6. 執着

塩田の顔から笑みが消えて数秒。塩田は首を傾けて少し考えているようだった。怪しく微笑むと、俺をまた軽く抱き締めて耳元で囁く。



「蓮司君、言ったろ。僕は君に対して恋愛感情はないんだよ。でも君の泣き顔や苦しむ顔はとても好き。僕の事が好きなら、もっとたくさん泣いて、苦しんで、快い顔を見せてね」



耳にそっとキスを落とされる。塩田はそうして寝室を出て行った。俺はひとり喪失感なのか何なのかよく分からない、ぽっかりと空いた穴を感じながら、そうだよなと、妙に納得していた。しばらくして塩田は外に出かけた。数時間、帰って来なかった。俺に告白なんかされて気まずくなったのかとも少しは思ったが、そうではなさそうだった。塩田は両手に買い物袋を下げ、いつもと何も変わらない様子で「ご飯作るね」と微笑んでキッチンに消えた。



「飯は何?」


そう寝室から問い掛けると、塩田はひょこっと顔を出した。



「新鮮なお刺身だよ。安かったの。今、お皿に取って持って行くね。後、お味噌汁もあるから」



「いや、いいよ。そっちで食う」



「大丈夫?」



「もう平気よ。明後日病院行ってくるし、順調じゃないかな?」



「そっか。それなら良いけど、無理はせずに。で、ご飯はどれくらい?」



「普通盛り」



「了解。ね、ビール飲む?」



「飲む飲む」



ふふふ、と塩田は楽しそうに笑う。笑う度に俺の心はぎゅっと鷲掴みにされ、どうしようもできない思いに苛まれては、溜息が漏れそうになった。ダイニングのテーブルを囲って飯を食い、酒を飲み、他愛もない話をするほど、俺達の関係は近くなったはずなのに、心の距離というのは一向に近付かない。飯を食い終わった後はシャワーを浴びて、いつものようにベッドに転がる。塩田は濡れた髪を乾かしながら、思い出したように小さな箱を取り出した。



「そういえば昨日さ、これ、買っちゃった」



塩田が見せた小さな箱の正体は香水だった。この男、香水を買うようになったのか。



「ヴェッラのピュアブルーオムね」



「そうそう。蓮司君、前に広告塔やってたよね?」



「やってたね。結構好きでつけてた」



「お店に行ったらさ、この香水の今の広告塔が少し君に似てて、懐かしいなって思って買っちゃった。ね、つけてくれる?」



「え、は…? 俺に?」



自分の為かと思いきや、そうではなかった。俺は香水を受け取りながら驚きに片眉を上げていると、塩田はふふっと恥ずかしそうに笑った。



「僕にはちょっとセクシーすぎる匂いだから」



「セクシーすぎるって何だよ。でも、うん、ありがと。たまに懐かしくてつけたくなるんだよな、これ」



「良かった、まだ好きで」



「あーでも、これ、一緒につけようよ。せっかくだから」



俺はそう言ってその香水を手首につけ、塩田の首元へ手を伸ばす。すりすりと耳の下から首にかけて香水を塗り込むと、部屋中がその爽やかな香りに包まれた。



「お揃いだな?」



俺はそう微笑んでやると、塩田は一瞬眉間に皺を寄せ、すぐに解いて「そうだね」と微笑んだ。その一瞬の怪訝な顔は、俺と同じ香水が嫌だったのかもしれない。そんなに顔に出さなくても良いだろうと思うが、眉間に皺が寄っていた事自体、気付いてないのかもしれない。俺は香水を箱に仕舞い、近くの棚の上にトンと置く。



「このブランドの広告をしてた頃の君って、特にセクシーだったよね」



塩田は横に肩を並べると、背もたれにクッションを置いて寄りかかりながらそう語り出した。



「ウェーブがかった少し長めの金髪に、凛々しい真っ黒な眉、唇がまた色っぽくてさ。白いシャツはいやらしく濡れてて、厚い胸板を強調してて、青い海と白い砂浜と。今でもあの広告ははっきり覚えてる。カッコよかったなぁ…。君ならではの妖艶と逞しさがあって最高だった。あれでまだ20とか未だに信じられない。あの貫禄はすごかったなぁ」



「貫禄ねぇ。一応モデルは3歳からやってるからね。歴は長いかもしれないな」



「そうなんだよね。3歳からモデルなんだもん、そりゃぁ堂々としてるよね。あーあ、あの広告は本当に漫画の世界だったなー。でも、それで名前が蓮司なんだもん。とっても和名で余計好きになる」



「ブレイクって名前もあるけど違和感だよな。見た目が西洋感強すぎるからそっちのがしっくりくる人も多いかもしれないけど、俺の生まれ育ちは日本で、ほとんどをこの国で過ごしてるし、好きな食べ物ももちろん日本食だしな。俺としては蓮司って名前はミドルネームじゃなくて、ファーストネームなんだよなぁ。だって俺さ、納豆好きでしょー、梅干しも大好きでしょー、それとねー…」



「その顔で言うと、日本大好き外国人みたい」



心底楽しそうに塩田は笑う。そんな顔を見て、俺はきっと困ったように笑っているのかもしれない。そんな風に優しく笑うのはやめてほしいと、その笑顔を見ながら思ってしまうのだから。



「昔からよく言われるよ、ソレ」



「だよね。彫りが深くて、本当に綺麗な顔。イギリスと日本のハーフだって、昔、雑誌で読んだけど、日本人の血って本当に入ってんの?」



「入ってるよ。でもまぁ、国籍だけで言うとイギリスと日本なんだけど、実際はかなり色んな血が入ってる」



「そうだったんだ。知りたいな、蓮司君のルーツ」



「俺のルーツかぁ…」



「うん、教えてほしい」



俺は塩田の方に体を向けて説明をした。母はイギリス生まれでイギリス国籍だけど、母方の家系は西ヨーロッパの色々な血が混ざっている事、今は南フランスにいるという事、父は生まれも育ちも日本で、国籍も日本だが、曽祖父にドイツの血が入ってる事。それらを端的に伝えると、塩田の顔には興味深いと書いてある。



「へぇ。知らなかった。あ、そういえば、名前はお母さん側なの?」



「うん。離婚して、色々あって、母方の姓を名乗ってたけど、結局は父と日本に来る事になってね、でも変えてない。イギリスのキッズモデルとして仕事してた時に、母方の名前使ってたし、こっち来ても苗字は母方の姓を名乗る事の方が多いから」



