3. 痛みと快楽と
居酒屋では飲んでばかりいたから少しだけ腹が減る。あーコンビニに寄れば良かったなと、玄関で靴を脱ぎながら思ったがすでに遅い。もう靴を脱いでしまったし、近くのコンビニまで歩くのはダルすぎる。冷蔵庫の中、何かあったかな。茹で卵あった気がするなぁ。いやーでもなぁ、なんかもうちっと飯らしいもん食いたいな。ふらふらと若干の千鳥足の俺は、ようやくの思いで靴を脱ぎ、あーダルい、と吐き捨てるように独り言を漏らしながら誰もいないリビングルームへと入った。そういえば、塩田は起きているだろうか? 部屋の電気をつけてある事に気が付く。
「……ん?」
テーブルには見覚えのない丼茶碗があった。高そうな焼き物のその茶碗は、灰色のザラザラとした素材と光沢のある滑らかな水色の陶器とで出来ていた。その手前には木の匙がある。一体これは何だろうか。丼茶碗はラップがかけられ、その中身は白胡麻の混ざった飯の上に鮭のほぐした身が乗せられ、さらにその上には三つ葉が飾られていた。どうやらこれはお茶漬けらしい。俺ではない、誰かがコレをやったのだろう。丼が温かい事から、その誰かが直前までいた事は確定だった。その時丁度メッセージの受信音が鳴り、それを確認する。送り主はこれを作ったであろう男だった。
『鍋の中に出汁がある。沸騰する前に火を止めて、飯にかけて食べるのがいい。冷蔵庫の中に二日酔いに効くドリンクがある』
待て待て待て、塩田、お前は何なんだ。
「ちょっと待って、どういう事。お前が作ったのか? え、毒入り?」
二股コンセントに向かって俺は語りかけると、『毒なし。安心して』と返ってくる。俺にどうすれと言うのよ。確かに腹は減ってる。目の前にすごく美味そうな出汁茶漬けがある。あと、冷蔵庫に二日酔いに効くらしいドリンクも。けれど混乱する。
「……食っても死なない?」
『死なない。君の体の一部になるだけ。それと、お出汁にはこだわりがある。栄養価の高い鮪節をベースに、昆布と干し椎茸も使ってる。あと、その白胡麻は高級品なので是非食べて欲しい。市販のとは違う。それから…』
いかにこの料理に熱を入れているのか長文で返ってきて、なるほどと理解した。俺の返事にはいつも一言二言のこいつが、飯となると急に語り出す。うん、多分毒じゃない。俺は最後まで読まず、黙ったまま鍋の中の透き通った黄金色の出汁を火にかける。出汁が温まるまでの間、冷蔵庫の中の二日酔いに効くらしいドリンクを飲んで待っている。くつくつと小さな気泡が現れて火を止める。それをお椀の中へ。その出汁を注ぐと、出汁のとても良い香りが漂った。同時に腹も鳴る。んー、美味そ。
なぜ、夜食を用意してくれたのかは分からないが、勝手に人の部屋に入っておもてなしをしてくる、不気味なストーカーはちょっと料理自慢らしい。椅子に腰を下ろし、手を合わせる。木の匙で一口分を掬い、頬張る。その旨さについ笑みがこぼれた。二口、三口と次から次へと口へ運んでしまう。
「おい、塩田ぁー、聞こえてんだろー? これ、すごく美味い。まじで、美味い」
止まらない匙を口に運びつつ、何故、こいつはこんな事をしているのかと不思議で仕方がない。
『良かった。本当は急須も欲しかった。品のある大人しい色合いで、薄くて、温もりのある秋水山焼きの急須が欲しかった。君には似合うと思った。でも良い急須がなくて諦めた。それがあればより一層美味しく感じる事ができたと思う』
その言葉につい高級老舗旅館の夜食かなと首を傾げた。
「そ、そんな事まで考えてくれてたのね。ありがとう。丁度腹減ってたからさ、もう、泣きそうなくらい感動した。お前の意図は全く分からないけどな」
恋人でもない男に美味い飯を作られ、俺はがっつりと胃袋を掴まれる。あっという間に平らげると、食べ終わりを見計らったように塩田から返事が返ってきた。
『君はいつもコンビニの飯かカップ麺だよね。せっかくの容姿もそんなものばかり食べていると劣化するよ』
「劣化ねぇ…」
良い歳の取り方ってのをしたいけどなかなか難しい。どうしたって飯を作るのは二の次になるのだから、劣化したと周りが判断しても仕方がない。筋トレはちゃんとしてるつもりだけど老いには敵わないよなぁと、使った食器を洗いながら考える。とはいえ30、まだ30! いや、この考えが甘い? 最近、皺ができたような気がするし。うーんと唸りながら食器を棚に仕舞っていると、ヴーと携帯のバイブ音が響いた。メッセージを確認して、俺は更に衝撃を受ける。
『そんなことより風呂も入る? お湯は張っておいた』
本当に、こいつは、なんなんだ。こいつは何のためにこんな事をしてんだ。あまりにも予期せぬ出来事が立て続けに起こって混乱してしまう。何を聞けば良いのか、何を言えばいいのか分からない。俺のことを嫌いだと言っておきながら尽くしてくれるのは死ぬ前の最後の晩餐、のような事なのだろうか。つまり殺す前は素敵な時間を送ってもらおうと、そういう事だろうか。それなら理解はできる。納得はできないけど。
「…お前ってさぁ、俺のことやっぱり殺したいんだろ」
『何故?』
「何故って、こんな立派な食器使って、夜食を作って、風呂入れてって、好きな相手にする事じゃないなら、もう、殺す前触れ的なことかと思ってさ。何を望んでんのか本当によく分かんねぇな、と」
『分からなくて良い。僕は自分のやりたい事をしてるだけ。君が殺せと望むのなら僕は殺してあげる。でもまだだと言うのならまだ殺さないから安心して』
塩田のことは心底理解できない。どういう心境で俺と接しているのか分からない。過去に、自分をいじめていた男に対しての復讐かと思いきや、恨みはないようで、ただ俺に対する執着ってのはかなりある。俺を殺したいと願っているが、それは俺が望むから、らしい。望むわけがないのだが、こいつは殺すのも俺に痛みを与えるのも全て俺の為だと言う。分からないなと悩んでも埒があかない。
