2. ストーカーの正体
………
……
…
『おーい、キモオタ! 今日もマンガで妄想してんの? きついわー!』
ひとりの少年が机に向かってガクガクと震えていた。彼を囲む同じ年の少年達は所謂いじめっ子で、棘のある言葉を何度も何度も放った。
『オタクは犯罪者になりやすいんだってよ! お前、いつか人とか殺しそうだよなー』
俯き、言葉の暴力に耐え続ける少年はクラスでも誰とも話さない、発言をしたくともできず、ただひたすら自分の殻に閉じこもるような少年であった。独り言をぶつぶつと呟き、いつも浮いた存在だった。クラスの連中は気味悪がり、誰も話しかけなかった。
そんな中、クラス替えと共に少年の目の前に現れた5人組。学校内でも悪ガキとして問題視される5人組は、格好の獲物を見つけたと言わんばかりに、ずっとひとりでいたその少年を揶揄った。少年はいつもメガネと長い前髪で表情は読み辛く、顔はニキビだらけで、それがまた嫌で顔をあげることはできなかった。彼はいつもその5人組に絡まれては震え、唇を噛み締めていた。
『んで、金。金ちょーだい。俺たち、お前と違くて忙しいから。早くしてくんないかな』
金をたかるそいつらに少年は震えながら小さな声で言い返す。
『か、か、金なんてない…。ぼ、僕にはお金なんてない…』
必死の訴えも、5人組からすると鼻で笑い飛ばしてしまうものだった。
『へぇー、じゃぁ、写真ばら撒いちゃおうかなー。恥ずかしい写真』
弱味に付け込み、ひとりの少年を脅す。脅し、金を奪い取る。少年はそれが怖くて、いつも泣けなしの金をその5人組に手渡した。金が手に入るとその5人組はすぐにその場を離れた。
………
……
…
はっとして目が覚めた。中学の夢なんて今まで見た事がなかったのに、あの作者の名前のせいだろうかと俺は頭を掻いた。後味の悪い目覚めだ。久しく思い出しもしなかった過去の出来事が、こうして夢として現れ、思い出したくない過去を思い出せと突き付けているようで仕方がない。まだ寝ていたいのにすっかり目は覚めてしまう。キッチンに行き、ホットミルクを飲もうと小さな鍋に牛乳とハチミツを入れ、火にかける。
中学時代、梅原達といじめてたあのメガネ、名前なんて言ったろう。随分と酷いことをしたのに、今日になるまで全く忘れていた。頭の片隅にもなかった。名前、なんて言ったかな。名前… 。確か、あだ名で呼んでいたはずだった。俺達はあいつの弱味を握っていて、その弱味っていうのが、放課後にあいつが教室でひとりでシコってて、そこから、あいつはシコタ…シコタだ。あだ名はシコタだった。でも本名はなんて言ったかな。…思い出せない。シコタ、シコタ、シコタ。近い名前だったんだよなぁ。
昔、いじめていた同級生の名前を思い出そうとしながら、ふつふつと煮立つ手前のホットミルクをマグカップに入れてリビングルームへ戻る。顔もはっきりとは思い出せないけど、髪型とか雰囲気はなんとなーくぼやけながらも思い出せる程度である。
シコタ………。あ、塩田、だ。塩田!
ホットミルクを一口飲み、スッキリした、と頷きながら俺はそこである事に気が付いた。なんだあれ。ゆっくりとそれに近付いて観察した。部屋の隅に設置してある黒い二股コンセントは、やっぱり見たことがなかった。いつの間にこんな物が設置されていたのだろう。俺はいつから、"盗聴"されていたのだろう。ドライバーを手にして二股コンセントを睨み付けながら、その場で胡座をかいた。マグカップを横に置いて、コンセントは繋いだまま、小さなネジを器用に外し、コンセントのカバーを取り出す。ゆっくりとそれを開けてみると予想通りのものがそこにはあった。なるほど。だから、あの本はとてもリアルなんだ。俺の生活を盗み聞きしていたのならこれは書けて当然。その盗聴器はきっとコンセントから外さない限り、半永久に使えるものだろうから、そのまままたカバーを元に戻した。
ホットミルクを一口飲み、二股コンセントを眺める。これ、あの本のストーカーが盗聴してるって事で合ってるよな?