「本名で活動してると、そっか、そうだよね。でも蓮司君は蓮司君だから、苗字ってあまり聞き慣れないもんだね。言い慣れた蓮司が一番しっくりくるよ。あ、ねぇ、話戻るけど、お母さんもモデルだったんでしょう?」



「よく知ってるな。若い頃はモデルやってたみたいだね。今はパリの劇場で活躍してるみたいよ。でも母さんの事はあまりよく知らないんだ。俺が6つの時に離婚してるからさ」



「そうなんだ…。話にくい事、聞いてしまったね」



「いやいや、今更何とも思ってねぇよ。母さんも自由奔放な人だったから、俺は母さん似なんだなーってつくづく思うし。そんな母さんが結構好きだし。毎年、クリスマスには手紙送ってくれるし、割と仲は良い方だと思う」



「そっか。そうなんだ。なら、良かった。前にね、蓮司君のお母さんってどんな人なんだろうって調べた事があったの。海外雑誌に載ってるのを見つけた時、たぶん、お母さんが20代の頃の写真だと思うけど、びっくりしたなぁ。ザ・スーパーモデルって感じで、背が高くて細くて、本当に綺麗な人だった」



「んで、自由な人。楽しく生きてて、ちょっと羨ましいもの」



「ふふ、楽しく生きるのが一番だよね。僕からすると、君も大概自由人だけど、楽しくないの?」



これはまたなんと答えて良いか分からない質問だなと、俺は少し考えた。



「うーん、楽しい、よ?」



楽しいけど満たされない。欲しいものが手に入らないから寂しさはいつも付き纏う。そう本音を言ったら、こいつは困るんだろうな。



「なんで疑問形なの?」



「んー? いや、別に。楽しい人生だよなぁーって、改めて思っただけ」



「君にとっては何もかもがイージーゲームだよね」



「そうだと良いな?」



「イージーゲームに決まってるよ。こんなにも美しいんだもん」



容姿が良くてもイージーゲームとは限らない。現に俺は、お前を手に入れてないだろうが。簡単に物事は進まないんだよ。



「褒めたって何も出ないよ」



でも、それを塩田には言わない。言ったところで、またこいつの表情が曇って怪訝になるだけだから。



「蓮司君さ、前は金髪で黒眉がトレードマークだったよね? 地毛は深い焦茶色だもんね。染めてないナチュラルな髪色が僕は好きだけど、もう金髪にはしないの?」



塩田はそう言って俺の髪に指を絡める。少し伸びた髪をくるりと細い指に巻きつけ、ゆるゆると解いて離す。髪に触れられるのは心地良くて好きだ。塩田の触れ方は、優しくて、甘くて、勘違いしそうになる。



「染めるのは面倒だからなぁ。もう染めないと思う。それにお前がこの色好きなら、これからもこれで行こうかな」



「うん、そうだね」



塩田はそう柔らかく微笑んだ。そうして俺達はその日、何もせず、ただ互いに互いの話を少しだけして、深い眠りについた。


荒木が俺を殴り、過激なセックスをしてから2週間が経った。片桐さんの元で抜糸を済ませ、肋骨のヒビが完治したかチェックし、顔の傷をチェックし、後遺症がないか再度脳みそをチェックし、俺は再び元の自分へと戻る。頬の打撲痕はまだ少し残るが、気にならない程度だった。これで欲求不満も解消できる、というわけだ。さて、どうしようか。



「おかえり。眉のとこ、綺麗に治るもんなんだね」



「そうだな、片桐さんは腕が良いからね」



「そっか、良かった」



車に待たせていた塩田はそう言って安堵する。塩田と賭けをしてから2週間。やっぱりこいつは変わっていた。俺はその変化を横で見ながら、こいつが他の誰かに微笑む姿を何度も何度も想像した。今や塩田は見た目も俺好みで腹が立つ。洒落た爽やかなお兄さんって言葉が似合いそうな塩田と共に俺は2週間前に訪れた店、ローディンへと足を運んだ。



「うおー! 蓮司! 治ったの? 元通りのイケメンだ!」



そのブランドのデザイナー兼社長であるヒヨトさんは2週間前に酷い姿だった俺に向かって悲鳴をあげ、ダサい塩田に向かって絶叫していた。今日は歓喜の叫びを俺と塩田に浴びせている。



「無事に完治しましたー」



「良かったぁー! でもお前もさぁ、階段から落ちるとか本当に阿呆だし、歳とったよな?」



俺はこの人に怪我をした本当の理由を言ってはいない。言えるわけがない。ガハガハと豪快に笑う男に俺は「本当っすねぇ」と適当に流して返事をした。



「あ! んでー、今日来たのってあれだろ? 新しいシャツと靴。マジでカッコいいから、見てく?」



「もちろん」



そのマジでカッコいいシャツと靴は、俺に、ではなく塩田にだった。数日前、この人から写真が送られてきて、それを確認していた俺は塩田に似合うと確信していた。けどその塩田は相変わらずの人見知りを発揮し、無言で俺の後をついてくる。正直俺はこいつの人見知りに少し安心している。見た目は変わったが、中身はまだまた塩田らしくて良いと、誰とも話さず俺だけを嬲ってくれればいいと。けれどいずれは塩田も自分に自信をつけて性格も変わってしまうのかな。自分に自信をつけて、明るく振る舞うようになればきっと出会いも多い。今の好きな人とやらとも上手くいくかもしれない。大きな溜息を突然吐くと、隣を歩いていた塩田に怪訝な顔をされる。



「はーい、こちらね」



怪訝な顔をしていたが何を聞くわけでもなく言うわけでもなく、俺達はヒヨトさんについて奥の部屋へ入る。作業室のような部屋には、木目調の大きなテーブルに広げられていた数枚のシャツと靴がある。



「やっぱ夏は白! 今年は白! ていうか白は無難だし、どんな男も爽やかにハンサムに見せてくれる。清潔感も出せるしね。この白シャツはさぁ、裏襟に刺繍してあんのよ。これねこれ。見えないとこにこそお洒落って感じね。しかも触ってよこの生地。触り心地良いだろー? 着心地もすっげー良いから」



