5. 愛か否か、甘い賭け

あまりにも体が重く、全てが痛い。気持ちも悪くて寝ているのも苦しい。その時、ひとりの男が開いたドアからのそのそと気怠そうに入って来る。白衣を着た中年男の髪は軽くパーマがかかっているように見えるが地毛で、それがオシャレに見えるように軽くジェルで固めてある。右の眉に大きな切り傷があり、その顔にはやはり見覚えがあった。この厳つい顔をした医者は、ずっと老け顔でちっとも変わってない。



「目ぇ覚めたか」



「…はい」



「点滴、抜くなよ」



「はい」



点滴はぶらりと左腕に繋がっている。なるべく動かさないようにすると男は続ける。



「幸い、骨折はしていない」



その人は側にパイプ椅子を寄せると腰を下ろした。



「けど左の脇腹はヒビが入ってる。あと脇腹の切り傷は縫った方が後々綺麗だから縫っておいたが、それほど深い傷ではなかった。とはいっても7針は縫ってる。左の眉もぱっくり切ってたから、3針ほど縫っておいた。それから背中、腹部、太腿に切り傷があった。どれも4から7針程度の傷だ」



「はぁ…」



「顔面の腫れはそのうち引く。二週間ほどは安静にしておけ。だいぶ殴られたみたいだが、顔の骨に異常がないのは本当に不幸中の幸いだな」



「…そう、ですね」



俺は顔を顰めながらベッドにまた横になると、男は俺を見下ろして眉間に皺を寄せた。



「それにしても酷い有り様だな」



「ね。…そう思うよ。で、なんで俺はここに連れて来られたんすか。俺ってそんなヤバイ状態だったんすか?」



「命に関わるような事はなかったが、意識はないし、出血してるし、殴られて至る所が色を変えてて、見た目的には相当ヤバイだろうね」



「荒木がここへ?」



「あぁ。荒木がお前を引き摺ってここに来たな。…久しぶりだな、蓮司君」



「お久しぶりです、片桐さん。ちなみに聞きますけど、片桐さんはまだ瀬戸組のお抱えですよね?」



「あぁ、そうだ」



そりゃ、そうか。参ったな。片桐さんは俺の心境を察したようで、眉を下げて俺を見下ろしている。この人にそんな顔をさせるつもりはなくて、むしろこの人には感謝しかないのだが…。



「ここにまた戻ってくるとは思わなかったです」



ぽつりとそう呟くと、そうだなと片桐さんは答えた。



「もう、10年も前か? お前が笹野と関係があったのは」



「そうですね」



ここには笹野さんと関係を持っていた時によく来ていた。逃げようとして笹野さんの怒りを買った時、オーバードーズを起こした時、行為の一環で刺傷した時。だから早くここから出なきゃならないのだ。一刻も早く。じゃなきゃ、笹野さんに俺の居場所が分かってしまう。


でもこの体の重さと痛みはしばらく治りそうにもなかった。うっと吐き気をこらえて口元を手で押さえると、「病むか?」と片桐さんは片眉を上げる。



「尋常じゃないです」



「鎮痛剤だ、飲んどけ」



水と渡された一錠の鎮痛剤を、頼むから早く効いてくれと念じながら水で流し込んだ。



「一応、荒木から伝言を預かってるが、聞くか?」



「伝言…?」



再び横になり、片桐さんの方に体を向けると片桐さんは深い溜息をついて頭を掻いた。言いにくそうではあるが仕方がないと口を開く。



 「昨日は楽しかった。ノーギャラで過激なAVに出てくれて有難う。きっと笹野さんも喜ぶよ。二度と会う事はないと思うけど、あんたが笹野さんと何かあるようならまた会いに行く。だってよ」



「ノーギャラの過激なAV、ね」



「どうする? 警察にはきっちり相談した方が良いんじゃねぇのか」



「そんな事言っていいの? 片桐さん、怒られちゃうよ」



「人としての問題だろ。お前の性癖も性格も俺は知ってるつもりだ。過去に何があったかも、笹野との関係も。ようやくの思いで逃げ出したお前が、過去のせいで暴力を受ける理由にはならない。警察に行くなら、知り合いだって紹介するぞ」



「いや、いいよ。警察、嫌いだから。…それになんだかんだで興奮したし、気持ち良かったし。気にしないでよ、片桐さん」



気持ち良かったなんて嘘を吐いたのはこの人の為だった。片桐さんはヤクザお抱えの医者で、基本的には瀬戸組にデメリットになる事はしないけど、いつだって俺の味方で優しかった。俺を笹野さんから離してくれた命の恩人であるシロと出会えたのもこの人のお陰だった。シロに出会えたからこそ、俺は黒崎会の若頭と知り合いになって笹野さんから逃げる事が出来た。黒崎会は笹野さんのいる瀬戸組の上位組織になるらしく、笹野さんからすると逆らえない厄介な組に俺は逃げ込めた、というわけである。だから俺を逃してくれた片桐さんには、罪悪感を感じてほしくないのだ。



「ふーん、そうかい」



俺がいつものようにラヘラと笑うと、片桐さんはそう低い声で俺を見下ろす。



「顔はこんなだし、至る所を切られて縫われてるけど、気持ち良ければ全て良し」



「お前、…本当に変わんねぇんだな」



変わらないのではなく変われないのだ。俺は心の中でそう呟いた。



「変わんないですよ。この性格のせいでモデルをクビになったんですから。知ってんでしょ?」



「そうだったな。お前、モデルだったんだもんな」



「わりと有名だったんですよ」



「あれからどうしてた? 笹野と切れてから」



「うーん、まぁ、楽しく暮らしてたよ。モデルで売れて、問題起こしてクビになったけど、バーで雇われて店長しながら自由気ままに生きてる」



「白川と黒崎、日本から出たらしいじゃねぇか」



「だいぶ前になるけど、うん、俺の隠れ蓑がなくなっちゃった。だから荒木がね、良い傘がない今、笹野さんはまた俺を欲しがるって脅しを掛けて、このザマよ。俺が使いモノにならなきゃ笹野さんも愛想を尽かすってさ。俺はもう関わりたくないって言ってんのによ。最悪じゃない?」



自分の蒔いた種に自嘲すると、片桐さんは大きな溜息を吐いて「すまねぇな」と苦悶な表情を浮かべた。この人はやっぱり、なんだかんだで優しいんだよな。



「片桐さんは悪くないでしょう。謝らないで。それに言ったでしょ? 荒木とセックス自体は結構気持ち良かったって」



片桐さんは心地悪そうに頭を掻き、また重い溜息を吐く。多分、この人は俺が敢えて気持ち良かったと言っている事に気付いているし、片桐さんに心配かけたくないという俺の気持ちも分かっている。だからこの人は飲み込んで、溜息だけを吐き続けているのだ。



