1. 黒表紙のラブレター

愛に溺れて狂って苦しんで。過激な愛情と体を引き裂くような酷い痛みを混ぜてどろどろに、ぐずぐずに。そうやってようやく愛されているのだと認識できる。そう、思うようになったのはいつからだったろう。それって、あの人のせいだったろうか。あの人が、俺を変えたのだろうか。痛みと快楽が繋がるようになると、それはもう、きっと、立派な



「変態」



である。隣で本を読みながら、タバコをふかしていた男は突如そう言った。



「なに、いきなり」



バーカウンターでしっぽりと飲んでいた俺はその言葉に片眉を上げた。その言葉が俺という人間にもっとも適した言葉だったから。突然冷たく放たれた言葉を、俺は脳内で何度も繰り返す。変態、変態、変態。俺にとっては褒め言葉だろうな。俺は飲んでいたジンの氷をくるりと指で回し、隣にいる端正な顔立ちをした男を見た。



「お前って変態だなぁーって改めて思った」



「なんだそれ」



でもこの人は俺を見ようともせず、文字がびっしりと詰め込まれた本から目を離すことなく口だけを動かしている。



「今読んでた小説の主人公、お前にすげぇ似てんなぁって思ってさ」



そう差し出されたその本は真っ黒な表紙に蓮の花だけが咲いていて、題名も記されていない。小説なんてもう久しく読んでいないが、主人公が自分に似ていると言われれば気にはなる。頬肘をつきながら、差し出されたその本をパラパラと捲ってみる。



「げー。なげーな、これ。何ページまであんの? …260? うわー読み終わる気がしない」



文句をたらたらと述べる俺に男は、そうか? と首を傾げた。



「俺は2時間半ちょっとで読み終わったけど」



「そりゃぁ、アサトさん、あんたにとっては仕事でもあるから簡単な事のように言うけどさ、本が苦手な俺からするとこんなの苦痛だわ」



「まぁ、趣味であり仕事であり天職ですよ。読書はいいぞー、読書は」



「そうですかねー」



まったく賛同できない。でもこの人にそれを言ったところで平行線になると分かっているから、適当に相槌を打ってその場をやり過ごす。少しの沈黙の後、アサトさんはお気に入りのウィスキーのロックをぐいっと飲み干て俺の方を向く。



「…なぁ、お前、いくつになった?」



突然の質問に俺は疑問符を頭に並べながら、「今年で30になりましたけど、なにか」 と返すと、「おー、やっぱり?」とアサトさんは片眉を上げる。



「やっぱりってなんだよ」



「この主人公もね、30歳。容姿に恵まれた男でね、26まではわりと名の知れたモデルで、パリやニューヨークのコレクションによく出てた。テレビでもたまーに見かける顔だったのよ。海外で引っ張り凧のモデルでーす、ってな感じで。でもある日突然、モデルを辞めちゃうんだ。世間でも騒がれて、色んな憶測が飛び交うわけ。ヤクやってんのバレて事務所クビ、とか、都内で飲食店を出すからモデル業はおさらば、とか、でも本当は主人公の欲望のせい」



「欲望…」



隣にいるこの男は俺の事をうんと知っている。知っている分、この人の側は居心地が良いのだが、反対に何を言われるのかとハラハラしなければならないのも確かだった。現に今、この人が口にした内容は俺の事を言っているようだった。割と名が売れて、海外で活躍して、26で突然モデルを辞めた。それくらい酷似した内容なのにアサトさんは無遠慮に、そして無配慮に、"欲望"のせいで主人公はモデルを辞めたと言う。



「この主人公の性癖ってのがまぁ問題でね。マゾヒストっていうのかな、痛みと快楽が直結してるというか、痛みでしか快楽を得られない体質というのか。それでいてモデルで売れるくらい顔も体も文句なしに良い。夜遊びするほど問題は増えて、モデルやってる時にも一度顔面に大きなアザを作った事があったわけ。事務所はカンカンに怒って次はないぞ、ってくらい怒るんだ。でもこの主人公はモデルって自覚が呆れるくらいないのよ。顔と体が良いだけでとんでもなくクズだから、反省もせず、頻繁に揉め事を起こしては怪我もする」



アサトさんはそう言って新しく注がれたウィスキーを一口飲んだ。



「そんで、26の夏、事件が起きた」



カランと氷を揺らしながら、話を右耳から左耳へと流しながらアサトさんの話しを聞いている。



「レイプされんの、集団に」



だがその言葉に氷を揺らす手が止まり、俺の片眉はまた上がる。



「殴られ、蹴られ、手足の自由を奪われて好き放題にされる。主人公がいくらマゾヒストだとはいえ、それは望んだ行為ではなかったわけよ。そもそもそうなったのは、彼の今までの行いのせいでもあってね、まぁ、自業自得ってのも否めないんだけどさ。そのレイプされた理由ってのが、遊びに振り回したある男に対して飽きたからって理由で男と突然縁を切り、切られた男は拒絶に怒りを示して悪い友達連れて彼を襲ったって経緯なんだ。そして男は彼に執着をしていたから、自分のものにしようとして彼にナイフで傷を付けた。一生消えないであろう深い傷を。モデルとして致命的だったのは顔に傷を付けられた事。左頬をナイフで切られた事はモデルとしておしまいだった。事務所も彼の問題行動には飽き飽きしていたし、問答無用で彼を切り捨て、彼はモデルを辞めざるを得なくなった」