「あ、本当だね。海に着て行くにはちょうど良さそう」



「まさにそう!」



「塩田、どう?」



そうシャツから塩田に視線を移すと、塩田は自分に振られると思ってなかったのか動揺しながら首を縦に振る。



「う、うん。良いと思うよ」



「あ、その友達にってかんじ?」



ヒヨトさんに顎でさされた塩田は、一瞬ビクッと体を強張らせた。何もそんなにおどおどしなくても。



「そうそう。ねぇ、ヒヨトさん選んでよ。また一式ね。シャツと靴はその新作からお願い。あとパンツとサマージャケット欲しいかな」



「お前はすっかりそのお友達を変えたいのな。つーか、友達変わったね。お洒落な男前になったね。名前、なんてった?」



シャツを手にしながらヒヨトさんは塩田に尋ねると、塩田は緊張丸出しで、「し、塩田、塩田 庵、です」と目も合わさず消えそうな声で返事をする。



「そうだったそうだった、ごめんね。さて、塩田君、こっち来て。体に合わせるから。蓮司は店内見てていいぞ。少し時間貰うから」



「はーい」



俺が塩田から離れると、塩田は不安丸出しの顔をして俺を見ていた。その表情につい吹き出して笑いそうになったのを堪え、ひらひらと手を振る。



「イケメンにしてもらえよ」



そう塩田に言うと、寸法を測っていたヒヨトさんにケラケラと笑われる。



「失礼な男だな、ありゃ。すでにイケメンだって言ってやれよ。なぁ?」



「え、あ、…いえ、」



俺は塩田の戸惑う姿を笑いながら見て、「じゃぁまた後で」とそのまま部屋を出る。店内へ戻り、服をちらほらと見て回る。



「あ、…蓮司さん、ですよね?」



適当にジャケットを見ていた俺に若い店員が声をかけてきた。ターコイズブルーのシャツを着こなした背の高い青年は、話しかけて良いのか、悪いのか、どうなのかと、ドギマギしながら俺を見ている。



「はい、蓮司です」



愛想よく微笑みながら答えると、青年は目を輝かせた。



「うっわー!ホンモノだ! 社長が近いうちに来るだろうって言ってて、俺、すっげー楽しみにしてたんすよー! ファンです! 最近入りました、百瀬って言います!」



とても元気の良い返事が返ってきて少し驚いた。そんな彼もまた西洋人寄りの顔立ちだった。彫りが深く、鼻筋が通り、唇の形が綺麗な青年は目の色も薄い茶色。



「百瀬くん、ね。初めまして」



「初めまして! やっぱ、お洒落なんすねー! 現役辞めてもカッコいいし、体型変わってないし、すっげぇ。蓮司さんの事めっちゃくちゃ憧れてるんすよ!」



荒木のせいで、ファンだと近寄ってくる容姿のやたら良い若い男はちょっと怖い。でも俺は相変わらず愛想が良い。



「えー、本当? 嬉しいなぁ。この店で俺のファンに会ったのは初めてだよ」



「まじっすか? ウザがられるかなーとか思ったんすけど、つい、今しかないと思って、声を掛けてしまいました」



百瀬くんは若くて元気でお洒落でハンサムだ。こういう子が豹変したりすんのかね。怖いなぁ。



「ありがとう」



「あ、すみません、買い物中でしたよね。静かにしてた方が良いっすよね?」



けど申し訳なさそうに笑う顔が可愛い。好感を持てる愛らしい子だから俺は少し警戒しながらも、「いいよ、別に」とふっと笑った。



「今、ヒヨトさんに友達の服を選んでもらってるだけで暇だし。店内誰もいないし、服見ながら話してようか」



どいつもこいつも荒木みたいに裏のある奴じゃない。きっとこの子はとても素直で、明るくて、純粋に俺のファン。大丈夫。手を出すわけでも、出されるわけでもないのだから。



「やったー! 優しい! めっちゃ感激してます! 俺、すごくノームコア好きなんすよ。今ではもうあまりフューチャーされないけど、シンプルイズザベストっす! で、そのキッカケが蓮司さんなんすよ! 蓮司さんってシモンノエルのモデルやってたってたじゃないすか? 前にネットで、たまたまシモンノエルのパリコレ見て、それで蓮司さんに一目惚れしちゃったんすよ。そっから超ファンなんす」



早口にまぁ喋る。俺が少し圧倒されるくらいだった。



「ありがとう、すごい詳しいね。しかも若いのに俺のファンって珍しい。今、いくつ?」



「19っす!」



「19!?」



えげつない。歳というのは怖い。彼が言うシモンノエルのモデルをやってたのは俺が21歳の時だったから、もう9年も前のことになるのに。俺は思った以上に若い目の前の青年に疑問を持たざるを得なかった。何故俺のファンなのそもそも分からないし、俺は4年前にモデルを辞めたから、どうやっても彼がハマるキッカケにはならない気がするし。森本君にせよ、この子にせよ、若いのに俺のファンだなんて、どういうつもりだろうか。俺が現役でやってた頃はまだまだガキじゃないか。ハイブランドに騒ぐような年じゃないだろう。とはいえ森本君は単純に俺のファッションに共感していた。その友達の荒木は違ったけど。さてさて、この目の前のいかにも純粋そうな可愛い青年はどっちだろうか。



「俺がモデルやってた時、君、小学生じゃないの?」



「そうっすね。でも、ガチでハマったのはわりと最近なんすよ。ファン歴1年目の新米っす!」



「あ、そうなんだね。まさかこんな若い子からファン発言される日が来るとは思ってもみなかったよ」



なるほど。そういう事ね。本当に思ってもみなかったと、驚きすぎて興味のない朱色のライダースジャケットを手に取ってしまった。



「もともとは姉貴が好きだったんすよ。俺、姉貴がふたりいるんすけど、ふたりとも蓮司さんすっげー好きで、出てる雑誌とか買ってたんすよ。一番上の姉貴はヴェッラで働いてて、前にほら、広告塔やってたじゃないすか。それでハマったって言ってましたね。俺もこんなイケメンいるんだなーってビックリしました。これで日本人とかズルいなぁーと」