「なぁ、ストーカーさん。お前はシコタか? …いや、そんな下品なあだ名はよそう、…塩田、お前なのか」
そう聞いても返事はなにもない。まぁ、当たり前だけど。
「なんで、あんな本を書いたんだ?」
そりゃぁ返事はない。
「俺はあそこまでぶっ飛んでない。それに輪姦されたことなんてそんなにない。あれ、全部お前の趣味だろ。…まぁ、いいや。あんなの送りつけてきて、どうしたいんだよ。これ、出版できないらしいし、お前は何をしたいのよ。俺の頭の中の蓮司はこんな感じだよー、ハァハァ、って? 読み終わったけどね、俺に恨みがあって仕返しするためなら、他に手はあったんじゃないの? こんな風に盗聴までして、お前のストーカーテクニックはスゴいけどさ、こうしてバレてんなら意味ないよな?」
しーんと静まり返る部屋に俺の声だけが響き、なんだか虚しくなった。
「…怖がらせたいなら効果ねぇよ。あれって、俺を殺すぞっていう脅しだろ? でも、お前は俺を殺せない。殺したいならこんな本、渡さないだろうよ。…なぁ、何を考えてんの? ストーカーさん」
何を言ってももちろん返事はない。そりゃそうなのだが。どう返事するんだって話だが。俺はひとりでコンセントに向かって話すのも疲れ、その場にごろんと横になった。
『盗聴までされてた! ストーカーと、奇妙な同居生活が始まりました』
そう文章を打ってアサトさんにメッセージを送ろうと思った。けれど盗聴されていると聞いたら、あの人はすっ飛んできてこれを外してしまうだろう。なんだかそれはちょっとだけ嫌だった。俺のせっかくの同居人との繋がりを断つのはまだ先で良いように思えたからだ。
だからメッセージを消去し、携帯をその場に放り投げてクッションをソファから下ろして枕代わりに横になる。
「俺、少し寝るね。…あ、2時になったら起こして。お前なら俺の携帯番号とか知ってるんだろうし、電話鳴らして起こしてね。俺、アラームかけても寝ちゃうから、宜しくね。んじゃ、おやすみ」
なんて、起こされなかったらどうしようかな。けれど起こされようがなかろうが、別に大した問題はなかった。仕事は19時に職場にいれば良いのだから、ゆっくりする時間はある。そんな事を考えながら俺は初めて床の上で、しかも壁を見ながら、いや二股コンセントを眺めながら眠りについた。しかしなんだろうかこの安心感。妙に見守られている感じがあった。不思議なもので、それがトチ狂ったストーカー相手でも、俺はどこか人と繋がっていると思うと安心して眠れた。とても気持ちが良く、安眠、とはまさにこの事だろうと思うほどぐっすりと眠った。俺も相当人肌が恋しいらしい。
もともとひとりが大の苦手で、いつも誰かといたいと考えている類の人間なのに、ここ数年、恋人らしい恋人なんていなかった。それが今、久しぶりに誰かの温もりを感じている。盗聴、という名前のちょっと危ない匂いがする温もりだけど俺には丁度いいような気がした。
そうして眠りについていた俺を、携帯のバイブ音と騒がしい着信音が叩き起こす。すっかり爆睡していたらしい俺は飛び起きて、もしや、と携帯の画面を見た。非通知と表示があり、俺はストーカーに起こせと頼んだことを思い出して慌てて電話に出た。
「もしもし…」
こちらが言葉を発しても相手はやはり何も言わない。けれど問答無用で電話を切られるわけでもなかった。
「起こしてくれてありがとう。やっぱり俺の番号知ってんだ?」
相手は何も言わない。無音である。
「あーのさ、二度寝して良い? 実を言うとまだちょーっと寝たいんだよね」
それでも相手は何も言わない。
「だからお願い。2時間後にまた電話掛けてよ。その時はちょっと話したいなぁ。…んじゃまた後で」
揶揄うように一方的に約束事を取り付け、俺は電話を切った。あーなんか、すげぇ面白い。楽しくなってきたなと、また固くて冷たい床の上に横になる。さてさて、また2時間後にちゃーんと約束を守って掛けてくれるだろうか? 期待に胸を躍らせながら眠りにつき、2時間後。再び携帯携帯が騒がしく鳴り響いた。もう2時間が経ったのかと携帯を通話にしたところで、電話番号が表示されていることに気が付いた。どうやら公衆電話からではないらしい。自分の番号をバラしてるけど良いのか? そう思いながら、「もしもし」と声を掛ける。相手はもちろん何も言わない。俺はスピーカー設定にして、それをテーブルの上に置く。床で寝たせいで体の至る所がキシキシと軋む。ゆっくりと肩甲骨を伸ばしたり、脇腹を伸ばしたりとストレッチをしながら、なんだかストーカーの存在が楽しくて声を掛ける。
「起こしてくれてありがとう。ストーカーさんさぁ、番号バラしちゃうなんて、俺のこと信用してくれてんのね? あ、登録しておくわ。名前何にしておく?」
「………」
「梅谷西谷にしようか? それとも、…塩田、お前の名前で登録しようか?」
「………」
それも無反応かよ。塩田がストーカーって読み、外れた? なんか不安になってきた、そう俺は眉間に皺を寄せ、数秒、首を傾げて携帯を見下ろす。
「なぁ、そもそもお前って塩田で合ってるの? お前、誰なの? もしお前が塩田なら手を一回叩いてくんない? 間違ってるなら、二回」
俺がそう提案すると数十秒間の無音が続いた後、パンッと手を叩く音がした。へぇ、それは素直に従ってくれるんだ。でもそうなると、こいつはあの塩田で、中学の時に俺がいじめてたやつだ。
「塩田か、…そうか。…いや、ごめん、ごめんなさい。中学ん時の事、恨んでこんなことしてんだろ? でもなぁ、お前…」
