。



「……店長」



「うん?」



「俺、終電逃したんで、店長ん家泊めて下さい」



「え…」



そうか、そうきたか。佐伯君は完全に笹野さんを敵視している。そして笹野さんが自分には危害を加えないと踏んでいる。だから俺と笹野さんをふたりっきりにしないよう動いてくれている。


でも、



「佐伯君、」



「はい」



笹野さんはきっと君だって躊躇なく殺すよ。



「近くの安いビジホくらいなら出してあげるから、そこに泊まりなよ」



「この辺ビジホないじゃないすか。隣の駅まで歩くのしんどいっす」



「なら、そこまでのタクシー代も出してあげるから。今日はもう上がりなさい」



「え、いやいや…」



佐伯君の眉間の皺を見上げながら、俺はもう一度、口を開く。



「佐伯君、今日はもう帰っていいよ」



その言葉で事の異常事態を察知したらしかった。俺が佐伯君を巻き込みたくないという気持ちも。佐伯君は頭を掻くと、「じゃ、お言葉に甘えてー」と口に出すが、目は一切笑っていなかった。俺が財布を取りに席を立って奥の部屋へと入った瞬間、「君、」と笹野さんの声が聞こえ、俺はカウンターへと視線を向ける。佐伯君に何かするつもりじゃないだろうなと心臓が嫌に速くなった。



「ホテルか、タクシーで帰れるね?」



3万円がカウンターに置かれ、笹野さんは佐伯君にすっとそれを差し出した。佐伯君はその札を見た後、俺の方に視線を向ける。目が合い、俺が口を開くと同時に、笹野さんが口を開いた。



「蓮司、いいね?」



その言葉を聞いて俺は佐伯君を見る。



「佐伯君、それで帰れるよね?」



佐伯君はじっと俺を見た後、この状況の異様さを飲み込んで、へらっと笑った。



「まじで良いンすか? やったー! これでタクシーで帰ろーっと。お客さん、ありがとうございます!」



佐伯君は3万を握ると笹野さんに頭を下げた。笹野さんは柔らかく微笑みながら、ひらっと手を振る。



「気を付けてね。お疲れ様」



「はーい。店長、後宜しくお願いしまーす」



「了解」



佐伯君は奥のスタッフルームへ一度姿を消すと、着替え、鞄を片手に出てきた。笹野さんに再度、「ありがとうございました!」と礼を言って、そのまま店を出る。瞬間、ほっと安堵した。ひとまずこれで笹野さんが佐伯君に何かするという事はないのだから。



「笹野さん、お金、俺が出しますよ。うちの従業員のタクシー代なんて、笹野さんに出させるわけにはいきません」



「これくらいさせてくれ」



「でも…」



「君の為に何かをしたいんだ。もし気になると言うのなら、それ分の"何か"を君が私に与えてくれれば良いから」



「…そう、ですね。分かりました。ありがとうございます」



そうだよな、そういう事だよなと俺はこの人がヤクザである事を改めて認識していた。俺は頭を下げ、また売上の計算をしようとレジ近くの椅子に腰を下ろす。笹野さんはその間、何も話さず、バーボンを嗜むように少しずつ飲むだけだった。



「すみません、お待たせしました」



売上の計算を終え、再び、笹野さんの前に立つ。



「君は店長なんだね」



「はい」



「どう? "普通の"仕事は」



「モデルを辞めてから慣れるまでは苦労しましたが、今は楽しいです」



「君がこんな平凡に暮らしてるなんてね。思ってもみなかったよ」



「俺にモデルみたいなショービジネスは向いてなかったんですよ、きっと」



「今の方が合っていると?」



「はい。モデルだった時よりは自由がありますから」



「ふふ、そうか」



笹野さんはそう口角を上げると、バーボンを飲み干し、空のグラスを置いて立ち上がった。万札をぽんと置くと、「さて、もうそろそろ出ようか」 そう微笑んでいる。



「…はい」



「ご馳走様」



俺は笹野さんの後を歩きながら深呼吸をする。自業自得で自分の首が絞まるのをひたと感じていた。外に出ると、もちろんのように黒い高級車が停まっている。ひとりの厳つい男が、笹野さんを確認すると運転席から外へ回り、後部座席のドアを開ける。笹野さんが中に入り、俺は反対側から後部座席へと座った。車に乗り込むと、笹野さんは運転席に座るその男に指示を出す。



「克敏、大原の別荘まで頼む」



「はい」



そこは俺にとっての鳥籠。10年前と同じ、郊外にある別荘は美しい自然に囲まれ、叫ぼうが泣こうが暴れようが誰も助けに来ない。お利口にならざるを得ない場所である。青く美しい空も、木漏れ日で溢れる森も、眠気を誘う温かな風も、全てが歪んで見えたあの頃へ俺は今、戻ろうとしている。


流れていく外の景色を見ていると、笹野さんは胸ポケットからシガレットケースを取り出した。紙に葉っぱを入れ、器用にくるくると巻き、舌先で紙の縁を濡らしてタバコを作る。火を点けると深く吸い込んだ。窓を少しだけ開けると、ふぅーと煙を吐き出す。その渋い草の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。



「吸うかい?」



渡されたそれを見下ろしながら、俺は「タバコ、辞めたんです」と正直に答える。 笹野さんは「そうか」と、答えてまた深く吸い込んでは煙を吐き出した。



「いつから辞めたんだ?」



「4年くらい前、でしょうか」



「何かキッカケでも?」



「知ってる人が亡くなったんです。まだ35でした。ヘビースモーカーで、俺が禁煙した直接のキッカケになりました」



「君が誰かに影響され、何かを辞めるのは少し意外だね」



「そう、ですか? 俺は案外、影響を受けやすいと思いますよ」



笹野さんはふっと笑うと、少しの間、外を眺めていた。タバコの香りだけが狭い車内を満たす。静かな時間であった。



「蓮司、」



しばらくして笹野さんは俺の方を向いた。タバコを携帯灰皿に押し付け、それを懐に仕舞って窓を閉める。腕を伸ばせば届くほどの近い距離、笹野さんが俺の首を絞めて殺そうと思えば出来るほどの距離。俺は緊張し、きゅっときつく握り拳を作った。