「荒木は、なんつーか…笹野に対して異常な執着心を抱いてんだよ」



少しの沈黙の後、片桐さんはそう切り出した。



「笹野のためなら何だってするつもりだ。お前にここまで暴力を働いたのも笹野を手に入れるためだ。でも、笹野はお前が離れた後もずっとお前の事しか考えてなくて、今でもそれは変わらないんだろ。だから荒木はお前が使い物にならなければ笹野から奪えると思ったんだろうな。お前は何も悪くなねぇよ。逃げて当然だ。俺にできる事はお前の治療くらいで、今も昔もそれだけだ。……けど、お前には真っ当に生きてほしい。蓮司君、どこか遠くへ逃げなさい」



あぁ、この人は本当に優しいな。ツンの鼻先が痛くなり、じわりの瞳が熱くなるのを感じた。でもここで泣くわけにはいかない。泣いたら片桐さんが心配してしまうから、ぐっと堪えて唇を歪めた。ゆっくりと呼吸して、自分を落ち着かせてふっと笑ってみせる。



「うん、逃げる事にする。だから今はひとまず、この全身の痛みをどうにかしなきゃ」



逃げるとは言っても俺はまだ、あの部屋を手放せはしないのだけど。



「鎮痛剤、まだ効かないか?」



「んー、少し楽かも。頭痛は治った」



「そうか」



「あ、ねぇ、治療費は出してくれるんでしょ? あと、荒木にAVの出演料、やっぱり出してって言っておいてよ」



「それだがな、一応金は預かってる。これ、あいつからだ。家のベッド代、だとよ」



冗談で言ったのに、片桐さんは少し厚みのある茶封筒をポンとベッドの上に置く。



「ベッドが使い物にならないだろうって。それと多分、口止め料だ。40万入ってる。治療費はこっちが持つ。気にせず、何かあれば来なさい」



そっか。口止料、ね。暴力振るって、クスリ入れられて、死ぬほどヤりまくって中に出ししておいて、俺は40万の男ってわけだ。モデルだったのになぁー。安い男だなぁ。



「うん、貰っとく」



でも飲み込んだ。もう二度とあいつとは会いたくないし、手切れ金として俺は受け取った。



「あ、そうだ、あとな、」



片桐さんは思い出したように、そう目を見開いた。



「うん、何?」



「お前ん家に何台かカメラがあるって、荒木言ってたぞ。お前、盗撮されてンじゃねぇの?」



俺でも知らないカメラの位置を、あいつはあの短時間で見破ったのか。何、あいつ。怖すぎるんだけど。荒木って本当に何者なの。



「あーそれね、最近知った。なんかストーカーされてて。そいつが仕掛けたやつ」



「はぁ!? 分かってんなら外せよ」



「んー。気が向いたらね」



「………お前って、本当に変態なんだな」



片桐さんはようやく笑った。それは呆れすぎて鼻で笑っただけの小さな笑みにすぎないけれど、それでも笑ってくれた。俺は安堵した。この人には何の責任もないのだから、悪いと、罪悪感を感じてほしくはないから。



「うん、そうね。気持ちの良い事は何でも好きだし、痛いのは特に大好き。それは今も昔も変わらない」



「そうかいそうかい。それなら良かったよ。…じゃぁ、俺は向こうの部屋にいるから、しばらくは休みなさい。点滴もあと1時間くらいかかるだろうから」



そう言って片桐さんは腰を上げた。



「あ、…片桐さん、俺の携帯ってどこにあります?」



「ん? あぁ、そこの棚に、ほら」



片桐さんは窓側にある棚を指差し、俺は「ありがとう」と微笑んで携帯を手に取った。



「それじゃぁ、何かあったら呼んでくれ」



「はーい」



片桐さんが病室を出て、俺は携帯のメッセージを確認した。着信が10件ほど入っていたが、それはどれも戸川からで、塩田からは1件もなかった。なーんだ。塩田のやつ、俺に興味も執着も何もないじゃないの。あの映像見て心配くらいするかと思ったんだけどな。なんだったら、ボコボコにされてる蓮司君見て抜きました、って感想言ってくれても良いのに。それもない。


メッセージも凄まじい勢いで送りつけてきていたのは戸川だけ。内容は、どこにいる、から始まり、返事しろ、死んだのか、許さないぞ、秘密バラすぞ、などなど。しかし、しばらく時間が空いてから『荒木と抜け駆けとは良い度胸してんな、この淫乱クソ野郎』というメッセージと共に俺の写真が添付されていた。俺の首下から下腹部にかけての写真である。俺の腹には俺のか荒木のか、どちらのかも分からない白濁の液体がいやらしくついていた。どうやらこれは荒木が戸川に送ったものらしい。


あいつがこの件を隠すために刑事である戸川に先手を打ったのだろう。きっと戸川が荒木にも連絡をして、荒木は、楽しんでまーす、とでも返したのだろうな。俺を知ってる戸川は、俺がしたくてしたハードセックスだと理解しただろう。



『悪かった。昨日はお前も森本君もすっかり酔い潰れてたから、荒木君に相手してもらったんだ。ちょっと派手にやりすぎて体が痛いよ。特に腰。もう立てない』



そう送信すると、すぐにメッセージを読んだらしく、戸川からは『殺すぞ』の一言だけが送られてくる。怖い怖い、でも、単純だから扱いは楽だ。



『ごめんね。今度はきっちり、この埋め合わせするからさ。許してよ』



それに対して返事はなかった。ということは受け入れたという事らしい。俺は携帯を枕元に置いて、もう一眠りしようと目を瞑った。戸川なんてどうでもいい。塩田から何かメッセージがほしかった。俺のあんな姿見て、抜きまくってたりしないかな。それとも、怒り狂ったり、嫉妬に騒いでいたり、してくれても良いのに。どうなんだろ。そう考え事をしていると、いつの間にかうとうとと瞳を閉じて眠りについていた。


しばらくして目を覚ました時、点滴は外されていた。体の痛みはだいぶ取れて楽になっていた。床に置いてあった安っぽいビニールのスリッパを履きながらカーテンを開けて隣の部屋へと移動する。院内に人は誰もいなかった。隣の診察室に中に入ると、片桐さんがカルテを整理していた。



「片桐さーん」



そう声を掛けると片桐さんは俺に気付いて口角を上げた。



「おう、起きたか。たっぷり寝たな?」



「うん、すっきりした。今何時ですか?」



「3時だ」



「もう、3時か」



「帰るのか」



「そりゃぁね、帰ろうかな。ここ、嫌いですし」



「そうだな。笹野さんも無事に出所したことだしな」



「げっ、まじかよ。帰るわ」



ひとまず引き篭もろう。でも待てよ、荒木が俺の部屋を笹野さんに伝えたら一巻の終わり、か。いや、でも荒木は言わないか。俺と笹野さんを遠ざけたいのだから、知らぬ存ぜぬを突き通すかな。なら、まぁ、大丈夫か。そう不安が顔に出ていたのか、片桐さんは優しく笑って口を開く。