アサトさんの細く長い指はタバコを挟んだまま。俺の左頬をすっと縦に撫でた。



「顔に傷なんてモデルとしては、いけねぇよな?」



いいなぁ、この人。本当、…いいよなぁ。触れられて、俺の頭はアサトさんでいっぱいになる。アサトさんの言葉は、いや、その物語はとても怖い内容なのに、俺はアサトさんの瞳と触れられた頬に淡い熱を感じていた。俺には危機感ってのが本当に欠如しているのだろう。



「でもねぇ、自分の蒔いた種が原因でそうなっちまったからね」



アサトさんは目を細くして溜息混じりに俺に訴える。この人は俺に警告しているのだろうか。少なからず、俺にはそう見えている。



「主人公はモデル辞めたってのに、世間では辞めた原因は何かって話題になっちまった。あらぬ事も噂されたが、一番騒がれていた内容は、彼は超のつくマゾヒストで、誰彼構わずセックスするほど貞操観念が低い男で、それが原因でレイプされて半殺しに合って顔に傷を負った為にモデルを辞めさせられた、って理由だ。ゾッとするだろ。どこから漏れたのか、事実が噂のひとつとして世間に広まった。スキャンダルもいいとこよ。結局、世間を大いに騒がせ、誹謗中傷の的にされた」



「ふーん」



そう敢えて薄い反応を示すとアサトさんは頭を掻く。俺に何も響いてないなと感じているからだろう。しかしすぐに切り替えたように、「でも、怖いのはここから」と、どこか楽しそうに口角を上げる。俺はその言葉に顰めっ面をしてしまう。怖いのはここからって。十分、今までの内容もゾッとしてますけど。俺は口を曲げながらアサトさんの顔を見た。



「そんな出来事も日に日に、飽きられるように忘れ去られた頃、主人公の生活も落ち着きを取り戻していてね。知り合いのバーでバーテンダーとして雇われて、日々生活してたのよ。顔の傷は残っていたけど、容姿も良くて社交的だった彼は、傷があっても昔はやんちゃしてた男前って感じで男女問わず客からはえらく人気だった。だから主人公は前向きに頑張ってた。けれどそんなある日、バーにひとりの男がやってきた。事件からは4年が過ぎていて、主人公も30。夏の日だった」



アサトさんはそう言うと、わざとだろう、話す雰囲気を変えた。まるでここからは怪談ですよー、と言うみたいに声を低くする。



「男は主人公と同じ歳くらい、中肉中背で冴えない感じの男でね、そいつは木曜日の晩に必ず店を訪れたんだ。主人公はいつもひとりで来るその男が気になって、ある晩に声を掛けた。今日は蒸し暑いですね、って。そしたら、えぇ、とだけ返してその男は照れたように笑うわけよ。その微笑みに主人公は、良いな、と思ってしまってね、いつも表情なしに酒を飲む男も、声を掛ければ笑ってくれるんだって具合にさ。そんで来る度に話すようになって、仲良くなって、店の外でも会うようになった」



「……ねぇ、それ、ハッピーエンド?」



なんだか後味の悪い終わり方をしそうだなと思った。だからその話しの最後を聞きたくなくて、急かすように訊ねると、アサトさんは「まぁ、聞けよ」とタバコを灰皿に押し付ける。話をやめるつもりはないらしい。



「ひょんなことから、ふたりは観覧車に乗ることになってさ、デートだね、デート。あ、その流れまでにもうふたりはズッコンバッコンやってんだけど、主人公は自分の性癖を隠してたから、普通のセックスを楽しんでたわけね。あのレイプ以来、そもそもセックス自体を避けてたから。でもその男とは肉体関係を持った。で、まぁ、さっき言った通りの観覧車に繋がるんだけど、主人公は男の事を心底信じてるってがそれまでの流れで分かるわけよ。その男はあの事件の時に日本にはいなくて、主人公に関するニュースは知らなかったようで、主人公はだからこそ安堵っていうのかな、心を開いたんだ。でも実際はその男、全て知ってた。美しくてハンサムなモデルがゲイでマゾヒストでレイプされて殺されかけたって知ってて近付いたんだよ」



もう聞きたくなかった。アサトさんはこれ見よがしに俺に話すが、俺にとってはとてつもなく苦痛な時間である。俺がその主人公に似てる、と前置きしておいてこの話しはないだろう。



「ハッピーエンドじゃないでしょ?」



俺が呆れたように言うと、アサトさんはくくっと喉の奥で笑った。



「観覧車の中で何が起ったと思う?」



俺の質問には答えずに、アサトさんはそう疑問を投げかけ、そして俺の返答は不要だと言わんばかりにすぐに答えた。



「主人公のモデルが殺されんの」



正直、やっぱりかと思った。この流れで幸せいっぱい、とても素敵なハッピーエンドになるはずがない。俺に似た男の人生を描いた小説の最後なんて、きっと碌でもない。



「後味の悪い最後だね」



俺がそう言うとアサトさんは俺の方を向き、「でもな、犯人の姿はないんだ」と低い声で言う。まるでミステリー小説の山場を語るように。



「一緒に観覧車に乗ったのに、観覧車の中には死体になった主人公だけ。体の傷は見るも無残で、腹を何回も刺されて、苦しみながら死んだってことが後々分かるわけ。犯人は相当頭のおかしいやつだって考えるだろ? だって、腹だぜ? 急所はあえて外してる。少しでも長く生きるように、長く苦しむように、そう思うと鳥肌が立つだろ?」



