7. 鳥籠の鳥の悪夢
逃げなければ。あの人から、逃げなければ。あの日々をまた繰り返す事になる。俺は不安や焦り、恐怖をかき消すために熱いシャワーを浴びてストレートのウィスキーを一気に飲み干す。空っぽになった胃にウィスキーは焼けるように効いた。アルコールが混ざった息をふぅと吐き、唇を噛み締めながら淡々と考える。
もし俺があの人に刃向かえば、抵抗を見せれば、あの人は塩田に何の躊躇いもなく刃を向けるだろう、と。俺の事をどこまで探っているかは分からないが、俺が塩田に心も体も許しているという事は分かっているだろう。だとするならば、塩田に危害を加える事が俺にとって最も堪える方法だとあの人は分かっている。だからその手段を何の躊躇いものなく使う気だ。
そうだろ、笹野さん。
その名前を思い出すだけでも体は強張った。恐怖に支配された脳も体も、もう使い物にはならないような気がした。だから酒を飲む。一杯、そしてもう一杯。俺と笹野さんの関係に塩田を絶対に関わらせてはいけない。俺がただ、あいつの事を特別視してしまっただけなのだから、あいつは俺の事を好きでもないのだから、どうにかして離れてやらないと。そう気持ちを押し殺し、ぎりりと奥歯を噛み締め、俺は焦りと不安と行き場のない怒りを飲み込んだ。
その日は仕事に没頭し、警戒しながら働く俺だったが、笹野さんやヤクザらしい人は店に現れなかった。まだ、店の事は掴んでいないのか。荒木のやつが全て吐いたかと思ったが、どうやらそうじゃないらしい。
小雨が降り出し、客足が遠のく夜10時。俺はぼうっと荒木の事を考えていた。本当に、消されちまったのかな、と。楽しそうに首に手を掛ける笹野さんを思い出し、また恐怖が振り返し、俺は何度かトイレに篭って嘔吐した。参ったなと胃を空にして、そこに水を流し込んではひたすらにどうしようかと思うだけ。逃げるわけにもいかず、助けを求めるわけにもいかない。
ただ、あの人がこの店の特定に難航してくれる事を願うしかない。だがいずれは見つかる。逃げることが最善、そうかもしれないが今の俺には抱える物があった。責任があった。昔とは違うと俺はトイレの中で壁に寄りかかりながら考えていた。雇われ店長とはいえこの店は、オーナーが俺を信頼してくれた証だった。長年共に働く佐伯君のことだってそう、他のバイトだって。この店を放って逃げるわけにはいかない。働き口のない問題を抱えたモデル上がりの俺を、雇ってくれたこの店を、放って逃げたくはない。
でも店に迷惑が掛かるくらいなら消えた方が…。はぁ、と深い溜息が宙を漂った。それになりより逃げたくないと思ってしまう最大の理由は、愚かにも塩田だった。あいつからまだ離れたくねぇな、という傲慢な願いがあった。俺のせいで塩田に危害が加わるかもしれないのに、俺はどこまでも身勝手なのだろう。離れてやらなきゃ、早く、離れなければ手遅れになる。でも、嫌だな…。離れたくねぇな…。あいつの隣にまだ、いたい…。冷たい水で顔を洗う。呼吸を整えて両手で頬をピシッと叩く。塩田が好きだからこそ離れてやらなければ。笹野さんが塩田に何かする前に、離れよう。そう決意してカウンターに戻った。まずは引越しか、と考えているとカランと入口のベルが鳴った。その音に俺はいちいち緊張し、きっと強張った顔で入口を見てしまっていた。
「ギムレット、ひとつ」
だが俺の目の前に座った男は最近お洒落を覚えた、見慣れた顔であった。
「何してんの…」
こいつが客として堂々と来店するなんてギョッとした。
「何してんのって、お酒、飲みに来たんだよ」
そう片眉を上げる塩田を見下ろして俺は動揺してしまう。その動揺を塩田はすぐに察知して、ふふっと笑うと、「僕は客だよ? さぁ、作って」と揶揄うように首を傾ける。
「…かしこまりました」
グラスを取ろうと塩田に背中を向け、俺は眉間に深い皺を作った。なんで急に、店に来たんだ? 何かあったのだろうか。それにギムレット、か…。何かを示唆されてるみたいだよなと考えながらギムレットを作っていると、塩田は俺を見上げながら目尻を下げた。
「やっぱり、バーテンダーってカッコいいね」
「そりゃどうも」
ギムレットを塩田の前にすっと差し出す。真っ赤な丸いコースターの上にそれを置くと、塩田はグラスを少し持ち上げて「ありがとう」と微笑んだ。そっと唇を縁につけて一口飲むと、「美味しい」と頷いた。
「蓮司君、」
「…ん?」
塩田はグラスを置くと俺を見上げるが、その瞳がやけに鋭く、獲物を見つめるような甘さのない瞳で、俺は何だか途端に心地の悪さを感じた。「何?」と返事をしながら塩田から視線を外し、既に指紋ひとつないグラスに逃げるように視線を下ろしてこれでもかと拭いている。
「久しぶりに、録画をしていた"ドラマ"を見たんだ」
「ドラマ、…へぇ」
「すごく容姿端麗の美しい主人公がさ、少し眠そうに掃除をしていて、僕、すっかり見入ってた。欠伸しながらテーブルとか椅子とか拭いてて、可愛いなぁ、なんて。でね誰かから突然、電話が掛かってきたんだ。相手は無言だったみたい。一度切ったのに、もう一度電話が鳴った。応答すると今度は相手も口を開いたらしいんだ。その主人公、相手の声を聞いた瞬間、表情が変わった。恐ろしい何かを聞いたみたいに、怯えた表情になった」
グラスを拭く手が、つい、止まる。
「主人公はただ相手の言葉を聞いていた。自分からは何も言わず息を潜めていた。ねぇ、蓮司君。その主人公はどうしてそんな風に怯えていたのだろう。蓮司君なら分かるよね? 教えてほしいな」
そうか。俺はグラスを棚に戻してから塩田を見下ろした。口を歪めて眉間に皺を寄せてる。塩田はまだ俺の部屋に監視カメラも盗聴器も仕掛けていたんだ。笹野さんからの電話を受けた俺を見てた、って事だ。
「…さぁな。俺には何の事だか分からない」
けれど俺はシラを切る。お前を巻き込む事は違うと、いくら俺がお前の側にいたいと思っても、それは叶わない事だと理解してるから。俺が側にいればお前はあの人の標的にされるから。俺は、お前から離れなければならないから。
「そんな事を聞くためにここに来たのか? だとしたら案外暇なんだな」
塩田は一瞬だけ目の下を痙攣させたが、すぐにいつもの表情に戻って「そっか」と呟くように吐いた。諦めてくれたろうかと思ったが、塩田の口角はなぜか上がっている。
「じゃぁ今日はそれについて語ろうよ。仕事終わるまでここにいるから、一緒に帰ろうか」
塩田は楽しそうに笑い、俺は動揺する。勘弁してくれ。頼むよ…。
「いや、ちょっと待って…」
「楽しみだなぁ。蓮司君の意見を是非聞きたいよ」
塩田は一口、ギムレットを飲んでまた俺の瞳を見上げた。どうにか断らなければ。万が一、笹野さんに俺とこいつが一緒にいる事を目撃でもされたら、こいつが何をされるのか、考えただけでも恐怖に気分が悪くなる。頼むから、今すぐ目の前から消えてくれ。
「きょ、今日はさ、きっと遅くなる。洗い物もしなきゃならないし、発注も済まさなきゃならないし、…だから悪いけど先に帰っててくれない? 帰ったらお前の部屋に行くから」
「蓮司君、」
そう俺を諭すように名前を呼んだ。こいつはどこまで勘づいてるのだろう。何を知っていて、何を知らないのだろう。
「悪い。本当に今日はやる事が多くて、」
塩田の言葉を遮ると、奥のテーブルを拭いていた佐伯君が、「店長、今夜もう客入らないすよ。外、大雨になってるし、人誰も歩いてないですから」と余計な事を言う。
「いや、でも、発注して掃除して…」
「俺、しておきますよ。今夜は人いないからなぁ、24時丁度で閉めましょうよ」
「…そ、そうだな」
佐伯、この野郎。そう俺の顔に書いてあるのだろう。塩田は俺を見上げながら、ふふっとおかしそうに笑った。
「帰り、コンビニ寄って帰ろうよ。明日の牛乳、切らしちゃったから」
俺は頭を掻いた。
「蓮司君、大丈夫。帰ったらたくさんお話ししよう」
塩田は目を細めていて俺は溜息を吐く。俺は動揺を落ち着かせようと空気を深く吸って、深く吐いた。
「…分かった」
俺は今どんな顔をしているのだろう。きっと困ったように眉を下げてるのだろうか。それとも泣きそうに見えてるのだろうか。塩田に俺はどう映っているだろう。
「良かった。じゃぁ、僕はここにいるね。一緒に帰ろうね、蓮司君」
こいつにはさっさと全てを言って縁を切って、そんでまた、ひとりになる。それで良い。それが、良い。楽しくて過激であまりにも甘すぎたから、手放すのが少し惜しいだけ。そう、少し惜しいだけ。胸はキリキリと痛むが無視をするしかない。ぎゅっと拳を握り、また、ひとりになる覚悟をひたと噛み締めている。