「はい」



「私は君が離れてからというもの、全てが色を無くし、生きた心地がしなかった。何もかもがつまらなくて、何をしても満たされない。私と君との間には必ず邪魔者がいて、私はそれを排除し続けるしかない。それがどんな相手だろうと、私と君とを邪魔する者はどうしたって許せない」



そうだよな。この人にとって俺の救世主は邪魔者なのだ。この人にとっては、俺が全て、なのだから。



「…はい」



「ムショにいた時、黒崎会が壊滅したと聞いて、黒崎のボンが消えたと聞いて私は心底喜び、そして安堵した。君とまた会える、君にまた触れられる、もう誰も邪魔をしない、そう思うといてもたってもいられなかった。…長かったね、蓮司」



困ったように眉を下げて笑う笹野さんを見ながら、俺は否定する事ができなかった。



「そう、ですね」



俺はただ逃げたいだけなのに。



「待っていてくれたんだよね?」



喉元に刃を突き付けられている気分だった。逃げたい、離れたい、もう解放してくれと訴えたいのに、それは出来ない。



「……笹野さん、」



あまりにも怖かった。この人に逆らう事はどうしようもなく怖い。待っていてくれた、という言葉を否定する勇気はないくせに、肯定する事も出来ず雁字搦めになる。



「ん?」



「たくさん、快い事をしましょう」



だから笹野さんの言葉には何も返さず、そう笑ってみせた。笹野さんの長い腕が伸びてくる。冷たい掌が頬を覆う。寄せられたその掌に俺の心臓は恐怖心に鼓動を速めた。それを察知させまいと、わざとらしくその掌に猫のように擦り寄ってみせると、ふっと優しく唇が重なる。本当に一瞬、唇が重なっただけの軽い口付けだった。ほんの少しタバコの苦い香りがした。



「おかえり、蓮司」



その甘い瞳を見ながら俺はゆるりと口角を上げる。ただいま。その言葉は吐きたくなかった。だから言葉の代わりに舌を絡めて熱い息を吐く。笹野さんの細い骨ばった指が俺の腰へと回された。俺はあの悪夢のような日々を、再び経験しようとしている。ギシッとシートが軋んだ。黒革のシートは冷たく、熱を持った指先には気持ちが良い。ごくりと生唾を飲み込み、笹野さんに身を任せる。笹野さんは懐から何かを取り出して、そっと俺の唇に押し付けた。それはあの日、嫌だと、もうしたくないと抵抗した媚薬だった。嫌になるほど甘くて、体も脳もどろどろに溶かす一錠の錠剤だ。



「さ、快い事をしよう」



口を軽く開けてそのタブレットを舌の上に乗せた。それは一瞬にして唾液によって溶けていく。飲み込むと、胃の中がそれで満たされ、胃の中から体全体に広がっていく。ふわふわと、俺はまた、あてのない旅に出るのだろう。マトモを嫌っていた俺の最期が、マトモなはずがない。刺激ばかりを求めていた俺の最期が、静かで平穏なはずがない。



「…ん、……っ、」



呼吸の間隔が短くなり、体の芯が火照るような妙な心地になりながら、これが最期なのかなと俺は静かに考えていた。



「笹野さん、」



「ん?」



「目眩が、する……」



「そうだね、でも大丈夫だよ、大丈夫」



ぐるぐると周りが回る。気持ちが悪い。笹野さんは俺のベルトに手を掛け、カチャカチャと金具の音を立てながらベルトを外してジッパーを下す。すでに硬いそれを優しく包むように撫でて先に軽く触れた。濡れた卑猥な音を聞きながら、体はやけに素直だと笑ってしまいそうになった。背もたれに寄りかかり、重い頭をヘッドレストに埋め、声が漏れないよう手で口を軽く押さえた。


クスリなんて要らない。そう否定するのは本当は自分がジャンキーだと知っているからなのかな。甘ったるい媚薬を体に入れてまぐわう事が、どれほど刺激的で気持ちが良いか知っているから、それを否定していたいだけか。戻りたくねぇな………。



「…イきそ……」



「気持ち良さそうだね?」



「……っ」



脳が弾けるような強い快楽に唇を噛み締めて、笹野さんの手を汚した。体は軽く痙攣し、それでもまだ快楽が足りないと芯が疼いた。



「も、挿れたい……。笹野さんだって、気持ち良くなりたいでしょ? ね、酷く、して下さい。笹野さん」



「別荘まで我慢できなかったね」



笹野さんはふふっと柔らかく微笑んだ。俺は笹野さんに手を伸ばして上を取り跨ると、笹野さんは白濁で汚れた指先をそこへと押し付けた。貪るように舌を絡ませ、わざとらしく立てられる水音を聞く。長い指は壁を擦り、ゆっくりと解されていく。唇を離すと同時に指が抜かれる。笹野さんはその細い指で自分のベルトを片手で器用に外した。



「まだ、キツいかもしれないね」



先を入れただけでもびりびりと電流が流れるようだった。息をするのもやっとで下腹部に力が入る。笹野さんの首元に顔を埋め、必死に呼吸をした。熱い。何もかもが熱い。頭がふわふわと、目の前がぐらぐらと。



「笹野さ、ん……」



「気持ちが良いね?」



こくこくと頷きながら、半分までを中に挿れたところで笹野さんは腰を抱いた。途端に全てが中に収まり、奥を圧迫されて短い悲鳴を上げると、笹野さんはまた優しく笑っている。



「イきなさい」



さっきイったばかりなのに体はまた熱を吐いては肩で息をする。それでも貪欲でまだまだ収まらない。ぐらぐら、ぐらぐら。何度も、何度も。卑猥な音が車内に響き、波を感じてはまた口を半開きに開ける。酸素が欲しいと、脳に酸素を届けたいと、息をしようと、必死になる。