だろ? と聞かれた俺は、「まぁ、はい」と曖昧に返事を返す。正直、そんな気味の悪い話はもう勘弁してほしい。



「しかも、その観覧車の中は精子がいろんところに飛び散って、もう、なんていうか、ぐちゃぐちゃなんだ。とにかく酷い死に方。で、後々分かるんだけど、レイプ以降、ネットで一部のやつらがその主人公のことで盛り上がってたんだ。その内容は、その主人公をレイプした挙句に殺してあげたやつはヒーローだって内容だった。殺してあげるんだぜ? ネットってのは怖いよな。そんで、その主人公の家も職場も全部公開されてたわけよ。きっと犯人のあの男も、ネットで情報を集めて静かに、何食わぬ顔で近付いたんだろうなって、読み手としては最初思うんだよ。けれど展開するにつれて警察はなーんにもしないの。そこで読んでるこっちとしては、どういう事なんだ? って考えるわけ。なぜか分かる?」



「…ゲイでマゾヒストで変態だったんだろ? その主人公。だから、じゃないの? 世間はそんな変態野郎は見て見ぬフリをします、ってのがオチじゃないんですかね、どーせ」



後味悪いな。自分で言っても後味の悪さに吐きそうになる。



「違うんだな」



しかしアサトさんは否定して、ふっと鼻で笑う。



「そいつ、自殺だったんだ」



「は?」



予想外の回答に頭が混乱してよく理解ができない。自殺、とはどういう事なのか。男が殺したのに自殺って訳が分からない。



「それがこの小説の面白いとこでさ、レイプ以降から、この主人公の作り上げた話しなんだ。妄想して幻想を見ていたってオチでね、結局は、バーでバイトはしてたが何の刺激もなく、誰かとセックスしようとしても恐怖が蘇り何も出来ず、そうやって精神がおかしくなってさ、惚れた男なんていなかったし、その男とセックスだってしてなかった。観覧車にひとりで乗って、ナイフで腹を何度も刺して自殺してんだ。しかも刺しながら、自慰行為にふけってんの」



言葉を無くした俺にアサトさんは畳み掛けるように、「筋金入りの変態、だろ?」と微笑んだ。つまりこの目の前の男は、そんな頭のおかしいトチ狂った主人公と俺を似ていると前置きしたのだ。



「なにそれ、そんなのと俺を似てるって言ってんの? ひでーな」



「ちょっと似てるってお前も思ったろ?」



「モデルやってて、26で業界追い出されて、現にこのバーで雇われてるってとこだけな」



「他にも似てる点あったろ?」



アサトさんは何を考えているのだろうか。俺には全く掴めない。アサトさんはグラスの酒を飲み干すと「同じの」とバーテンダーの佐伯君に酒を注文した。ヘビースモーカーのアサトさんはまた新しいタバコに火を点け、ふぅーっと宙に煙を吐く。



「性癖も似てんだろ」



その言葉に心臓がきゅぅっと縮んだような、握りつぶされたような感覚がした。この人とやった事ないのにな、そんな風に言っちゃうんだ。冷たい目で俺を見たアサトさんに俺は内心笑うしかなかった。この人って本当、おっかねぇのな。でも俺があまりにも驚いた顔をしていたからか、アサトさんはその表情を小馬鹿にするみたいにはらはらと笑った。



「お前って、嘘つけねぇのかよ」



この人のそういう顔が好きだった。そういう物言いも好きだった。



「俺はアサトさんのそういうところ嫌い。けっこー嫌い。人を揶揄うみたいに、性格悪ぃったらありゃしねぇの」



けれど口では嫌いだと言ってしまう。そりゃそうだ、叶わない恋なのだから。恋したところで、何も返ってこない無駄な時間。だからこんな男に割いてる時間などない。本気になったって、良いことはこれっぽっちもない。



「いやいや、でも当たってんだろ? お前って顔にドMです、好きなだけ嬲って下さいって書いてあるもんな」



良いことない、って分かってんだけどな。この人の吐く言葉や、タバコをふかしながら笑う顔に、何度も俺は好きだと言いそうになる。



「わーもー、引くわ。最低すぎる。出てけー、このエロオヤジ」



アサトさんは俺の嫌がる顔を見ると、楽しそうに目尻を下げてまた笑った。



「おいおい、出て行けはないだろー? お前より俺のがここに通ってる歴、長いんだからなぁ? お前にここを紹介したのも俺、そもそも職のないお前の面倒を全般みてやったの俺だろーが。感謝しろ、金髪黒眉ハーフ」



「うわーひでぇ。その金髪黒眉ハーフって、俺を下卑する時に使われてたって知ってて言ったろ。何度影でそう言われてきたことか! 俺、けっこうメンタルやられちゃうんだからさ、やめてくんないかな」



「そのわりに、言葉責めとか好きそーよな」



「そのイメージもやめてください」



「ハハハ、悪い悪い」



アサトさんは確かに俺の面倒を見てくれた。このバーを紹介して、俺が働けるようになったのもこの人のおかげで、この人は俺に住む場所も与えてくれた。飯も奢ってくれた。だから26で仕事を失くし、途方に暮れてた俺はこの人に心底惚れた。モノにしたいと思った。モノにできると思った。

 

でも世の中そう上手くいかないらしい。この人は俺になーんの興味もない。ちょっとした興味で手を出そうとも思わない。そういう人はどうしたって落とせない。この人には最愛の奥さんと、小学校に上がったばかりの息子と3歳の娘がいる。あと、何故か三郎と呼ばれるミドリガメと、ポン太と呼ばれるタヌキっぽい焦げ茶のまんまるな猫。幸せな環境で幸せいっぱいのこの人に、俺が付け入る隙は昔っからどこにもない。