そんな俺を塩田はただ見上げていた。塩田にこの感情は気付かれたくねぇなと、気まずい空気に参っていると、カランとまたドアベルが鳴る。ハッと緊張した俺をよそに、相変わらずの男前がヘラヘラと紙袋を片手にやって来た。
「いらっしゃいませ」
「おう、いつものウィスキーをロックで」
「はーい」
アサトさんは塩田と2つ席を空けて、カウンターに腰を下ろす。塩田はギムレットを飲みながら、アサトさんを一瞥してから俺を見る。俺はその視線に気付き、余計な事は言うなよとアイコンタクトを送るが、多分、伝わっていない。塩田の口角はゆるりと上がる。それを隠すようにまたギムレットを飲んだ。
俺はアサトさんにウィスキーのロックを差し出すと、アサトさんは紙袋から何やら土産物らしい箱詰めのお菓子を俺に渡す。箱には大きく沖縄名物と書かれている。
「これ、サトミから」
「え、サトミさんから? なになに、どうしたの」
「実家から色々送られて来たって、お裾分けよ」
「えー、いいの? すげぇ嬉しい。ありがとうございます。俺ね、沖縄って行ったことないから本当に嬉しい」
「それ、前にサトミにも言ってたろ? あいつ覚えててさ、これで行った気分を味わってーって。今度行く時、お前も誘えって言われたわ」
「うっそ、優しい……大好き、サトミさん」
「えー、俺は俺は?」
「アサトさんはサトミさんの次に好きかなー? だって沖縄名物くれないもんねー?」
「ハハハ、お前それはただ沖縄が好きなだけだろ!」
「やん、バレた? でもサトミさんにはありがとうって伝えておいてよ」
「おう、言っとくよ」
アサトさんは優しく笑ってタバコに火を点ける。俺はそっと灰皿を出しながら少し考えていた。もし俺とアサトさんがふたりでいたとして、飲んでいたとして、それを笹野さんが目撃しても、きっと、笹野さんはアサトさんに何かしようとは思わないのだろう、と。だって、きっと分かるから。アサトさんが俺に、そして俺がアサトさんにその気がないって。ただの恩人、友人であると見て分かるから。そうなんだよなぁ。塩田のせいで何もかもが変わった。いや、変えられた。アサトさんに対する邪な気持ちなんて、いつの間にか消えてなくなっていた。塩田の為ならあの部屋を出る事だってなんの抵抗もないのだから。
「それにしても今日、人いねぇな」
アサトさんはウィスキーを飲みながら俺を見上げる。
「まぁー、大雨になっちゃいましたからね。雨、結構降ってたでしょ?」
「ん、まぁ。でもタクシーで来たから濡れはしなかったけど」
「そっか。それは良かった。だから今日は早く店を閉めるけど良い?」
「おう、もちろん。もう閉めンのか?」
「いや、12時に閉めようかなぁーって。ここから混むことは考えにくいし」
「まぁ、なぁー」
アサトさんは塩田を通り越して入口を見る。塩田は何を考えているのか、思っているのか、ただギムレットを飲み、何食わぬ顔で俺を見ていた。
「そういやぁさ、お前、あのストーカーどうなった」
アサトさんの急な質問に俺は驚いて、つい、片眉が上がる。そのストーカーはまさに、あなたの2席隣にいるのだが、そう俺は思いながら、「どうもなってないよ」と肩をすくめる。塩田は相変わらず、能面のように表情ひとつ変えず俺を見ていた。
「あ、そうなの? いや、俺さ、てっきりあの女ストーカーにお前がやられたかと思っててさ」
「え、どういう事?」
「お前、しばらく店を休んでたんだって? 俺、全然知らなくてよ。昨日、ヒヨトから久々に連絡きて、お前がこの前店に来て、一緒に飲みに来いって誘ってくれたから近いうち行こうって。で、その流れでお前が階段から落ちて骨折して、しばらく店出てなかった事を聞いてびっくりよ。そんで今日飛んで来たんだがよ、知らなくて悪かったな。骨折ってどこしてたんだよ。不自由してなかったのか?」
本当にこの人は…。アサトさんに心配されんの、これで何回目かなと俺の口角はニヤニヤと上がってしまう。
「心配ありがと。でも、骨折はしてないからね。ヒヨトさん、なんでも大事にすんだから…。顔を打ちつけて打撲してたけど、骨に異常はなかったし、肋骨はヒビが入ってたけど折れてはないし。だから両手も使えて仕事はできたけど顔がね。ちょっと接客できる見た目じゃなかったから、佐伯君に頼んで休ませてもらったの」
「ふーん。で、それ、本当に階段から落ちたの?」
やだやだ、勘がいいって面倒だなぁ。俺はふっと笑って、「そうよ」と頷いた。
「俺にはどうも、お前がストーカーとやらかしたんじゃねぇかと思えてならねぇのよ」
「俺がストーカーとやらかすって何をするんすか。いやらしい事言わないで下さいよ」
「あのな、蓮司。冗談じゃないんだって。何度も言ってるけど、俺はお前にあの部屋を引っ越せって言ってんだ。あの立地を気に入ってンのは分かるけどさ、そうやって怪我までしてんだから、次、何が起こるかお前は…」
「はいはい、分かってるよ。近いうちに引っ越すから」
もう、あの部屋に固執する理由ないからな。
「お! そうか!」
驚いたのはアサトさんだけじゃなかった。塩田がギョッとしたように、大きな目を見開いて俺を見ていた。今まで顔色ひとつ変えなかったのに、俺の一言でそんな風に表情を変えてしまうなんて。俺はそれを一瞬だけ見て、ふふっと笑って口元を手で隠す。
「そ。雲隠れしちゃおうかなー」
アサトさんを見ながら塩田に対して言った言葉だった。揶揄うような言葉だった。アサトさんは、「しろしろ」と頷いている。
「でも、俺には住所教えろよ?」
「えー、どうしよっかなー。ストーカー、実はアサトさんだったりしてー」
「確かにな。俺ならあの部屋の事を熟知してるしな。お前のゴムの位置も知ってるしな、…ってバカヤロウ」
「ノリツッコミとか、アサトさんするんだ」
「え、何それ。言わせておいてその顔はひどくない?」
ワハハと笑う俺とアサトさんを横目に、塩田は眉間に皺を寄せている。俺が雲隠れすると聞いて、少し動揺を見せたのだ。
「けど、やっぱストーカーだったのか、顔の傷」
「あ、いいや、違う違う。これはマジで階段から落ちたの。すっげー痛かった」
「え、そうなの? …そうなのか。まぁ、治ったんなら良かったけどよ。それなら遠慮せずに連絡寄越せば良かったろ。アレ買って来い、コレ買って来い、っていつも頼むくせに、何も言わないからストーカー案件だなって心配したのによ。俺、お前の頼みなら忙しくても行ってやったよー?」
「えー、うそ、本当ー? すげぇ嬉しい。いや、でもね、実際顔は派手だったけど、両手両足は全然問題なかったから動けたし、心配ご無用よ」
「お前の事だから、隠したい事じゃない限りは俺を呼びつけるかと思ったんだがな」
「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
「ふふ、いつでも頼れよ」
アサトさんはそう優しく笑ってタバコをふかす。静かな時間だけが流れていた。ふと、塩田のグラスが空になっている事に気付いて塩田を見る。目が合ったから俺はグラスを指差し、「まだ飲む?」そう尋ねると塩田は「うん」と頷いた。その何気ない会話にアサトさんは驚いたようだった。
眉間に皺が寄り、怪訝な顔で塩田を凝視しているものだから俺はついおかしくなった。ギムレットを作りながら、こいつがストーカーですよ、とアサトさんに言ってやろうか。
「アサトさん、紹介遅れました。こいつ、俺の同級生。塩田 庵。そんで縁あって俺の隣に住んでて、怪我してる時もこいつが看病してくれてたの。だからそんな顔で見ないであげて」
でもストーカーだなんて事は、ややこしくなるからもちろん言わない。
「え、え、そうなの? お隣さんで同級生で、看病?」
目を丸くするアサトさんを横目に俺は塩田を見る。
「塩田、こちらアサトさん。俺の恩人で、今じゃ良客兼飲み友達」
そう紹介すると、アサトさんは不思議そうに塩田を見る。
「よ、宜しく、塩田君」
「は、はい、宜しくお願いします」
塩田のことだから、紹介されるの嫌がるだろうなぁとは思っていた。案の定バツの悪そうな顔をしていて、早くこの人いなくならないかな、なーんて思ってそうだが、それは考えすぎかな。
でも俺は、きちんと、アサトさんに紹介したかった。本当はあの本の作者でストーカー、でも俺がボロ雑巾みたいになった時、手厚く看病までしてくれたし、それに、何より俺の事を俺以上に知ってくれている。
「塩田君って、蓮司のいつの同級生なの? こいつ、全然友達とかいないからさ、正直、安心したんだけどそんなに仲良いの? 看病させるくらいだから、仲は良いんだろうけど…」
「中高の同級生です。学生時代は特別仲が良かったわけではないのですが、最近、隣に引っ越して、それで隣が蓮司君だって分かって声を掛けたら、僕の事を覚えててくれたので、それからよく話すようになりました。看病と言っても隣ですし、特に何をしたわけではないんです」