「大丈夫だ。荒木が笹野さんをお前には近付かせないようにしてるから」



「そう? それなら良いけど」



「あー、あと、帰るンなら、さすがにそのパジャマ姿じゃ帰せない。……これ着て行け。あと靴はサンダルしかないから、それは勘弁な」



片桐さんはデスクの上に置いていた黒のスウェットの上下を俺に手渡す。俺はそれを受け取りながら、どうやって運ばれて来たのかと首を傾げた。



「…俺、裸で運ばれてきた?」



「いや、正確には血まみれのシーツを一枚巻いてたな。けどそれは捨てたぞ」



「あ、なるほど。うん、ありがと」



血まみれのシーツに包まれて運ばれて来たとか、事件性しか感じられない見た目だよなぁ。俺はその楽な服を受け取って、そそくさとベッドへ戻った。さて、着替えて帰ろう。ここに笹野さんが来る前に、一刻も早く。その時、枕元に置いていた携帯が丁度メッセージを受信した。ヴーとバイブ音が響いている。俺はベッドの端に腰を下ろしながらそれを確認した。



『今どこ』



それは三文字だけであった。なんだ、そっか、飽きられたわけではないのかと、つい安堵してしまう。なんで安堵なんかしちゃうのかなぁ。こいつに惹かれたとしても行き着く先は地獄だと分かってるはずなんだけど。今は無性に塩田に会いたいと、憐れにも思ってしまった。



『片桐医院っていう町病院にいる。迎えに来てくれる? 俺の着替えと靴を持ってきてほしいんだけど』



友達でも恋人でもファンでもないから行きません、とかまた言いそうよなぁ、と思いながらそう返信するが、意外にも返ってきた内容は『すぐに行く』だった。来てくれるんだ。へぇ、本当に意外。俺は片桐さんからの着替えを持ったまま、また診察室へと入り、片桐さんに服を手渡した。片桐さんは怪訝な顔をして俺を見上げている。



「知り合いが着替えと靴を持って迎えに来てくれるって。これ、ありがと」



「へぇ…お前、ちゃんと頼れる人いたんだな」



「失礼だな、いますよ。友達も頼りにしてる人も! 今から来るやつはさ、塩田っていう同級生なんだけど、すっげー根暗野郎だろうから見たら分かると思う。そいつ来たら、通してあげて下さい」



「そうか。ふふ、お前にそういう友人がいて安心したよ」



友人ねぇ。あいつは俺の友人なのか? いや、きっと違う。でもそうは思っても「失礼しちゃうな」と、片桐さんには心配をかけたくないの笑って誤魔化した。片桐さんは「そうか」と安堵したように頷くと、ぽつりと呟くように付け足した。



「お前はいつも人と壁を作るから」



社交的に振る舞えていたと思っていたから、その言葉に正直面食らった。バレてたかな。



「そ、そう…?」



「お前にもきちんと信用の出来る人間がいると思うと安心したよ。ましてや迎えに来てくれて、着替えまで持って来るんだ。大切にしろよ」



信用の出来る人間と聞かれれば塩田はどうだろう。信用云々の問題以前、あいつは頭のおかしい狂ったストーカーなんだけど。



「うん、分かりました」



でも本心はきっと信用したかった。信用も安心もできる存在が今はほしかった。塩田がそれになってくれれば俺は嬉しいのだが、それはきっと叶わない願いだろう。



「じゃぁ、そういう事なんで。俺、病室にいるね」



「あぁ、分かったよ」



病室に戻り、俺はベッドに腰を下ろした。窓の外は晴天で雲ひとつない美しい日だった。出歩くには最高の日だが、俺の顔はガーゼだらけで外になんか出られない。しばらくは仕事も休まなきゃダメだよなぁ。裏方に回ればどうにか働けるかな。そんな事を延々と考えていたら、「すみませーん」と玄関で声がした。聞きたかった声だった。あいつは俺の家にカメラを仕掛けるくらいのストーカーなのに。殺したい、なんて言ってしまうほどの強烈なストーカーなのに。火のついたタバコを押し付けるほど頭のおかしいやつなのに。そんなあいつの声に、今、俺は安堵してしまう。悔しいけど、それは認めざるを得なかった。片桐さんと塩田の話し声が聞こえた後、ふたり並んでこちらへ歩いてくる足音が廊下に響いた。



「蓮司君、お友達が来たぞ」



片桐さんが言うお友達がなんだか愛らしくて表情を緩めてしまう。口角を上げるとつい頬が痛んですぐに無表情に戻した。案内されながら入ってきた男は相変わらずダサい服を着ていて、髪の毛はボサボサで、サングラスにマスクをしており、何をどうしても顔を隠したいらしい逃亡犯のような出立だった。…本当にそうかもな。それはちょっとシャレになんねぇかな?



「よぉ、塩田。悪いな、来てもらって」



俺はそう言って塩田を見ると、塩田は何も言わず固まってしまい、手には大きな紙袋を下げ、俺を見て愕然としている。相変わらず表情を掴ませてくれないから一苦労だけど、どうやら彼は俺の見た目に相当驚いてるらしい。微動だにしない塩田を見ながら、「…着替え、もらっていい?」 と手を伸ばすと、ようやく塩田は我に返ったように紙袋を俺に突き出した。



「…ど、どうぞ」



「カーテン裏で着替えるから、ちょっと待っててくれ」



「わ、分かった」



こくっと頷いた塩田を見てから、ベッドがあるカーテン裏へ行く。着替える際に裸になったが、数箇所の切り傷は縫われ、それ以外にも打撲痕が無数にあった。噛まれた痕もいたる所にある。通りで体の痛みで目を覚ますわけだ。しかし何よりも痛むのは肋骨である。骨折ではないようだが、少し動かすとそれもうビリビリとズキズキと顔を顰めるほど痛むのだ。



「びっくりしただろ?」



その時、片桐さんが塩田に話しかけているのが聞こえた。



「…え? あ、…はい」



塩田は少し動揺したように返事をしている。



「あの顔じゃぁ、びっくりするよな。イケメンが台無しだ。でもな、心配しなくていいからね。あの腫れが引いたらちゃんと元に戻るから。今はひどい色になって腫れちゃってるけど、幸いなことに骨には異常ないみたいだし、切った部分は縫ってあるけど、抜糸が済めば大丈夫だよ」



「そう、ですか…」



塩田は何を思ってるのかな。自業自得だなぁとほくそ笑んでいたらどうしよう、怖い。それよりも快い顔してたなぁーとか、僕も参加したかったなぁーとかの方が恐ろしいか。



「君の住んでいる場所は蓮司君の場所から近いのかい?」



片桐さんは塩田に何を確認したいのか、突然そう尋ねた。何か余計な事を言わなきゃいいがと思いながら、俺は肋骨に響かないよう、ジョガーパンツを恐る恐る、ゆっくりと履きながら聞き耳を立てている。



「はい、そうですけど…」



あ、やっぱり近い所に住んでるのか。



「だったら、たまーにでいいから、あいつの様子見てもらっていいかな? 顔の事もあるし、あと肋骨にもヒビ入ってるから、安静にしてるかどうか見てほしいんだ。あいつ、すぐ"激しい運動"したがるから」