「あー、なるほどね」



そうか、姉さんの影響か。でも、あんな事件あったのに堂々とファンだと公言してしまうのは彼にとって大丈夫な事なのかな。



「んで、俺の中では一番のイケメンモデルだし、この人みたいになりたいって憧れてます。俺も海外で評価されるモデルになりたいなーって。でもなんか、半年前に雑誌のインタビューで、あ、俺、読者モデルやってるんすけどね、それで、憧れのモデルは? って聞かれたから、今は引退したモデルの蓮司さんです!って答えたら、もう、その場がシーンって。みんなの顔がさーって感じになっちゃって、空気が変わっちゃったの覚えてます。あん時は意味分かんなかったすね」



まぁ、そりゃそうなるだろうに。良いイメージのない俺を憧れてます!なんて言ったら、それはそれは引かれるだろうな。しかしこの彼、相当世間に疎いのか、アホなのかどちらだ。こんな純粋な目をして断言をしてしまうこの子に、記者は大変だったろうな。



「割と色々問題を起こしてモデル辞めてるからね」



そう濁しつつ言葉にすると、百瀬くんは俺の隣で口を一文字にして少し黙った。うーんと唸りながらまた口を開く。



「そうだったんすよね、俺、全然知らなかったんすよ。でも、俺、そうだとしても蓮司さんへの憧れは揺るがないすね。イケメンには変わりないし! 日本人要素だいぶ少ない見た目っすけど、中身超日本人なとことか大好きだし!」



「あー、うん、ありがとう」



彼はやっぱりちょっと抜けてるらしい。



「あのー、俺ずっと気になってたことあるんすけど、聞いていいっすか?」



そんな抜けてる青年からの質問は少し怖い。なんで体売ってたんすか、とか、乱交好きってまじっすか、とか実直な性格振り回してそんな事を聞かれそうで怖い。もしそうなら、なんて答えようか。いかにも純粋そうな子に、淫乱だからね、なんてぶっ飛んだ答えは言えないだろ。悩みまくりながらも俺は「いいよ」と愛想良く答えると、百瀬くんはTシャツを畳みながら口を開いた。



「なんでモデル続けなかったんすか? 蓮司さんくらいのモデルなら、あれくらいの事件起こしても、海外を拠点にやっていけると思ったんですけど」



「あー、そういうことね」



俺は予想が外れてホッとした。



「確かに海外ブランドの専属がメインだったし、出てた雑誌もほとんどは海外雑誌だったから、俺も一瞬、ニューヨークを拠点に続けようかなって考えたんだけどね。事務所もコネがあったから、多分、スムーズに決まってたと思う。けど、なーんかさ、モデルを続けなくてもいいかなって思えてね。飯の制限だったり、運動だったり、デザイナーの要望に応えて筋肉つけたり、落としたり、ちょっと怪我しただけで大騒ぎでさ。だから俺、モデルとかショービジネスにもともと向いてなかったんだよ。だから、あれをキッカケに身を引く事にした。それが一番良いって思ったから」



もともと向いてなかった。正直にそう思う。何か問題を起こす度に、事務所のやつらにプロ意識ってのを待てと散々言われていたのだから、やっぱり元からあの世界ではやっていけなかったんだと思う。



「そう、だったんすか…、でも向いてないんすかね?」



百瀬君は俺の言葉に複雑な顔をした。



「あーいうコレクションに出れるモデルって、相当限られてるじゃないすか。蓮司さんは持って生まれたものがまずすげぇ完璧だから、勿体無いなって思ってしまうんすけど。でもやっぱ、食事制限とか面倒いし、蹴落とす相手たーくさんいるし、嫌な業界ではありますよね。俺も向いてないのかなー」



「あ、え? いやいや、諦めないで。変に俺に影響されないでね! 俺の場合は、ほら、事件とか起こしちゃう元からの性格がね、あるからさ…」



危ない危ない。若者の夢をへし折るところだった。俺と君は全く違うんだ。



「そーなんすかねー」



百瀬君はそれでも口を尖らせ、納得のいかない顔をする。



「そうそう。そうだよ。それにほら、やっぱ、日本離れるの嫌だったし、ね? 日本食大好きだからさ、ニューヨークを拠点になんて、ちょっと無理があったと言うか…」



「日本食好きなんすか!」



なんだろ。外国人が日本食ダイスキ!って言ってるように捉えられてる気がするんだが。こいつも顔は西洋人寄りなのに、俺ばかり外国人扱いを受けるのは癪だ。



「う、うん。日本食、大好きだよ。納豆とか梅干しとか、すごく好き」



「蓮司さんってやっぱ最高っすよ! こんなバイトの俺にも色々と話してくれて結構気さくだし。なんつーか、俺が蓮司さんのこと憧れてるって言うと、まわりがボロクソ言うんすよ。あんな人間に憧れるな、とか、顔が良けりゃぁ何しても良いのか、的なこと。でもみんな、本当の蓮司さんに会った事ないからそう言ってるだけなんすよねー。こうやって会って話せば、蓮司さんの良さってすーごく分かるのに」



百瀬君は稀に見ぬ純粋な青年でやっぱりどこか抜けている。俺に憧れてる、なんて堂々と周りに言ったら、ちゃんとした大人は反論するだろうよ。だって百瀬君が、俺みたいになりまたい、なんて、それってつまり性に奔放になりたいのかと想像してしまうから。



「百瀬君の周りの人達の方が正しいと思うよ? ほら俺、本当に不純な事が多いからさ。憧れるなんて、あんまり言わない方が君の為かと…」



「こーんなに好きなのに!? 言っちゃダメなんすか!」



おっとこれは困った。この子はこれからも俺を憧れてると周りに言ってしまいそうだなー。俺はつい眉を下げて百瀬君を見る。



「言っても百瀬君のマイナスにしかならないかなーと」



「良いっすよ。それならそれで。だって蓮司さんレベルのモデル、他にいないですもん。俺はモデル蓮司が好きなんです。憧れなんです。プライベートなんか知りませんよ!プライベート云々で憧れるなーなんて、ひどい話っすよ。俺はモデルとして憧れてる人を言ってンのに」



あ、なるほど。新鮮だった。こう面と向かって、モデルとして俺を評価してくれる人がいるって事はなんだか素直に嬉しいものだ。この子って、強いんだな。俺は呆気に取られ、そして途端に心から嬉しくなった。