「ほーう、そうなのか。いやぁ、良かった良かった、良い隣人、いや友人がいて安心したよ」
片桐さんといい、アサトさんといい、そんなに心配なのか。友達なんて呼べる存在はいないけど、別に今更欲しいとも思わないし、それに塩田も友達ではない。俺はふたりの会話を聞きながらギムレットを塩田に差し出した。
「実はね、看病してもらってた時、こいつに飯を作ってもらってね、それがすっごく美味いの。もうね、治ってもこいつの部屋に入り浸ってるくらい」
そうアサトさんに言うと、アサトさんはケタケタと笑った。
「胃袋掴まれちゃぁ、もうお手上げだな」
「本当にそう。毎回すごく好みの味なんだよなぁ」
「へぇー。ね、塩田君は、何が得意?」
アサトさんは塩田の方へ体を向けた。
「ぼ、僕は…なんでしょう。和食、でしょうか。でも、料理は好きなので言ってくれれば、ひと通りは作れるかなと思います」
「そうなのか! そりゃすげぇわ。俺なんて、サトミいない時、…あ、俺の奥さんなんだけどね、彼女が実家とか帰っちゃったらもーう、外食ばっかよ。コンビニかその辺の居酒屋とか」
「そう、ですか。外食ばかりで、か、体、壊さないと良いですが」
「いや、ホントそれ。サトミいないと体調悪くなるのはそういう事かと思うね。あ、でも、こいつもコンビニ飯男だよ? 料理なんかぜーんぜんできねぇの。俺より出来ないからね?」
アサトさんは俺を見ると塩田にそう笑う。塩田はそれも知ってるよ。だってこいつ俺のストーカーだもん。
「いや、ちょっとは作れるよ。アサトさんだって、昔っからカレーとかシチューとか、ルー溶かすだけのものしか作ってないじゃない。俺はね、目玉焼き焼けるから」
「ほーら、塩田君、どう思うよ、これ。ドヤ顔して目玉焼きだよ? 俺だって焼けるよ! 火加減がアレだから、いつも少し焦がすけど」
「そうそう、たまに黄身がからっからの目玉焼き出てきてた」
俺が目を細めてアサトさんを見下ろすと、塩田がふふっっと笑う。
「目玉焼きは火加減が確かに難しいかもしれません。白身がふっくらと、黄身がとろーっとなるように焼くのにはコツが必要かもしれませんね」
塩田は口元を手で隠すと愛らしく笑っていて、アサトさんはそんな塩田を見るとやけに優しい顔をした。
「…塩田君、これからも蓮司のこと、宜しくね?」
優しい顔の理由はそれか。
「ちょっと、アサトさん…」
動揺した俺を横目に、塩田は即答して頷いた。
「はい、僕で良ければ」
僕で良ければ。僕で、良ければ。俺はその言葉を何度も頭の中で繰り返す。こいつは俺のストーカーで、飼い慣らしたいだけのくせに、そんな風に言葉を吐いてしまうのか。他に好きな人がいるくせに。そんな男に何を宜しくされるのだろう。そう思いながら俺はアサトさんを見ていると、アサトさんは上機嫌でにまにまと頬を緩めている。なーんにも分かっちゃいないんだから、この人は。
その時、塩田の携帯のバイブ音が騒がしく鳴り、塩田は表示画面を見ると、「すみません、ちょっと席を外します」と焦ったように外へと出て行った。出て行くや否や、アサトさんが口を開く。
「で、付き合ってんの?」
「言うと思った。蓮司のこと、宜しくね、とか言うから勘違いしてんだろーなって思ってた」
「え、なに、付き合ってないの?」
「付き合ってないよ」
「看病して、飯作って、お前が部屋に入り浸ってンの許してるのに? そもそもお前って好きな人以外、部屋に入り浸らないだろ」
「居心地が良いだけよ。毎回、好きな人ってわけじゃないし。…それにもしそうなら、俺、アサトさんの事も好きだったって事になるじゃない?」
「ふふ。そうだったろ? お前、俺の事好きだったろう」
悪い大人って、こういう人の事だな。そっか、知ってたんだなぁ。しかもそれ、言っちゃうんだ。
「…知ってて側に置いてたのかよ」
目を細めると、アサトさんは椅子の背もたれに寄りかかりふっと笑う。
「別にお前に誘われたわけでもねぇし、告白だってされてない。それに、あん時のお前には支えが必要だったろ?」
それを言われると何も言えないよなぁ。
「ま、まぁ…」
「お前の発する何かってのには気付いてたけど、答えられねぇもんは仕方ねぇだろ。お前から何か言われたら断ってたろうが、俺はそれでも、ずっとお前を側に置いてたと思うぜ? お前が離れたいって思うンなら、それまでだったろうけど。でもそれは起こってない。お前は俺に何も伝えず、ただ隠してきた。年がちょっと離れた飲み仲間として側に居続けた。そうだろ?」
「…そう、だけど」
「お前ってやつは案外健気なんだよ。だからそんな健気なお前が、部屋に入り浸って、看病まで頼むくらいだ。てっきり塩田君と付き合ってンのかと思ったんだけどよ」
あーあ。白目剥きそう。この人って本当に厄介だった。俺は頭を掻いて腰に手を当て、少し考えてから口を開く。
「参ったなぁ。でも、付き合ってはないってのは本当。けど悔しいから詳しい事はヒミツです」
「ふふ、良いよぉー答えなくても。勝手に解釈するだけだから」
「アサトさんって性格悪い」
「よーく言われる」
「よな?」
「よなって言うな」
アサトさんはそう拗ねたように唇を尖らせる。そんなアサトさんを見下ろして、俺は安心させようと付け加えた。
「アサトさん、俺ね、今がとても楽しいよ」
本音だ。
「そうか。良かったよ」
アサトさんのその安心した顔を見て思った。この人は心底、俺の事を心配してくれていたんだなって。親心みたいなもの。下心なんか皆無で、ただ、俺を支えて助けて心配してくれる。こんな人は他にいない。この人を早く安心させたい。だから楽しいと敢えて口にした。
でも、俺はきっとば安心させる事よりも、またこの人を心配させてしまう可能性の方が高かった。だって俺は近いうちに、この人の前からも姿を消すかもしれないのだから。それなら、仕事も辞めて説明もきちんとして、笹野さんとの関係も吐いてから姿を消そうか。実は、昔ヤクザと関係があって、そのヤクザが出所して、俺の命を狙っている可能性があるから消えますね、なーんて。言えるわけがない。突然消えるけど探さないで下さい、とも言えるわけがない。
だからこの優しい人には、近いうちにとてつもなく、心配をかける事になってしまう、かもしれない。そうならなきゃ良いが、笹野さんが電話をしてきたという事は、俺を放っておくつもりはないという事なのだろう。
「…どうした?」
俺がそんな事を考えていると、アサトさんは怪訝な顔をして俺を見上げるから、俺は咄嗟に「なんでもないです」と隠しながら微笑んだ。
「何もないって顔じゃないぞ。長年、お前の側にいたんだ。俺に対して隠し事は無理だと思えよ」
アサトさんは目を細める。勘の良い人だから、俺は口を閉じてまた考えた。何か言った方が良いよなぁと。
「…うーん、どうしたってことはないけど。ただ、塩田が俺を好きになるような事はないかなーって思っただけ。今が楽しいのは確かだけど、現実って悲しい事ばっか。あいつね、ノンケなの」
不安を隠すように塩田に話を変えたのは、笹野さんの事に関しては何も言えないからだった。だから俺はノンケに不毛な恋をした悩み多き男、それで良い。
「お前、ノンケだって落とすだろ。年食ってやけに弱気になったなぁ」
「若くないって事だよな。やだやだ」
「悩んでんなら飲みにも付き合うし、愚痴も聞いてやるぞ。いつでも誘えよ」
「ありがと」
「どーいたしまして」
本当の事をぶちまけたいのに、何も言えずに口を塞ぐ。アサトさんはウィスキーを一口飲み、タバコを深く吸い込んだ。ふぅーと塩田の席とは反対側の誰もいない席の方へと煙を吐き、俺と目が合うと、甘く優しく笑ってくれる。この人は本当に心底優しくて面倒見が良くて温かい。この人がいなかったら俺は今頃、どうなってたろうか。そんな事をぽつりと考えていた時、カランとドアベルを鳴らして塩田が戻って来た。
「すみません、仕事の電話でした。何、話してたんですか?」
塩田はグラスの横に携帯を置くと、そうアサトさんに訊ねた。仕事の電話だなんて、こいつは普段何をしてるのかなと俺は塩田の携帯を見下ろしながら思った。
「この色男の愚痴を聞いてたの」
「蓮司君の愚痴、ですか?」
「そうそう。モテる男は辛いって話」
「アサトさん、余計な事を言わなくて良いから」
モテる男の愚痴は塩田に対する俺の気持ち。アサトさんは楽しそうに笑いながら塩田に嘘をつく。
「へぇー。蓮司君にも悩みってあるんですね」
塩田はギムレットを一口飲むと、アサトさんから俺へと視線を移し、「なんだろ。聞きたいな」そう悪戯っぽく吐いて首を傾げる。
「はいはい、後でな」
「うん、分かった」
塩田は目を細めるとやけに嬉しそうに相好を崩した。アサトさんは塩田の方へまた体の向きを変えると、「なぁ、塩田君」と声を掛ける。