「片桐さん、それ、まじ余計な御世話です!」



俺はそう声を少しだけ張って、カーテン裏から会話に割って入った。塩田は俺の事をたまーにじゃなくて、常日頃から様子を見てくれてるから心配ないし、それに激しい運動なんてこれじゃぁできないのに。



「そうか? お前の事だから、折れていようがいまいが好き放題するだろ」



「さすがにできませんよ。かんなり痛いんですから。顔も肋骨も。動こうものならズキズキと突き刺さるような痛みなんすから。あー痛い痛い」



痛がってみせると片桐さんはふふっと笑う。



「お前は大人しく安静にしてくれりゃぁ良いんだ。動かず、安静にだぞ。最低2週間はな」



「はいはい」



俺はサンダルを履いてカーテン裏から片桐さんと塩田のところへと戻ると、塩田は少しおどついている様子だった。サングラス越しでもそれが見て取れる。



「あ、あの、僕で良ければ、蓮司君の様子見ますので、安心して下さい」



それでも必死に言葉を絞り出して、そう片桐さんに言った。驚いた。それひ、それがとてつもなく嬉しかった。塩田が俺の世話を焼くと片桐さんに面と向かって言ってくれた事が、こうも弱った体と心に響くとは。誰かに面倒を見られるのはアサトさん以来かな。でも塩田のそれはアサトさんとは違うのかなぁ。だって溺れそうな快楽も付いてくるのだろうから。なんて、少し期待しちゃうよな。



「うん、宜しくね」



「は、はい」



片桐さんの顔が優しくなったのを見ると俺まで安心してしまう。この人は俺の事を本当に心配していた。昔を知っている分、きっとその心配は大きいのだろう。



「さ、行こ。ここに長居はできないから」



俺はそう塩田に言うと、塩田はハッとしたように片桐さんを見上げた。



「あの蓮司君、肋骨にヒビ入ってるんですよね? だとしたらコルセット必要ですよね」



そう塩田は不安そうに口を開き、片桐さんは「おう、そうだそうだ」と驚いた顔をして、コルセットを隣の部屋から持って来た。



「よく気が付いたね。…蓮司君、これ着けて生活するように。咳とかくしゃみしただけで折れる可能性あるから気をつけろよ。あとはよく効く鎮痛剤を処方しておいたから、それ飲んで寝てくれれば大丈夫」



コルセット着けて生活はダルいなと正直思ったが、完治させなければ本当に何もできないだから、文句を言ってる場合ではない。



「はーい、ありがとうございます」



俺が呑気に返事をすると片桐さんは「気をつけて帰れよ」 と大らかに笑って手を振った。



「本当に色々とありがとうございました。もう戻って来ないように努力しまーす」



「おう。遠くへ引っ越すんだぞ」



「ふふ。大袈裟だな。……でも、」



塩田となら、どこかに消えるのも良いかな…。



「考えておくよ」



そうして俺は塩田と共にその病院を後にした。塩田は車で来ていた。よく磨かれたセダンタイプの黒の国産車。ハイブリッドカーで環境に優しい男は、俺にはなーにも優しくはないのだけど、どうやら今だけは心底心配してくれているらしかった。



「…すごく、焦った」



塩田は車に乗って早々、心の底から吐き出すような声で、独り言のようにぽつりとそう言った。俺はその言葉があまり聞き取れなくて、「ん?」と聞き返すと、「焦った」と安堵した表情を見せながら今度はそう、ハッキリと伝える。



「お前も焦るんだな」



揶揄うように笑うと、塩田はエンジンをかけながら淡々と言葉を口にする。



「昨日ね、僕は仕事で家にはいなかった。長いこと家を空けていた。それで君の事、何も知らなくて、帰ってきたら血で濡れたベッドだけが映し出されてた。すぐに録画してた映像を確認した。そしたら知らない若い男が君をベッドに括って、殴って、薬を打って、ナイフで切りつけて、セックスとは呼ばないような暴力を繰り返し、繰り返し…」



そこで塩田は大きく呼吸をすると、眉間に皺を寄せる。



「僕は、怖くて、怖くて…」



「……塩田」



「連絡したら状況が分かるかもしれないと思った」



塩田の声は少し震えている。



「でも、同時にとても恐ろしかった。警察が電話に出て君の死を告げたらどうしようって。でも他に君の状況を知れる手段なんて他にないから、意を決して連絡した。そしたらすぐに返事が来て、生きてると思って、でも生きてる君を見るまでは不安で…」



「安心した?」



「はい、……とても」



早口でつらつらと言われた言葉は本音だろう。本音だとするなら、俺はつい優越感に浸ってしまい頬が緩んでしまう。俺の事を好きではないと否定しておきながら、心配してすっ飛んで来て、こうして安心したと安堵されるとやっぱり少しは期待してしまう。そこには、純粋な愛があるんじゃないのかな、って。今まで生きてきて、マトモに恋愛なんて経験したことないのだから、期待するだけ無駄だと分かってる。でも塩田には期待してしまう。俺に対して愛情があるのかもしれないと。



「そっか。……心配かけて悪かったな」



誰かに本気で愛されたいと、その相手はこいつが良いと思ってしまった。


でも塩田は俺を好きにはならないし、恋愛感情は抱かない。所詮は俺の期待にすぎない。恋人になる事はないのだろうと、初めてまぐわった時に分かっていた事だった。だから俺は参っている。自分の感情がどうしようもない方向に転がってしまい、何も出来ない状況になってしまった事に対して苦痛で仕方がない。溜息だけが漏れて宙を漂って消えた。俺が参ったように笑うと塩田は「で、肋骨は平気?」と首を傾げる。



「大丈夫。何もしなければ痛くはない。ただ、おかしくても笑えないのが辛いわな」



「確かに」



「もうすでにこの状況がちょっとおかしいからさ、笑いそうになるんだけど、我慢が辛いよ」



「え? この状況が?」



「だって考えてもみろよ。サングラスにマスクした、いかにも怪しい俺のストーカーはさ、俺の体にタバコ押し付けるようなイカれ野郎なのに今はひどく心配してくれてさ、笑っちゃうじゃない」



「僕は本気で心配したんだよ。なのに、そんな事を言うなんて」



「ふふ、悪い悪い」



不満そうに顔を顰めている塩田を、俺は呼吸を整えてシートに寄りかかり、頬肘つきながら見上げた。



「なぁ良い加減、そのサングラスとマスク、外したら? 暑くないの?」



俺の提案に塩田は案の定、「暑いけど、嫌だ」と断固拒否する。



「そんなに俺に顔を見られたくない?」



「はい」



「俺はね、お前の顔に傷があったとしても、ファントムみたいにぐちゃくちゃだとしても、お前の顔が見てみたいけどなー。俺も今じゃこんな顔だし」



「君のは腫れが引けばまた美しい顔だろ。僕は自分の顔が大嫌いなんだ。醜くて嫌い。だから僕は君に顔を見せたく…」



「俺ね、お前の顔、きっと好きよ? どんな顔だろうが好きだと思う」



そう本心を伝えると塩田は黙ってしまった。眉間に深い溝を作り、何やら考え込んでいる。顔を見た事もないのに、とか、そんな上辺だけの言葉いらない、とか逆上させてしまうかなと思った。でも、違ったらしい。塩田は絞り出すように口を開いた。