ひとまず風呂でも入ろうと風呂場へ行って、さらに驚いた。風呂は見事に掃除され、カビというカビはとことん消され、びっくりするほど綺麗になっている。もともとそんなに汚してはいないつもりだったが、この状態を見ると汚かったんだなと気付かされる。湯船は濁った緑とも茶色ともつかない色で、匂いは独特な薬草の香りがした。きっと何か入れたのだろう。リビングに戻り、「風呂に何入れたんだ?」と尋ねると『よもぎ』の三文字だけが返ってくる。
「よもぎ風呂…? なんでまた?」
『疲労回復。今日で6連勤、明日で7連勤目でしょう? 疲労も溜まってる頃かと思ったので』
こいつのやってることは、どうやら何もかもが俺のため。好きでもない相手に何故そこまで尽くせるのだろう。こいつは俺をどうしたいのだろう。人肌が恋しい時に、特に成就しない恋に参っている時に、少しの優しさ、つまり飯とか風呂とかの気遣いと、ハードなセックスがあれば今の俺ならコロッと惚れてしまうだろうな。うーん。これは参ったな。俺は二股コンセントの前で仁王立ちして腕を組みながらこいつの狙いが何かを考える。けれど考えれば考えるほど頭が痛くなる。やめだ、やめ。だから考える事を諦めてよもぎ風呂に入った。体を洗い、髪を洗い、顔を洗い、風呂に肩まで浸かる。頭の上にタオルを乗せて、しばらく湯に浸かっているとつい、うとうとと船を漕いでしまっていた。きっと酒のせいだろう。良い湯加減の風呂に疲れがどっと湯に溶け出し、眠気に支配される。もはやシャットダウンしろと警告しているように、目蓋が異常に重くて開けていられなかった。そして俺は眠ってしまったらしい。ピンポーン、ピンポーン、というチャイム音で叩き起こされる。
こんな時間に鳴らす常識知らずは誰だ。眠いし、玄関まで行くのはとても面倒。居留守使いたいけど誰かな。一応、モニターくらい確認した方が良いよな…。
しかし、しばらく湯に浸かっていたせいで意識が遠のくような、体が言うことを聞かないような妙な感覚がした。心臓が急にドクドクと速くなり、体が鉛のように重く、ひどい眩暈がした。体を起こせない。これはどうやら危ない状態なのかもしれない。このまま死んでしまうのだろうか。
元モデル、蓮司が自宅で変死、自殺か。なんてネットニュースをちょっとだけ騒がせそうだなと思った。あの蓮司がやっぱりロクな死に方しなかった、とか、殺されたらしい!、とか死んだら少しは騒がれそう。そんでどいつもこいつも、ざまぁねぇな、と笑うのかもしれない。そんな事を考えていた。人間の最期なんて過去が走馬灯のように駆け巡ったりはしないものらしい。動かない体、重たい瞼、助けを呼べない口、嫌な汗、耳には遠くでピンポーンと忙しなく鳴るチャイムの音が聞こえているだけ。何度も何度もしつこいくらいに鳴っている。
やばいな。こんなとこで死にたくねぇな。起き上がらないと。どうにかしてでも、起き上がらないと。必死になった。最後の力を振り絞るように浴槽から這い上がる。一歩、体を外へ。湯船からはどうにか抜け出せたが、本当にそれが最後の力だった。体はそのまま地面へと叩きつけられて意識が遠くなり、誰かが近くに走って来たような感じがしたが、その時、すでに意識を手放していた。
再び意識が戻した時、遠くで誰かが鼻歌を歌っていた。ゆったりとした何の歌かは分からない、子守唄のような優しい歌だった。昔、母がそうやって俺を寝かし付けていたのを思い出す。懐かしい感覚がした。涼しい柔らかな風が俺に吹いていて、小さい頃に過ごした別荘の夏を思い出していた。母は子守唄を歌いながら、団扇で俺を涼ませてくれたっけ。なんだろこれ、心地の良い夢なのかな? だったらまだ、覚めたくないや。だってすごく気持ちが良い。そう思いながらも自然と意識を取り戻し、これが夢ではないのだと理解した。理解したものの現実離れした妖怪が目の前にいる。あれ、まだ夢の中? いや、現実か。奇妙な事に白い狐の面を被った何かが、俺を団扇で扇ぎ、鼻歌を歌っているのだ。夢ではないはずなのだが、これは一体何だ。
俺はじっとその白狐を眺めた。白狐は薄い水色に英字がずらーっと並べられた驚くほどダサいTシャツと、毛玉だらけのくったくたの灰色のパジャマを履いている。クソダサ白狐は俺が目を覚ました事に気付いておらず、ずっと優しい風を俺に送っている。俺は白狐を凝視し、白狐は風を送り続けること1分ほど、ようやく俺の意識が戻っていることに気が付いた。
白狐の目が俺とばちりと合った。合ってからの行動は凄まじく早かった。白狐は何もなかったかのようにすっとその場に立ち上がって出て行こうとした。俺はまだ若干ふらつく頭を引き摺りながら、「待て」と犬のように命令して白狐のその細い腕を掴んだ。俺はベットの上で裸で寝かせられ、頭には冷えたタオルが、脇には冷たいペットボトルが挟まれていた。体を起こした拍子に頭に乗せられていたタオルが落ちる。
この死ぬほどダサい白狐は風呂でぶっ倒れた俺を寝室まで運んで、今の今まで看病していたのだろう。鼻歌を歌いながら団扇で扇ぎ、俺が目を覚ますのを待っていたのだろう。
「おい、逃げんな。…一旦横に来て座ってくれ!」
俺の言葉に白狐は無言のまま、また帰ろうとするから俺も意地になって掴んだ腕を離さなかった。白狐は俺の腕を退けようと抵抗を見せるがそれは許さない。
「おい! いいから座れって! お前、塩田だろーが! まだ頭がクラクラするんだよ、頼むから座ってくれ、塩田!」
「ち、違う! 人違いだ!」
いつも震えている声を俺はすっかり忘れていた。声は中学の時に比べてうんと低くなった気がする。でも俺はどこかでその声を思い出した。
「お前じゃなかったらそれはそれで問題だろうが! 鍵は閉めてたのに、こうして開けられるやつが沢山いてたまるか! だから観念しろ。その声で完璧にお前だって分かったから、いいから、まず座ってくれ」
「いいいい嫌だ! 嫌、だ! は、離して下さい!」
「頼むから一度座れって。俺は別に怒ってないからさ」