けれど違った形の愛情はかなり与えてくれる。放っておけない、という保護者愛のような、世話好きなこの人の親心のような愛情。自分もモデル上がりで苦労を知ってるからだろう、俺にもたくさんのものを与えてくれた。俺に世話を焼いてくれていたのは、きっと、自分と似ている点が多くあったからで、そんな自分を救ってくれたのは今の奥さんで、だからこの人は俺にも支えが必要だと思ったのだろう。


アサトさんは今じゃ雑誌の敏腕編集長で、若手で優秀な小説家を発掘する才能を発揮している。たぶん、俺に勧めたこの黒い本も発掘した子の作品だろう。だから俺はこの人の勧めるものを無下には出来ないのだ。俺は無邪気に笑うアサトさんを横目に、本をパラパラとまた捲ってみた。



『この街は美しかった。教会で陽の光を受けるステンドグラスのように、その町は輝いていた。きらきらと、カラフルに。死ぬ間際、俺は自分が生きた町の夜景を見下ろした。俺は今日、子供の頃よく来ていた遊園地で殺された。子供の頃、大好きだった観覧車の中で殺された。鋭利な、するどく輝く冷たい宝石のようなそれを、何度も何度も、俺の腹部に繰り返し、挿れる。挿れては抜き、溢れる血を確認して、また違う場所に挿入する。彼は、俺を、この世から解放してくれた。』



「読む気になったか?」



最初のページを少しだけ読んでると、アサトさんは片眉を上げてそう尋ねた。



「…この本、くれんの?」



「お、珍しいなぁ。やるからしっかり読み込め。読書ってのは色々と気付かされる」



なぜ、くれんの? なんて聞いてしまったんだろう。言った矢先に後悔した。自分に似ている主人公が最後は哀れな、奇怪な死に方をする本なんて読んだところで何の得もない。不気味なだけ。気味が悪いだけなのに。



「自分に似てる男の話、興味沸いたろ?」



「ここまで俺はぶっ飛んでない」



「でもこの作者はこういう展開が良いと、最適だと思ったんだろうな。この主人公の最後は誰もが絶句するような奇怪な死。理解し難い死。それが良いんだって」



そう言ったアサトさんは真剣な目を俺に向けていた。俺を見る目が少しだけ怖かった。眉間に皺を寄せていた俺に、この人は表情を固くしたまま言葉を続けた。



「お前の人生は性に従順だった。自由奔放でそれが原因でモデルを辞めてるのに、その生き方は何ひとつ変わってない。…そういう刺激を自ら望むお前にマトモな死に方はさせたくない、ってこの作者は想像してるんだよ」



「は?」



作者は俺がマトモな死に方を望まない? これは作り話だろ。たまたま主人公が俺に似てるってだけだろ。でも今のアサトさんの言い方だと、俺に似せて作られたって事になるよな…?



「この話は全部お前の話だ。お前にこうしてほしい、って願って書かれたものだ」



その言葉にどきりとした。俺の話として作ったとなると、この本は俺に対する何らかのメッセージなような気がして思考が恐怖によって停止した。悪寒が走るほどの不気味さ、恐怖心にぞわりと鳥肌が立つ。アサトさんは呆気にとられる俺の目を見ながら言葉をつらつらと続ける。



「実はな、この本は出版されるわけじゃないんだ。出版を目的として製本されているわけじゃない。この本はお前に宛てた物語で、お前の為に書かれたとち狂った話しって事だ」



「え…」



「実はな、この本は、この作者からお前に渡すよう言われて俺の手元に届いたものなんだよ。すでに製本されていた。真っ黒なこの表情、不気味に咲く蓮の花も、きっと作者からのメッセージなんだろうよ」



そう言われて再び本の表紙に視線を落とし、それからアサトさんを見上げる。アサトさんは俺の空になったグラスを顎でさして、お前も何か頼めとタバコの煙をふぅと人のいない方に吐き出した。俺は適当に酒を注文し、アサトさんに説明を急かす。



「渡すよう頼まれたって、なんで…どういうことなの」



「この作者はお前に一度だけ会った事があるらしい。それからずーっと想像してきたんだってよ。えらい執着だよな? お前で妄想しては本の中で無茶苦茶に描いてる。愛情や羨望とは全く違う、歪みきった過激な欲情だ」



「その欲望まみれの本を俺に渡せと? そういう事? アサトさんは直接頼まれたの?」



参ったな。たまに変な人間から迫られることはあるけど、こうして本を、しかもアサトさんを通して、というのは初めてだ。



「俺も友人に頼まれたんだ。小説書いてる若いやつがいるからぜひ読んでやってくれ、って。そいつはこの本を一行も読んでないんだろうな。そいつがさ、言うんだよ。作者が蓮司の大ファンで、蓮司をモデルに書いたからお前にもその事を伝えてくれ、てさ。お前に読ませる前に自分で読まなきゃなと思って読んでみたら、この有様だ。中身は欲望にまみれた話だった」



肝が冷えた、とはこういう時に使うのかもしれない。殺されるのは勘弁だ。いつも危ない橋を渡っていた事は確か。誰彼構わずまぐわって、その場をただ楽しんできた。ドのつくマゾヒストだってことも周知の事実だし、気持ち良ければ何でも良いと思ってしまうが、俺はこの本みたいに自殺なんかしないし、殺されることも願ってはいない。痛めつけられて殺されるなんて、もってのほかだ。