その時、すっと首に手が掛かり、気付くと笹野さんは俺を押し倒していた。奥深くまでそれが突き挿さり、肉を抉られる。腹が、苦しい。首に掛けられる手に力がこもり、俺は咄嗟に逃げようとした。絞まる首、呼吸のできない口、霞む視界、苦しさに涙が溢れ出た。手を伸ばして助けを乞おうとするが冷たい窓ガラスに爪を立てるだけで、何も意味はなさない。逃げられないのなら、笹野さんの手をどうにか、そう笹野さんの冷たい手首を握り、離してくれと懇願する。懇願するがきっと何ひとつ伝わっていない。


笹野さんの瞳をじっと見上げた。笹野さんは快楽に目を細め、熱を帯びた瞳が俺を見下ろしている。温厚に唇の端が緩んでいた。人の首を絞め、殺す瞬間、この人はきっと快楽を感じるのだろうなと、俺は他人事のように感じながら、ぷつりと意識を手放した。


再び目を覚ました時、ガタンと段差に車が少し揺れた。外はまだ真っ暗で光はどこにもない。街のカケラもない。見えるのは漆黒の空。星も月もない。何度か瞬きをしてから状況を把握した。俺はまだ車の中に揺られているらしい。まだ笹野さんに殺されたわけではないようだ。


片足を投げ出し、片足は立てたまま、笹野さんの膝を枕に俺は落ちていた。俺は外を眺めている笹野さんの顔を見上げて口を開いた。



「……殺すつもりでしたか」



笹野さんは視線を外から俺へと向けられる。大きな手が俺の頭を撫で、ゆるりと髪に指先を絡ませて遊んでいる。



「君を殺すより君が苦しみ恐怖する事を私はたくさん知ってるよ」



俺にもっとも効く脅しを知っている。そして俺はこの人が言葉だけの人間だけではない事も知っている。簡単に行動に移してしまうことを知っている。


だから昔、俺はこの男を殺そうとした。



「あいつは、ただの友人です。…なんて、通じませんか」



「私達の関係を邪魔する者は誰であっても許せない。そう言ったろう」



「あいつには手、出さないで下さいよ。俺はここにいます。だから、あいつの事は放っておいて下さい」



「妬かせる事を言うんだね」



「最後のワガママくらい聞いて下さいよ」



「……そうだね」



笹野さんは少し疲れたように笑うと、俺の髪を撫でながらまた外の景色へと視線を戻した。それから少しして車は山道へと入り、静かな森の中を走った。しばらく車を走らせ、ポツンと見える大豪邸に既に2台の黒い高級車が停まっていた。笹野さんの舎弟らしい男達が入口に立っていて、笹野さんの車が見えると頭を下げている。


この人は今も昔も子分が多い。なんでかな。こんなにもイカれているのに、金があるヤクザはやっぱり慕われるのかな。車は入口に停められる。俺は上体を起こして開けっぱなしだったジッパーを上げてベルトを締めた。笹野さんは克敏と呼んでいた運転手の男にドアを開けてもらい、俺はそのふたりの後ろをのそのそと付いて歩く。


笹野さんはそのまま地下室へと足を運んだ。ここが、俺の部屋。鳥籠。泣こうが叫ぼうが無駄な事。ここにいる間はきっと俺はただの玩具にすぎないのだろう。逃げないように足枷をはめられ、ドアには鍵を掛けられる。笹野さんが飯を運び、一緒に食べて、甘いクスリを飲んでヤりまくる。手洗いとシャワールームは地下室の奥にあり、全てがこの地下室で事足りる。広すぎるベッドに腰を下ろし、俺は右の足を差し出した。



「どうぞ」



「やけに素直だね」



「それも妬きますか。俺が素直なのは、あなたがあいつに手を出させない為だから」



「そう言葉にされると余計にね」



差し出した右足に、じゃらりと音を立てて重たい鎖が足枷と繋がって地面に固定される。鉄の重さを感じながら足首に掛けられた錠を眺める。笹野さんは俺を見下ろすとまた髪に触れた。その手を取り、手の甲にキスを落としながら笹野さんの瞳を見上げる。



「…笹野さん、座って」



笹野さんは俺に言われた通り、ベッドの端に座り、俺はそっとベッドから降りるとそのまま膝をつく。ベルトに手を伸ばし、両手でそれを包んで唇を寄せた。



「…君のこういう姿、あと、何度見れるのだろう」



笹野さんの手がまた髪に絡む。ゆっくりとした手つきで、大きくて、支配的で、暴力的だ。



「ん、……っ、んふ、」



「君は相変わらずだね」



口の中で硬くなるそれを楽しみながら、笹野さんの隙を伺う。ここから出る為にはどうすれば良いのか。頭が正常なうちに考えなければならない事は無数にある。けれどこんな地下室に閉じ込められてしまえば、外へ出る事は無理に等しかった。


だからこそ、今はこの人の信頼を得るしかないのだ。その為ならなんだってしよう、そう舌を這わして喉奥に出されたそれをゴクンと飲み込んで見せた。 



「笹野さんって歳、取らないですよね。車でもしたのに、またたくさん」



へらっと笑って見せると、笹野さんはじっと俺を見下ろして、そのまま頬を掴んで舌で唇を舐めると、少し開かれた間からぬらりと舌を滑り込ませた。雪崩れるように服を脱ぎ、冷たい大理石の床でまたまぐわう。このまま俺だけを見て、塩田の事はもう忘れてくれ。頼むから。



「……っ、う、ふっ…」



声を我慢しようとすればするほど、熱い吐息と共に声は漏れ、掠れ、笹野さんはやけに楽しそうに目を細めて俺を見下ろす。冷たい指先が、ツン、と左のピアスに引っ掛けられ、俺の体はその反射的に強張った。



「左も開けたのかい?」



「はい」



「君の体に他の男の痕跡があるのは嫉妬してまうね」



「笹野さんが嫌なら外します」



そうボール部分に指を掛けると、「いや、そのままに」そう笹野さんは俺の手首を掴んだ。



「とても似合ってるよ」



「…分かりました」



何を考えているのかなと、俺は笹野さんの顔を見上げる。笹野さんは俺の髪を撫でて額にキスを落とし、目尻と鼻先にも甘く唇を寄せた。奥を突かれ、喘ぎ、汗を流してまた欲を吐く。肩で息をする俺をベッドへ放り投げると今度は後ろから。両手を纏め上げて固定され、何かが染み込んだ布がするりと鼻と口を覆う。背中に笹野さんの体温を感じた。