「い、…い、家に向かってるけど、良いよね?」



塩田の耳は少し赤い。声も動揺している。口を開いたかと思ったら話を変えられる。それって照れてる証拠に見えるんだけどな。自信を持てば良いのに。自信をつけてくれりゃぁ、俺にもその赤くなった顔、見せてくれるのかな。それなら、その背中、ちょっと押してやろうか。



「あのさ、家じゃなくて、ローディンっていう店に行ってほしい。新しい服、見たいんだ」



「え、服買うの? その状態で?」



「そう、服買うの。南赤山のはずれにある店だから。思い立ったら即行動。はい、そこを右にお願いね」



「分かったけど、あまりウロウロするのはお勧めできないな」



「なんで? 目立つから?」



「目立つし、なにより安静にしててほしい」



すげぇ心配してんだな。ふっと笑ってしまった。



「うん。じゃぁ、ローディン終わったら、直帰しよう」



「分かった」



少しの沈黙の後、塩田は信号で停車しながらふと俺の方を見た。



「あの、さ、蓮司君。…僕はね、君みたいなルックスに生まれたいと何度も思ったよ」



「…そりゃぁ、どうも」



急に褒めて何を求めているのだろう。



「君は僕の理想なんだ。その顔もその体も、どこを切り取っても完璧で本当に美しい」



笹野さんも同じような事を言っていたのに、こうも受け取る感情が違うなんて思いもしなかった。色んな人に言われ慣れた褒め言葉だというのに、塩田に面と向かって言われると、頬が途端に熱くなる。ガーゼで隠れていて良かったと今だけは殴られた事に感謝した。



「この世のものとは思えない美しさを君は持っていて素直に羨ましい」



「塩田はさ、自分に自信が無さすぎるんじゃないの。良い服を着て、洒落た髪にセットして、ジム通って鍛えて、身だしなみに気を使えば自分に自信が持てると思うけど。なぁ、俺が手助けしてやろうか?」



「え、…え?」



そのタイミングで信号が変わり、塩田はゆっくり発進させながら、俺の顔を見て、前を向き、また俺を見る。



「おい、危ないから前見て運転しろよ」



「ご、ごめん。だって、蓮司君が僕の為に、なんか、その色々と考えてくれてて…」



「嬉しいか」



「う、うん……。そりゃぁ、もう。蓮司君が僕の事を考えてたってだけで嬉しいけど」



お前が俺とまぐわって、ピアスを開けて、僕とだけしましょう、なんて甘ったるい言葉を吐いた日から俺はお前の事ばかり考えてるのに、メッセージを送ろうが話しかけようが、こいつの返答は素っ気なくて、俺を誘う事すらしないのだから、頭は余計に塩田の事でいっぱいだった。という事をこいつは知らない。知ったところでどうせ俺の立場は変わらないだろうから、言ってなんかやらない。



「自信を持てば堂々と胸を張って歩けると思うよ。第一、お前がさ、そう負のオーラを纏ってしまうのって俺の責任でもあるだろ?」



俺がこいつをいじめていたから、その責任は俺にもあると俺は考えたが、塩田は別の理由を考えていてらしい。少し口ごもりながら、「確かに君の責任だ…」と肯定する。



「君みたいな完璧な容姿の人間が近くにいれば卑屈になるなと言う方が無理があるよね。自信なんて、微塵もなくなるよ」



あぁ、そっちなのね、と俺はつい笑い出しそうになったの堪ると肋骨が痛くなり、顔を顰めて肋骨を押さえた。その仕草に塩田はギョッとしたように眉間に皺を寄せた。



「だ、大丈夫…? 痛むの?」



「平気、大丈夫。ま、そんな事よりさ、俺の側にいようがどこにいようが、自信があれば卑屈にはならない。お前はきっと良い男になると思うぞ。そうなりゃぁ、モテるんだろうな」



「……だからモテないよ。絶対にモテない」

   


絶対に、なんて言うのなら、ちょっと言ってやりたくなるじゃない。結末は分かりきっているのに、少し、ほんの少し、淡い夢を見たいと思ってしまった。



「じゃぁ賭けをしよう。お前がモテるようになったら、俺の恋人になってよ」



塩田は俺の提案に口を閉じると、みるみるうちに眉間の皺がさらに深くなる。悩んだ挙句、深呼吸をして口を開いた。



「良いよ、分かった。僕がモテるようになったら、僕は蓮司君の恋人になる。その代わり、僕が勝ったら、僕に一生飼われてくれる?」



「飼う?」



「そ。恋人にはならない。ただ、僕は君をずっと好きなように飼う。もちろん、君には僕以外とはさせない。あぁ、でももう、他の男とはしたくてもできないのかな」



恋人にはならい。つまり一生、体だけの関係だと、面と向かって言われたのだ。だとするなら、こいつ自身は好き勝手に生きたいという事だろう。俺を抱き潰すくせに、こいつはいつか他の人と結ばれて、俺から離れていくって事か。



「他の男とできないと分かっていてのその提案は怖いね」



「この条件で良いのなら受けて立つよ」



「よし、俺はお前を良い男にして恋人にしてやろう」



心臓を抉られたように胸がキリキリと痛んだが、俺は冷静なふりをした。



「モテたっていう線引きは? どうすれば僕は勝てる?」



「そうだな。1ヶ月以内に、女の子3人にデートに誘われたら俺の勝ち。逆に、お前は女の子からのお誘いもなく、自分に自信もなく、俺を泣かせる事だけを考えている変態のままなら俺の負け。そうなりゃぁ、俺は一生お前に飼われてやるよ」



「ちょっと待って、女の子3人も!? ぼ、僕だよ? そ、そうか、蓮司君は勝つ気ないんだね。ぼ、ぼ、僕を、揶揄うのもいい加減にしてくれ!」



「揶揄ってなんかねぇよ。真面目だ」



「え、すごい自信だね」



「なんでお前が引いてんだよ」



「だ、だって僕は見た目を変えようが何しようが、きっと何も変わらない。僕はきっとずっと自分に自信がないし、ずっと君の泣き顔を見ていたい。快楽に溺れて、ぐずぐずになっていく君を見れればそれで良い」