「こいつ面倒だけど、怖がりで寂しがりやで、案外健気な良いやつだから」
「え、あ、はい、…そう、ですね。そう、かもしれませんね」
「だからー、アサトさん! 塩田困ってンじゃない」
「ふふふ、良いじゃないの。俺はお前の父親、いや歳の差的には兄貴だな。兄貴の気持ちなんだから」
「もー、分かったよ。兄さん」
呆れてアサトさんを睨みつけると、アサトさんは満足そうに笑った。その横で俺は珍しいものを見た。あの塩田が、目尻を下げて頬を緩め、見た事もないくらいとても優しく笑っているのだ。そんな顔もするのかと、俺は無性に嬉しくなった。アサトさんは塩田を見て、俺を見ると財布を取り出してポンと札を置いて席を立つ。
「もう帰るの? 早くない?」
「お前の顔を見に来ただけだからさ。仕事がまだまだ溜まってンのよ。今度はヒヨトと来るから、そん時はゆっくりさせてもらうよ」
「うん。待ってるね」
「はいよ。じゃ、またな。ご馳走さん」
「はーい。ありがとうございました」
ヒラヒラと手を振ってアサトさんを見送る。アサトさんが帰った後、タイミングを見計らったように佐伯君が奥のスタッフルームから、「丁度、発注終わったんで、俺も帰って良いすか」と気怠そうに顔を出す。
「うん、良いよ。帰る時、closeにして行ってね」
「りょーかいでーす」
佐伯君は身支度を済ませると、「お疲れ様でした」と俺に頭を下げ、「ごゆっくり」と塩田にも挨拶をしてから出て行った。塩田はギムレットを飲み、携帯で時刻を確認する。
「もうそろそろ、12時なんだね。何か手伝おうか」
「ん? 大丈夫。佐伯君が発注済ませてくれたし、ゴミ出しもしてくれたっぽいし。俺はコレ洗ったら帰れる」
「じゃぁ、飲み干しちゃうね」
「あ、急がなくて良いからな」
「そう? すぐ帰りたいかと思った。一刻も早く部屋に篭りたいのかと」
今、こいつは何を思ってそう言ったのかと俺は眉根を顰めた。塩田はその表情から俺の気持ちを見透かして微笑みかける。
「帰ったらたくさん話そう。僕の部屋で」
「…分かったよ」
「ご馳走様」
空いたグラスを受け取って俺はアサトさんのグラスと一緒に洗った。塩田は洗い物をする俺をじっと見ていた。きゅっと音を立て、グラスの水気を拭き取る。タオルで手を拭いて、売上の計算をする。何を言うでもなく、その間もじっと塩田は俺を見ていた。「帰ろうか」そう声を掛けると、塩田は「そうだね」と外でタクシーを拾った。雨が降り続ける外に、人は誰もいなかった。黒の高級車も、怖そうなスーツの人も、まだ誰も。マンションに到着して誰かにつけられていないかと周りを警戒するが、やはり、誰も見当たらない。塩田の部屋に戻り、俺はソファに腰を下ろした。
「おかえり、蓮司君」
「…ただいま」
塩田はいつの間にか湯を沸かし、温かいハーブティーを淹れていた。カモミールの落ち着くいい香りがした。ゆらゆらと揺れる湯気を見ながら、俺は深呼吸をして、深くその香りを吸い込んだ。
「カモミールティー、落ち着くでしょう?」
塩田はそう言うと俺の隣に腰を下ろす。
「そうだな」
笹野さんもハーブティーが好きだった。落ち着くよと柔らかく微笑でいた。あの人の仮面はとても分厚くて、もともと善悪を見抜く力なんて皆無に等しい俺にとって、あの人の正体は未だに分からない。
「カモミールは鎮静作用があるんだ。だからゆっくり落ち着いて、僕に、話して。相手は誰だったか、そしてどうして君は怯えていたのか。何があったのか、僕に話して」
「俺に話さないって選択肢はない?」
困ったように笑ってみせると塩田は即答する。
「ないよ」
「…そう、よな」
また一口ハーブティーを飲み俺は一呼吸つく。言うしかないのだ。全てを伝えてこいつから離れよう。もう離れるしかないのだ。
「…あの人もハーブティーが好きだった。自分でブレンドしてた。カモミールとラベンダー、少しハチミツを入れて甘くする。眠れない夜はよく、それを作ってくれた。なぁ、塩田。俺が19の時の事、何か知ってるか?」
塩田は俺の質問に考えて少し間を置いてから、「それは君のプライベートがどうだったか、ってこと?」と訊ねる。「そう」と答えると塩田は表情ひとつ崩さずに即答する。
「ヤクザと関係を持ってた、って事かな」
やっぱり知っていたのかと思うのと同時に、ではなぜ俺に構うのだろうかと心底不思議に思った。そんな訳ありな男、近付きたくないのでは? いや、でも笹野さんとの関係は10年も前に切ってるし、塩田はもう俺とヤクザは無関係だと思っていても不思議ではない、か。だから俺に近付いたって事だろうか。だとするなら今でもこうして縁が切れてないと知ったら、こいつだってさすがに離れたいと思うよな。誰しも、厄介な事には首は突っ込みたくないよな。
「…知ってたんだな」
「僕は君のことなら誰よりも知ってるよ」
「そう、だな…」
「なんて断言したいけど、その人と君との関係は深い所までは探れなかった。ただ君は、その人から逃げるように離れた、そうだね? つまり、そうでもしないと離れる事の出来ない相手って事だ。厄介だよね。その人、笹野 旭司(ササノ アキジ)は柳田組の幹部で、主にヤクと売春斡旋、それから繁華街にあるいくつかのクラブの経営をシノギとしてる。容姿が良くてヤクザらしくない見た目で、どこへ行ってもモテるような男が、君に対しての執着は異常だった。そして君の右にピアスを開けた張本人。だね?……さっきの電話はその人から、か。やっぱり、そうなんだね?」
度肝を抜かれた。こいつ、笹野さんの名前まで知ってんのかよ。しかもやっぱり、って…。
「そこまで知ってんのかよ…」
俺は深い溜息を吐きながら、カップを両手で包んで視線を落とした。
「僕に対して隠し事はしないでよ。ねぇ、蓮司君、過去に何があったの? 僕は君の口から全てを聞きたい。僕に話してくれるね?」
全てを言わないと取り返しがつかなくなる。こいつには全てを話して離れないと、そう分かってはいても土壇場になると躊躇してしまう。弱い男だなと、つくづく思う。でも俺は言わなければならない。こいつに全てを伝えて離れると決めたのだから、そうしなければ塩田に危険が及ぶだろうから。そう俺はぐっとカップを強く握り直し、再び深呼吸をしてから口を開いた。
「笹野さんに出会ったのは、俺が19になったばかりの時だった。年齢偽ってよく行ってたクラブで声を掛けられたのが始まりでさ、そのクラブは柳田組がケツモチしてて笹野さんが仕切ってた。俺はその店ではわりと有名な存在でね。好き放題やりすぎて、笹野さんの目に留まったらしかった」
「そういえば荒木が叫んでいたね? その笹野って人のこと。ムショから出る予定だって」
「そう。……俺はさ、お前の言う通り、一方的に笹野さんから離れたんだ。怖くなって、この和彫を彫ってくれたシロに助けを求めた。シロの恋人って黒崎会とかいうヤクザ組織の若頭で、その人達が俺を匿ってくれたから笹野さんは俺に接触できなくなったんだ。でもそれから月日が流れて、シロとそのシロの恋人に色々あって姿を消した。でもふたりが消えたのに、笹野さんは俺に連絡を寄越さなかった。だから俺は本当に安心してたんだけどなぁ、笹野さんの興味はもう俺にはないって」
「けど、そうじゃなかった、ってことだね」
「あぁ。あの人はムショにいた。だから連絡ができなかった。それだけだった。あの人は未だに俺に固執してる。依存して支配して執着してる。荒木が、………あいつが、」
言おうとして言葉に詰まる。塩田はそんな俺をじっと見つめると冷静に言葉を吐き出した。
「殺された?」
たまに思う。塩田はとても恐ろしいほどに冷静な一面がある、と。そしてやけに勘がいい。
「確定ではない、けど…。その可能性が高いんだ。電話で笹野さんは言った。俺のために復讐しておいたって。もう邪魔者はいないって。それってつまり、そういう事だろ? あの人なら本当にやりかねない、から…」
「そう」
塩田はただ短く返事をしただけで表情は一切変えず、またハーブティーを一口飲む。動揺ひとつ見せない。ヤクザに人がひとり殺されたかもしれないというのに、こいつはどうしてそう、冷静に聞いていられるのだろう…。
「その笹野って人、相当やばそうだけど君はその人の事が本気で好きだったの? それともそんな甘い言葉じゃない? 依存や心酔、その方が合ってるかな?」
「心酔、…まぁ、その通りかな。恋は盲目と言うけれど、あれは恋だったのか分からない。初めはそうだったのかもしれない。純粋な恋心だったのかもしれない。19の時は特に刺激なしでは生きられなくて、危ない橋をいつも渡っていたかった。だから笹野さんが俺に声を掛けた時、俺は後先なんて考えなかった」