塩田はその言葉を聞くと抵抗をぴたりと止めた。子供かよ、と内心思って笑いそうになったが、そこはぐっと堪える。だが体はいつでも逃げられるように、引け腰で、俺に掴まれている腕だけを残して、重心は完全にドアの方にあった。どうしても逃げたいんだなぁ。
「助けてくれたんだろ? 感謝するよ。…ありがとう」
「い、いらない、そういうの。本当にいらない。感謝す、すべきじゃない。僕はストーカーだから。だから、て、…手を離して」
「いや、感謝くらいさせろよ」
中肉中背、何の取り柄も無さそうな相変わらず負のオーラが出まくる塩田は深い溜息をつくと、ゆっくりと俺の横に腰を下ろした。俺もそれを確認して腕を離し、白狐の横顔を覗く。表情はお面のせいで、何ひとつ分からない。しばらくの沈黙の間、俺も塩田も何も話さなかった。数分が経過してようやく塩田が口を開く。
「こうして見ると、美しいね、その刺青」
塩田が見ている右太腿の内側には、白蛇と鬼の和彫りが入っている。塩田はようやく落ち着いたらしい。
「ありがとう」
「それ、彫師の男の人と同じデザインだよね」
「よく知ってるな」
「真っ黒な鬼の面、般若でしょうか、それと美しい白蛇。白蛇は性器の下まで彫られてて、まるで性器を食おうとしてるみたいだ」
「それ、あながち間違いじゃない。この白蛇は、これを彫ってくれた彫師をイメージしてんだ」
「彫師を?」
「そう。白蛇が俺の性器を食う。エロい意味じゃなくてね、自分に性器がなくなれば、きっと遊び癖も治るだろうから、その手助けはその彫師にしてほしかったわけよ。一時ね、惚れてたから」
「それは知らなかった」
こいつにも知らない事があるらしい。そう思いながら俺は体勢を仰向けから、塩田の方へと体の向きを変える。
「他に知らない事や聞きたい事があれば、どうぞ、聞いてくれ」
俺がそう言うと塩田は少しの間を置いて、俺の目を見た後、また刺青に視線が落とされる。
「触ってもいい?」
「いいよ」
塩田の長くて細い指が白蛇と鬼をなぞる。驚くほど冷たい指先だった。薄手のタオルが一枚、俺の性器を隠していたらしかったが体勢を変えたことで、そのタオルは俺と塩田の体の間にゆるりと落ちる。露わとなったそこを塩田は何の躊躇いもなく見下ろして特に気にもしない。視線はじっと白蛇と鬼の美しい全体像を眺めている。
「お前がこの刺青の事を知らなかったのは少し意外だな」
「まぁ、…知らないことばかりだよ」
塩田はそう言って白蛇から鬼へと冷たい指を這わせていくが、こいつの触れ方は何処かぎこちなくて、人への触れ方ってのを知らないかのようで、少しくすぐったい、背中がぞくりと粟立った。
「ばっかりってのは嘘だろ。時藤先輩との情事を知ってたのには驚いた」
「あぁ、あれね。あれは、うん、スクープだったね。あの先輩、女好きでとても有名だったから」
「どうやって俺達の事を知ったの。ちゃんと隠していたつもりだけど…」
「教えません」
「あ、そう、ですよね」
塩田は俺なんて見もせず、「はい」と返事だけを俺に返して冷たい指先で白蛇と鬼を親指の腹で撫でている。その指の動き、感触に、ひくりと体が反応する。どこを触ってんのかこいつは自覚あるのだろうか。
「な、なぁ…」
俺は何を言おうとしてんだろ。塩田の指先が俺の体の熱をぶり返させ、思考まで鈍らせてしまっているのだろうか。俺はきっとまだ夢うつつなのかもしれない。
「俺に対しての感情って恋愛とは別もの、なんだよな?」
分かりきった回答の質問を何故、聞いてしまったのだろう。塩田は一瞬だけ俺の目を見て、またすぐに刺青へと視線を落とす。
「僕にはイマイチ恋愛感情ってのが分からない。ただ僕は君の苦しむ顔や痛みに歪められる顔が好き。大好き。でもその好きはきっと恋愛感情とは別だと思う。だって君は、僕に散々な事をしたろ?」
やっぱり、俺の事を恨んでるのか。こいつはストーカーでサイコ野郎で俺を助けたのは、俺を地獄に落とす為なのだろう。恐ろしい。そう思う反面、こいつが俺の事を恋愛感情として好きじゃなきゃ、俺を助けて介抱なんかしないだろうと、心の底で思ってしまう。風呂場で頭でも打ったかな。なんだか今はとても歪んだ愛でもいい、愛情があるからこそ助けてくれたんだ、と思ってしまう。なんて、こんなサイコなストーカーに愛してもらいたいのかな。だとしたら本当に俺は危機管理ができないのだろう。
「ぶれない回答だな。俺には全く理解できない」
こんな人間に心底愛されたらどうなるのだろう。そう考えると、途端に鼓動が速くなった。怖いもの見たさで近付くのは昔からの悪い癖で、それで何度も失敗してるのにまた繰り返そうとしている。でも触れてみたいと思ってしまうのだから仕方がないし、これが最後だと、どこかで感じていた。
「塩田、」
俺はすっと片手を白狐の面に伸ばし、その頬に手を寄せた。塩田は刺青から俺へと視線を移し、何も言わず、俺の言葉を待っている。
「お詫び、させてよ」
昔から火遊びは大好きだった。
「謝って済む問題じゃないのは分かってるけど、お前には酷い事、沢山してしまったから。ちゃんとお詫び、しなきゃだろ?」
そう誘うように首を傾けて目を見つめると、塩田は「分かってるよ」とふっと笑った。その不気味な笑みは、面を被っていても十分伝わる。
「君は欲に従順で酷くされたい時は顔に出るんだ。だから分かってる。今、すごくしたい気分なんだろ。乱暴に扱われて、イキまくりたいんだろ」
そう見透かしたような目で俺を見下ろした。そのまま乱暴に扱ってくれりゃぁ良いのに。塩田は片手を俺の肩の上に置くと、そのまま仰向けに押し倒した。力はあまり込められていない。俺の上を取るとじっと俺の顔を見下ろして俺の唇を親指の腹で撫でるから、戯れるように、その指に軽く噛み付いてみせる。塩田と目が合い、その噛み付いた指先にチュッと音を立ててキスを落としてやる。揶揄ってやると塩田はその指を、手を、首元へと下ろす。
「そんなに僕としたいの?」
「誰でも良いから相手してほしいね」