電話の向こうで響く、パンパン、という音に俺は驚いて言葉を無くした。どうやら、そうじゃない、恨んでない、って事のようだから。
「恨んでるわけじゃ、ないのか?」
……パン。少しの間があった。何だ、その間。どうやら全く恨んでないというわけでもないが、恨み100パーセントで近付いたわけでもないらしい。
「じゃぁ、なんのために? 俺の熱狂的なファン?」
パン……パンパン…。なんだその迷い。迷いながら叩かれた音に俺はつい笑ってしまった。
「なんだよそれ。ファンではない、ってこと?」
パン。これには即答かい。
「わぁーひどい。ファンではないのね。じゃ、何? 単純に俺のことが好きとか、そういうこと?」
………。
その質問に対しては何の反応もなく、無視をされる。せっかくここまで上機嫌に会話してたのに。向こうは手を鳴らすだけだけど、それでもコミュニケーションは取れてたのに。少し悲しいなと俺は頬を膨らませて腰に手を当てた。
「…ね、無視はひどくない? つまりさ、俺はお前にすごーく恨まれてるわけではないけど、本の中では、すっごい目に遭わされてるし、愛情の裏返し的なやつなのかと思えば、別に好かれているわけでもない。無関心ならそもそもこんな事しないだろうし、ちょっと何がしたいのか分からないんだけど」
相手はまた無言だった。何も言うつもりはないらしく、俺は拗ねちまうぞと口を尖らせる。なんか、怒らせたかな? でも怒ってるなら電話切るかな、と考えを巡らせるが無視される理由は思い付かない。
「塩田、番号は分かったからメッセージを送るよ。だから返事しろよ」
俺はそう仕方なく告げて電話を切った。塩田、と早速番号登録を済ませてメッセージを作成する。声を聞かれるのが嫌なら、メッセージでなら会話をしてくれるだろうと思ったからだ。
『なんで今になって行動に移したんだ?』
塩田はそれをすぐに読んだ。しかし返事は1分待てど、10分待てど返ってこない。俺はコンセントに向かって、「さっさと返事しろー」と急かすが相手はなかなか反応してくれない。
「既読ついてんだぞー、読んでるのは分かってんだぞー。観念しろー」
音沙汰なく20分が経ち、シャワーを浴びていた時だった。ヴーヴーと携帯のバイブ音が鳴り、メッセージを受信した事を知らせる。濡れた手をタオルでいそいそと拭きながらメッセージを読むと、『無性に君の事を知りたくなった』とだけ送られてくる。なんだよそれ、新手の告白かよ。 シャワーから急いで出て、髪をガシガシと乾かしながら二股コンセントの前に仁王立ちする。
「何を知りたい? ていうか俺の事なんて全部知ってんじゃないの? 大方、俺の性格も過去もお前の本の通りだと思うけど」
それに関してまた何も返事はなく、俺は次の質問を考えた。
「…なぁ、塩田。俺の知り合いがさぁ、お前は俺に一度だけ会った事があるって言うんだ。お前がそう伝えたんだろうけど、なんで一度なんて言い方するんだ? もし、俺の知ってる塩田だとしたら中学の同級生だし、顔を合わせた回数なんて数え切れないだろう」
『モデルとしての君に会ったのは一度きり。22歳の時だった。それを君には伝えたかった』
22か。確かにあの頃はとても忙しかった。けどさすがに塩田には気付くのでは? いや、こいつはあの頃だって顔隠してたようなもんだし、案外気付かないものかもしれないな。
「悪い、正直覚えてない。22の時は本当に忙しくて、色んな人に会ってたから……なんて、言い訳だな。悪い」
『君のバーにも行ってる』
へぇー、驚いた。いかにもオタクみたいなやつ、絶対に浮いて目立つと思うけどなと俺は何度か瞬きをして過去の客を思い返す。
「あ、もしかして、中学卒業してから見た目変わった? すっげぇー華々しく高校デビューしてた、とか。俺のバーって結構みんなお洒落して来るからさ、ダッセェ服着てるやつがいたらすぐ分かると思うけどなぁー」
『僕は君と同じ高校だった。君が1年A組だったとき、僕はB組だった。君のまわりにはいつも人がいて、賑やかで華やかだった』
なんてことだ。俺はこの塩田と同じ高校だったのか。だからタカオの事も知ってんのか。
「賑やかで、華やかねぇ。ま、モデルだったからね」
容姿が良いと周りのやつらはうんとチヤホヤしてくれる。毎日、能天気に楽しく生きていた。でも俺が裏で何をしてたのかってのはきっと誰も知らない。
『君は世界一綺麗で輝いてた』
「ふふ。ありがと。すっげぇ褒めてくれるじゃない。けど綺麗、かぁ。華やかに見えてたなら、本性を上手く隠せていて良かったよ」
『本性?』
「……そ。高校の時はわりと色々な事に手を出してたからね。ヤクに手を出してたのは知ってんだろ? 本にも書かれてたし」
『はい』
はい、だって。畏まっちゃって。
「売春してた、って言ったら驚く?」
そう言葉を投げると、それまでスムーズに来ていた返信がぴたりと止まる。「おーい」と声を掛けても返事はない。
なに、さすがに引いた? いやいやこいつに限って、俺がモデルを辞めるキッカケになった事件を知らないって事ないだろ? だって俺のストーカーだもんな? 金で体売って良い値で買われて、トラブって刺されて。それを知らないなんて事ある? それを知ってたなら高校の時の売春もそれほどショックな内容ではない、と思ったんだけど。うーんと腰に手を当てて、俺はこいつが何を考えているのかを考えた。けれど分からないまま数分が経ち、ようやく『相手は?』とだけ送られてくる。
引いたわけではない、のかな?