「そ、そっか。百瀬君が良いなら良いんだ。俺も憧れてるって言われて、嬉しいからさ。そうやって仕事面で判断してくれる人、まわりにはいなかったからすごく、嬉しいよ」



「そっすよ! 俺がね、蓮司さんがどっれほどモデルとしてすげぇか、布教して回りますよ!」



「あ、それはいい。やめてやめて。もう現役じゃないし」



「なんでっすかー!」



「変な子だね、君」



つい笑みが溢れる。きっとこの子は周りがなんと言っても、自分を貫ける力があるんだろうな。売れてほしいなぁ…。


そうして百瀬君と話していると、奥から俺を呼ぶ声が聞こえて俺は百瀬君に別れを告げた。奥の部屋ではヒヨトさんが選んでくれたであろう服を塩田は見事に着こなしていた。背はそれほど高くないが、塩田は背の割に手足が長い。最近は筋トレのおかげで、少し筋肉質な良い体つきになった。そんな塩田が白いシャツに淡いラクダ色のパンツを履いて、太い革のベルトを締める。そうだな、胸は少しはだけさせて、金のアクセサリーなんかしてくれないかなー。いや、塩田の肌の色ならシルバーの方が良いかな? 大人しい感じのアクセサリーを少しつけて、靴も新作らしいスウェード生地のローファーを履いてもらいたい。少し派手さもあって、随分良い男じゃないかな。


そう、恥ずかしそうにする塩田を見ながら思った。


当の本人は洒落た服にまだ抵抗があるのか、かなり気難しい顔をしている。



「似合うじゃん」



「そ、そうかな…? ぼ、僕なんかが着たら、変じゃない、かな?」



「そんな事ねぇよ。ねぇ? ヒヨトさん」



そうヒヨトさんに声を掛けると、ヒトヨさんは顎を撫で、塩田を爪先から頭の先までじっくり見る。



「うんうん、すごく良い。本当に似合ってるよ。足も長いから切ってないし。ジャケットも良い感じだよね。…胸をはだけさせて、アクセサリーを少しつけてー、なんて、お前考えてんだろ?」



ヒヨトさんはにんまりと嫌な笑顔を撒き散らして俺を見る。



「…まぁ、そうですけど」



当たってるので肯定すると、ヒヨトさんはまたケタケタと笑った。



「ふはは、わっかりやすいねー。なぁ、塩田くーん、この男には気を付けてよー。自分好みにどんどん仕上げて食うつもりだから」



ヒヨトさんは塩田の肩に手を回すと、俺を揶揄い、俺は片眉を上げたままヒヨトさんを軽く睨みつける。食うも何もこいつが俺を食ったの。でも、そこに愛情はないから宙ぶらりんにされて飼われてるのは俺。だからそんな色恋云々の話、俺達の間にはないのだときちんと否定してやらないと、塩田が嫌がるだろうと思って俺は口を開く。



「あのねぇ、ヒヨトさん。俺とこいつはそういうんじゃないの。塩田、困ってるじゃないすか、やめて下さい」



「えー。だってここに誰かを連れて来たの初めてじゃない。こうして服選んでやるのも、ね? 世話を焼く蓮司が新鮮すぎてさぁ、ちょっと揶揄いたくもなるじゃないの」



「いやまぁ、そうですけど…」



「前はアサトがよくお前を連れて来てたよなぁ。あいつ、元気?」



「うん、元気そうですよ。少し前にも来て、酒飲んで帰りました。今度、一緒に来てくださいよ。一杯奢るんで」



「お、嬉しい事言いますなぁ。じゃぁ、アサトに連絡して今度行くね」



「いつでもどーぞ」



ヒヨトさんに肩を組まれて目が点な塩田を横に、俺は服を買う。しばらく雑談して、そうしてヒヨトさんに見送られて店を出た。店を出ると百瀬君が窓越しに豪快に手を振っているものだから、つい笑ってしまい、俺もヒラヒラと手を振って車に乗り込んだ。



「あー楽しかったな」



「君は楽しそうだった」



「お前は楽しくなかった?」



「あーいうお店は苦手。それはやっぱり変わらないよ。みんなキラキラしてて、輝いてて、僕の世界じゃない」



「そう言うお前はすっかりあの店に馴染んでるように見えたけど。お前は良い男になったよ、ホント」

 


そう褒めてるやると、塩田はそう、と呟くと少し怪訝な顔をして「ところでさ、」と片眉を上げる。



「さっきの若い子、知り合い?」



若い子とは百瀬君の事だろうか。



「いや、今日初めて会ったけど…」



「その割にやけに親しそうだったね」



俺に対する嫉妬や独占欲はあるくせに、どうしてそこに恋愛感情はないのだろう。



「そうか?」



「やけに楽しそうに話してたじゃない」



「あー。話しの内容、聞こえてた?」



「彼、こーんなに好きなのに!? って言ってたね。告白でもされた?」



そこだけ聞き取るなよと俺はつい笑ってしまった。



「違うよ。俺のファンなんだってさ。憧れてンだって。だから俺なんかに憧れるなって言っただけ。なんか変わった若い子に、最近はよく会うよなぁ」



「若くて容姿の良いファンは信じない方が良いと思う。君のファンを名乗る人間は、何か魂胆があって近付く傾向があるから」



「ストーカーにそれを言われるのか」



クスッと笑うと塩田は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ俺を見た。怖い顔だった。



「あの映像の男みたいな事がまたあるかもしれないだろ。警戒してくれって言ってるの」



「だからそれをストーカーに言われるかね」



「蓮司君、僕は君の嫌がる事はしてないよ」



そうだな。してねぇな。むしろ快い事ばっかして、俺を溺れさせて飼い殺すつもりだ。



「でも、お前が一番タチ悪いよ」



外は少し雨が降りそうだった。雨雲が太陽に被さり、どんよりと辺りは暗くなる。塩田は俺の呟いた言葉に反応しなかった。沈黙のまま車を走らせて家に着く。マンションの地下駐車場に車を停め、荷物を手にして、エレベーターへと乗り込んだ。俺も、塩田も、何も言葉を交わさない。部屋に着いて、さすがに痺れを切らした俺は靴を脱ぎながら、「怒ってんの?」と、塩田の表情を伺うように聞くと塩田はまた何も答えてはくれなかった。その代わり、横に立ち尽くす俺を見上げると、塩田はふっと笑った。塩田の冷たい手が俺の頬に寄せられ、甘く噛み付くように唇が重なった。何か、とても甘いベッコウ飴のようなものが口移しで俺の口内へと放り込まれる。唾液と混ざって、甘すぎて、それを食うように俺は塩田の舌に舌を絡めた。