そう敢えて口にしたのは自分に対して言い聞かせる為だった。
「僕じゃなくても良いんだ?」
だって怖いだろ。こんなサイコなストーカーにハマってしまったら。
「そりゃぁね。ヤるだけなら容姿が良ければ誰でも。容姿が良いってだけで多少下手でも許せるだろ」
そう煽ると塩田は少し小馬鹿にしたようにクスクスと笑い出す。
「何笑ってンの」
「分かり易い嘘だなぁと、思って」
「嘘?」
俺は眉間に皺を寄せて潮田を見上げる。塩田は面越しでも分かるくらいに、にやりと口角を上げているようだった。
「本当は誰でも良いわけじゃない。僕が良いんだろ? 素直にそう言えばちゃんと気持ち良くしてあげるのに。そうやって煽るのは痛みが欲しいから? 僕がキレて、君を殴り付けて自分の性欲だけを満たす、そっちを君は望んでるのかな」
鳥肌が立った。これはかなり危ない橋だと赤信号が灯る。
「そんなに嬉しそうな顔しないでよ」
「してねぇよ。さすがに引いてるの」
「どうして? 心の中を読まれて動揺してる? 僕に隠し事はできないよ。だって僕は君をずっと見てきたから、君の望みは手に取るように分かる」
「…カメラまで仕込んでんのかよ」
「そう。だから君が最近誰ともしてない事も、ひとりで抜いてない事も僕は知ってる。だからストーカーで尚且つ君を殺したいと言ってるやつを煽って、揶揄って、暴力的なセックスを望んでる。違う?」
危険であればあるほど飛び込みたい。赤信号が灯されているのに俺は突き進みたい。今はこの頭のおかしい男に身を任せてしまいたい。きっとそれはとても甘美で、過激で、依存してしまうかもしれない。怖いと思うが一方で、やはり思ってしまう。それはきっと、甘すぎるほどの快楽かもしれない、と。
「さぁ、どうだろう」
「セックス、もう1ヶ月以上してないね。そんな中で連日、アサトって人に会ってるんだ。欲望まみれでしょう?」
「そうね。きっとアサトさんのせいだな。お前があの人だったら素直に何でも吐くのにな」
そう言うと少しの沈黙が生まれた。沈黙の後で、塩田はくぐもった低い声を出す。
「あぁ、でもやっぱり、堪えられないや」
「何が?」
「君からアサトって人の名前が出るの堪えられない。でも大丈夫、君の口から二度とその名前、出ないようにしてあげるから」
首に掛かる塩田の手に力がこもる。指が喉を締めつけ、じりじりとゆっくりと首が絞まっていく。お遊びの力じゃない。本気の殺意が見えた。首を絞める塩田の手を離そうと必死に両手で掴んだ。引き離そうとしたが、上を取られているこの体勢でそれは無謀だった。
「…塩田っ」
まだ、死にたくない。
「……苦しい? ふふ、快い顔」
塩田の声はとても冷静だった。
「塩、…田…っ!」
息ができない。苦しい。本当に殺される。指が首に食い込んで涙が溢れた。意識がふっと遠のいた瞬間、塩田はようやくその手を離した。俺はすかさず肩で呼吸をして、喉をさすりながら、涙目になりながら、ぜぇはぁと酸素を目一杯吸った。
「僕を煽るのは良くなかったね」
塩田は俺を見下ろすと、愛おしそうに俺の髪を撫でている。
「僕は君を殺したいって言ったのに。そう伝えた相手に身を委ねるのはどれほど危険か、君は良い加減、学んだ方が良い。…いや、本当は知っているのに、知らないふりをしてるだけなのかな。こうやって危ない橋を渡りたいから」
塩田は面越しに俺の頭にキスを落とすと、また俺を見下ろす。やけに甘い目が俺を見ていた。
「君の苦しそうな顔、本当、快いね」
にやりと笑ったであろう塩田の目を睨む様に見上げる。
「勃たせてンなよ。変態」
「君が言う? 君だって、ほら」
体は本当に素直である。既に硬くなっているそれを塩田は大きな手で握り締め、そのせいで俺はもう逃げられない状況だと、それを自ら作り出したのだと呆れて笑いそうになった。
「お詫びしたいって言い出したのは君だよ、蓮司君」
そうだよな。逃げ場を無くしたのは逃げられなくする為に敢えてした事。恐ろしいとどこかで感じれば感じるほど、身震いするほど期待してしまう。
「お詫びにお前のしたい事、全部しろよ。その代わり、期待を裏切るなよ」
「だから煽るなと言ったはずだよ」
塩田の声はとても無邪気で楽しそうだった。冷たい手が首から胸へ、胸から腹へ、徐々にその手に熱が移り、塩田も手のひらも熱くなる。股を割って入ると、塩田はじっと俺を見下ろして首を少し傾けた。そうまじまじと見られると、品定めされているようで心地の良いものじゃないんだけどなぁ。
「なんだよ…」
あまりにもまじまじと見られるからそう聞くと、塩田はふふっと笑う。
「美しいなと思って」
こいつの言う美しいは何か別の意味がありそうで、怪訝な顔をしていると塩田は唇に親指を押し付けた。
「舌、出して」
訝しげな顔をしながら指示に従うように舌を出す。塩田は人差し指と中指で俺の舌を挟むと、まるでものを扱くようにゆっくりと動かす。唾液が溢れ、妙な心地だった。
「……ん、…っふ」
「舌も性感帯。気持ち良さそう。ねぇ、想像してみて。この厚い舌に、太い針がプツリと貫通するの。血がダラダラ流れて、そこに同じ太さのピアスが挿入される。舌に穴を開けるって、信用がないと出来ない事だなぁって、僕はいつも思うの」
「……んん、」
ダラダラと唾液が溢れて苦しくなる。
「いつかここにも開けようよ。僕の為なら、開けてくれるよね?」
誰がお前の為に開けるかよ、そう思ったのに、塩田の目はやけに自信たっぷりで、俺の眉間には深い溝は更に深まった。指が離れたと同時に俺は舌を引っ込めたが、それと同時に二本の指が口内に挿入される。まるで犯すように挿入されたそれを、俺は揶揄うように丁寧にしゃぶってみせた。少し苦しい。でも、なんだろ。すげぇ、気持ち良い。
今まで似たような事はたくさんしてきたけど、何でこいつとの行為は体の芯が火照るのだろう。呼吸の間隔が狭くなり、熱を帯び、塩田もそれに気付いていた。