「後先、か。そうだね、当時の君を思い返せば、君は将来の事なんてどうでも良いって思ってた節がある。今を生きていて、今ある快楽に飛びつく。そんな人間にとったらあのクラブは打って付けだったろう。クラブの名前、"White Cow" だったよね? 柳田組のケツモチしてるクラブの中では一番大きい。僕も何度か行ったことがあるから、雰囲気はよく分かる」
「…え、お前が?」
これはまた驚かされる。
「だから君の噂は知ってた。人の多いクラブ内で注目が集まるほど容姿が良い。派手に遊ぶのが好きで、誰とでもまぐわう貞操観念の低い青年。けれどどうしようもない淫乱で酷い事されるのが大好きなクソマゾだから、ドのつくサド意外は相手に出来ないって、色んな奴らが口を揃えて言っていた。結局僕は君が男とVIPルームのある二階へ上がるところを二回見ただけ。もちろん、君にも認識はされなかった」
クソマゾって、ドのつくサド意外は相手に出来ないって、ちょっと言い過ぎじゃない? とは思ったが、言い返すわけでもなく、俺はただ「そう、なのか」と微妙な顔をして返事をする。塩田は首を傾けると俺を見続けた。
「で、そんな派手なクラブで笹野ってヤクザに声を掛けられたんだ?」
「あぁ。でも俺だってある程度は警戒してたから、すぐに何かあったわけじゃなかった。けどさ、あの人の仮面は分厚くて本性を見破る事は出来なかった。年上の大人で、優しくてセクシーで容姿の良い色男。セックスは極上、話し上手で聞き上手、おまけに金の羽振りは驚くほど。ただヤクザってだけ。その人を知っていくと、ヤクザでもなんでもいい、俺は一生この人の側にいたいって思った。…最初は本当に純粋に惹かれただけなんだけどな」
「人の本性を見抜くのは難しい。君はきっと、その人がどれほどイカれていても、危ない人間でも見て見ぬフリをしたろう」
「ふふ、お前の言う通りよ。俺はあの人がどういう人間かなんて、百も承知だった。だってあの人、俺に良い仕事あるからって裏ビデオを紹介してきたんだぜ? 当時の俺は笹野さんの願いなら叶えたいって思うほど盲目で浅はかで大馬鹿者だった。コレクションに出るようになって、わりと引っ張り凧だった俺が裏のゲイポルノよ? それはそれは高く売れてね、笹野さんは大喜びだった」
「そりゃぁ高く売れるよね」
「危機感が皆無だった」
「そうだね。そんな破滅一直線な橋、普通は渡らない。でも君は躊躇なく渡った。それは笹野の為なんだね? 僕は正直、笹野って男に殺意を覚えるよ」
塩田の目は笑ってなどいなかった。冗談で殺意を覚えると言ったわけではないらしい。俺はひたと自分のやるべき事を考えている。
「お前がどこまで笹野さんの事を知ってるかは分からないけど、あの人には近付くなよ。カタギだろうがなんだろうが平気で手を掛ける」
塩田は俺に固執している。でも一方で好きな人がいる。だから俺の事は恋愛対象ではないのだろうが、笹野さんにとってそれはどうでも良い事。他に好きな人がいようとこいつが俺に執着している事には変わらず、そして俺がこいつに恋愛感情を抱いている事が気に食わないのだから。
「ふーん、そう。そうなんだ」
でも忠告した俺の言葉に塩田は笑った。緊張のカケラもない。
「これは笑い事じゃねぇんだぞ、本当にあの人には…」
「うん、分かってるよ」
分かってないだろうな。だって塩田は、不気味なほど嬉しそうに笑っているのだから。なんなんだよ、こいつ。
「なぁ、塩田、俺はお前の事、好きだよ。それは本当」
「うん、知ってる」
こいつが能天気に考えるほど事態は軽くないのに。離れてやるしかないんだよなと、俺は頭を掻いた。
「でも笹野さんは俺なしじゃ生きられない。あの人はそういう人。何年経ってもそれは変わらない。俺もね、嫌いじゃないんだよ、あの人の事。むしろ好きなんだと思うんだ…」
嘘をつくしかなかった。
「お前に抱く感情よりあの人に抱く感情の方がうんと強いのかもしれない。…あの時はさ、腹が立って喧嘩別れみたいになったけど、あの人の側はすごく刺激的で生きてるって実感できるから、今は、それが恋しかったりする。本当はさ、俺はずっとあの人の面影を追っていた気がするんだよ。離れたのは俺自身なのに、離れたら離れたであの人のこと考えたり、」
俺は塩田を巻き込みたくないだけなのに、塩田は呆れたような顔をした。
「蓮司君、僕は君の事なら何でも知ってるって言ったよ」
塩田はそうぴしゃりと俺を制するように言うと、俺の方に腕を伸ばしてそのまま体をすっぽりと包み込むように抱き締めた。やめろ、あいつの二の舞になる。俺はそう体を捩って離そうとするが、塩田の力は強かった。
「勘弁してくれよ、塩田」
声が掠れた。塩田は耳元で囁くように言葉を吐いた。
「君はもう僕なしでは生きてはいけない。それは頭でも体でも十分に分かってるはずだよ? なのに今更、僕から離れたい? 冗談だろ」
「俺は、もう…こんな関係、耐えられない。好きな子ひとりを大切にしてやれよ。だから、さ。離してくれねぇかな、俺の事。俺、笹野さんとこ戻りたい……」
塩田はその言葉を聞くと体をすっと離した。やけに冷たい目を俺に向け、大きな溜息を漏らす。俺はその射抜くような視線が怖くて、ゆるりとマグカップへと視線を逸らした。
「それは君の本音? 本当の本当に、笹野って人のところに戻りたい? もし僕の身を案じて離れると言っているのなら僕は君を殴ってでも止めるよ。手足の自由を奪って、ベッドに括って、僕という人間を君の体に叩き込む。もう二度と離れるなんて事、思い浮かばないようにしっかりと。だから嘘でも離れるなんて言うなよ、蓮司君」
「けど…」
拳を握って塩田の目を再び見つめると、塩田は低い声で「けど、何」と苛立ちを見せる。俺は一瞬何を言いかけていたのか分からなくなったが、落ち着けと自分を落ち着かせて口を開く。
「お前、他に好きな人いるだろうが。素直に、その子と幸せになれよ。もういい加減、俺を、離してくれよ。セックスだけの相手なんてうんざりしてンだ…」
塩田は眉間に皺を寄せると口をきつく結び、少し考えた様子を見せた。頭を掻くとその皺を解く。
「そっか。君はどうしたって嘘を突き通すつもりなんだね。僕の身を案じて離れると言った、とは認めてはくれないんだ。なら僕ももう本音を言うしかないみたいだね」
本音…? そう眉根を寄せると、塩田は小さく深呼吸した。
「君みたいな男を落とすにはこうするしかなかった、それが僕の本音。君に対する感情に嘘をついた事に対して謝るつもりはないよ。だってそうしないと君は手に入らなかったのだから。君という厄介な男を僕のものにする為の方法がこれだった、つまりどういう意味か分かるよね?」
真っ直ぐな瞳に俺は自分の気持ちを否定しようと言葉を絞り出す。
「なんだよそれ。俺は期待したくない。期待したくないし、それに…」
お前を巻き込む事になる。それだけは勘弁してほしいと足掻いているのに塩田は俺の後ろ髪を引いてはそっと甘く笑う。
「僕は君が好き」
俺の言葉も考えも塩田の言葉に一気に掻き消される。
「今も昔もこれからも。他の誰でもなく君の事が好きだ。でも好きという言葉で僕の感情を言い表すのは少し抵抗があるな。分かり易いから敢えて使ったけど、やっぱり、僕の感情は好きなんて可愛い言葉じゃ表現出来ないのかもしれない。愛してるというのもまだ足りない。僕は君に執着して依存して、他なんかどうでも良いと思うほどに強い感情を抱いてる。蓮司君だけが存在していればそれで良い。他は何もいらない。これが僕の本音。だから笹野とかいうトチ狂った男の元へなんか行かせない」
胸がぐっと締め付けられるように苦しくなった。何を答えるべきかが、もう分からない。全部話して俺はお前なんか好きじゃないと、離れるつもりだったのに。こいつも分かった、と頷くかと思っていたのに。
「塩田……」
怪訝な顔をする俺に、塩田は真剣な目を向けた。
「僕は君と一生を共にしたい。死ぬのなら君と。死ぬまで君の側にいたい。だから君を、離したくはない」
俺は瞳を伏せて深く息を吸い込み、深く吐き出した。
「今更だよなぁ。今更、肯定されても困ンだよ」
口を歪めていると、塩田はすっと手を伸ばし、自分の方を向くようにと、顎に軽く指を引っ掛け、視線を合わせた。
「困らないだろ。君が僕を突き放そうとするのは笹野から守る為、違う?」
「……」
つい視線を逸らすと、「僕の目を見て答えて」と圧を掛けられる。それでも無言を突き通すと塩田は少しの苛立ちを見せ、低い声で更に圧を掛けた。
「そうだと素直に認めろよ」
「俺、は……」
笹野さんの元へ戻るから、お前とはお別れだ。その言葉はどうしたって喉をつっかえて出てこなかった。出そうとしても苦しくて出ないのだ。だって本音は、こいつの側にいたい。笹野さんの元になんか、戻りたくない…。塩田は俺が何かを絞り出そうと口を開けるのを見ていた。何も言えないのだと判断すると頬に手を寄せ、ぽつりぽつりと語り掛ける。