「さすがに覚えてないなぁ。十数年も前じゃない」
『今でもそういうことしてるのか』
「盗聴してんだから俺の生活くらい分かってンじゃないの?」
『答えて』
その三文字に圧を感じて俺の眉間には皺が寄る。
何、どういう感情? 文章って感情が分からないから嫌だな。
「……してないよ。してるように見える? 俺がモデル辞めたキッカケ、知らないわけじゃないだろ? あの時に辞めたの」
『また売りたいと思うか』
「うーん、さすがにねぇ。あの時もそうだけど、金に困ってるわけじゃないから。結局はヤりたかっただけ。んで、ヤるならついでに金も貰っておこうかなー程度だから。だから別に今は売りたいとは思わないよ。ヤるだけなら適当に相手探すし、金は別に要らないし。けど、そういうさ、ヤる為だけの相手はもう要らないかなーって。ちょっと安定を望んでるかもしれないな。お前だってそうじゃない? 普段何してるかわかんないけどさ、30になって安定望んでるんじゃない?」
それから塩田は返信を返さなくなった。しばらくして俺はその空気に耐えられなくなり、「おーい」と何度か呼びかける。しかし完全に無視を決め込まれる。数分経っても返事がないから俺も諦めて着替えを済ませ、キッチンへと移動した。料理をするのが面倒で、カップ麺でも啜ってから仕事へ行こうと湯を沸かしながら、テーブルに放置した携帯をぼーっと眺めていた。返事はまだかな、もう返す気はないのかな、と。
本では俺の事を好き勝手してるくせに、実際こうして話しかけてやっても反応はこっちが驚くくらい薄い。本当に俺のストーカーなのかよってくらい短文しか送ってこない。なーんかさ、もう少し構ってくれても良いんじゃないのかな。俺の性格はうーんと知っているはずだろうが。なんて考えながら沸いた湯をカップ麺に注ぎ、3分待ってズルズルと啜っているとヴーヴーと携帯が鳴った。
お! ようやくかと俺は携帯を確認する。『僕はずっと君のことを見てきた。』文章は、そんな甘い言葉から始まっている。甘い? いや、ちょっと危険な香りがする。でも、それが面白い。
『中学の時からだ。淡い恋心に似たものだった。君が話しかけてくれるなら、それが金目的でいじめだとしても良かった。でも高校に進学すると、君は僕の存在を忘れた。あの時はショックだった。廊下ですれ違って目が合っても君は知らん顔。僕の事を忘れた? そう何度も何度も思った。けれど答えは簡単。君の中で僕は存在してなかった。
程なくして君はモデルとして有名になった。でも君はどんな奴とでもセックスをすると、密かに噂になっていた。僕は美しい君が色んな男に嬲られ、喘いでる姿を何度も想像した。想像しているうちに、僕は君を殺したくなった。君はとても苦悶な表情を浮かべてイくよね。いつも熱い息を短く吐いて、眉間に皺を寄せる。でもそれがすごく甘美で、もし、君の首に手をかけて思いっきり絞めたら、君は最高に快い顔をしてくるんじゃないかって思った。僕は君の首を、絞めて殺したくなる』
ほーう。とっても明快な殺意ですか。愛情ってあまりにも度が過ぎると殺したくなるのかな。あの人がそうだったみたいに。でもその感情ってある意味羨ましい。俺はそこまで人を好きになった事がないから分からない。だからそんな風に人を好きになってみたいもんだった。異常な愛ってのをちょっとだけ、持ってみたい気持ちになった。
「そんな目で見てるやついるのな。いやー参ったね、お前、相当ヤバいな」
俺が笑いながらそう言うとまた返事はなく、俺は少し間を置いた。それからひとつの疑問を投げた。
「なぁ、塩田。話変わるけどお前はいつ、俺のイキ顔見たの?」
『いつも見てる』
即答だった。こえぇええ。麺を啜る手が止まった。内心絶叫して、何を言うべきなのか、どうしたらいいのか全く分からない。
「いつも、ってどういうことよ…」
『いつもはいつも。最初に見たのは高校2年の時、夏休みにプールの更衣室で3年の時藤くんとヤりまくってただろ? 君はたった1時間で3回もイかされてたよね』
「なんで知ってんの」
俺の大切な青春をこのストーカーに知られていただなんて。時藤先輩とのとても素敵で、過激で、あまーい青春の1ページ。素敵なセックスライフだったなぁ。あの先輩のことはわりと好きだったなぁ。懐かしい。恋人ではなかったし、なりたくもなかったけど体の相性は最高だった。けどまさかそれを知られていたとは驚愕の事実である。
『他にもまだ知ってる』
そう塩田は続ける。
『君がアサトって人で何度も抜いてるってことも』
やっぱりバレてたか。そりゃそうよな。俺のストーカーだもんな。
「好きな人で抜くくらい良いだろう」
俺はつい唇を尖らせてしまう。
『ダメとは一言も言ってない。僕は君のイキ顔を見る度に、僕だったらもっと快くしてあげるのに、って思ってるだけ』
「セックスの事を言ってるのなら大歓迎。そこまで言うなら超期待しちゃう。…けど、お前が言ってんのはそうじゃない、だろ? つまりそれが殺しなんだろ」
返事はすぐに返ってくる。
『君がそれを望むから』