「後味悪すぎ。…なんで、そんな話を俺にしたの?」



「怖くなった?」



「そりゃぁ、ね。気持ち悪いな、って感じ」



「さらに付け加えるとな、この作者、お前のこと本当よく知ってる。知りすぎてる。お前、今年の初めに新しくソファ買ったろ? 真っ赤なやつ。この本の中にも、主人公が真っ赤なソファを買うシーン、あるんだよ。これって偶然だと思うか?」



「ストーカーってことね」



俺はつい、はっと笑ってしまった。頭のおかしいストーカーなんて、まだいるんだなと思ったから。モデルをやめて4年も経つのに、俺をストーキングする物好きがまだいたとは思いもしなかった。


ストーカーなんて今まで何人もいたが、怖いと思ったことは一度もなかった。脅迫文を送りつけられたことも、モデルの時ならたまにあった。お前を理解しているのは俺なのに、どうして俺のものにはならないんだ、殺してやる、なんてちょっと刺激的な内容の手紙には驚いたけど、なんだかんだその状況を楽しんでいた。


さてこの本の作者は俺をどうしたいのだろうか。本の内容通りならば、俺に自殺してほしいって事なのかもしれないが、それはまず起こり得ない事。それともただバイオレンスラブってのを望んでるのだろうか。自分の思い通りにならなかったら俺を殴って、蹴って、怒鳴りつけて、それから陳腐な愛を囁きたいのだろうか。なら、俺との接触を考えてる、って事だよな。うーんと、ない頭で考えるが答えは出そうにない。



「だからな、蓮司。お前にひとつ助言してやろう」



「なに?」



「明日にでも、引っ越せ」



あ……。そっか、そういう事か。俺はアサトさんの魂胆を理解した。理解した途端、どうする事もできなくて頭を掻いて、口を歪めた。どんなに好きなアサトさんの願いであってもそれは叶えられない。アサトさんはストーカーが俺の家を突き止めてると確信したのだろう。いよいよ本気で俺には引っ越してほしいようだが、俺は引っ越しなんて絶対にしたくなかった。今、住んでいる場所を手離すのは俺の心臓を抉り取るのと同じ事だから。頭のおかしいストーカーに住処がバレていようが何しようが俺は引っ越しなどしない。



「それは嫌だよ。絶対に嫌」



「あのなぁ、お前、ここまで気持ちの悪い話をしたんだぞ? 頭のおかしいストーカーに部屋がバレてんだぞ?」



アサトさんは完全に呆れた目を向けていた。それでも俺は引っ越さない。俺があの部屋に執着するのは、この人と過ごした場所だったから。名残ってのが部屋のいたるところにあるから。それは俺にとってとても大切なものだから。だから俺は絶対に引っ越しなんてしたくない、という事を目の前のこの人には言えない。



「アサトさんさぁ、この本の作者のことを隠して俺に内容を話したのって俺の恐怖心を煽る為、そうだよね?」



アサトさんは片眉を上げ、図星、と顔に書いてあるほど分かりやすい表情だった。



「結果、失敗だけどな。お前が頑固に今の住んでるところを引っ越さないってのは分かってたから、どうにかしないとなと思ったんだが…。なぁ、蓮司、住んでる場所バレてんだよ。ソファのことも、毎日観葉植物に水やってるってことも、なにもかもだ」



なにもかも、か。それは恐ろしい。俺が叶わない恋に身を焦がし、アサトさんを思いながら抜きまくっているのもバレてる、ってことだろ。怖い怖い。アサトさんは少し心配そうに俺を見ているが、半ば諦めの色も見える。俺は新しく頼んだ甘いカクテルを飲み、ふぅとアルコールの混ざった息を吐いた。こうして心配そうなアサトさんの顔を見ていると4年前の事を思い出す。アサトさんは俺の事をこれでもか、ってくらい心配してくれたっけ。この人は本当に良い人で、お人好しの、ただの男前だ。



「でもなーんでストーカーは俺の部屋の中まで知ってんだろ? 地上から見えないのに」



「知らねぇよ、そんなこと。一刻も早く新しい物件見つけてあの部屋出ろ。じゃないとお前、ナイフで犯されて殺されんぞ」



犯されて殺される、だって。物騒な話しだ。快楽に変わる痛みは、愛があるから成立する。そう昔、あの人が言ってたよな。だから足掻いても、もがいても、何をしても、君は気持ち良くなってしまうんだよ、と。でも、愛のない痛みはただの痛みでしかない。空虚で得られるものは何もない。だとしたら、この狂ったストーカーが与える俺への痛みは、前者だろうか、後者だろうか。想像しては少し口端が緩んだ。



「大丈夫だと思うけどね。だってもし、俺を殺したいって本気で思ってるなら、もう殺してるでしょう? 住んでる場所も突き止めてるならすぐに殺せる。なのに人伝てで、こんな分厚いラブレターを渡すなんて警戒して下さいって言ってるようなもんよ。引っ越しするかもしれないのに、本当に俺に危害を加えようとする人間とは思えない」



肝が冷えるほど頭のおかしいストーカーがいる、と思う反面、俺はいつも通りの余裕を心のどこかに持っている。アサトさんは、はぁ、と深い溜息を漏らしてタバコをぷかぷかと吸い、しばらく口を閉じて眉間に皺を寄せる。煙を天井に向かって吐くと、「お前はちっとも変わんないよな」そう言葉を投げた。