さすがにもう手だけだの、口だけだのじゃねぇよなと、期待して体はあっという間に熱くなる。何もかも、ほかほかと熱してはショートしそうになる。キスだけで軽くイキそうになるとか俺もどうしたものか。塩田は唇を離すと、やたらと挑発的な目で俺を見た。



「僕が君にとって一番タチが悪くて嬉しいよ」



「…聞こえてたんだ」



「ね、蓮司君、久々だね。うんと楽しませてね」



そんな誘い文句、乗らないわけがなかった。まるで初体験を待ち望む男みたいに緊張と好奇心で心臓が痛くなる。



「もちろん」



玄関先、寝室までも待てないと、俺は塩田のそれを咥え、溢れる唾液と飴とを一緒に転がした。それは飲み込んでも次から次へと溢れてくるようで、飲み込むほどに体が熱くなる。



「ねぇ、その飴、僕に返して。返したら、喉奥を突いてあげる。…好きでしょ? 乱暴にされるの」



心臓をきゅっと掴まれ、期待に呼吸が荒くなった。汗が一筋背中に流れる。俺は舌の上にその砂糖の塊のような飴を乗せ、犬のように舌を出して塩田に笑かける。塩田は俺の髪を鷲掴むと熱を帯びた目で俺を見下ろし、舌ごと食らいつくように飴を奪った。唾液が溢れて熱っぽい吐息を漏らすと、塩田はそっと唇を離し、楽しそうに目を細めてそれを唇に落ち着けた。切先に甘く触れるようにキスを落としてから咥えてやる。上目で塩田の表情を見ると、顔から余裕が少しずつ消えていった。頭を固定されると、喉の奥を何度も何度も突かれる。涙も鼻水も溢れ出て、苦しいはずなのに、体は嫌になるほど正直だった。塩田は「もういい」と離すと、優越感に浸ったような笑みを浮かべ、俺のそれを爪先で軽く弄ぶように触れた。



「イキたい?」



「イキたいね」



塩田はとても楽しそうだ。



「寝室、行こう」



手を引かれて寝室に入る。雪崩れるように乱雑に服を脱ぎ捨て、塩田はベッドの背もたれに寄りかかる。



「僕のを咥えながら、自分でシてみせて。前は触っちゃダメだよ」



塩田はコロンと飴を口の中で転がした。



「んっ……ん、ふ、…」



咥えれば硬くなる。こいつだって気持ち良さそうな顔するくせに、熱くなった手のひらを俺に伸ばして、愛おしそうに髪を撫で頬を撫でるくせに、



「気持ち良さそう」



甘い声で俺に微笑みかけるくせに、



「もうそろそろ解れた? 腰、落として挿れて良いよ。好きに動いて」



こんなにも体の相性が良い事を知っているのに、



「あ、ッ……んん、」



「やっぱ久しぶりだとキツいね」



「……っ」



「下から突かれると、いつもと違うとこに当たって良いよね。でも蓮司君は、ここが、好きだよね。…ふふ、もうイきそうじゃない」



「……塩田、」



「そんな切ない声出さないでよ。僕はまだ君の中にいたいの。あ、けど蓮司君はイって良いよ。何回でもイってみせてよ。ね、今日はたくさんしよう?」



どうしてお前は、俺に恋愛感情を持たないのだろう。どうして俺はこんなやつに熱を上げてしまうのだろう。何もかも、不毛だ。嫌だな。本当の地獄だ。


卑猥な水音を聞きながら腰を抱かれると、頭がおかしくなってしまったのでないかと思うほど、塩田の事でいっぱいだった。短く息を吐いては快楽に縋りつく。塩田の瞳を見下ろせば、また体温が上がった気がした。



「塩、田……、もう、イきそ、」



強すぎる快楽にそう訴えると、塩田は余裕に微笑んだ。



「良いよ」



あっという間に熱を吐き出し、その白濁はポタポタと塩田の腹を汚したが塩田は別に気にしない。脱力していると肩を掴まれてそのまま体勢を変える。熱は吐き出したばかりだと言うのに、快楽の波に直ぐに飲み込まれていく。中を抉られ、執拗に刺激を繰り返され、涙が溢れては声にならない声が漏れていた。それは嬌声のような短い悲鳴で、塩田は満足そうに奥を押し潰した。塩田の熱い手のひらが頬を包み、食むように唇を重ねた。塩田の唾液は飴玉を砕いたせいか、異常なくらい甘く感じた。


何度イかされたかはもう覚えてなかった。頭がふわふわと記憶が曖昧になる。少しだけ飛んでいたらしい。気付いた時、仰向けに寝かされ、涙で霞んだ天井を見ていた。目を擦り、少し上体を起こすと隣に腰を下ろしていた塩田と目が合った。



「…やば、また飛んでた?」



「うん、ちょっとね」



塩田はシャワーを浴びた後らしい。白い厚手のタオルでわしゃわしゃと豪快に髪を乾かしている。



「体の相性が良すぎるって、怖いね、蓮司君」



俺が心底怖いと思っている事、こいつは分かっているのだろうな。分かっていながら、そう、翻弄しては楽しんでいるのだろう。



「依存症になりそ」



呟いて再びベッドの大の字に戻る。



「なれば良いじゃない」



なったらなったで困るくせに。いや、困るのは俺だけか。お前はその好きな子に対しては甘く微笑んで、たくさん愛を与えるのだろう。だから愛のないこいつとのセックスなんかに依存したくない。



「僕はさ、蓮司君、言ったと思うけど、中学の頃は君が好きだった」



急に何を言い出すのだろうかと、俺は塩田を見上げる。



「君の存在は僕に生きる気力を与えたんだよ。君は本当に美しくて、完璧で、僕は君を見る為だけに学校にいた。クラスが一緒になって、君が僕をたかるようになった時、僕はどうしようもなく嬉しかった。君が、僕に、声を掛けてくれたから、こんな事ってあるんだなと神様に感謝した。君が僕に行った行為を、世の中ではイジメだと言うけれど、僕はそれでも君の側にいたいと強く思った。一生たかられたって良い。その代わり、一生、君の側にいられるならって。君を僕のものにしたいとずっと、ずーっと願ってた」