俺はつい笑ってしまった。死は最高の快楽だ、みたいな過激な思想はどうやったら生まれるんだろう。今までそんな思想の下、どうやって生きてきたのかな。さぞ生きにくい世の中だったろうなぁ。
「望んでねぇよ。でもお前とセックスはしてみたいけど」
こいつに身を任せたらどうなってしまうのかな。あーあ、どんなセックスをするんだろ。きっと過激なんだろうな。なんかそれ、良いな。刺激のない今の生活にはもってこい、なんじゃないのかな。ちょっと想像しただけで反応しそう。
『だったら死の淵にいるような、ギリギリが好みなのかな』
こいつはそんなに俺を苦しめたいのか。俺は口を一文字に閉じ、腕を組んで何を言うべきかを考えた。さすがの俺もここは慎重に言葉を選ぶ。
「言っておくけど、俺、殴られたり蹴られたりは好かないよ。殺されるとかもっての他だし、そもそも血とか怖いし。だからさ、あんま暴力的なの考えんなよ」
けれど塩田は即答で俺の言葉を否定した。
『嘘はいらない。君は痛いのが大好きなはずだよ。君が過去に痛みを望んだから、あの人は君にニップルピアスを開けた。君はあの人からの痛みを欲したよね?』
さすがの俺もこの文面には顔を引きつらせた。モデルの時、半裸の撮影時は外していたそれを知る人は少なく、開けた理由を知る人はまず、いない。
「何のこと? …これはファッションよ」
『どうして右だけなんだ』
「特に意味はない。本当、ただのファッションだから。セクシーじゃん? ここに開いてんの」
『僕は君の左に開けたい。痛みで息を飲む君の顔をずっと見ていたい』
あの痛みをもう一度経験するなんて考えただけでもゾッとする。このピアスだって、あの人が望んだから俺は受け入れた。俺が望んだからじゃない、あの人が望んだからだ。でもそれをこいつに言わなかったのは、あの人の存在を口にすら出したくなかったから。過去の亡霊を思い出したくもないからだ。
「絶対にやだね」
『どうして?』
「右だけで十分だろ」
『そう。それは残念』
「そうそう、諦めてくれ」
けれどもし、塩田があの痛みを無理にでも与えたら、あの人が与えた痛みの記憶を上書きしてくれるだろうか。それなら俺はこいつに縋っても良い。縋って、痛みに泣いて、全てを真っさらにしたい。そうふと思考が支配され、何を考えてんだと慌てて口を開く。
「あ、のさ、俺は引っ越すつもりはなくて、この部屋にずっと住むと思う。お前が本気になれば俺を殺すなんて容易い事だろうから先に言っておくわ。俺はまだ死にたくない。あとピアスも嫌だ」
『分かった。でもピアスは分かったとは言えない』
「……あ、そう」
変な執着だよな。なぜそんなにピアスを開けたいのだろう。単純に痛いから? 痛みを与えたいから? 何故だろうかと俺は眉を顰める。中学の時のイメージしかないから陰気で根暗な塩田のままなのだが、15年以上も経ってるわけだ。その見た目も性格も変わったのだろうか。それとも拍車がかかり、デブでハゲでオタクで根暗でニキビ面もそのままで、ひたすら俺を殺すことしか考えていない変態人間にでもなっただろうか。そんな人間がひたすら俺にピアスを開けたいと考えてるってこと? それは怖いなぁ。
「なぁ、塩田。メガネって相変わらずかけてんの?」
『どうして』
「別に。今のお前ってどんな感じなのかなーって思ってさ。ちょっとした興味? ほら俺さ、容姿はかなり重視するから。ヤんのならお前の容姿くらい知っておきたいなぁーって」
『ヤるとは一言も言ってない』
「あ、そうだった? ピアスは開けたいのにセックスはしたくないの?」
『そうだね』
「なんだそれ。変わってんなぁ」
こいつには性欲というのがそもそもないのか、それとも俺に痛みを与える事で性的にも満足できるのか。だとするならば本当に変態だなと俺は顎を撫でながら、こいつが何か言葉を発するのをひたすらに待った。しかしまた塩田は返事をしなかった。数分が経過し、無視かよと心の中で舌打ちをする。確かに質問したわけじゃねぇけど、会話する気ないのかね。
「塩田ってさぁ、高校デビューした類の人間?」
居ても立っても居られず、俺はそう新しい質問を塩田に投げかける。
『高校デビューの定義が分からないけど、見た目だけで言うのであれば中学から何も変わってない』
「ふーん。お前って背は高いの? 俺、186あるけど、俺より高い?」
『日本人の平均身長を調べてから物を言ったらどう? それに、僕のことなんてどうでもいい』
「冷たいなー。俺は背の高いやつが好き」
そしてまた返事が返って来なくなり、「俺のこと、殺したい?」 そう新しい質問を投げかける。『はい』 と気分が向けば塩田は返事を返す。
「殺したいほど好き、とかではなくて?」
揶揄うような言葉を敢えて吐いた。好きではないと答えていた塩田だから、どうせ答えはいいえ、だろうと思いながら。けれどそほ答えは俺の予想とは少し違った。
『君のことは世界一のクズだと思ってる。だから君自身のことを人として好きか嫌いかで分けるのなら、嫌いだ。けれど君は痛みが好き。僕は君の泣き顔や痛みに喚く姿が好き。人に嬲られ痛め付けられるのを好くような人間だから、僕はその願いを叶えたいと思っている。それだけ』