「僕が君に抱く感情は恋愛感情ではない、って否定したのはさ、相手が君だったから、そう言ったよ。君は自分に好意があると分かったら惚れた弱みに漬け込んで、思い通りに扱って、飽きたらそれまで、はい、サヨウナラ。だから僕は君が僕に依存してると、落ちたと確信できるまでは何も言わないと決めていた。例え君が僕に好きだと言っても僕は鵜呑みにしない、とね。でも最初から僕は君しか見ていない。君が笹野とかいうヤクザの元へ戻ると言うのなら、僕の世界から君がいなくなってしまう事だろ? つまり、僕にとって生きる意味がなくなるって事だよね。僕を生かすも殺すも君次第。僕は本気だ、蓮司君。さぁ、どうする?」
「どうするって…」
「そう言えば少しは僕の感情も理解してくれる? 僕はね、ようやく確信できたんだ。君は本気で僕の事を想ってくれているって。だって君はさ、僕の命が危うくなる可能性があるから嘘をついた、そうだね? もしそうなら、君はもう身も心も僕のもの。もう良い加減認めても良いんじゃない?」
全てこの狂ったストーカーの思い通りになった、という事なのだろう。今はもう離れたくねぇなと、ぐちゃぐちゃの感情を抱えていて、それが作戦だったというのならそれで良い。塩田が俺を好きだと面と向かって全てを吐露した事も死ぬほど嬉しくて、キスのひとつやふたつしてやりたいが現実は恐ろしい。
「俺はね、塩田。今、お前を失うのが何よりも怖い。それだけは避けたい。お前と一緒にいたら笹野さんは間違いなくお前に危害を加える。後悔、したくないんだよ。もう二度と、好きな人が暴力を振るわれるなんて事、経験したくねぇんだよ」
気付けば手が震えていた。あの時の事を思い出すと、今でも気分が悪くなって吐きそうになる。
「前にも同じような事が起きたってことだね?」
俺は頷き、ゆっくりと深呼吸をして、昔の事を話そうと口を開いた。
「あの人から一度逃げた事があったんだ。そん時は、事情を理解してくれた友人のところに逃げ込んだけど、それが良くなかった。そいつは俺に気があって、俺も、そいつのことは特別視してた。それを笹野さんは分かってた。俺が笹野さんから離れる事を、笹野さんは許すはずもなくて、俺がその友人のところへ逃げ込んだ2日後、そいつ、リンチされて病院に運ばれたんだ」
そこまで話し、俺は一旦ハーブティーを口にして自分を落ち着かせる。
「…病室で会ったあいつは顔を腫らして、青紫色に色を変えていた。体中にアザ作って、右腕と肋骨を骨折していた。警察が来てそこで知った。そいつが性暴行も受けてたって事を。けれど犯人は捕まらず、そいつは恐怖で精神的に不安定になって、もう二度と関わりたくないって、退院早々に姿を消した。誰に暴行されたのかなんて想像がつく。あの人が指示を出したんだって俺は分かってた。俺は戻らざるを得なくなって、戻ったその日、あの人はとても嬉しそうに、楽しそうに、…あいつが、どんな風に暴行されたのかを、説明してきやがった…」
落ち着いて話そうと思えば思うほど声が震える。塩田は俺の手を握ると、顔を覗き込んで続きを諭した。
「そう、か。それで蓮司君はどうしたの?」
「初めて、殺さなきゃならねぇなって思った。悔しかった。悔しくて、悔しくて、悔しくて、…すっげぇ苦しくてさ、あの人とまぐわう度に、触れられる度に、殺意が芽生えて、俺を匿ってくれた友人を思い出しては辛くて、…だから、俺は、眠ってるあの人に銃を向けたんだ」
塩田は驚いたように片眉を一瞬だけ上げる。
「あの人が銃を隠してる場所も、撃ち方も、俺は知ってた。静かに安全装置を外して、トリガーに指を引っ掛けて、寝てるあの人の顔を見下ろした」
そこで言葉に詰まった。思い出しくもない過去というのは、生きていればいくつかあるだろうけど、この過去は二度と思い出したくもなかったし、口にしたくもなかった。でも今はそれを吐き出す必要があった。
しかし口にしたくない過去を語ろうと唇を開くが、言葉がまた喉につっかえて出てこず、手が震えた。塩田は握る手に力を込めた。
「大丈夫。落ち着いて。君は、殺せなかった、そうだね?」
そうして優しくそう訊ねた。俺はこくりと頷き、深く息を吐く。
「殺せなかった…。あれほど憎んでいたのに、殺意もあったのにおかしいよな、殺せなかった。殺していれば、俺はあの人から逃れられたのに。殺せなかった………」
「蓮司君がそんな男の為に手を汚す必要はない。殺さなくて良かったって僕は安心してるよ」
「けど、俺自身、俺が分からない。あの人の事は本気で殺したいと思ったんだ。友人をあんな目に遭わせて、笑うようなあの人を殺さなければならないって。このままなら俺もいつか薬漬けで殺される、そう思っていたし、何がなんでも逃げなければならないって。でも、あの人が優しく笑うから…。銃を向ける俺に『殺したいのなら殺しなさい。それで君の気が済むのなら構わない』って言いやがった。なんなんだよ、それ。惨めに喚いてくれりゃぁ、引き金を引けたかもしれないのに。だから俺は絶望した。俺にとってあの人を殺せないって事は、結局何されてもその人に依存し、心酔し、馬鹿げた感情があるのだと突きつけられたって事だ。…恐ろしくなった。薬漬けにされても、友人奪われても、結局は好きだったんだって気付かされ気がして、あぁ、もうこれで、あの人からは逃げられないって…、そう心底感じた」
塩田は「そう」と呟いて口を歪める。
「あの人と会うのが怖いのは、あの人が俺を殺すかもしれないって恐怖よりも、また繰り返すんじゃないのかって、そっちの方が怖いんだ。あの人は俺を簡単に支配する。あの人と一緒にいて幸せになんてなれない。でも、あの人といると、この人だけがいればいいって錯覚しちまう。それが何よりも怖い。…毒、なんだよ、あの人は。猛毒。毒抜き、ようやくできたと思ったのにな」
「毒抜き、か。麻薬のような存在を断ち切るのはうんと辛い」
塩田は俺の目を見つめると、ふっと微笑んだ。
「でも今、断ち切れてるじゃない。今の蓮司君は笹野さんさえいれば良い、なんて思ってないじゃない。でしょう?」
「そう、だけど…」
「毒抜きのキッカケをくれたその彫師には感謝しないとだね? そして、今回はその役割を僕が担うよ」
塩田の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。だから俺は唖然と口を半開きに、眉間に皺を寄せてしまう。
「どういう事…?」
「そうと決まれば笹野を消さないとならないよね?」
「いや、消すって、お前、相手はヤクザだぞ」
顰めっ面をする俺と打って変わって塩田は冷静だった。冷静すぎるくらいだった。
「うん、ヤクザは怖い。でも、怖がっていても始まらない。君は君の手を汚す必要はないよ。でもアレは邪魔だから消えてもらおうか」
塩田は俺の目を真っ直ぐに見つめる。俺はその目を見つめながら、あの塩田がやけに交戦的な事に驚いた。相手がヤクザだって分かっているのに手段を選ばない、義理も人情もないようなヤツが相手だと分かっているのに、どうしてそうも冷静にいられるのだろう。その時、ふと、こいつが何者かを、俺は全く知らないことに気付いた。
「な、なぁ、お前って、何者なの…」
俺の眉間にまた深い皺が刻まれる。
「何者…そう言われてもな」
「お前の事、今まできちんと聞いた事がなかった。でもいつも違和感を感じてたのは確かだ」
「違和感?」
「盗撮や盗聴が手慣れているように思えるし、俺の情報だって、本当に小さなものまで知ってる。ピアスを開ける時、何の躊躇いもなかったし、注射だってそうだ。ヤク中かと疑ったけど、どうやらそうじゃなさそうだし…。どんな仕事してるのか皆目検討もつかない。基本的に家にいるようだけど、夜遅い時間にいない事もあったり、仕事の電話だと焦って電話に出たり。仕事はしてんだなーと思ったけど、夜の遅い時間に仕事の電話が掛かってくるなんて何をしてんだろ、って気になってた。そんなところで、この話だ。俺がヤクザと関係を持っていて、尚且つ、そのヤクザが俺に接触するかもしれないと知っても顔色ひとつ変えず、そのヤクザを消そうと躊躇いなく提案する。…それって、普通じゃねぇよな?」
そこまで言うと塩田は少し考えた後で、ぬるくなったハーブティーを飲み干してカップをテーブルに置く。
「分かった。そうだね。…君が僕を守る為に笹野の元へ行くのも止めなきゃならないし、今度は僕が腹を割って話す番だね」
「あぁ、是非、そうしてほしいね」
「僕の仕事は、情報を集めて情報を売る事。世の中では情報屋と呼ばれてるただのハッカー」
……は?