「危機管理がまったくできてねぇ、アホ中のアホ。今しか見てないような馬鹿野郎だからモデル辞めさせられたの、分かってンのかよ」



「それ言われたら何も言い返せないんだけど…」



「俺がいくら恐怖心煽ったって、次の瞬間には口角が上がってるようじゃ何も理解してないんだろーよ。お前みたいなやつに構ってると心配でこっちの身が持たない。心配するだけ損だ、って分かってんだけどよ」



そこまで言われるとアサトさんが手に入らないから俺はこんな風な性格なんだと、言ってしまいたかった。もしその言葉を言ったなら、この人はどんな反応をするのだろうか。きっと困らせるだけなのだろう。この人に出会ってから、この人のために生きたいと思うようになったのに、現実、この目の前の男は俺のそんな思いなど一蹴してしまう。


だから俺はストーカーだろうが何だろうが、まぐわって現実を忘れることができるなら誰だって良いと思ってしまうのだ。過激な思考のストーカーなら俺の事をよく理解しているだろうし、激しくて退屈のない毎日を送れそうだから、なんて不埒な考えが頭によぎった。俺は自分の浅はかさと学習能力の欠如の甚だしさに、つい自嘲してしまった。俺はいつか本当に、どこの馬の骨かも分からないようなトチ狂った誰かに殺されるのかもしれない。



「大丈夫だって、殺されないから。俺の反応を楽しんでるだけだと思うよ。この作者も、相当な変わりモンらしいからね。案外、いい友達になれたりしてね」



アサトさんは、わざとらしく「あちゃー、ダメだ」と片手を額に押し当て目を瞑るって顔を手で覆った。



「本当にダメだ。お前は殺される寸前に間違ってたって気付く、大馬鹿者だ」

 


俺はふふっと笑ってしまった。



「見捨てないで、アサトさん」



「はぁ、まったく。……あ、てかよ、そういやお前、警察に友達いんだろ? 相談したらどーよ」



「警察だなんて大袈裟だなぁ、しないよ、そんなこと。マジでやばい、ってなったら警察にも言うし、引っ越しもするから」



「お前がマジでやばいって思う時は殺される寸前だろ」



俺のこと分かってんなぁ、この人。そう思うと、つい頬が緩んでしまう。俺の事をうんと知ってくれている、それがどうしようもなく嬉しい。



「例えばさ、ストーカーしてますっていう明らかな証拠出てきたらさすがに俺も動くよ? でも、小説だけじゃぁ、どうにもなんないからさ。また自業自得だと思われんの嫌だし」



昔、警察にお世話になったことが何度かあった。犯罪を犯してお世話になったわけじゃない。むしろ被害を受けたのは俺の方だった。でもあいつらは何もしなかった。あいつらの中で俺は変態だから全ては自業自得という理由に終わる。ま、その通り自業自得なんだけど、あいつらの俺を見る目は軽蔑と嫌悪が混ざっていて、二度と関わりたくないのだ。


だから、本一冊如きであいつらは動いてなどくれないと分かってる、が、そんな事なんて知らないアサトさんは眉間に皺を寄せたまま、グラスの中の氷をカランと回しては不服そうだ。何か言いたそうな雰囲気だが、アサトさんは何も言わなかった。



「それにさ、俺ってまだ人気あるんだなーって正直思ったよ。なんか嬉しいじゃない。あんな事件を起こしておいて俺のことをまだ愛してる、とかさ。ちょっと歪んだロマンスじゃん」



「あのなぁ、蓮司、これは愛なんかじゃない。よく歪んだ愛とか言うし、愛が故に傷をつけた、とか言うけどさ、愛があったとしても傷をつけて良いわけがねぇ。お前にはそれを強く言いたいね」



「…えぇー」



苦笑いしてしまった。そう真剣に愛じゃないと言われると、どうにも太刀打ちできない。この人の言う事に反論なんてできっこない。いくら俺の中の本心が、歪んでいても愛は愛だ、と思っていてもだ。真正面から歪んだ愛を否定できるこの人に愛される人が羨ましい。



「お前だって分かってるだろ? お前があんな事件を起こした後、一部からはえらく人気になった。愛してるからこそ、お前に危害を加えるなんて頭がおかしい」



「まぁ、そう、…ね」



本でいうところのモデルを辞めるキッカケだったレイプ事件は、現実とは大きく異なっていて、実際俺はレイプなんかされていない。あれは本だけの話で、実際はある大企業の若社長と乱痴気騒ぎを起こしたのが全ての始まりだった。あの頃の俺は金と引き換えに色んな男と関係を持っていた。なのに、その若社長があろうことか本気になって、俺にそんな相手がいくらでもいると知ると逆上して刺傷事件になった。金のあるピュアな若社長。金で繋がるとはそういう事だと線引きできなかったのだろう。その為、俺の右肩には今でも切りつけられた傷が残っている。それと腹部にも刺そうとナイフを振り回してついた小さな切り傷がある。


男娼まがいのことをして知名度のある若社長に刺され、大問題となり事務所はクビ。事件の内容は伏せていたが、どこからか噂となって流出した。相手の事と俺が金を受け取っていた事は伏せられたままだったのが唯一の救いだが、俺への誹謗中傷は止まらなかった。淫乱だの変態だの相当褒められた。


しかし一方で俺をAVに出したいという企業が出てきたり、変な男に付きまとわれたり、ネットでは俺に似たキャラクターを犯しまくるディープなネットゲームまで現れた。一部では熱狂的なファンが生まれたのは確かだった。しかしそれも4年も過ぎればそれば過去の話し。あぁ、そんな人いたね、という話しの種にもならないような、つまらない話題のひとつになったというわけだ。