「ふーん。ぐずぐすにね。その割に、あれから俺を抱かないんだな」



「そんなに快かった?」



「お前のせいで割と欲求不満になるくらいには快かったね。お前が俺をそうさせたのに、あれから俺に触れようとすらしないだろ」



「うん。そうだね」



「そうだねって……」



「蓮司君、僕には好きな人がいるんだ」



流石に堪えるなと、冷静でいようとしたのに俺はつい顔を顰めた。あまりにも痛い。とてつもない痛みだ。痛ぇのな。なんでそれ、言ってしまうのかな。いや、俺が言わせたようなものか。荒木に散々殴られた後にこの現実か。ちょっと期待した俺が馬鹿だった。これは地獄だと、結末は分かりきってると、分かってはいたんだけど…。



「ふーん。そう。なら、その子と過ごす時間のが重要ってことね。もうヤった? お前みたいなドのつく変態、そうそう満足は出来ないだろうが。それとも俺のセックスは気持ち良くなかった? 悪いけど、そうは見えなかったけど」



「快かったよ。とてもね。でも、言ったろ? 僕は君に対して恋愛感情はない」



「ぶれないなぁ」



「君は熱しやすく冷めやすい。だからアサトという人みたいに自分に振り向かない相手に熱を上げる。君は昔からノンケに恋をしても簡単に手に入れてきたろ。今までは全てが上手くいってたんだろ。手に入らなかったのはアサトさんが初めて、そうだね? 君は好きになったらとことん甘いけれど飽きやすい。ポイっと捨てては次に行く。君を求める人は多いから君は何も思わないのだろうね。君は容姿の良いクズだからね。だから、……僕は勝ちたい。勝って一生、君を飼い殺す」



勘違いすんな。俺はずっと、昔から、手に入れたいと本当に欲しかったものは、一度だって手に入れた事がない。そこにはお前も含まれるんだけどな。本当に手に入れたいものは手に入らず、マトモな恋ってのを経験した事がない。きちんと誰かに愛された事もない。どいつもこいつも、この見た目に釣られただけ。良い見た目のやつと過激なセックスをしたかっただけ。だからアサトさんに対する自分の気持ちが分かった時、しくじったと思った。だから二度と同じ轍を踏まないと誓った。なのに、今、それを繰り返そうとしてる。



「良いよ、もしお前が勝ったら飼い殺しで。でもお前、その好きな人の事は本気なの? 俺のストーカーなのに?」



ふっと鼻で笑うと塩田は正面を見たまま、表情ひとつ変えず答えた。



「僕が君に対して抱く感情と好きな人に対する感情は全く違う。僕なんかに好かれて可哀想なだけかもしれないけど、でも本当に好きで好きで堪らない。もし僕が変われたら、少しは、その人も僕を見てくれると思う。…ほんの少しだろうけど、その人が満足いくような見た目になって、その人の隣にいても恥じない人間になれたら、僕はきちんと、告白をしようと思ってる」



「へぇ……。あの塩田がねぇ」



「そうだよ。ずっと、ずっと、好きだったから」



「ずっと、ね」



車は騒がしい街の中を通る。俺はずっと流れる景色を見ていた。俺が勝ったところで、こいつは手に入らない。恋人になるって言ったって、心はその好きな人にあるのだから。これは負け戦だ。俺に勝ち目なんて最初からないじゃない。


そうしてしばらく車は走り、人の多い通りで停まる。小さな店が建ち並ぶその通りは、デザイナー達が有名になるための登竜門として有名だった。この通りで売れた店は世界に通用する、そう言われていた。その内の一軒は昔から知っていたし愛用していたブランドで、きっと、塩田にはここの服が似合うと思った。だからこいつを連れて来たのだ。こいつを男前にするというのは俺の罪滅ぼしでもあり、負け戦に対する抵抗でもある。



「着いたよ。ローディン、ここでしょう?」



「そ。さーて、手始めに服選びだ」



「手始め?」



「賭け、乗ったんだろ? なら潔く、俺の言う事を聞いて男を磨け」



「そ、それは…」



塩田は何をされるのか、要求されるのかを察知して逃げ腰になるが、もう逃す気はなかった。



「ほーら、塩田、サングラスとマスク外せ。さすがにそんなのしてたら似合うものも似合わなくなる」



「それは絶対なの…?」



「絶対。お前に合う服を選ぶんだから」



「で、でも…」



「でもじゃねぇよ。賭けに乗ったのは誰だ? 好きな人と一緒に歩きたいんだろ? 恥ずかしくない見た目になりてぇんだろ。だったら言う事を聞け。元モデルのこの俺が選んでやるって言ってンだから」



塩田は項垂れると観念したらしく渋々頷いた。



「分かったよ…。じゃ、じゃぁ……蓮司君の好みに任せる」



サングラスとマスクを外すとそこには、見覚えのある顔があった。昔の面影は十分に残っていた。前髪は相変わらず長いが、その目も鼻も口も全てに見覚えがあり、懐かしく思う。気まずそうに、恥ずかしそうに下を向く塩田に俺は手を伸ばし、頬に手を寄せ、顔をまじまじと見る。



「俺の前ではその顔、隠すなよ」  



塩田は濃くて太くて長い立派な一文字眉を持っている。少しだけ目尻が下がっていて黒目が大きい。その黒目も真っ黒ではなく茶色に近い。鼻筋が通っていて、上唇が薄く、下唇が厚い。薄いピンク色の唇である。愛らしい顔だなと思った。



「……き、君に素顔を見せるなんて、とんだ地獄だ」



「ふふ。良いじゃないの。前髪を上げてさ、髪もスッキリさせりゃぁ良いと思うよ。顔の作りは良んだから。俺の見る目は確かよ?」



「そ、そう…」



「そう。そうと決まれば、店、行こ」



「うぅ……。こういう店、入った事がない」



「そう緊張するな。取って食われたりしねぇよ」



そうして俺は塩田を変えるために大量の服を買った。塩田は金のことを気にしたが、これは俺のお詫びと賭けだからと言って撥ね付ける。後日、塩田を変えるために髪形を変えさせた。長くて重い髪を切り、短めのセンターパートにして髪を軽く後ろに流す。ジムも契約させて、強制的に体を動かす機会を作る。少しずつ、見た目も俺好みになっていく塩田を見て、俺は満足であり、不満でもあった。


俺の生活はそれから大きく変わっていた。服を買ったその日から、俺は塩田の部屋、驚いた事に俺の隣の部屋だったのだが、そこに居座った。俺の部屋のベッドは血で汚れて使い物にならないからだ。塩田は新しいマットレスが届いたら帰ってくれと言ったが俺は届いてもな尚、居座り続け、呆れながらも俺の世話をする塩田に心地良さを感じては、どうしようかと頭を掻く。


こいつは自分に自信を待ち、好きな人の隣でも恥じないと感じたら、きっと俺から離れていくだろう。もう会うことも、触れ合うこともないのだから、塩田との賭けをしたこの1ヶ月間だけでも塩田の側にいて、揶揄って、煽って、あわよくば食われたいと下心を出す。それはきっと後々、俺の首を絞める事になるのだろう。けど、どうしようもなかった。