「僕が言う事じゃないけどさ、蓮司君。ストーカーに身を任せちゃ駄目だよ。ましてや僕みたいに殺したいと言ってるやつなんかには」
「……ん、」
ゆるりと口内から抜かれた指は、そのまま下へと、なんの躊躇いもなく挿入され、肉を中から押し広げた。
「……っ…」
声にならない声が漏れ、ごくりと生唾を飲み込む。長い指がトンと内側を刺激し、その度に体が熱くなる。頭がふわふわして、体の芯が疼きだして、何もかもが気持ち良い。欲求不満だったからこんなに気持ちが良いのか、それとも、こいつの触れ方が好みなのか。どうしようもないなと、快楽に目を細めて塩田を見上げた。見上げながら、つい面の下の唇を想像した。キスしてぇなと反射的に思ってしまう。恋人でもないのに息が上がるほどのキスを望む自分に自嘲してしまう。
「何、考えてんの」
塩田の目は俺を見ていた。だから敢えて揶揄うような下品な事を言ってみせる。
「お前のソレを想像してた。さっさと、ぶち込んでくれないかなぁって…」
すでに若干の余裕を奪われつつあるが、それでも俺は余裕に笑っているつもりだった。でも現実はそうではないらしい。塩田は空いている片手で俺の髪を撫でると「そんな泣きそうな顔するなよ」と低い声を出す。
「泣かせたいって思ってしまうから」
「優しいセックスをお前に望むと思う?」
「君はもう少し危機感ってのを持った方が良い」
「お前が言うの?」
「僕だからだよ。…蓮司君、僕が君に何をしたいか、君は何にも分かってない。分かってないのに、無謀にも煽るのは本当に馬鹿だ」
塩田はそう言うと指を抜き、すでに硬いそれをダッサイパジャマから出して俺を見下ろす。
「君にはほとほと呆れるよ」
押し当てられたそれは否応なしに一気に奥を突いた。瞬間、息が出来ないほどの鋭い快楽が脳を突き抜けた。ぐっと喉を逸らして、息をしようと口を開ける。はくはくと空気を食べるように呼吸を繰り返す。忙しくても抜いておこう。いや、適当に誰かとヤっておこう。じゃないと、こんな頭のおかしいストーカー野郎との行為に依存しそうになる。どうしようもなく下腹部が熱い、心臓が痛い、呼吸が荒い。参ったな。もっと欲しい。もっと。
「声、我慢しないでよ。目も瞑らないで。僕を見て。声も聞かせて。蓮司君、気持ち良い?」
唇を噛み締めて塩田を見上げた。塩田はとても冷静で、ちっとも熱を帯びていない。俺だけがこんな風に崩されていくなんて癪だ。
「僕達、体の相性が良いみたいだね」
「……ストーカーで…俺に、殺意を持ってる野郎と、…体の相性、が、…っ、良いって、自殺行為じゃねぇの」
やばいな、すげぇ気持ち良いな。中を抉られる度に熱が上がっていく。
「あぁ、そうかもしれないね。でも、良いじゃない。僕は君を死ぬまで満足させてあげるから」
塩田の楽しそうな声を聞きながら、体が熱くて下腹部に全ての血液が流れて行く気がした。やばいな。本当に、これは…。
「…イ、く…っ」
体がのけ反り、快楽の波に飲まれては欲を吐く。塩田はそれを鼻で笑い、「もう?」と揶揄うように俺を見下ろした。その後、何度も何度も何度も熱を吐き続けたが熱は治らなかった。もう嫌だと、本気でやめてくれと苦し紛れに言ったが、塩田は表情なしにそれを断っては俺の体に触れ続けた。
意識が飛んだ。疲れていたからか、イきすぎたからか。本当にどれくらい飛んでいたかは分からないが、少しの間意識がなかった。だが気付いた時、俺の手は後ろで縛られ、うつ伏せに転がされていた。ベッドがギシッと音を立てて軋む。あれで終わりじゃねぇのかよ。
「起きた?」
相変わらず白狐が隣にいる。
「ん………。どれくらい飛んでた?」
「15分くらい」
塩田は相変わらずダッセェTシャツを着ている。まだ着衣姿で俺だけが素っ裸で、なんだか恥ずかしくなる。こいつ、もしかしてイってない? そう怪訝な顔丸出しの俺を見て白狐は微笑んだ。
「少し休んだら元気になったかな。僕が本当にやりたかった事、まだ何も出来てないんだよ」
「……は?」
その言葉に俺は本気で引いた。何を言ってんだコイツ。何も出来てない、って何。
「そりゃそうだろ。僕達はただ普通のセックスをしただけ。君は感度が良すぎて勝手にイきまくっただけ。僕の望みはここから」
愛情なんて俺に対して微塵も抱いてない相手なんだけどなぁ。何をどうしたって、良い結果は招かないのに。この関係にハッピーエンドは期待できないのに。どうして期待しちゃうかなぁ。
「何、するつもりなんだよ…」
塩田は小さな平たいケースを枕元から取り出して蓋を開け、中から注射器を取り出す。注射器の中には透明な液体が入っていて、それが何かは分からず、さすがの俺も恐怖心を抱いた。栄養剤とか体に優しいものではない事はすぐに分かるから。
「何それ、クスリ?」
「やったことあるでしょ?」
「注射のタイプはねぇよ。それ、打つつもりなの?」
「その為に持って来たんだから、打つよ」
「中身、なに?」
「ちょっと効き目の強い媚薬。死にはしないから、安心して」
死にはしないって何。媚薬って。今の状態で、これ以上イけるもの? それこそ腹上死にならない? まだ死にたくないんだけどな。俺に拒否権はないのだろうな。だって手は縛られてるし動けない。
「もうイける気がしないけど」
そう訴えるように言うが、もちろん塩田に効果はない。
「試してみようよ。短くても3時間は体に残るから抜きたくても抜けず、うんと苦しむ」
苦しませる気、満々ってわけだ。でもキメセクなんて久しぶりだし、ちょっとだけ楽しくなってしまう。ただ問題は俺が既に何回もイかされて、体は疲れ切り、脳が快楽に麻痺してるという事だった。もうこのまま休みたい。
「楽しむの間違いだろ? さっきの運動がなけりゃぁ楽しめるはずなんだけどなぁ。もう少しだけ休ませてくれない?」
「嫌だよ。散々イかされた後に、ヤクで過剰な快楽を与えるのが良いんだろ」