「…店長、店、閉めていいすか?」



カウンター越しに、一通り仕事を終えたバイトの佐伯くんがワインボトルを抱えたまま、そう尋ねた。



「発注はしてくれた?」



「はい、しました」



「オッケー、ありがとう。じゃぁ、ゴミだけ集めて帰っていいよ」



「はーい、お疲れさまでーす」



そんな俺も今やバーの店長である。佐伯くんはアサトさんにペコッと頭を下げると奥のスタッフルームへと消えた。アサトさんは佐伯くんの姿が見えなくなると、「お前が店長って、なんかちょっと未だに違和感あるわ」そうタバコの持つ手に頬を乗せて、気怠そうに言った。



「仕事とか、なーんにもできなさそうなのに」



「イメージだけで物を言いすぎだわ。俺も今や店長よ、店長。まぁ、雇われ店長だけど、イケメン店長ですから」



「自分で言うかよ、アホめ」



この人は、ふふふっと目尻を下げて笑う。その顔が昔から好きだった。どんなに困らせても俺には笑ってくれる。



「つーか、もう閉店の時間なのね」



「うん。2時だわ」



「時間経つのはえーなぁ」



「それって、俺といるからってこと? 」



誘うような冗談を言った。アサトさんは「その通りよ」と適当に返す。その適当さも好きで、たまんなかった。この人、やっぱ良いなと会う度に思ってしまう。



「アサトさん、この後も飲む?」



「んー? いや、俺、まだ仕事残ってんだ。帰ってやらなきゃならないのがいくつかね。まぁ、また近いうち会おうや」



「了解」



アサトさんはタバコを灰皿に押し付けて火を消すと、グラスに少し残っていた酒をぐっと飲み干して席を立つ。財布を出し、一万円札をポンと置いた。



「アサトさん、そんな飲んでない」



「お前の分の酒代も入ってる。こんなもんだろ」



「にしても多い」



「じゃぁ、チャージ料」



「キャバクラじゃないっつーの」



「次来た時もお前を指名するわ」



そうさらりと言って口角を上げる。その揶揄う瞳に俺はすっかり熱を上げていた。アサトさんは何を言っても、何をしても格好がつく。俺の中でこの人は、どんどん大きくなっていく。困るんだよなぁ。本当、参ってしまう。



「俺人気だからなぁ、次はずっとつきっきりなんて出来ないかもなぁ」



「ハハ、そうか。じゃぁ、同伴してそのままここだな。好きな店連れてってやるよ、寿司か? 焼肉か?」



「寿司だな、うんと高ぇやつ」



「分かった、次な。好きな物もたくさん買ってやるよ」



「やったぁ、嬉しいなぁ。アサトさん大好き」



ジョークに紛れた本音を、この人はまったく気付かない。



「その代わり、店では他の客んとこ行くなよ」



そんなクサいセリフを聞けるなら、キャバ嬢ノリも悪くない。今日はこのセリフで抜けるな。



「他のお客様のところ行ったら、妬いちゃう?」



「妬いちゃうなぁ。おじさんねぇ、こう見えて結構嫉妬深いからね」



嫉妬、されてぇわ。すっげー、されてぇ。あんたに嫉妬されて、どこにも行くなと縄で縛られて、あんただけを見ていたい。 そんなことは口が裂けても言えないやな。一生言う事もないだろう言葉に、俺は心の中で自嘲した。なんでこうも不毛な相手にのぼせてんだよ、と。



「嫉妬深いアサトさんなんて、想像できねぇな」



そう言うと、アサトさんはケタケタと笑って鞄を取る。



「嫉妬深いアサトさんは存在するんだなぁ、これが。そんなこたいい。お前、本当に気ぃつけろよ。何かあったら電話しろな、警察に。あ、それと、この本、しっかり読んでおけよ。ストーカーがどんだけお前の事を滅茶苦茶にしてる分かるから。それ読んで恐怖心募らせて、警察に行って引っ越せな」



警察は何もしてくんないよ。



「はいはい、分かったよ」



嫉妬深いアサトさんは俺の心配をしてくれる。でもそれはいち友人として、いち俺の恩人としてでしかない。



「じゃ、またな。また、近いうち連絡するわ」



「はい、待ってまーす」



「じゃぁな、ごちそうさん」



「いいえ、ありがとうございました。気をつけてねー」



アサトさんの帰る後ろ姿を確認して誰もいなくなった店内でひとり、大きな溜息をついた。灰皿とグラスを片し、今日の売り上げを計算し、奥のスタッフルームを簡単に片付ける。バーカウンターに置かれた気味の悪い本を鞄に入れ、戸締りをしてスタッフルームの裏口から外へ出た。


どこかで飲む気にもなれず、そのまま帰路につく。家の中はうんと静かで、その静けさというのが苦手だった。家に誰かがいてくれりゃぁな、と強く思うことが常だった。服を脱ぎ、シャワーを浴びて楽な格好へと着替え、冷蔵庫から冷えたビールを取り出してソファに落ち着く。ようやく一息つき、そうしてふっと、なんだか虚しくなるような、人肌恋しくなるような、なんとも言えない喪失感に襲われた。アサトさんに会ったせいだ。強く生きていたつもりが性根は変わらないと思い知らされた気分だ。寂しさを紛らわす為には何だっていいと思ってしまう厄介な性格は、あんな事件があろうとなかろうと変わらない。