「あのさ、蓮司君。普通、ストーカーの家に居座らないよ」



「まだ俺達ってストーカーと追われる元モデルって関係なの? 俺はお前を受け入れてるし、一発ヤっちまえば、もうストーカーと追われる者じゃなんじゃないの? お前に盗聴されようが盗撮されようが、俺は気にしてない。つまりお前はもう俺のストーカーじゃない」



ベッドの上でケタケタケタと軽く笑ってやると、塩田は目を細めて俺を見ている。



「僕は君のストーカーで良い。だから部屋に戻ってよ。今は怪我人だから強くは言わないけど…」



「えー、怪我が治ってもそれは嫌だなぁ。あ、でも今の俺は怪我人だし、怪我人には優しくしてくれんだろ? 顔面こんなんだし、仕事行けないし、休みとれたし、部屋にひとりで籠るとか嫌だし、うーんと構ってくれないとね?」



「うーんと構ってるだろ」



「優しくしてくれよ?」



「優しくもしてる」



「帰れとか言うようじゃ優しくはない」



「君、本当にずっと居座りそうだから…。家をバラしたのがいけなかった」



「まぁ、いいじゃない。激しい運動は出来ないけど、手でなら抜いてやるよ?」



揶揄うように見上げると塩田は呆れたと言わんばかりだった。



「……もう、本当に君という人は」



なぜか不貞腐れる塩田が愛らしかった。



「ふハードないじめも治るまではお預けだな」



「僕のベッド占領しておいて、本当にもう……」



ふたりで過ごすようになってもうすぐ2週間が経つ。塩田は感情を表に出すようになった。本人も自分の変化を理解し受け入れている。こいつの性格は少し明るくなった気がした。顔を隠す事ももうないのかもしれない。



「だいぶ、良くなってきたね」



「ん?」



「顔。腫れが引いた気がする」



「んー、そうだな。もうすぐ2週間経つもんな」



ベッドの上で塩田は俺の隣に腰を下ろし、俺の伸びた前髪を指に絡めながら俺の顔を覗いてる。その表情は穏やかで温厚だった。自分の顔が嫌だと散々嘆いていた塩田は、今やそんな温かな表情ができるほど落ち着いている。


俺は、こいつの目が好きだ。愛らしい甘い目をしている。その瞳に軽く唇を寄せたら、どんな反応を見せてくれるのだろうと俺は首を少し傾けた。でも、行動には移さない。だって移したところで、こいつには何も響かないのだから。だから、ただ、どうなるのだろうと想像するだけだった。



「それにしても蓮司くんの完璧な顔に傷をつけるなんて、どうかしてるよ」



そう想像ばかりしている俺に塩田は怒りを見せた。



「この顔が完璧ねぇ」



「本当に腹が立つ。傷が残ったらどうするつもりなんだよ」



「それはそれで男らしいんじゃないの? まぁ、お前が書いた本のようにナイフで頬を切られちゃ話は変わってくるけど」



塩田は唇を歪めると少し考え、沈黙を置くと「そっか…」と何かに納得したようだった。



「綺麗な顔だからこそ壊す必要があったんだろうな。あの彼、ひどく、君にイラついていたよね」



「とんだ迷惑よ」



「でも自業自得だよ、蓮司君。過去の行いが今に繋がるんだから」



ひくっと眉が動く。まるで俺と笹野さんとの関係を知っているみたいじゃないか。あーでも、荒木と俺の会話で、ある程度、予想はつくか…。笹野という名前も、俺が逃げ出した事も、逃げ場所となったシロやその恋人が遠くへ行ってしまい、今はもういないという事も。



「ま、間違いないわな。蒔いた種が芽を出しただけ、だからね」



「蒔いた種に殺される事もあるんだよ? 君は危機感が本当にないから心配だ。僕は忠告したのに。それでも、誰彼構わず家に上げるから、こういう事になってしまうんだ……。でも、それも全て含めて蓮司君なんだよね」



「そうね。分かってるじゃない」



肋骨に響かないように小さく笑うと、塩田は痛々しい色に変化している頬に手を寄せた。あの塩田がこんな甘い行動をとってしまうだなんて、随分と変わったらしい。



「だから言ったのに。僕とだけしましょうって。約束を破るからこうなるんだ」



「生憎、俺はヤりたい時にヤりたいのよ。お前が毎日俺を満足させてくれてたなら、俺だって荒木を家に上げてなかったろうけど、お前は俺に素っ気ないからなぁ。俺は俺をうんと甘やかしてくれる人が好きだから」



わざとらしく満面の笑みを浮かべてやった。塩田は呆れたように頭を掻くと過激な事を言い出した。



「僕以外とするなら、僕は君を殺すかもしれない。…そう言っても?」



過激なのに甘すぎて笑ってしまう。こいつはどうせ、俺を殺せやしない。



「お前が俺を満足させられないなら、そうだなぁ…、殺すと言われても他の男に走るかな」



「だよね。君はそういう人だものね。でもね、蓮司君。我慢をすればもっと気持ちが良いよ? さんざんお預けを食らった後の快楽を、君は想像できる?」



塩田は首を傾げると俺を見つめたまま、俺の下腹部をトンと人差し指と中指で叩いた。熱くて甘い瞳が俺を捉えたまま、塩田は続ける。



「君は言ったよね? 僕とまぐわうと、ここが、僕でいっぱいになるって。想像して。我慢をすればここが、ずっと疼いて止まらなくて、もっともっと、僕のでいっぱいになる。クスリなしなのに、ずっと気持ちが良いんだ。…ね? だから少しは我慢してよ」



顔が熱くなる。耳も熱くなる。そんな事を言われたら期待しちまうだろうが…。



「………お前って、酷な事を言うよなぁ。我慢に慣れた体に更に我慢をしろというのならまだしも、お前に好き放題抱かれて、快楽を覚え込まされた体に我慢しろ、だなんてただの地獄だ」



「分かってるよ。それでも我慢は覚えないと。ね?」



「ね? ってお前なぁ…」



「ねぇ、蓮司君、今すぐにでもシたい?」



塩田は視線を下げ、俺のを見ると楽しそうに優しく口角を上げた。荒木とヤってから抜いてないからね、そりゃぁ、欲求不満だった。それにそんなとこをお前が触るから。俺は眉間に軽く皺を寄せて「そりゃぁね」と肯定する。



「君を殴った彼は満足させてくれなかった?」



本当、癪だ。荒木はお前なんかよりうんとイケメンで、うんとスマートだった。でもあいつの触れ方を俺は怖いと思った。あいつの背後に思い出したくもない笹野さんの影がちらつくからか、それとも荒木の殺意が感じるからか。いや、両方、かな。だから満足するような気持ち良さなんてなかった。ただ、クスリで体は麻痺してイキまくっただけだった。



「気持ち良かったよ。たくさんイかせてくれたし、たくさん酷い事もしてくれた。満足したよ」



ふっと笑うと塩田は目を細め、にやりと怪しく笑う。



「嘘だよね、蓮司君。僕には嘘、つけないよ。僕は君をずっと見てきたんだもの。君が本当に気持ち良かったか、満足したか、僕には分かる。もう僕以外とは出来ないものね、降参、だよね?」