「……んん、」



何の香りか、嗅いだ事のない香りがした。金木犀のような柔らかな甘い香りの奥に、ツンと鼻をつく刺激臭がある。でもその正体が分からない。それを嗅いでいると、ぼうっと頭が回らなくなり、徐々に体に力が入らなくなっていた。手足が軽く痺れ出して体が重く感じる。



「どれくらいキめたら人って死ぬのだろう」



するりと布は離れ、今度は笹野さんがそれを深く吸い込んだ。その後でポイッと捨てられたその布を横目に、俺は「さぁ…」と呟くだけだった。それが精一杯の返答だった。



「体が敏感になると何をしても良い気分だよね、蓮司」



「……ん、」



「私と離れていたこの10年、君は何人の男とまぐわってきたのかな」



「…笹野さん、…笹野、さ、ん…」



訳が分からなくなっていた。頭がぼうっとして、ただそこにある快楽が欲しくなる。もっと欲しくなって、満たされない。



「…でね、やっぱり君は快楽に流される方が好きなんだよ。………だと、言っていたね、けど…」



水っぽい卑猥な音を聞きながら、何かを返そうと口を開くが呂律が回らず奥歯を噛み締める。嗅いだあのクスリは媚薬か麻薬か。周りがチカチカとやけに眩しくネオンの光のように見え、笹野さんの言葉も聞いているはずなのに、どこか飛び飛びになる事に気がついた。



「………ほら、またイった。ちゃんと口に出して言わないと、ね?」



体は勝手に反応し続け、意識はどこか別の次元に置いてきたようだった。笹野さんに触れられるだけで、そこが熱を持ち、あっという間に欲を吐き出してはまた貪る。その繰り返しだ。



「…悪い子だ」



霞む視界の中、笹野さんはやけに楽しそうに腰を抱いている。



「なぁ蓮司、私は君を許せるのだろうか」



確かに、そう言われた気がした。でも、その言葉の意味を深く考える事もできない。何も考えられない。



「きっと許せないのだろうね」



その言葉を聞いたすぐ後だった。



「……あぁぁぁあっ」



ナイフの鋭い刃が、俺の背中を一筋に切り裂いた。皮膚を裂き、肉を裂き、真っ赤な血が取り留めなく溢れ出る。真っ白なシーツに、背中からボタボタと血が落ちていく。あまりの痛みに俺は身動きが取れなかった。笹野さんはその傷に唇を寄せ、血を味わうように舌を這わせながら奥に、中に、欲をぶち撒けた。クスリの抜けない体でぜぇはぁと肩で息をする。


笹野さんは体を離すと痛みに呻く俺を見下ろして首を傾ける。シャツを着直し、ジッパーを上げ、ベルトを締め、まるで何も無かったかのようにまた俺の横に腰を下ろした。



「よく締まって快かったよ」



笹野さんは指先で背中の傷に触れながら、そう言って笑った。



「……っ」



ぐらくらと周りが歪む。横目で笹野さんを見ながら、乱れる呼吸を落ち着かせようと必死になっていた。



「何度まぐわっても満足しないものだね。体がこうして離れてしまうと、また、すぐに君が欲しくなる。けど、君を休ませる事も必要だ。だから今は少し休みなさい。寝ている間に処置はしておくよ」



「…結構、深く、切ったんですね。……痕、残るんでしょうね」



「その為の傷だろ? その為に、ナイフを突き立て、肉を裂くんだよ」



笹野さんはまた俺の髪を撫でている。



「さ、顔を上げて、口を開けなさい」



笹野さんに言われた通り、上体を少し起こして口を開ける。笹野さんは舌の上にまた一錠の白いタブレットを置くと、ベッド近くにある小さな冷蔵庫から水を取り出して、自分の口に含んだ。飲み込めなかった水が重なる唇の端からゆるりと溢れ、顎からシーツへ落ちていく。ごくんと飲み込んで俺はまたうつ伏せになる。背中のひどい痛みに、眉間に皺が寄った。



「おやすみ、蓮司」



どうやらそれは睡眠薬らしかった。背中はズキズキとひどい痛みだったが、しばらくして、俺は意識を手放していた。


ヴーヴーと機械的な振動音が耳元で響いている。何の音か、どうして鳴り止まないのか。煩いなと徐々に意識を戻すと同時に背中にひどい痛みを感じ、吐きそうになる。それを堪えながら、ふっと音のする方へ視線を向けた。携帯、そのままなんだ。俺は枕元にあるシェルフに手を伸ばして携帯を手にした。



「……もしもし」



「も……し! 聞こえ…! 蓮司く…」



電波は悪いが相手が誰かは分かる。とても焦っているという事も、今にも泣きそうだという事も。



「悪い。電波が悪くて全然、何を言ってるのか聞こえない…」



「ひとま……で、良かっ…。僕が…り、し…から、ごめん……本当に…さい…。きの…佐伯君……電話…、それで、…今、たす…行く…」



なんとなく分かる事は、佐伯君がどうやらあの後、塩田に電話をしていた事、そして塩田は今、助けに行くと言った事だった。


でも、この場所は塩田でも分からないだろう。笹野さんがよく麻薬や拳銃の売買にも使うような場所なのだから、こいつが笹野さんの子分や側近ではない限り、そう簡単に分かるような場所ではないし。それに塩田がここに来る事は避けなければならない。ここに来る事は、相手の思う壺。殺されて終いだ。そんな事は絶対に避けなければならない。



「ダメだ、塩田。来るな。何があっても、ここには来ちゃいけない」



「…ど、…を助け…と。ぼ…、もう、決め…。場所はもう、…ってる。けど、わかっ…、今行けば……。だから…ミングを見て…」



場所は分かってる? タイミングを見てる? そう言ったのだろうか。



「お前、今、どこに…」



その時、ガチャガチャと鍵を外す音が響き、地上に繋がるドアが静かに開く。



「悪い、塩田。もう掛けるな」



笹野さんが階段を降りてくる。俺は咄嗟に一方的に電話を切り、そのまま電源を落とした。笹野さんがいる時に電話が掛かってきたら、その相手が塩田だと分かったら、そう考えるとゾッとした。