しばらくヤってないからなぁ。欲求不満の中でアサトさんと飲んでしまったからなぁ。モデルやってた時は気楽で良かったな、そう思うと無性に昔に戻って遊びまくりたい気分になった。



「どうすっかなぁ…」



漏れた独り言は虚しく宙を舞って消えていく。一缶のビールを飲み終え、欲を紛らわそうとブランデーに手を出した。ストレートで飲むと喉が熱くなり、いい感じに酔えそうだった。


鞄の中からあの本を出してひらりと捲る。ちゃんと製本されているが、出版社名も出版日も何も書いていない。本当にこれはただのラブレターのようだ。それを淡々と読んだ。酒を飲み、少し酔いながらも他人が想像した自分の話を読み進める。なんとも不思議な気持ちになった。自分の過去にすごく酷似しているが、やっぱりどこか違う。それでも俺がやりそうなこと、言いそうなことが全て集約されている。びっくりするほど過激で自虐的なその本は、飽き性の俺が、飽きずにパラパラとページを読み進めてしまうほどだった。それにしても作者は俺を使って好き放題に書いている。下剋上されては泣かされ、裏切られては傷を負い、輪姦される事なんていつもの事で、しかも本の中の俺は自らそれを望んでる。


高校時代にちょっと関係を持っていたタカオに似てる男や、同じ刺青を持つ彫り師のシロに似てる男、シルバーアクセサリーのデザイナー兼社長の安西さんに似てる男、たくさんの知ってる人がそこには出てきた。この作者は本当によく俺を観察している。


俺の交友関係まで知っているとは随分と長いこと俺を見ているようだった。タカオに似た男の描写なんて引くくらい細かく書かれていた。タカオが俺に惚れ込んで、信じていた俺にまんまとハメられ、タカオが俺に殺意を抱いたであろう経緯が事細かに記載されている。なぜそんなことまでストーカーが知っているのだと不思議で仕方がない。そんな事を考えながら、その本をあっという間に読み終えた。主人公のバッドエンドと過激すぎる内容に目も頭も疲れてしまった。本の内容のせいで朝から気分が滅入ってしまったなと、何か明るい気持ちになりたいと、ぼうっと思うだけで何もしない。バカバカしいほどくだらないお笑いとか、ギャグ漫画とか、そんな軽いものが今は欲しいが、今から何かを鑑賞するのは面倒だった。本をテーブルに置いて、うんと伸びをする。ひとまずアサトさんにメッセージを送った。



『今、読み終わりました。とっても重かった。シンドイ。ていうか家の中をかなり把握されてるんですけど。ゴムの場所までバレてんですけど』



寝てるだろう、と思って送信したそれはすぐに既読され、起きてるのかと驚いた。



『言ったろ? そいつはヤバイ。今すぐ引っ越せ』



『俺は殺されないから大丈夫だよ。主人公の男だって自殺だろ? 要は俺がしっかりしていれば大丈夫』



『この作者はお前を痛めつけたいだけだぞ。作中、何度お前が犯される描写が出てきた? そいつはお前をそういう目でしか見ていない。これは愛じゃないからな。勘違いするなよ』



『ご忠告どうも。でも心配ご無用!』



『お前は本当に危機感ないな。あと、この作者の名前に聞き覚えないのか?』



梅谷 西谷。ウメタニ ニシヤ。それは最後のページに記載されていた名前だった。変な名前である。けれど聞いたことのない名前だし、知り合いなら本名は出さないだろうし、一度会ってるらしいけど、いつ、どこでなのかは全く分からない。



『知らない。谷が2つも名前の中にある人なら、すぐに分かると思うけど』



『きっとその名前も何か意味があるんだと思うぞ。俺はこの本を渡してきた友人に聞いておくが、お前は早く新居見つけて引っ越せな』



まったく、この人は引っ越せ引っ越せとそればかりだ。俺はアサトさんに半ば呆れていた。そんなに心配なら俺と住んでくれりゃぁいいのに。そんでストーカーなんて一発殴って、俺のヒーローになってくれりゃぁいいのに。



『分かりましたよ。じゃぁ、俺は寝るね。ごめんね、こんな朝早くから連絡して。おやすみ』



『たまたま目が冴えてて困ってたから大丈夫だ。おやすみ』



アサトさんに会いたいなとすぐに思ってしまう自分が嫌だ。嫌だ嫌だと思っても、どうしようもない事だった。俺は寝室へと移動して、ごろんとベッドに横になる。梅谷 西谷がどんな男なのかを想像する。この名前にも意味があるのだとしたら、一体どんな理由でつけたのだろうかと。


苗字を並べたような変な名前。梅の谷、西の谷。梅谷西谷。そういえば中学の時、よく連んでたやつらの名前が梅原と谷と西崎と谷藤だった。ってことはあいつらがこの本を作って俺に送ってきた、という事だろうか。いや、まさかなぁ。そんな疑問はすぐに払拭される。なぜなら、あいつらはこんな文章が書けるような人間ではないからだ。国語でいつも最下位を争うレベルのアホ連中だったから。違うだろう。そうなると偶然なのだろうか。いや、当時連んでいた友達の頭文字がたまたまストーカーのペンネームになる、だなんてことはまずないだろう。そうなると、これは偶然ではないのだろう。中学時代の誰か、という事になるのか。どういう事か。なんて考えているうちに疲れ、俺はいつの間にか寝落ちてしまったらしい。

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