塩田は嬉しそうに語る。その時俺は、中学の時に見たある光景を思い出していた。こいつのあだ名の原因になった出来事だ。こいつが放課後、ひとりで自慰行為にふけっていて、泣きそうな顔で快楽に浸り、白濁の液体を手の中に溢れさせていた時の事を。そうだ、あれは、誰の席だった? そんなに好きなら、どうして何も言わなかった? いや、言えるはずねぇか。



「思い出した? 僕はね君で何度も抜いた。君が見たあの日の放課後も、僕はもちろん君の事を考えていたよ。君は無邪気に写真なんか撮ってさ、それをネタにゆすって、ケラケラケラケラ、楽しそうに笑ってたね。僕はね、嬉しかったよ。君の携帯に僕の写真が保存されてるんだもの。あんなに分かりやすい事をしたのに、僕の想いにも気付かないで、君はずっと僕をゆすって、笑っていたね。良い思い出だよ」



「……お前って、本当に変態なんだな。筋金入りだな」



体を起こして胡座をかくと、塩田はふふっと笑う。



「そうだね。でもね、だから、ショックだったんだよ。高校に入って君に無視されて、あー、君の視界に入らない僕は存在しても意味がないって、君の瞳に映りたい、君に僕を知ってもらいたいって。だから、僕は今こうして君の視界に入っているとね、安心するんだ。僕は生きてるんだって。だから、ね、蓮司君。僕に依存してよ。僕だけに依存して、僕だけを求めてよ、ね?」



塩田はそう目を細めて微笑んだ。笑わせるなと、俺は頭を掻く。俺をこんな風にしておいて、置き去りにするんだろ。俺が好む痛みだけを与え、どんどん俺を溺れさせて、それで満足すんだろ。



「やだね、お前はいつか俺から離れるんだろ」



塩田が何かを言う前に部屋を出て浴室へと向かう。熱いシャワーを浴び、しばらくそこに引きこもっていた。腹が立つ。塩田なんか好きになりたくねぇのに。そうは思ってももう遅い。一度落ちてしまえば、なかなか這い上がれなと分かってる。恋愛感情なんて厄介なだけだな…。


シャワーを浴び終え、軽く体を乾かして腰にタオルを巻いて寝室に戻ると、ベッドは全て綺麗になっていた。シャワーを浴びている間にベッドメイキングしてくれたらしい塩田は、俺を見上げると、嬉しそうに笑っている。


トントンと隣を叩いて、座るように誘導されるがまま、俺は口を歪めながら隣に腰を下ろした。



「蓮司君、」



「何」



「僕が他の人のところへ行くのは嫌?」



「…良い加減にしろよ」



「へぇ、そう。余裕のない蓮司君は初めて見るな。ふふ、そっか、そうなんだね」



こいつ、殴ってやろうかと腹が立った。塩田はにんまりと口角を上げると、俺の肩にチュッと軽くキスを落とした。



「僕に依存してくれてるみたいで良かった」



塩田はそう言うと満足そうに布団に入った。俺は舌打ちを鳴らし、髪を乾かした後で一緒に布団に入るが背中を向けて寝たのに、気付けば俺は、塩田に抱き付くように眠っていた。何なんだよ、俺。朝方、目を覚まして更に不機嫌になるが、俺の方を向いて眠る塩田を見下ろしていると牙を抜かれた気分になり溜息が漏れた。塩田から抱き付くように眠る事だって最近は多々あった。温もりを得てから手放させるのはあまりにも残酷だ。そう塩田の髪をゆるりの撫で、俺は再び枕に頬を埋めた。


カーテンから漏れる陽の光が眩しい昼前、塩田の携帯が棚の上で騒がしく鳴り響いている。バイブ音が鳴り続けているが塩田は深い眠りについているらしく、起きる気配がなかった。起こそうか無視するか迷っていると、電話は切れ、数秒後、再びそのバイブ音が響く。携帯画面は伏せられてはおらず、俺はそっとその携帯の画面を覗いた。『アズサちゃん』と表示されている。へぇ。女性の名前。


女っ気なんて正直ないと思ってた。どういう関係かも知らないけど、たかが女性の名前に俺は動揺しているらしい。きょうだいとか親戚とか、そういうオチはある? それともまず考えられるのって…。そう考えていると電話は切れ、メッセージが表示される。画面にメッセージが表示されるが、途中までしか読む事はできなかった。


『この前はありがとう。今日は3時に表市道駅に待ち…』


合わせ、かな。デートスポットで有名な駅に待ち合わせかと、俺は眉間に皺を寄せた。少し歩けばラブホもゴマンとあるよな。それに、この前って何? こんな風に掻き乱されるのが嫌で、もう失恋なんて経験したくなかったんだけど、そうだな…これは失恋だ。テンプレのような溜息を吐いて、俺は携帯画面から目を逸らした。


「……おはよう」



その時、呑気な声が聞こえた。



「おはよ。電話、ずっと鳴ってたぞ」



俺がそう伝えると塩田は勢い良く起き上がり、携帯を手にしてメッセージを確認する。そのまま急いで寝室を出て行った。寝室のドアは閉められたが、やけに楽しそうな話し声が漏れている。話の内容までは聞こえないが、あの塩田が何度か笑っている。こうなりゃ本当にあのアズサって子は、塩田の想い人なような気がしてならない。しばらくして寝室に戻って来ると、塩田は何事もなかったように携帯を棚に戻して俺の横に寝そべった。



「お前にも楽しそうに話す相手いるんだな」



揶揄うように敢えて言うと塩田はふふっと照れ臭そうに笑った。



「聞こえてた?」



「話の内容は聞こえてないけど。雰囲気、楽しそうだった。名前見えたけど、女の子?」



「そう、アズサちゃん」



「へぇ。賭けは俺が勝ちそうだな」



「あーどうだろ。でも、彼女は1人目にカウントできるかもしれないね」



つまりそれはデートに誘われたって事よな。こいつはそれを承諾した、と。塩田は俺の方を見ると口角を上げる。



「アズサちゃんなんて僕には絶対振り向いてくれないと思ってた。いや、前の僕なら振り向いてくれなかった。でも、今の僕は違う。最近、よく色々と誘ってくれるようになってね。美術館とかイベントとかコンサートとか。まぁだから、彼女は1人目ね」