世界一クズで人としては嫌いだけど、泣き顔と、痛みに喚く姿が好き…って、どういう思考回路? なにそのドSの極みみたいな性格。こんな歪んだ性格ってどうしたらなるのかなと首を傾げてしまう。まさか俺のいじめのせいだったりする? 中学の時に恥ずかしい写真を撮って、脅して、金巻き上げて、散々な事をこいつに言ったけど、それが原因だったりする? いや、でも、まさか、ねぇ…。恨んでるわけではないみたいだし。
「クズは嫌い?」
『クズが好きって人を僕は見たことがない』
「でも今の俺はクズじゃないと思うよー? 真面目に働いて、悪いことは全くしてない」
『知ってる』
「それでも俺はクズ?」
この質問に塩田はまた返事を返さなかった。おーい、と呼びかけても返事はなく、そこから一切の連絡が途絶えた。こいつが返信をしたくないと思うような地雷が何か俺にはサッパリ分からず、うーんと唸ってみる。訳わかんねぇの。塩田からの返信を待っても時間の無駄で、俺は出勤の為に身支度を始める。いってきまーすと二又コンセントに向かって手を振ってマンションを出た。初夏の生暖かい風が気持ちいい。夏は好きだ。開放的で気楽だから。
今年は海に行きたいよなぁ。海の男はいいねぇ、パンツの跡なんかくっきり残してさ、日焼け肌とか色っぽいし、いかつくて、あの太い腕でねじ伏せられたい、なんて、最近大人しくしていた自分の欲求不満度はマックスに達しそうである。ご無沙汰もいいとこ。辛い辛い。男は辛いやね。てか塩田って童貞なのかな。ちょっとセックスはしてみてぇなと思ったけど、あの中学のまま成長してたらあり得るよな。俺の痛みに喚く姿でおっ勃つような人間なら、まぁ、恋人はいないだろうに。あーいうタイプと付き合ったらどうなんのかなぁ。バイオレンスラブって感じかな? あいつは絶対、愛なんか囁かねぇだろうなぁ。なんてストーカーで想像しちゃうとか、俺の頭は本当におかしくなってしまったのかもしれない。今日あたり誰かとヤっておこう。そんな事を考えながら仕事に精を出した。
金曜日ともあって店は混み、俺の妙なムラムラは何処かへ消えていた。深夜2時、閉店時間にはカウンターにカップルが3組と奥のボックスにはサラリーマンが数人いた。その全員が店を出たのは結局、3時を過ぎた頃だった。ふたりのバイトを帰し、店には俺ひとりだけ。いつものように売り上げを計算して残っていたグラスを片付け、ドリンクの発注を済ませる。部屋の片付けをしようと椅子を上げて箒で掃いていると、カランとドアベルが鳴った。はっとした。こんな時間に来るって事はストーカーに決まってる。とうとうまじで殺される、そうひとりでパニックに陥りながら恐る恐る視線を入口に向けた。
「よかった、まだいたか」
けれどそれはストーカーの塩田ではなく、相変わらず端正な顔立ちをした男前であった。
「…アサトさん」
俺は安堵した。心の底からホッと胸を撫で下ろし、それはきっと顔に出ていただろう。
「よう。一杯付き合わねぇか」
アサトさんは俺の緊張なんか一蹴してくれる。なんともこの人は、甘い顔で笑って俺を誘ってくれるのだ。
「おー、いいねー。ちょっと待ってて、掃除終わったら出れるから。そこ座ってていいよ。はい、灰皿」
「サンキュ」
アサトさんはタバコに火を点けると、ふぅーっと煙を人の居ない玄関の方を向いて吐き出した。細くて長い綺麗な指でタバコを挟み、気怠そうに煙を吐く姿が本当に絵になっていて、いつも見惚れてしまう。アサトさんは煙を吐いた後、じっと俺を見ていた。昨日も今日もアサトさんに会ってしまった。このご無沙汰期にこうも連日連夜アサトさんに会うのは辛い。手に入らないものが目の前で宙ぶらりんに吊るされている感じだ。
「お前、結構ビビってたな」
「え?」
部屋を掃きながらアサトさんの言葉にぎくりとした。
「俺がここ入った時のお前の顔、だいぶ引きつってたぞ」
「あー…」
そりゃそうだ、ついに来やがったと一瞬思ったのだから。
「怖くなったか?」
「んー、まぁ、ちょっとね。でも平気だよ。殺されはしないだろうし」
「殺され"は"、ね…」
目を細めたアサトさんを見ながら、あ、しくったなと思った。そういう言葉尻をこの人は気にしちゃうんだ。
「ただの脅しだと思うわ、あれ」
俺はそう早口に告げながら視線を逸らして、掃除に集中するフリをする。
「お前あの本、全部読んだんだろ?」
「読んだよ。内容えげつねーのな。びっくりした。なんか俺ってこんな感じなのかぁーって思うと笑えてきてさ。情緒も性的な衝動も常に激しいし、すぐに人肌求めて、誰かに依存してなきゃ生きていけないって感じで。なのに簡単に裏切られて、ひどい目遭わされて。ちょっとさすがに酷くね? って思ったよ」
「そのまんまのお前だったろ?」
「えー。あそこまで不安定な男じゃないよ。それに人肌なしでだって生きていけまーす」
現に今は誰とも関係を持ってないし、しばらくヤってもいない、そう付け加えて口を尖らせる。ま、だからここまで欲求不満を募らせて、アサトさんを目の前にして心臓がキリキリ痛むんだけど。なんてこれは口には出せなかった。アサトさんは「本当かなぁー?」と鼻で笑い、その揶揄うような瞳にいちいち鼓動が速くなる。もういい加減、嫌だなぁ。参るよなぁ、まったく。掃除を終えて裏口の鍵を閉めてアサトさんの元へ駆け寄った。アサトさんが吸っていたタバコをあざとく横取りして吸って見せ、ふぅーと宙に吐き出して微笑んだ。