携帯を枕下に入れ、俺はドアの方をじっと見上げている。



「痛みはどう?」



革靴の軽い音を鳴らして階段を降りて来る笹野さんを見上げながら、「ひどい痛みです」と答える。



「食事を摂ったら鎮痛剤を飲みなさい。いいね?」



ベッドに置かれるウッドトレーにはデミグラスソースがかかったハンバーグと少量の白飯、コンソメスープ、サラダ、その横にはフルーツの盛り合わせが小皿に入っていて、トレーの端には白い小皿に錠剤が一錠ある。


俺は背もたれにクッションを敷き寄りかかろうとしたが、あまりの痛みに寄りかかれず、そのまま胡座をかいてフォークとナイフでハンバーグを切って口に運んだ。笹野さんは横に腰を下ろして首を傾けながら、甘い瞳で俺をじっと見ていた。



「美味しいです」



そう伝えると笹野さんの表情がゆるりと緩む。



「良かった」



「俺の好物、覚えていたんですね」



「そうだね」



このハンバーグは俺が初めて笹野さんの家に行った時、振る舞われた食事だった。味付けは一切変わっていない。都内の高級マンションの一室、街の明かりを見下ろしながら、笹野さんが作ったハンバーグをふたりで食べた。飯の後はもちろん、ふたりで飽きるまでまぐわった。俺がまだこの人に純粋な気持ちを向けていた時だった。この人の味は何も変わらない。この人は何も変わらない。変わらず、永遠と俺に執着している。



「この後、ヤクの大きな取引がここである。だから、上が少し騒がしくなるが気にしないでくれ」



「分かりました」



シェルフの上に置いてあった水を取って一口飲んだ。



「まだ日本じゃ出回ってないクスリでね、効果が早く、持続時間も長く、副作用がない。快楽の為のクスリだ。ただ安全面はまだまだ未知でね。どれくらいの量でオーバードーズを起こすのか少し微妙なんだ。それに依存性がかなり高いらしい」



「そう、ですか」



「それでも高く売れる。良いシノギになる。低コストなのに売値は驚くほど高いようだ」



「試してみたんですか」



「私はまだ試してない。忙しくてね」



「そうですか」



ハンバーグを食べ終えてフルーツに手をつける。笹野さんは俺の顎に指を引っ掛けると、自分の方へ顔を向けさせ、丁度ブドウを頬張っていた俺の口端を舌先で舐め上げた。



「美味しいかい?」



「え? …えぇ、はい」



ごくんと飲み込んで優しく微笑む笹野さんを見ながら、何が言いたいのかと俺は眉間に皺を寄せる。笹野さんはトレーの端に置かれていた錠剤を手に取ると俺に手渡した。



「痛みはすぐに消えるよ」



言われた通り錠剤を放り込み、水でそれを流し込む。



「ご馳走様でした」



笹野さんはやけに嬉しそうだった。反対に俺の眉間の皺は深くなる。そしてある事に気付くと思考が一瞬にして止まった。怖くなった。この人は、俺を使ったのだ。



「も、しかして……」



「大丈夫、大丈夫。その量で死んだ人間はいないよ」



その新しいクスリとやらを、安全性が疑われると言うクスリをこの人は俺に使ったのだ。そう気付いた途端、心臓は不安になる程速くなり、悪寒が走った。体の節々に熱を感じて、徐々にその熱は体全体に広がる。効果が顕著に現れると俺は一気に不安に駆られた。



「体が熱くなってきたかい?」



「……は、い…」



「快楽ドラッグは体を売る時に使われるが、これを使用するとどんな人間も落ちるみたいだね。無理矢理に黙らせる必要がないってわけだ。こっちの手間も省けるし、躾にはもってこい、そう思わないかい?」



「……嫌だ…」



怖い。これは自業自得だと分かってはいるが死にたくはない。塩田に会いたい。また、塩田に触れたい。背中の酷い痛みと異常な心拍数に、額に汗が滲んでいく。



「何が嫌なんだ?」



笹野さんは俺の頬に手を寄せて甘い瞳を向ける。



「嫌、だ……死にたくない。…怖い。病院へ連れて行って下さい…怖い。嫌だ。嫌だ。…もう、勘弁して下さい…」



俺は死ぬ。きっと、死ぬ。こんなに脈が速くなるなんて、呼吸が荒くなるなんて、俺はきっと死んでしまう。このクスリのせいで俺はきっと…。



「大丈夫、大丈夫。怖がらなくて良いよ。その恐怖は一時的なものだから、落ち着いて受け入れなさい。そうすればうんと楽になる」



懇願する俺を笹野さんは宥め、俺の髪を撫でながらそっと目尻にキスを落としてゆるりと手を下へと這わせた。



「体はこのクスリを気に入ったみたいだよ? ね、蓮司。本当は好きだろう」



上下するその大きな手の動きに、腰が勝手にひくついた。心臓が限界だと騒いでいて、このまま脈を速める事は死を意味しているようで怖いのに、どうしてだろう、意思と反して体は動いてしまう。



「嫌、だ……笹野、さん」



「嫌がるやつの顔じゃないよ? 本気で嫌がるのなら、私の手を振り払えば良い。私を殴って止めれば良い。腰をひくつかせる君にそんな事を言われても説得力ないな」



「…死にたくない、……笹野さん、ごめんなさい。もう、許して…」



「イキなさい」



「い、や…だ、……いや、…っ」



根本から絞り取られるよに擦られると、何度も吐き出したはずなのにまた熱を吐き出して体を痙攣させる。倒れた俺の体をまるで玩具を見るように見下ろすと、笹野さんは股を割って入った。