「ピアスや注射が手慣れてたのは、副業、になるのかな、桜木医院という小さい町医者の無免許助手もやってるから。で、その病院は関東指定暴力団、山藤会本家のお抱えなんだ。僕の叔父さんがその病院の院長兼唯一の医者でね、僕は昔からたまーに手伝ってるの。だから情報屋もその組織に貢献する為、というのが元々だった」
「え……?」
何が何やら雪崩れてくる情報に整理が追いつかない。眉間の皺が更に深くなるが、塩田の口は止まらない。
「あ、でも今は少し違うよ? あの組織の一部のやつらに愛想が尽きた。会長は腕っぷしが良くて男気があって義理も人情もある人だけど、傘下になる組織の大半は、反吐が出るほど悪どい奴らばっか。ま、ヤクザってそんなものかもしれないけど。でも僕が情報屋になった初めの頃の山藤会の傘下は、もっと義理と人情に熱くて、胸糞の悪い金の稼ぎ方はしなかった。それが今はクズでゴミで見てられない。だから今、僕にとって一番の良客は"アズサちゃん"。君にはデートの相手と言ってた女性だよ。山藤会の系列に情報を流すより良い金になるし、何より、胸糞の悪いやつらを排除できる。ま、彼女の仕事についてあまり多くは言えないけど、きっと君の助けにもなってくれる心強い存在。……と、まぁ、これが僕の仕事内容だ」
「ちょっと待て、…待て待て、情報屋で病院の無免許助手? 何、アウトロー漫画の読み過ぎ?」
冗談のような話に混乱する。無理矢理に笑って見せると、塩田はアハハと声を出して笑った。
「確かにね。漫画の主人公をサポートする役にいがちだよね」
「………冗談、だよな?」
「信じられないのならそれでも良いよ。僕はただ君に、分かっていてほしいだけだから。笹野が僕を脅そうが何をしようが僕は平気だという事を。だってそもそも、僕はその世界の人間だから。それよりも笹野は君に会いたいと思っているはずだよ? 僕に何かをする事よりも、先ずは君に接触する。君を攫う可能性だってある。僕はその方が心配だ」
あの塩田が、あのイカれストーカーが、情報屋という摩訶不思議な職業の人間だった…。陰気丸出しの不気味な黒い本を俺に送りつけるようなストーカーが、だ。到底信じられない。
「蓮司君、確か、黒崎会の若頭に助けてもらったって、言ってたよね? 彫師の恋人がそうだった、って」
「あ、あぁ…」
頷くと、塩田は続ける。
「黒崎会は山藤会直系の二次団体なの、知ってた? もとは三次団体だったけど、昇格して二次に上がった実力派の組織だったんだ。まぁ、色々あって、兄弟分の組と衝突して、イザコザが起きて壊滅してしまったんだけど。要はそれが黒崎会の若頭とその恋人が姿を消した理由。知ってた、かな?」
「いや、詳しい事は全然」
シロはある日突然消えた。組関係なんだろうなぁとは思ってた。けれど今、気にすべき事は黒崎会の下になるのが柳田組だったという事。つまり、それって、と俺は片眉をあげる。
「だから僕はどんなコネを使っても君を守るって言ったでしょう。君の恐れてる笹野は黒崎会の下につく人間。ヤクザは縦社会だからね、組織的に圧をかけるなら本家が最も強い」
俺は言葉が出なかった。こいつがそんなところに繋がりを持ってるなんて、全く予想もしていなかった。あの塩田だ。オタクで根暗の塩田だ。まさかそんな風に俺の味方になる存在だとは思わないだろう。
「けど、正直そっちの手は借りたくない。だからこれは最終手段。でももしどうにもならないのなら、僕は本家を動かしてでも笹野を消すよ」
「……い、いやいや、」
今のこいつが消すと言葉に出すのは脅しに聞こえなかった。
「君も大きなもの抱えてるけど僕の荷物も大きいでしょう。だから僕の事は心配しないで。君がどこか遠くへ行きたいと言うのなら僕も一緒に行く。ね? 僕は君のものだから」
動揺した。混乱し、立て続けに吐き出される塩田の正体に頭はもうパンクしそうである。
「それに君はもう僕のもの。君に拒否権はないよ」
どうしようもない。どう足掻いても塩田を巻き込んでしまう事は確定だった。でも、もう、良いんだよな? こいつの側にいて、良いんだよな?
「そう、…だな」
ぽつりと吐き出した言葉に塩田は、心底嬉しそうに頬を緩めて安堵したような笑みを浮かべた。
「うん、そうだよ。そう」
俺もきっと安堵していた。困ったように眉を下げ、塩田の首元にぽすっと額を押し付けると、塩田は背中をトントンと軽く叩いた。まるであやされてるみたいだった。
「蓮司君、」
「んー?」
「山藤がどうの言ったんだけどさ、」
「うん、」
顔を上げると塩田は意を決したように口を開いた。
「この件に関してはしっかりとした手順を踏みたいんだ」
「手順…?」
「だからアズサちゃんの出番になる。そうじゃないとまた、蓮司君が危ない目に遭ってしまうから」
そこでアズサ、という名前が出てくるのかと俺はふっと笑ってしまった。なるほね、彼女はそういう事なんだ。
「刑事、か」
「僕の口からは何も言えない。想像にお任せする」
塩田は口を歪ませるが、肯定しているようなものだった。
「けどもしアズサちゃんがそっち側の人間なら、お前、相当危ない橋を渡ってるよな? 刑事に情報を売って、ヤクザとも繋がりがあるなんて、その山藤会とかいう大組織に知られてみろ。殺されるぞ」
「分かってる。だから言ったろ。僕の荷物も大きいって。ま、僕はあの組織に蔓延る虫唾が走るようなクソ野郎さえ排除できればそれで良いし、消されるようなヘマはしない」
塩田の恨みを買うほどその虫唾が走るようなクソ野郎共は何をしたというのだろう。なんだかちょっと、面白い。
「さーて、蓮司君の事、またひとつ知れたから僕はとても気分が良い。ねぇ、笹野ってイカれた男がいるんだから、もう僕の部屋に住むだろ? だって家バレてるかもしれないものね」
「あー、それもそうだよなぁ。でも、今と何も変わらないと思うけど」
「ううん、変わるよ。…はい、これ」
塩田はそう言うと、ポケットから何かを取り出して俺に手渡した。それを手にすると、同棲って感じ、すげぇなと俺の頬は緩んでしまう。
「いつでも使ってね?」
「うん。ありがとう」
合鍵を手に握り締め、俺は塩田に片眉を上げて、「俺の家のはいらねぇよな?」と訊ねると、塩田は当たり前と言うようにへらへらと笑う。
「うん、あるから要らない」
「渡した記憶ないけどなぁー?」
「えへへ。あ、でも、万が一住処がバレた時用にダミーとして蓮司君の部屋はそのままにしておいた方が良いかな。うーん。どうするのが、良いかな…」
「なんか、楽しそうだな」
「楽しいよ。だって僕らはようやく恋人同士になれたんだもん」
「恋人、かー。そうなぁ」
恋人、か。そう何度も頭の中で繰り返す。本当に欲しいと思った人と関係を持つ事ができるなんて感慨深いなと思いながら余韻に浸る。そっか、恋人かぁ。
「安心したらお腹空いてきたんだけど、蓮司君は?」
「腹減ったね。何か食わせてよ」
「もちろん。リクエストある?」
「なんでも良い。あ、サトミさんから頂いた沖縄のお菓子も食べようか。なんか詰め合わせでいっぱい入ってたろ」
「最高だね。僕も沖縄に行った事ないからなぁ、いつか一緒に行こうよ」
「計画立てなきゃな」
塩田が顔を綻ばせるから俺の頬もつい緩んでしまう。塩田はキッチンはと移動して、俺はサトミさんからのお菓子箱を手に塩田に続いてキッチンに入り、カウンターの椅子に腰を下した。
「なぁ、そういえばさ、お前の叔父さんって何者なの? お前がヤクザに情報を売ってんのも、その叔父さんの為だったりすんのか?」
「んー…」
塩田は素麺を茹でながら、少し唇を尖らせて考えている。