「なんか成果が出てるな」



「そうだね」



俺が思った以上にこいつはデートらしいデートをしてるのかもしれない。そう思うとやっぱり胸がキリキリと痛み、嫌な事を自覚する。


 

「ま、賭けた事を忘れるなよ」



「うん。ただ、あと2人ともなると、ね? 大変だ」



「頑張れよ」



そう言って俺は逃げるように寝室を後にした。軽くシャワーを浴び、歯を磨き、ぼーっと鏡に映る自分を見ながら何をやってんだろ、なんて呆れ果てている。シャワーを出ると塩田は昼飯を作っていた。オムライスとグリーンサラダと即席オニオンスープ。相変わらず料理の上手い塩田に胃袋を掴まれ、俺はあっという間に平らげ、食器を洗って片す。塩田はシャワーを浴びて出てくると、俺が買った服をテーブルに並べ、「女の子ウケするのはどっちだろう」なんて首を傾げている。敢えてウケない方を選んでやりたかった。なんなら、服装が嫌という理由で嫌わせたかった。


でも、俺にはそんな事も出来ず、塩田に似合う服を選び、塩田には「ありがとう」と感謝をされる。塩田は寝室へ戻ると棚に置いてあるヴェッラの香水をひと振り掛けた。爽やかな良い香りがした。



「蓮司君も今日はヴェッラにしよう。少しなら邪魔にならないでしょ?」



バーテンの仕事は匂いも重要だと言う事を塩田は理解していて、自分の手首に塗った香水をほんの少しだけ俺の首元に塗り込んだ。



「そうだな」



そうして、しばらくして塩田はアズサちゃんの元へと出かけて行った。俺は久しぶりに自分の部屋へと戻ってテレビをつけたまま部屋の掃除をしていた。埃は溜まるもので案外テレビ台やテーブルは汚れていた。久しぶりの仕事まではまだ時間があるなと欠伸をしながら片している。テレビはドラマの再放送が流れていた。このドラマ、タカオが好きだったドラマだな。なんて高校時代にちょっと関係のあった男の事なんかを思い出し、柄にもなくセンチメンタルな気分になっては溜息をもらす。


それもこれも塩田のせい。あれもこれも。何もかも。もうぜーんぶ塩田のせいだろう。今まで俺が何気なく傷つけた人達の怨念が俺を殺しにかかっていて、今まさに仕返ししてるのかな。それが塩田という人間の正体だったりして。だとしたら納得すんのにな。怨念なら祓う方法とか、あるのだろうか。


その時、携帯のバイブが鳴った。表示は非通知であった。塩田がまた公衆電話から掛けてきたろうか? そう思いながら通話ボタンを押して、ソファに腰を下ろした。



「…もしもし」



俺がそう声をかけると無音だった。相手は何も言わない。もう一度もしもし、と相手の返答を待つが相手は何も言わないままだった。イタズラだろうか。それとも間違えて掛けてしまって戸惑ってる? いずれにせよ、訳の分からない電話だから切った。けれどすぐにまた非通知から電話は掛かってきた。



「…あの、もしもし?」



呆れたように低い声で尋ねると、電話の向こうで微かに物音がした。鼻をすするような音と、少し荒い息づかいだけが聞こえてくる。不気味で気味が悪い。



「…あの、切りますよ」



「待ってくれ…」



俺が切ろうとすると男の消えそうな声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。相手の正体が分かると途端に緊張した。手が少しだけ震えている。頭が一瞬にして真っ白になり、これはどういう事かと整理しようと無理に回転させる。けれど思考は自分の焦りや緊張に止まってしまう。だって相手は、過去に捨てたはずの記憶の一部なのだから。



「…聞いてるだけでもいい、私は君に謝りたくて、その、電話を掛けたんだ」



あの日のままだった。声は何も変わってない。10年も経ったというのに何も変わっていない。身体が強張ってしまうほど強烈に残る過去の思い出は、もう思い出したくもなどなかった。なのにその人の声は俺を過去へ引き摺り戻す。この人は俺にとって、恐怖の的でしかない。



「あの映像、荒木から受け取った。見たよ、全て。懐かしかった。君は変わらず美しかった。すごく、美しかった。君にあんな酷い事をしてしまうなんて本当に謝っても謝りきれない。荒木はただ、私と君の関係に嫉妬していただけなんだ。すまないね。君がどんな状態だったのか片桐がなかなか教えてくれないんだが、命には別条ないって聞いてほっとしたよ。本当に酷い怪我をさせてすまなかった。あんなに殴られて、顔を骨折してなきゃいいんだが」



何も聞きたくない。 でも切ることができないのは、なぜだろう。呼吸の感覚が狭くなり、ゆっくり呼吸をしようと自分を落ち着かせる為に俺は握った片手を唇に押しつけた。荒くなる呼吸が伝わらないよう必死で隠す。



「蓮司、私はね、君にできる限りの事をしたいんだ。君にしっかりと謝罪の気持ちが伝わるように、荒木には反省してもらった。だからもう安心してほしい。荒木がいなくなった今、僕もようやく君に連絡することができたんだから。喜んで、くれるよね?」



…待て。今、こいつ、なんて言った。なんて、言った?



「すぐにまた私達は会えるから。何の心配もいらないよ。黒崎会も今はもうないし、これで心置きなく幸せになれる。だから、待っていてね」



強烈な恐怖に吐きそうになる。気分が悪くなり、うっと口を押さえて。この人は何ひとつ変わってなどない。何ひとつ。この人の世界には俺しかいなくて、俺の為なら何でもして一切の裏切りも許さない。俺の友人を殺そうとした時と何も変わってない。


俺はこの人の存在を10代最後の悪夢だったとどこかへ捨てていたのに、なぜ今更過去に囚われなきゃならないんだよ。自分で蒔いた種だから自業自得か。自分で決着つけろという事か。そうなんだろうな。その時が来てしまったと諦めるしかないのだろうな。



「蓮司、じゃぁ、また」



切られた電話を俺はしばらくそのまま握りしめていた。呼吸を整えるのに必死だった。しばらくの間、何も出来ずに体は硬直して動けなかった。どうしよう、どうしよう、どうしよう。途端に発狂しそうになり、胃がひやりとして気持ち悪くなる。俺はトイレへと駆け込み、胃の中の全てを吐き出した。吐き終えてもまだ気分は悪く、手は震えていた。

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