「まだ足りないだろ。さっきしたばかりだから、楽に入りそうだね?」



「む、無理……無理です、嫌だ…」



死んでしまう。勘弁してくれ。怖い、怖い、怖い。体はもうドロドロに溶けていて目の前が霞む。心臓が痛い。呼吸が苦しい。このまま続ければ心臓は速く動きすぎたせいで、突然、ぴたりとその動きを止めてしまう。怖い。逃げなければ。塩田に会いたい。塩田に…。


なのに……



「……あぁぁっ」



「すんなり奥まで入るね。さっきまで散々ヤってたものね。あー…中、いつも以上に熱いよ」



息が、出来ない。シーツを強く握り締め、背中が弧を描く。背中の痛みはもう消えていた。



「そんなに涙を流して、鼻を垂らして。…蓮司、大丈夫。君の心臓が止まっても、きちんと最後まで君を可愛がってあげるから」



この人を殺せば逃げられる。10年前にはできなかった事を、今、しなければならない。今、殺さないと俺が殺される。俺は霞む視界の中、笹野さんを見上げ、喘ぎながらもこの人を殺す事を考えていた。塩田は言ってくれた。こんな男の為に俺が手を汚さなくて良かったと、安堵してくれた。でも、やっぱり、こいつを殺さないと俺は逃げ切れない。


俺は、逃げたい…。


俺は横目でトレーの位置を確認した。ゆっくり手を伸ばして取手に指先が触れて掴んだ瞬間、それを勢いよく振って笹野さんを殴りつける。ガシャンと派手な音を鳴らしてトレーの上にあった白いガラスの皿が派手に割れる。


笹野さんはこめかみを深く切っていた。俺はベッドから転がるように落ち、近くに落ちていたガラス皿の破片を手に取った。視界は相変わらず霞がかかって見えにくい。けれどどこに誰がいるのかは十分に分かる。手足が震え、心臓が痛く、呼吸するのも難しいが、もう後には引けない。殺さなければ。この人を殺さなければ。逃げなければ殺される。



「過剰に反応してしまっただけだろう? さぁ、おいで、蓮司。大丈夫だから」



笹野さんは落ち着いていた。俺は握り締めている破片を笹野さんに向け、冷たい床を足の裏で感じながら、一歩、一歩と後退りする。



「本当に、私を殺したいのかい?」



心臓が、煩い。痛い。苦しい。



「蓮司、」



笹野さんは俺に近付こうと、一歩踏み出す。



「ち、近付かないで下さい。刺します」



「それで人は殺せるのだろうか」



そう溜息をついた笹野さんはシャツの腕をゆっくりと捲り、背中から繋がる胸割九分の刺青が見えている。この人は普段はあまり刺青を見せないが今は余裕がないらしい。俺の前で手を開いて見せ、何も武器は持っていない事を証明した。



「蓮司、大丈夫。大丈夫。心臓の音が煩いね? 脈も速くなり、死ぬんじゃないかと怖くなる。けど安心しなさい。その量じゃ人は死なない」



「…笹野さん、あんたは、離れていく俺を許せない。離れるくらいなら殺したいと、そう思ってる…。そうだろ」



また一歩、笹野さんは俺に近付く。俺の手の震えは悪化していた。それを必死に隠そうとした。けれど隠しきれないほど震え、足先に力を入れる事も難しくなっていた。笹野さんは相変わらず優しい目をしたまま、俺をただ見ている。



「蓮司、」



笹野さんはまた一歩、近付いた。



「近寄らないでくれ!」



そう悲鳴に近い声を上げると、笹野さんは胸ポケットから鍵を取り出して俺に見せる。それは足枷の鍵だった。



「蓮司、私は君に殺されるのなら本望だ」



鍵を俺に見せたまま俺にまた一歩近付く。俺にはもう逃げ場は無く、鎖がピンと張る。鋭利な破片の先端に、笹野さんはそっと触れた。恐怖に動けない俺を見ながら、笹野さんはその破片に手を伸ばしてそれをぐっと握る。



「そんなものじゃ、殺せない」



そう低い声で吐くと俺の手からそれを奪い取り、俺の唯一の武器は床に叩きつけられて粉々に割られた。けれど笹野さんは俺と距離を縮めず、その一定の距離を保ったまま、ベルトからするりと何かを外した。



「これなら殺せるよ、蓮司」



そう微笑むと、俺にそれを握らせる。



「本当に逃げたいのなら、私を殺して、鍵を奪って、ここから逃げなさい」



鋭い刃、鋭利なナイフの柄は木製なのに、金属のようにとても冷たく感じた。笹野さんはナイフを握る俺の手を両手で包み、一歩、また近付く。相手の吐息がかかるほど距離は近い。笹野さんは自分の首筋へとそのナイフの刃をぴたりと這わせた。



「躊躇う必要はない。本当に逃げたいのなら、一思いに。さぁ、殺しなさい」



手がカタカタと震える。怖い。怖い。死ぬ事が怖い。塩田に会えない事が怖い。この人を自分の手で殺す事が、怖い。この人を殺せない事が、怖い。どうしようもなくなった。どうして良いのかも分からなくなった。震える手は刃先に伝わり、笹野さんの首筋をするりと一筋、赤い血を滲ませた。ゆるりと赤い血が垂れていく。



「…は、離して…」



「蓮司、もう二度と、君を離したくないんだ。もう二度と…」



流れる血を見て俺は更に恐ろしくなった。心臓の音が騒がしく、苦しくなり、ふっとその瞬間、目の前が真っ暗になった。ナイフは手から落ちて足に力は入らず、落ちていく体を笹野さんは咄嗟に支えた。



「君に私は殺せない。そうだね、蓮司。だって君は私の側にいる事を本当は願っているのだから」



その言葉を最後に、優しく微笑む笹野さんの顔を見上げながら俺は意識を失った。



「……い、おーい、起きろー」



再び意識を取り戻した時、5人の男が俺を囲んでいた。気付き薬を片手に、ひとりが俺の意識を現実に引き戻す。ここは地獄だと俺は咄嗟に気付いてしまう。後退りをするがガラの悪い男達にあっさりと捕まり、ずるずると元の位置に戻される。体にはまだ訳の分からないクスリが残っているらしい。熱は引いておらず、手足がビリビリと痺れていた。