「……ウゼェな、お前。ついでにキモいよ」



舌打ちをして睨み付けてやると、塩田は口を尖らせた。



「そ、そんなストレートに。…さすがに傷付くな」



心を読まれて俺はすっかり動揺してた。強がっても塩田には効かないという事が、ここまで腹が立ち、癪だと思ってしまうとは。もう敵わないのだと白旗を振っている事に塩田は気付いてないのだろう。いや、気付かなくて良い。だって惚れたら負けなんだ。いつもそう。いつだって、そう。そう思ってる時点で負けだな、と溜息が漏れた。俺は俯く塩田の顎に指を引っ掛けて自分の方を向かせる。悔しいけど、負けは負けか。



「降参。……降参だよ」



「……え」



塩田の眉間に皺が寄る。



「あの日だって、俺は良いって言った。お前としかしないって、だからピアスだって開けさせた。なのにお前は他に好きな人がいると言い出す。俺はね、ずっと性に奔放で、自由で、快楽に流されて生きてきたのよ。その代償がコレ。こうなったとしても、俺の生き方は変わらない。それが俺だから。…ね? 塩田。俺はそういう男。お前が構ってくれないなら他で満たしたい。そうじゃなきゃ、泥沼にハマって出られなくなる。それが怖いんだよ。なのに……」



「なのに?」



俺は一呼吸つき、頭を掻く。



「そうだと理解してるのに、俺は…お前の好きなようにしてほしいと、そう、思ってしまう」



塩田はその言葉を聞いて、深く息を吸って吐いた。そして落ち着いた声で話す。



「僕は君を好きなようにするよ。だって、君がそう望むから」



「良いよ。でも賭け事はまた別だろ? 俺が勝てば、お前は俺の恋人よ」



「そう、だね。ふふ、…そうだった」



塩田はそう口角を上げると俺の目を見て、その熱い視線を唇に落とすと、もう一度、俺の目を見つめる。



「早く、君を泣かせたい。僕が、この手で、君を」



俺はごくりと生唾を飲み込む。そんな素直に言葉を吐かれるとは思わなかったから。俺の頬はみるみるうちに紅潮しているのだろうが、青紫色の頬から、それは分からないだろう。あ、耳で、分かってしまうだろうか。いや、どちらにせよ心臓に手を当てられたら一発で分かるな。



「治ったらお前の好きなようにして良いよ。酷くして、荒木がつけた傷も全て上書きしてくれ」



塩田の甘い瞳を見つめながらそう囁くように伝え、何かを言おうとした唇に舌を寄せて、そのまま口内で交わった。息が上がりそうになるのを必死に堪える。ピキピキとほんの少しだけ肋骨が痛んだが、どうでも良かった。唇を離すと塩田は名残惜しそうに首を傾け、溜息を漏らした。



「君の傷を見る度に、あの映像の男を思い出す。腑が煮えくり返るとはこの事。殺意が生まれた。だって蓮司君は、全部、全部、僕のものだから。それを傷つけられたんだ。…僕はもう、君を外へは出したくない」



そう軽く抱き締められる。肋骨に配慮してくれているのだろう、あまり力は込められていないが、それでも俺にとっては力強く抱き締められている気がして、キュッと胸が苦しくなった。全部、僕のもの。外へは出したくない。塩田の執着は心地良い。でも、それは本当に残酷だ。甘いキスも、甘い言葉も、全てが甘すぎるくらいなのにそこに恋愛感情は微塵もない。こいつは俺を雁字搦めにして、自分はひとり、好きな人の元への行く準備をしている。これは因果応報なのだろう。



「……蓮司君も僕の触って」



塩田の熱い手が、硬くなったそこに触れる。塩田のそれはパジャマの上からでも形が分かるほど熱を帯びていた。互いに触れながら熱い息を吐き、互いに熱い眼差しで見つめている。けれど俺だけが、そこに色恋を持ち込んでしまう。厄介なのだ。とても嫌になるほど厄介だ。



「はぁ、…塩田、……ッ」



「気持ち良い? 良いよ、イって。僕もイキそ」



淫らで不純な欲を呆気なく出しては後悔する。こいつの側は地獄。落ちる所まで落ちてしまえばもう這い上がれない。



「蓮司君、汚れちゃった。綺麗に、してくれるよね?」



けれど後悔すると分かっていても俺は落ちてしまうのだろうな。



「ん、……ッ、ふ…」



「蓮司君、美味しい? ねぇ、怪我が完治したら、もっとたくさん気持ち良い事をしようね」



「…っ、ん、…」



汚れたその手に煽るように舌を這わせる。塩田に見下ろされると、また下腹部に熱を感じて血液が下へ下へと下がっていく。塩田はふっと甘く相好を崩すと俺の口から指を引き抜き、空いた手で肩を押す。同時に濡れた指が中に滑り込み、濡れた卑猥な音を立てている。



「……は、っ」



あまりにも熱くて、苦しい。キスを強請りそうになって唇を噛み締めた。塩田は俺を見下ろしながら、指を増やし、音をわざとらしく大きく響かせ、羞恥心を煽っては快楽の波を立てる。あっという間に限界だった。



「肋骨、痛くない? イケる?」



余裕がないからコクコクと頷くと、塩田はふっと笑いながら内側を抉るように刺激した。トンッと軽く刺激を与えられただけだったが、我慢ができない程の快楽に体は包まれ、甘く声を漏らしながら熱を吐き出した。肩で息をする俺を見ながら、塩田は徐に自分の硬くなったそれを出して困ったように笑った。



「君が部屋にいると、こうなるから嫌なんだ…」



切れた口端は痛いだろう。頬も痛いだろう。そうは思ってもごくりと喉が鳴る。付け根に舌を寄せ、吸い上げ、先端を弄ぶと塩田の頬が赤くなり、徐々に苦悶な表情に変わっていく。優越感に浸りながら喉奥で咥えると、塩田は俺の髪に指を絡ませて熱い息を吐いた。



「早く完治してね。完治したら最後までしようね」



そう可愛い事を呟き、優しく髪を撫でている。その手に力が籠り、下腹部に力が入ったのが分かった。



「蓮司君、僕…、もう、イきそう」



塩田の甘い瞳を上目で見ると目がかち合い、その瞬間、喉奥を抉られながら熱が吐き出される。ごくんと飲み込むと塩田は少し余韻に浸り、満足そうに笑って頬に手を寄せた。チュッと軽く音を立てて唇を重ねた塩田が愛おしくて堪らなかった。



「快かった?」



そう首を傾げると、塩田は困ったように笑う。



「僕以外の誰にも触れさせたくない」



そんな事を言うなよ。…お前はどうせ、俺で遊びたいだけなんだろ。



「好きだよ、塩田」



感情が零れた。言葉となって溢れた。もう二度と、俺は地獄から這い上がる事はできない。

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