「本当。…さ、飲みに行こう」
そう言ってタバコを灰皿に押し付けた。この人に対して誘うような行動を敢えて取っても無意味なんだけど。それでもちょっと揶揄いたい。本当に俺に靡かないか、つついてみたい。
「おう」
アサトさんはそう満面の笑みで返してくれる。
「よーし、飲むぞー!」
うん、この人には何も効果がない。こっちが引くくらい効果がない。だからこそ俺はあざとくつつくのだけど、何をしたって靡かない。理由は簡単だった。だって奥さんから横取りできないって100%の確証があるから。だから俺がどんなに仄めかすような行動を取っても、あざとい行動を取っても、この人は可愛いジョークだと理解する。あーあ。この人の奥さんに1日だけで良いから変われないかねぇ。そう不毛な下心のある俺は、朝まで営業している居酒屋へと入り、大ジョッキのビールを注文し、一気に半分ほど飲んでは目の前の奥さん大好き男にへらへらと陽気に笑ってみせる。つい、今日もあんたを見れて幸せだと、口から溢れそうになっては我慢する。
「んで、なんか変わったことはないのか?」
「なーんにもないね。マジで心配いらないから。俺も30よ? 自分の身くらい自分で守れるわ」
30年も生きていたら落とせない男くらい分かるもので、この類の男に色恋など通用しない、って事も理解しているのだが、気持ちというのはいくつになってもコントロールできない。もっとも心を奪われてはいけない男が目の前で、ハンサムな顔を心配そうに歪めているのだから堪ったもんじゃない。
「そうは思えねぇから言ってんだがな。…まぁいいわ、俺も友人に当たってみたんだ。あの本を勧めてきたやつに」
「ほう。どうだった?」
「そしたら本を渡してきたイカれ野郎ってのが、野郎じゃなくて女だって言うんだよ。それも、びっくりするくらいの美女だったらしい」
「美女…?」
女……? 頭に無数のハテナが飛んでいく。訳が分からない。
「かなりのな。バーでナンパした美女からその本を貰ったらしいよ。しかもその美女、作家志望らしくてさ。なんか性に奔放な美しい男を主人公に小説を書いてみたかったんだと。もちろんモデルはお前。お前のファンだってのは本当らしい。で、あいつ、その女にコロっとやられてやんの。笑える話、それ以来連絡つかないから、その女の居場所なんて分からないって」
なんだそれ。男じゃない? てか塩田じゃない?
「…美女ねぇ」
「いやーあのペンネームと中身でてっきり男かと思ってたけど、女だったみたいだな。なんか、そう考えたら少しは安心っていうかさ、力ならお前のが強いだろうし、逃げられるかなって思ったわ。まぁ世の中、サイコな怖い女も山ほどいるけどな」
ちょっと信じられないよな。
「なぁ、それって本当に男じゃないの?」
俺は不思議でならなかった。だって塩田はあの時、俺の知ってる塩田だと認めた。俺の中学時代も高校時代もあいつは知っていた。だからアサトさんが言うような女であるはずがないと思ってしまう。アサトさんは俺の疑問に少し怪訝な顔を見せた。
「なんでそんなに男だと思うんだよ」
ストーカーと連絡を取り合ってる、なんて心配性のこの人に言えるわけもなく、「えっと…」と口籠もりながら良い理由を必死になって考える。何か、アサトさんを納得させるような理由…。
「いや、その、さ、女なわけないと思うんだよなぁ。だって俺、女に興味ないっていうの、あの事件で公表されちゃったろ? ラブレターだとしたら女が送るかなー? それに美しい女性がよ、あんな過激な言葉、わざわざ選ぶかな? 信じ難いなと思ってさ」
この理由でどうだろうか。一応、それらしくはあるだろ? アサトさんの眉間の皺は深くなる一方だったが、数秒の沈黙の後、少しだけ皺は解け、「んーまぁな」とタバコの煙を吐く。
「女性作家でも過激な言葉を敢えて使う作家はいるからなんとも言えないが、うーん…。でもあいつが会ったのは女だって言うからなぁ。美人のファン、というかストーカーで羨ましいって」
納得はいかないが話を広げるのも違うか。直接、本人に聞けば良い事だから。
「ま、そう、よな。友達がそう言ってたんなら女かもしれないよな」
だから俺はそう無理に誤魔化して、へらへらと笑ってその場をやり過ごした。しばらくしてアサトさんがトイレへと席を立った瞬間、俺はすかさず塩田にメッセージを送る。
『女が本を渡したと聞いたけど、お前は俺の知ってる塩田で合ってるのか?』
返事は意外にもすぐに返ってきた。
『女は関係ない。金で仕事をしてもらっただけ。その方が後々、アサトとか言う人が探り入れても足がつかないと思ったから。僕は君が知ってる塩田で合ってる』
アサトさんが探りを入れても、か。アサトさんが作者探しするだろうって分かってたんだ。
『そうか、分かった。ありがとう』
送信した瞬間、後ろから「恋人でも出来たのかー?」とアサトさんの呑気な声が聞こえた。
「できてませーん」