「兄貴、カシラ補佐って本当に面喰いなんすねー。これ、ホンモノの蓮司じゃないすか」



「え、誰っすか、蓮司って」



「お前知らねぇーの? コレ、昔は有名なモデルだったんだよ。ま、やらかしてモデルはクビ。今はこうして醜態晒して薬漬けでイっちまってるけどな」



「へぇー。すっげー男前だなーとは思ってたんすけど、モデルだったんすか。で、こいつ補佐のイロっすよね? てことはー、コレ、お仕置き?」



「さぁな。制裁かもなー」



「制裁? 何かしたんすか」



「こいつ、"昔は"補佐のイロだったんだよ。もう10年も前よ。俺が入ってきたばっかの時でさ、補佐は今もそうだけどコレをすげぇ気に入ってた。でも1年くらいして、こいつは補佐を裏切って逃げたんだと。で、こうして戻って来たかと思えば、今度は補佐に刃を向けたと」



戻って来た、そんな風に捉えられているのかと俺は嫌気がさした。



「補佐に刃物向けるとか、死にたいヤツとしか思えないっすね」



「まぁ、だから薬漬けよ」



「良い感じにできあがってますもんねー。そういやぁ、兄貴、さっき補佐から何か貰ってたっすよね? 俺にも分けて下さいよ。気持ち良くなりたいんすけどー」



「お前って本当にジャンキーだよな。さっきキめて来たろ。我慢しろよ」



「えー、でもそれも試したいじゃないすかー」



「ねぇ、兄貴。このバカのことは無視するとして、俺、男の趣味ないンすけど。コレの相手しなきゃなんねぇんすか?」



「え、無視すんなよ」



「俺もねぇよ。けど補佐の命令は絶対だろ。これを可愛がるのが俺達の仕事」



「あ、じゃぁじゃぁ、俺はどっちもイケるんで、ぶち込んで良っすよね? ほら、もう俺ガチガチなんで!」



「何勝手言ってんだ、コラ。5人で可愛がれって言われたろ」



「痛っ! 叩かないで下さいよー。…って、えー! 兄貴、男の趣味ないとか言いながらその気じゃないすか!」



「ま、これだけ面良いと、ちょーっと興味沸くよなぁ。けどよ、蓮司さーん、補佐の制裁ってあんたにしたら褒美じゃねぇーの、ってなァ?」



ペチペチと頬を軽く叩かれ、意識を保てと圧を掛けられる。どうやら笹野さんはこのチンピラに俺を預けたらしい。間違えて俺を殺しかねない危うそうな若いチンピラに。手は後ろで固く縛られていて、右足には足枷が繋がり、右足を動かす度にじゃらりと音を立てて鎖が大理石の床を擦っている。



「あ、の…」



俺はゆっくりと上半身を起こし、兄貴と呼ばれるチンピラを上げた。



「あ?」



「鎮痛剤、ないですか…。薬、切れてきて、背中の痛みが…」



頭がぐらぐらとして気分が悪く、背中の傷も酷く痛んで吐きそうだった。だからそう訴えたが、こんなチンピラ共にとって俺の言う事なんざ聞く耳を持たない。



「ふふ、なら、気持ち良くなれば痛みなんか忘れるよなぁ? とっておきの媚薬、ここにあるからサ。楽しもうよ、蓮司さん?」



惨めなものだった。何度も何度も欲を貪り、吐き出し、汗を流して、熱い息を吐く。喉奥で咥えては涙が溢れ、鼻水が垂れる。無理矢理に飲み込まされたそれを咳き込みながら吐き出そうとして殴られる。髪を鷲掴まれ、痛みに顔を顰めると、何睨んでンだと、また殴られる。何度か気を失い、その度に起こされて得体の知れないクスリを無理矢理に飲まされ、どれほどの時間が経ったろう。


遠くでドアの開く音が聞こえ、誰かが階段を降りてくる音が響いた。



「…あ、補佐、お疲れ様です」



「それ、死んだ?」



「いえ、生きてます」



「そう。もうだいぶぐったりしてるね」



「えぇ。数え切れないくらいイってますから」



「良かったね、蓮司」



笹野さんは俺を見下ろしている。相変わらず優しい目だった。笹野さんが腰を下ろすのと同時に、チンピラ共はすぐにズボンを上げてその場に立ち上がる。



「クスリは全部、飲ませたかい?」



「はい。このクスリ、効果エグいっすね」



「ふふ、だろうね。先方も気に入ってくれると良いけど。そろそろ時間になる。上で準備しておいてくれ」



「は、はい!」



笹野さんはチンピラをその場から外させると、意識が朦朧としていた俺をじっと見ていた。



「気分はどうだい?」



俺は何も答えられなかった。



「うんと楽しかったろ」



体中が痛くて重くて、もうなんでもいいから楽になりたかった。笹野さんは俺を抱き寄せ、俺は力無く笹野さんの体に支えられる。片手は腹の上に、片手は無造作に冷たい床へ投げ出されている。死ぬのかな。本当に、これで終わりかな。この人を殺せるチャンスはあったのに、愚かにも、躊躇ったからこんな事になった。そうか、そうだよな。最初から最後まで笑えるほど、自業自得だ。


俺の呼吸はだいぶ落ち着いていた。一方で、体の筋肉という筋肉が鉛と化したように重く、もう声すら出せない事に気付いた。



「蓮司、私はね、君以上に大切な存在はこの先もずっと現れないのだと思う。君以上に愛する人も、執着する人も」



笹野さんはそう愛おしそうに話し始めた。



「そんな君が私から離れて他の男と人生を共にするなんて、そんな事……耐えられそうにもない。君の眼差しも、君の微笑みも、君の愛情も、全て、その男にだけ向けられるだなんて私は耐えられない。だから、分かってくれるだろう、蓮司」



何を、分かれと言うのだろう。この期に及んで、まだ俺に何かを求めるのだろうか。



「戻れるのなら戻りたい。君と過ごしたあの1年は、私にとっては夢のように幸せだった…」



笹野さんは俺の髪を撫で、そう震える声で話した。今にも泣きそうな笹野さんの顔を見上げながら、最後に塩田に会いたかったと強く願った。ここから逃げ出したいと、動かない体で考えていた。その時、階段上のドアが開き、若い男の声が声を掛ける。