塩田はそう楽しそうにつらつらと言葉を並べながら、消毒液を露わになっている右足の、股の付け根に塗ると、皮膚に沿って注射針を躊躇いなく刺した。中の液体が無くなると注射針を抜いて、針の痕からぷくっと出てくる血を脱脂綿で押さえつけ、止血をしっかりと済ませる。 慣れた手つきなのが引っかかる。常習犯だったりするだろうか。
「効果が現れるのに数分かかる。効果が出て来たら、すぐに分かるから、それまで少し待とうね」
体内にクスリ入りの血液が回っていく、そんな想像をしながら塩田を見上げると、塩田は俺の髪を撫でながら優しい目を向けていた。それが妙に恐ろしくて、俺の表情も体も警戒して強張っていく。塩田はそれを察したように「怖い?」と首を傾げ、半笑いのまま言葉を続ける。
「でもこれはお詫び、そうだよね? 君からお詫びしたいって言ったんだ。後先考えず、僕に体を任せたのは君だよ」
塩田の指は俺の髪に絡められる。
「きっと君は後悔するんだろうな。僕に身を任せなければ良かったと。煽らなければ良かったと」
クスリは徐々に効果を現し、速かった鼓動が更に速くなり、手足が軽く痺れ、体全体が熱く過敏になっていた。
「……なんでそう思うんだよ。俺は殺されるから?」
「違うよ。君は、僕に依存してしまうから。僕以外とは誰ともセックス出来ない体になるから」
とんだ自信だな。そう言おうとしたが、呼吸が荒くなり、言葉を飲み込んだ。塩田はそれを満足そうに見下ろしている。
「…さぁ、楽しもう?」
奥の深いところが否応なしに熱くなる。腹が苦しくなり、呼吸が乱れる。塩田のそれは奥深くを刺激し、ゆっくり、ゆっくりと肉を押し、擦り付けるようだった。
「あぁぁ…っ」
漏れた声、いや短い悲鳴に塩田は満足そうだった。堪えようと快楽に抗おうと必死で握り拳を強く握る。爪が食い込んでいるはずだが痛みは感じなかった。卑猥な濡れた音、肌のぶつかる乾いた音が部屋を満たしていた。塩田は挿れながら俺の頸に触れる。
「中学の頃、僕はいじめられていたよね」
「……っ、悪かった…申し訳なかった、…から、塩田、も、…無理、また、イきそ…」
目の前がチカチカと眩しい。何度欲を吐いたって薄情な体は足りないと貪欲に快楽を貪っている。
「これは僕へのお詫びだろ? さっき散々イったんだから、まだイくなよ。集中して」
「……っ」
何をどう集中すれば良いんだと唇を噛んだ。
「僕はさ、あいつらのせいで学校へ行きたくなかった。僕が行くとね、あいつら楽しそうに暴力を振るうから」
言われた言葉に混乱した。暴力ってなんだ。
「待て、…俺は、お前に暴力を振るった事は…」
塩田は動きを止めると背後から大きな手を俺の下腹部に伸ばし、何度も欲を吐いたくせにまた硬く熱を待つそれを掴むと、先端を弄びながら耳元で囁く。
「あいつら、って言ったろ。君じゃない。君は何も知らなかったんだよね? それともそういう演技をしてるのかな。あのね、僕は君を見る為だけに学校に行ってたの。君にたかられようが、罵られようがどうでも良い。君に声を掛けられるだけで生きてるって実感できた。けど、あいつらは君の取り巻きは、僕の事がとても嫌いだったよ。金を巻き上げるだけじゃなくて、とっても酷い事をした。子供の純粋な暴力って恐ろしいよね?」
大きな手が、ぐっと根元を掴む。
「……っ!」
「あいつらの親玉は君。何も知らなかったとしても、やっぱり君には責任取ってもらいたい。お詫びしてくれるって言ってくれたんだもの。だから、ね? 良いよね?」
瞬間、塩田は握っていたそれを離し、何かを取り出した。俺はぜぇはぁと肩で息をする。これが精一杯なのだ。もう、限界だった。体が保たないと、降参だと、逃げ出したい。
「これ」
塩田は俺にタバコを一本見せる。俺はそれを見て、塩田から離れようと足掻いたが主導権は塩田にあった。俺の後ろ髪を鷲掴みすると、馬の手綱を引くようにグッと後ろへと力を込めた。痛みに顔を顰め、つい涙が溢れていることに気が付いた。
「そう嬉しそうにしないで。好きだろ?」
「いやだ、……こんな体の時に、…っ、するもんじゃねぇよ……」
「こんな体の時だから、するんだろ」
そう言って俺の髪を乱暴に離すと俺は顔面から枕に突っ伏した。塩田は背後でタバコに火をつけ、ふぅと煙を宙に吐いている。
「蓮司君はタバコ、やめたよね?」
「……塩田、」
「アサトって人、すごくたくさん吸うのにね」
「…もう、無理だから…」
「タバコ、恋しくなったりしないのかな」
塩田は楽しそうに言うと火の点いたタバコを目の前に突き出すと、「どこが良い?」そう無邪気に質問する。
「やめて、くれ…」
「本当は嬉しいくせに。ここ、期待でガチガチだよ。今、イったばっかなのに」
「そ、れは…クスリのせい、で…」
「そうかな? さて、楽しんでよ。僕が梅原達にされた事」
そう言うと問答無用で腰にそれは押し付けられた。皮膚は焼かれ、悲鳴を上げ、全身に力が入る。とてつもない痛みだったはずなのに、俺の脳はそれを過激な快楽だと理解したらしかった。痛みは一瞬で、俺はまた熱を吐き、そして塩田の声を背後で聞く。
「…やっぱり、痛みがあると蓮司君は気持ち良いんだね。すっごい締めつけるから、僕もイっちゃったじゃない」
「……もう、やめよう。…また、相手、するから、もう、…今日は…」
勘弁してほしい。許してほしい。ごめん、塩田。本当に、ごめんなさい。過去の事はちゃんとこれから精算するから。そう、涙が溢れ出ていた。強すぎる快楽のせいだった。頭がビリビリと麻痺している。けど泣こうが喚こうが、塩田は許してくれない。そりゃそうだ。泣いて済む問題じゃないのだから。
「やめると思う? 梅原達は僕を見つける度に根性焼きだと言って腕にタバコを押し当てた。コレと同じ銘柄のタバコ。あいつらはクズだ。クソだ。なのに君は、僕を忘れても、あいつらとはずっと連んでいたよね。僕の事なんて高校で視界に入っても無視したのに、あいつらとはたまに外で遊んでいたものね。友達なんでしょう? あんなクズ共と、友達なんだよね。じゃぁ、君がやっぱり僕の鬱憤を晴らして。君に対しては何も恨みはないよけど、君はあいつらと…」