「特定の恋人とか欲しくならないのか? 一生、独身貴族貫くつもりか? お前」
欲しいさ。でもあんたが原因で作れないんだ。作ろうとするとあんたと相手を比較してしまう。そうなると全てがダメになる。そうぶち撒ける事ができたら、どれだけ楽だろう。
「今んとこ要らないってだけだよ。俺、飽き性だし」
「でも寂しいとか思うだろ?」
「まぁ、そりゃぁね。でも別に今は良いかなって。欲しいと思った時に作るからさ」
「モテる男は言うことが違うな」
アサトさんは屈託のない笑顔を見せると、ビールを飲み、焼き鳥をつまんで、「まぁ、分からないでもないけど」と付け足した。でも、じゃぁ、なんで今の奥さんと結婚したんだよ。そんな疑問は口が裂けても聞けない。
「アサトさんだって、すっごいモテてたでしょう? 遊びたいなー、とか思わないわけ?」
「思わない、と言ったら嘘になるけど、でも、なんていうのかなぁ、帰ったら飯があって風呂が沸いてて、あいつがおかえりーって笑ってさ、ガキがバタバタ走ってきて、ぎゅーって抱きついてきて、なんか、最高に癒されんだよな。安心ってのが家にはあるんだよ」
「そんなもんすかねー」
そういう関係って築けるものかな。安心するものかな。恋人に対して安心感は抱けるのかな。安心を求めているのは確かだった。塩田に言ったように、安定を望む気持ちもあるし、安心したいと思う事もある。けれど、それはまるで夢物語のようで、俺には関係のない事のように思えて仕方がない。
「そんなもんよ。仕事で疲れてヘトヘトで家帰ったら風呂沸いてて飯もあってみろよ、嬉しくないか?」
「それは嬉しいけどさぁ」
「まぁ、お前もそのうち分かるよ。今は寄ってくる人間なんてたくさんいるだろうし、安定した生活なんていらないと思うんだろうけどな」
俺がどれだけあんたを欲しいと思ってるのか、あんたはこれっぽっちも分かってくれないし、俺も分からせようとはしていない。あんたとなら安定した生活で、安心を得られるような気がするけど、それは永遠と叶うことのない願いだろ。とっても窮屈で、嫌になる。さっさと誰かで欲求を満たさないと爆発してしまいそうだ。
「そうですかねー?」
「そんなもんよ」
ヘラヘラと楽しそうに笑うアサトさんを横に、俺の心はどんどん沈んでいき、酒を飲んでは誤魔化そうと必死になった。そうやってつい飲み過ぎるのだ。
「ストーカーさーん、俺はここですよー」
賑やかな店内、俺はそう言って笑ってやるとアサトさんも声を出して笑った。
「やめとけやめとけ、本当に来たらどーすんだよ」
もっと、もっともっと、心配してほしいや。
「ストーカーさんになら、何されてもいいよー」
「蓮司ぃー、いい加減にしろよー。俺は本当に心配してんだぞ? どーすんだよ、監禁とかされたらさぁ」
「アサトさん、助けに来てくれるだろー? ヒーローはピンチの時に来るもんね?」
「いやいやいや、そうならないために、警戒しとけよって言ってんだろうが。俺はヒーローなんかじゃねぇしさ、お前のピンチに駆けつけられるかどーか。警察呼べな? 警察。…あ、この砂肝美味いな」
「警察ねぇ…」
あんたは俺のヒーローだ。 警察なんかより、ずっとヒーローだ。俺を救ってくれたじゃないか。優しくしてくれたじゃないか。だから俺はあんたのモノになりたかったんだけどなぁ…。叶わないものってのは世の中ゴマンとある。アサトさんはすっかり眠そうに欠伸をしながら時計を確認した。
「あ、もう、5時半なんだ。やべぇやべぇ、俺、帰るわ。お前も悪かったな、付き合わせちまって。明日、普通に仕事だもんな?」
「ん? まぁ、そうだけど…」
「ストーカーが来ないか、たまに見張りに行ってやるから安心しろよ、蓮司ちゃん」
「明日、来る?」
「あー悪い。明日の夜は家族タイムだわ」
「ストーカーは土日休みとかじゃないと思うけどなぁ」
意地の悪い言葉を投げるとアサトさんはタバコを吸いながら、「殺されンなよ」そう言って笑った。もし奥さんにストーカーがいるとなったら、そんな言葉、絶対に言わないだろうな。でも現実、ストーカーに狙われているのは危ない橋を渡りたがる俺で。アサトさんの心配も今や何処かへ飛んで行ってしまった。
アサトさんはレジでさっさと会計を済ませ、俺も払うと財布を出すが、「今度美味い酒、作ってくれな」と笑ってタクシーに乗って帰ってしまう。いつもだ。いつもカッコよく去って行く。俺も稼ぎはあるのになと思うのだが、アサトさんにとって俺はいつまでも、年下のモデル上がりなガキ止まりなんだろう。10コも違えば、そんな扱いなのかな。そんな事を淡々と考えながら、俺もタクシーを拾って家に帰る。ただただ欲求不満だった。いっそのことクラブにでも寄れば誰かいただろう。手軽な相手くらい、いただろうに。ヤッてから帰れば良かったかなー。そう頭の片隅で思う一方で30にもなると、なかなか疲労が抜けず、帰って寝たいという気持ちに襲われる。
結局、その休みたいという欲が勝ってしまい、俺は何もせず帰宅するのだ。それが今の俺、である。
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