「笹野さん、ツァンロンが来ました」



笹野さんは「分かった」そう静かに答え、男はドアを閉める。笹野さんは俺の体を強く抱き締めると、何度も何度も呟いた。



「こんなにも愛しているのに。どうして…。こんなにも愛しているのに…」



笹野さんはそう繰り返し、そしてそっと甘く唇を重ねた。



「蓮司、君は私の全てなんだ。君を、心から愛してる」



瞬間、息ができないほどの激痛が体中に走った。何が起きたのか分からなかった。ただ激しい痛みが体を襲い、俺はその激痛に目を見開き、呼吸をしようと口を開ける。 笹野さんは俺の体を離して俺は笹野さんの瞳を見上げた。


そうか、と俺はその時、自分の身に何が起きたのかを理解した。笹野さんの手には血がべっとりと付いたナイフが握られていたのだ。白いシャツには俺の血が染み込んで真っ赤に染まっている。俺は血が溢れ出る腹部を見つめ、止血しようと手を寄せるが無意味な事だった。力の入らない両手から、ダラダラと血が溢れ、床を濡らしていく。



「さようならだ、蓮司」



笹野さんは一筋の涙を流した。



「…私はいつまでも君のもの、愛しているよ、蓮司」



笹野さんは俺に背中を向け、そしてそのまま振り返る事はなかった。鳥籠の地下室を出て、ガチャガチャとドアに鍵をかける。俺はひたすら死を待つばかりらしい。最期に、一度だけ、塩田に会いたい。一度でいい、塩田に抱かれたい。なのに、もう、それは叶わない。塩田に会いたい。


これが最後の視界かもしれない、これが最後の瞬きかもしれない、これが最後の呼吸かもしれない、そう思うと恐怖が体を支配し、悔しさに涙が滲んだ。


塩田………。


でも、もう、限界だった。抗えなかった。ふ、と意識を手離した。はずだった。しかし異常な騒がしさ、数発の銃声に、俺は虚ながらに何事かと頭を回転させる。誰かがドアを開け、勢いよく階段を駆け降りてくる。



「…おいおい、俺よりヒドイ事すんのな」



息を切らして俺に駆け寄って来た男は、最後に一目だけでも会いたいと願った塩田、ではなく、



「これ、刺し傷だよな。まぁまぁ深く刺したなぁ。けど急所は外してる、かな」



片目に眼帯、頭には包帯、首にも包帯、片腕は三角巾で固定されているボロ雑巾のような荒木がそこにはいた。あの、荒木だ。俺を殴っては気持ち良さそうに笑った男、そして笹野さんに殺されたはずの男。でもそうか、命は奪われずに済んだのか。


荒木はやけに手際よく、俺の腹の刺し傷に大量のガーゼを当て、強く押し込んだ後、器用に足枷の鍵を開けた。自分が着ていたジャケットを俺にかけると、急いで携帯を取り出して電話を掛ける。



「…おい、急げ。こいつ、オーバードーズしてる。…え? なんだって? ……オーバードーズ! そう、あぁ、…そうだ、いいから、早く来い!」



荒木の声はとても低かった。電話の後、1分もせず、地下室の奥の扉がドンドンと向こう側から叩かれているようだった。あの扉の向こうは逃げ道になっていて、確か外に抜けられるはずだった。だからこの地下室にいる間、俺は必ず鎖に繋がれていた。そして今、その扉の向こうに誰かがいて、助けに来てくれたらしい。荒木は扉を叩く音を聞き、すぐに駆け寄って鍵を開ける。



「蓮司君!」



扉が開いたと同時に見慣れた男が、会いたいと心の底から思っていた男が俺の元へ駆け寄った。瞬間、安堵に涙が溢れ出た。塩田だ。会いたいと、触れたいと、抱き締めて欲しいと願ったあの塩田だ。



「…よう」



心配するなと笑いながらそう声を掛けたつもりだった。しかし塩田の顔は今にも泣きそうで、ぐちゃくちゃで、どうやら俺は笑えていなかったらしい。きっと声も出てなかったのだろう。その数秒後、「庵くん! 早くここから出ないと! 他の人達が来ちゃうから!」そう女性がひとり、階段上のドアから顔を出して叫ぶように声を張った。黒いスーツに防弾チョッキに黒いスニーカー。あの女性が、アズサちゃん、だろうか。それに何より、どうして荒木が助けに来てくれたのだろう。どうやって塩田と? 疑問は次から次へと沸くが、質問する気力も体力もなかった。


塩田は奥の扉から部屋を出ようと荒木と共に俺を支えた。塩田に担がれ、部屋を扉から出る瞬間、塩田はその女性に、「ありがとう、アズサちゃん!」と頭を下げた。地下道はとても寒かった。もう意識は飛び飛びで、俺は意識を保とうと必死になった。



「この先に車、停めてあるんだろ?」



荒木が早口で尋ねた。



「そう…」



塩田の声は少し震えている。地下道を抜けるとどこか物置のような小屋の中に出た。その小屋を出るとバンが一台停まっており、俺はその車に放り込まれた。車の中にはもうひとり男がいた。その人は白髪混じりの短髪で、眼鏡を指先で軽く上げると、素早く俺に何かを注射した。傷の具合を確認し、慣れた手つきで処置を始める。運転席には荒木が乗り、片手が不自由なのに心配になるほどのスピードで車を走らせている。



「庵、酸素を。あと、そこの消毒をくれ」



「はい…」



「泣くな、大丈夫。…蓮司くーん、しっかりしろよー、すぐ病院着くからな」



男の声は低くてハスキーで心地良かった。きっと、この人が塩田の叔父なのだろうと、薄れゆく意識の中で感じていた。


大丈夫だから、そう塩田に言いたかった。大丈夫、大丈夫。俺はこんなんじゃ、死なないよ。でも、瞼がすごく重い。だからごめんな、塩田。少しの間、お別れだ……。

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