「ごめん。……っ、ごめん、…塩田、ごめん、なさい…。もう、なんかわけわかんねぇの、もう、イきたくねぇの…。明日、またヤろうよ。……な? なんでもするから。お前の好きなように、して良い、から…」
もう、わけがわからない。自分が何を言っているのかも分からない。
「明日も明後日も、ずっと、ずっと。君はもう僕のもの。良いよね?」
「ん……、良い。それで、良いから。も、抜いて…今日はもう、やめたい…。お前もイったんだから、良いだろ…?」
「ねぇ、証拠が欲しい。君は僕のだって証拠…」
塩田の声はやけに甘ったるかった。
「……は?」
「こっち、開けよう?」
するりと伸びた手が敏感になっていたそこに触れた。あぁ、そういう事か。俺はそのまま深呼吸をして、塩田から体を離そうと、ぐっと塩田の体を押し返した。塩田は抵抗せず、俺の中から自分のそれを引き抜くと、肩で息をする俺を見下ろしながら、また首を癖のように傾ける。
「蓮司君はもう僕のものなんだよね?」
痛みの上書きだ。こんな忌々しいもの、忘れられる。ようやく、あの人の事を忘れられる。でも、今、あの痛みを経験したら本当に死ぬんじゃないだろうか。体がここまで敏感な時に、針を通すなんて、どうなんだろう……。
でも、もうどうでも良い。どうでも。
「左はフープにしようよ」
無邪気な塩田を見上げながら、俺は眉間に皺を寄せる。
「分かった、良いよ。その代わり、それを通したら、もう今日は終い、な?」
「うん!」
素直に嬉しそうに頷く白狐はどこからか銀色の何やら物騒な、長細い鉗子を取り出した。先端は丸く穴が空いていて、そこに針を通すのだ。あぁ過去に開けた時も、こんな道具、使ったっけ。あの時もクスリ飲まされて、とてつもない痛みに悲鳴を上げ、泣いた記憶がある。
「こんな敏感な状態で針を貫通させるって考えたら、すごく興奮しない?」
「生憎、しないね。いつもなら興奮してたろうけど、今は割とマジで死ぬんじゃないかって不安だけど」
「ふふ。幸せな最期じゃない。君らしい」
「ヤなやつだな、お前って」
「まだ、息が上がってるよね? ビリビリして、イき足りなくて、体が熱くて、幸せでしょう?」
「幸せじゃねぇよ。…さっさと開けろ。変態」
仰向けになっていた俺の頬に、白狐は面越しにキスを落とし、後ろ手に縛られていた紐を解くと、枕を背もたれに用意する。
「寄りかかって。シーツ、握る?」
「握らねぇよ。…どれくらい痛いかは覚えてる」
「そっか。消毒するね」
突起するそこに当てられた冷たい消毒液に、つい声が漏れると塩田はくすっと笑った。
「ふふ、そんな声出さないで。僕、一回しかイってないんだから」
「出したくて、出したわけじゃ…」
「分かってる。…挟むよ」
「ん」
「よし、ここだね。針、通すよ。呼吸整えてね」
「クスリのせいで、それは無理…」
「ふふ。そっか、ごめん。…良い?」
「ん」
ぷつり、とそれは簡単に貫通する。痛みに声が漏れそうになり我慢するが、それでもやはり強い痛みに短い悲鳴をあげてしまう。塩田はふふっと嬉しそうに笑い声を溢している。すぐにピアスが通され、ボールが先端にはめられ、どこかのメイルストリッパーのような見た目だなと口角が余裕にも上がってしまう。
「お疲れ様。悲鳴なんか上げちゃうから、また勃っちゃったじゃない」
「もう、無理だぞ…」
さすがにギョッとする。だが塩田は楽しそうに笑っているらしい。
「うん。じゃぁ、お口でして?」
塩田は息を切らしている俺を見下ろしそっと髪を撫でるから、俺は眉間に深い溝を作りながらも、塩田の指示に従った。付け根から舌を這わせ、全てを咥えると喉奥を突かれ、また涙を流し、鼻水を垂らし、遠慮なく出された生温いそれをきっちりと飲み込んでみせた。少し咽せた俺を見て塩田は「上手だね」と和かに笑っているようだった。
「蓮司君、これからは僕とだけしましょう」
こいつと、だけ。でもそれって、何の意味があるんだ。
「…ね?」
「分かったから。もう、休ませろ」
「分かったって言ってくれたね。約束だよ。絶対に守ってね」
「はいはい…」
愛情のないやつと一生すんの? 俺の事を好きにはならないやつと? ハッピーエンドなんか到底無理じゃない。
「お風呂は明日? たくさん汚れちゃったね」
「もう、無理無理。体、保たねぇよ」
強い眠気と疲労に襲われていた。さんざん喘いでは悲鳴を上げたせいで、俺の声はすでに枯れていて、そのまま気を失うように眠りについた。再び目を覚ました時、驚いた事に体は綺麗になっていて、新しいボクサーパンツを一枚だけ穿かされて布団を掛けられていた。横にはベッドの端に窮屈そうに眠る塩田がいて、まだ白狐の面を被っている。体は拭かれて、シーツも変えられている。全部、塩田がやってくれたのだろうなと俺は頭を掻く。
俺は伸びをして、しばらく白狐を見下ろした。面を外したら怒られるかな。いつまでそんなお面をつけているのかな。そう再び横になって、その面をまじまじと見つめる。どんな顔をしながらこいつは俺にアレコレしてたんだろ。
少しは余裕なくした? それとも俺ばっかり余裕なくして、焦って、熱を吐き続けた? だとしたらちょっと癪だよなぁ。これでこいつとのセックスが気持ち良くなければ、俺はあっさりと断ち切れるのだろうが、最悪な事にとても良かった。しかも、絆されるように心を持っていかれている。
こいつのやってる事は本当によく分からない。恋愛感情ではないと否定して、お詫びだと言ってやったアレコレはただただイイコトしただけ。確かに気は失うし、クスリを体に入れては飛んでしまうし、死ぬかもしれないと思うくらいには焦ったが、こうしてピンピンしてる。副作用もない。俺に根性焼きして、ピアス開けて、さんざん抱き潰して、こいつはそれが詫びだと思ってる。
何を考えてんだろ。好きじゃなきゃ、どういう感情で俺をあんな風に抱いて、執着を見せたんだよ。