「まぁ、叔父さんの為と言えばそうかもしれない。けど、叔父さんが無理強いしてるわけじゃないんだよ? 辞めようと思えば辞められるから。そりゃ、簡単な事じゃないけど足を洗おうと思えば洗えるから。けど今でもこうして叔父さんの元で働いてるのは、なんていうのかなぁ、叔父さんに対する恩返しみたいなのはあるかも」
「へぇ、恩返しねぇ」
「叔父さんと僕はね、血が繋がってないんだ」
「ほう」
「母は僕が幼い時に離婚していて、すぐに再婚したんだけど、その新しい父のお兄さんがその叔父さん。だから血は繋がってないけど小さい頃から良くしてくれてさ。叔父さんは僕と兄さんを、あ、父の連れ子を我が子のように可愛がってくれて、僕達にとったら父親代わりだった。っていうのもさ父と母は仕事の都合で海外に飛ぶ事が多くて、家を頻繁に空けてたから。僕がこうして元気にいられるのは、叔父さんのお陰だと僕は思ってる」
「俺、お前の事、全然知らねぇんだな…」
「僕の話はした事ないからね」
「これから知っていくってことよなぁ。色々教えてよ。お前の家族や、お前のおもしろーい仕事に関してさ」
「もちろん」
塩田は頷くと鍋から素麺を上げて、湯を切り、冷水に浸しながら何やらまた考えている。
「…ねぇ、蓮司君。僕がこの山藤会の情報屋を辞めたら、蓮司君は嬉しい?」
裏社会の人間なんて関わらないに越した事はないだろうなと思った。
「そりゃぁ、な? 抜けれンなら抜けてほしいけど、でもお前の仕事に口出しできるほど、俺はまだお前の事を知らない。…それでも危険な仕事はやっぱ不安になるよ」
「そ、そっか。うん、じゃぁ、近いうちに離れようかな。蓮司君を悲しませる事はしたくないから」
塩田は表情を崩さず淡々と話した。簡単に言うけれど、きっと裏社会の人間がその世界を抜けるのはかなり大変なはずだ。
「無理だけはすんなよ。お前が恨まれたり、ケジメを取れだのなんだの暴力を受ける事は避けてほしい」
そう不安に思いながら訊ねると塩田は優しく微笑んだ。
「それは大丈夫。僕は一応カタギの人間だから」
「ふーん。大丈夫だと言うなら良いけどさ」
「ねぇ、ひとつ聞いて良い? 今日、アサトさんに言った言葉なんだけど」
「うん」
塩田は俺の方に体を向けると塩田は眉根を顰めた。
「雲隠れするって言ってたよね? 笹野さんから逃げる為に雲隠れして、僕にも行き先は告げないつもりだった?」
あー、あの時のことか。確かに、ちょっと揶揄いすぎたかな。
「お前を揶揄いたくなっただけ」
そう素直に白状すると塩田は大きな溜息を吐いて、また素麺に向き合う。
「焦らせないでよ…」
「悪かったな。つい、意地悪したくなっただけ」
塩田は何も言わずに唇を尖らせて俺を軽く睨むものだから、俺はくすっと笑いながら首を傾けて訊ねた。
「でも俺が何処へ行っても、その恐ろしいストーキング能力で俺を見つけ出してくれんだろ?」
当たり前だ、と答えが返ってくると思った。だが塩田は考えるように少し間を置くと、「見つけられるかもしれないけど、」と真剣な目を向けた。
「君が僕に行き先を告げずに消える時は、僕に見つけてほしくないからだろ。そう思ったら見つけようとはしないかも。もし君が本気で僕と別れようと考えて姿を消す時は、きっと、僕もこれが永遠の別れなんだって覚悟する。だって僕は君の幸せを誰よりも願ってるからね。…はい、お待たせ。素麺と特製のつけ汁でーす」
拍子抜けした。そんな風に素直に言っちまうんだ。幸せになってほしい、なんて嬉しいことを惜しげも無く口にしてしまうのか。ちょっと意外だなと、この元ストーカー現恋人の考える事が俺を中心に回っていて、すげぇ愛されてんなと、つい笑みが溢れてしまう。こんな事、アサトさんに言ったら塩田の事を怖いと、サイコ野郎だと断言しちまうんだろうな。世間一般的に見れば塩田の愛情表現は歪かもしれない。でも全てが俺中心で、なんだか優越感に浸ってしまうのはおかしな事だろうか。
「いただきます」
「はい。いただきます」
ふたりで夜食を食い、温かいものを腹に入れた俺は、隣に塩田がいる心強さもあってだろう、笹野さんに対する恐怖心を払拭していた。塩田は俺にうんと甘く、うんと過激で、俺は塩田の側が何よりも何処よりも落ち着くと感じていた。電話以来、笹野さんの影は不気味なほどなく、俺は毎日、塩田の部屋と仕事場を行き来している。塩田は相変わらず仕事をしているようには見えなくて、心配だと言っては俺の送迎を必ずしていた。
塩田は俺が思っていた以上に俺を大切に扱うものだから少し笑ってしまう。とはいえセックスは変わらずサド丸出しで、体に痕跡を残しては満足そうに笑っている。ぐずぐずに愛され、それを実感する度につい体が反応するようになっていた。
「明日、休みだからどこか出かけないか?」
仕事の直前、暑そうにうだうだしていた塩田にそう声を掛けると、「いいね」と塩田は親指を立てた。真顔で親指を立てる塩田が愛くるしい。
「それなら仕事が終わるまでに場所、考えておく」
「うん。蓮司君の行きたいところへ行こう。蓮司君の方がデートスポット詳しいだろうし」
「それは、どうだろうなぁ」
「デートなんかせず、すぐホテルへ直行するタイプだったか」
「ま、それは間違いない」
俺は惚れやすい、ってわけでもないし、誰か特定の男につくす人間でもないのに、今はうんと塩田につくして、安心を求め、温もりを得ている。これはまさに恋愛らしい恋愛。恋人同士、まさにその通り。今までの俺の性格からしても、こんな風に安定する関係を誰かと築ける日がくるなんて思いもしなかった。
その日も俺がバーで仕事をしている間、塩田は家でパソコンを目の前に情報屋として仕事をしている、らしい。実際、仕事しているところなんて見た事がないから、実は無職ってオチもあり得ると思っているが、どうなのだろう。カクテルを作りながら頭の中ではそう塩田の事を考えていた。機嫌の良さは顔に出るのか、「楽しそうすね」と佐伯君に言われるほどだった。忙しさも相待って、時間はあっという間に過ぎた。早く帰りたい俺はグラスをさっさと磨き、閉店時間を待っていた。人の出入りが落ち着き、店内には客が数人となった時、カランとドアベルが鳴る。
あー、今日はもう閉店と同時に急いで帰りたいんだけどなぁと、入口に視線を向ける。
「いらっしゃい…」
店に入って来た男は、そう呑気に考えていた俺の思考を一蹴した。男は深い灰色のスーツを着ていた。スーツジャケットを腕にかけ、同じ色のベストを着ている。潔癖が一目で分かるような皺ひとつない綺麗な白いワイシャツ、深いワイン色のネクタイ、ゴールドのタイピン。男はシャツの皺をひどく嫌っていた。いつも肌触りの良い高級なネクタイとタイピンをしていた。
そして「久しぶり」そう、俺に向かって微笑むのだ。
男は昔のままだった。相変わらずヤクザっぽくない上品な雰囲気で、気品溢れる服装で、少し痩せたようだったが頬の皺を深く刻んで微笑むのは何も変わらない。切れ長の一重と鼻筋の通った高い鼻に情の薄そうな薄い唇。髪は軽くウェーブがかかり、後ろに撫でつけられている。
俺の体は得体の知れない大きな何かに締め付けられたように動けなくなっていた。言葉も出ないのだ。ただ、その人を見つめる事しかできない。とうとう来てしまった現実を飲み込みたくなどなかった。
「ここを探すのに時間がかかってしまってね。荒木が何も教えてくれないんだもの。参ってしまうよ。でも、ようやく見つける事ができた。噂通り素敵なバーだね」
俺をまた10代最後の悪夢へと引き摺り込むだろうか。解放されることはないのだろうか。
笹野さん、あんたは俺を、どうしたい……?
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