その時、目を覚ました塩田とぱちりと目が合った。合った瞬間、塩田は聞いた事のない甲高い悲鳴を上げ、ベッドからずるりと落ちた。
「え、あ、おい!」
笑いが堪えきれず笑いながらも心配しつつ、落ちた塩田を見下ろすと、「いてて」と苦悶の表情を浮かべているのが面越しでもよく分かった。
「大丈夫かよ」
「うん、大丈夫…」
「俺の顔見るなり悲鳴上げる事ないじゃない」
「いや、だって、あの蓮司君だから…。あの蓮司君の顔がこんなに近くにあったら、そりゃぁ、誰だって驚くよ」
「良い意味と捉えて良いのかな?」
「うん、もちろん。王子様が横で寛いでるって感じ」
「お前、キモいのな」
「え、ごめん」
「いや、良いんだけど。変なやつだなぁと。散々抱き潰しておいて、俺に対して新鮮に驚くなよ」
ケタケタと笑うと、塩田は「ご、ごめん」と再び謝りながらベッドの端に腰を下ろす。
「なぁ、塩田。面、取ってみろよ。俺、目ぇ瞑ってるから」
「い、いやだよ」
その返事はあまりにも即答だった。塩田は面をガッチリと両手でホールドして、俺に取らせないように体を強張らせている。
「ハンサムすぎる俺の前では、自分の凡人顔は見せたくないってことか?」
「君は本当に腹が立つ」
「つい揶揄いたくなるの。許してね。お前ってセックスしてる時とこうして話してる時と、えらく違うんだもん。なぁ、面外してさ、一緒に風呂でも入ろうよ。で、二度寝しよう」
「お、お風呂に一緒に入るの? 蓮司君、と?」
「他に誰がいんだよ」
「いやいや、ちょっと、刺激が強いので…」
今更感がすげぇな。何を言ってンだ、こいつは。でもまぁ、面を外したくないってのは仕方のない事かなと俺は眉を下げながら塩田を見た。
「俺に顔を見られたくない理由は、自分の顔に自信がないからか、それとも一応俺のストーカーで盗撮に盗聴してる犯罪者だから、か。後者だとするなら、俺は警察に言ったりしないから安心してほしい。俺はただ、お前の顔が見たいだけ。中学ン時も前髪長くて、よく顔は見えなかったし」
「ど、どうして、警察に言わないの」
「だって、ねぇ? お前も気付いてンだろうけど、俺達かなり体の相性良いじゃない。クスリなしのセックスが、すげぇ快かった。なんか久々に満足したもん。だから警察にお前が連れ去られるのは勿体ない」
「そ、そっか…」
「そっか、って。反応薄いな」
「クスリあった方がもっと気持ち良かったんじゃないの?」
「いやぁー、どうだろ。クスリありは気持ち良いのかなんなのか、正直覚えてない。ただずっとイきっぱなしでエロ漫画みたいな現象が起きてたけど、それが気持ち良いかは不明だな。俺はなしの方が好き。満足できた」
「へ、へぇ」
結局、このサド丸出し男は中学の頃の陰気さをそのまま、俺と話していても、おどおどと口ごもっては少しだけ表情を緩めているようだった。ちょっとばかり、揶揄ってやりたくなるのは何故かな。俺はごろんと横になり、塩田の目を揶揄うように見上げる。手を自分の下腹部に当てて、「ここ、」と微笑みかける。
「ここにお前のが入ってるとさ、すげぇいっぱいいっぱいになるの。文字通り、いっぱいに。それを実感しながらできるから、クスリはない方が気持ち良い。クスリ入ってるとそれどころじゃないし、何が気持ち良いのかよく分からなくなるから。だからない方が、お前を感じてすげぇ快い」
塩田は分かりやすい。面をつけていても顔が赤くなったのがよく分かる。あーあー、可愛い反応しちゃうんだなぁ。
「なぁ、面、外さないの? お前の顔、見たいんだけど」
手をお面に伸ばすと、その手を弾かれて塩田は焦ったように立ち上がる。
「む、む、無理! 無理だから! ぼ、僕、帰る!」
塩田はそのまま寝室から飛び出て行ってしまうものだから驚いた。いやいや、そんなクソダサい格好で何処行くの。家はこの辺なの? タクシー? まさか電車とかバスとか乗らないよな? 混乱する俺を置いて、玄関のドアがバタンと閉まった。行ってしまった。これじゃぁ、どっちがストーカーで、どっちが追いかけられていたのか分からない。
俺は頭を掻きながら、ひとまずシャワーでも浴びようと浴室に移動した。昨日のよもぎ風呂は流されて掃除され、綺麗になっていた。浴室の大きな鏡に映る上半身を見て、俺の口角はつい上がってしまう。
証拠、ねぇ……。
なんだろ。あの人とやった事は同じなのに、塩田の執着は心地良い。痛みの上書きは成功だった。だって塩田が良いって、心地良いって、素直に今、感じてるんだから。
……とは言うものの、それこそ地獄か。あいつに恋愛感情はない。つまりただ、俺の体で遊びたいだけ。ひとりになると、また色々と考えてしまう。熱いシャワーを浴びながら悶々とする。確かにこれは赤信号だった。あいつも言っていた。後悔するって、あいつに身を任せなければ良かったと、煽らなければ良かったと。だって、きっと俺はあいつ以外とはもう…。しばらくして風呂に入り、そしてまた塩田に声を掛ける。
「おーい、塩田。今、何してんの?」
いつものように携帯のメッセージで返事がくる。
『君を観察してる』
「面白い?」
『とても』
「お前ってどこに住んでんの」
『教えません』
「あんなダサいパジャマのまま、外出たの?」
『教えません』
「仕事まであと4時間くらいあるから、ちょっと部屋来る?」
なんていかにも蓮司という身勝手な男が言いそうな言葉を吐くと、塩田は『僕は君の友達でも恋人でもないので行く義理はありません』とキッパリと断られて、しっかりとショックを受けた。
塩田、お前は俺をどう見ているのだろうな。俺はきっと、嫌でも、お前に溺れてしまうような気がする。怖いもの見たさで近付いて後悔するのは予想していたけど、この後悔の仕方は予想外だった。俺は寂しかっただけ。ただ欲求不満だっただけ。だから、お前なんかを欲しいと思ってしまった。
そう思わないと、終わりの見える関係ってのはキツイよ。
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